礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

映画『ゼロの焦点』(1961)と「ヤセの断崖」

2023-01-21 00:55:23 | コラムと名言

◎映画『ゼロの焦点』(1961)と「ヤセの断崖」

 昨年末、NHKテレビで、松本清張と帝銀事件をテーマにした番組を視聴した。そのあと、松本清張原作の映画が観たくなり、松竹ホームビデオのVHSで、野村芳太郎監督の『ゼロの焦点』(松竹、一九六一)を鑑賞した。
 この映画についての感想は、一度、当ブログに書いたことがある(2015・7・9)。初めから三分の二ぐらいまでは、非常に流れがよく、適度の緊張感もあるのだが、そのあと突然、映画の雰囲気が変わってしまう。
 あえて言えば、この映画は、初めから三分の二ぐらいまでの「第一部」と、残りの三分の一の「第二部」から成っている。「第一部」は、原作の通り、主人公・鵜原禎子(久我美子)の視点から事件が描かれている。「第一部」の最後で、「犯人」が明らかになり、事件は解決したかに見えた。ところが、そうした事件像は、「第二部」でひっくり返される。「第二部」では、能登半島に赴いた鵜原禎子が、関係者の前で、「真犯人は別にいる」と、自分が推理したところを披露する。すると、その場にいた「真犯人」が、禎子の推理の誤りを指摘しながら、事件の「真相」を語る。――
 こういう「凝った」構成を採用したことにより、この映画は、松本清張の原作から、かなり離れることになった。
 今回、私は、この映画を半分ほど観たところで、ビデオを止め、原作(カッパ・ノベルス)を読み直した。それからまた、ビデオの続きを観た。そのようにして観た映画の感想だが、「二部構成」には無理があり、やはり最初から最後まで、鵜原禎子の視点で描いたほうがよかったのではないかというのが、ひとつ。そしてラストは、原作の通り、自死を選んだ真犯人が、舟に乗って沖に向ってゆくというものがよかったと感じたのが、ふたつ目である。
 ただし、原作よりも映画のほうがよかったと思えた点もあった。原作では、鵜原憲一の後任・本多良雄(穂積隆信)までが殺される。しかし、映画では本多は殺されていない。原作のほうは、やはり、殺しすぎだと思う。
 数日前、インターネットで、「Hans Potterの日々」というブログの「ゼロの焦点 ラストシーン考」という記事を拝見したが、それによれば、『ゼロの焦点』の最後で、関係者が「ガケ」の上に集まる場面は、「ヤセの断崖」と呼ばれる場所で撮影された。この場所を見つけたのは、野村芳太郎監督だという。そして、この映画の影響によって、「ヤセの断崖」は、能登半島有数の観光名所となった。
 ちなみに、テレビドラマのラストなどで、関係者が「ガケ」の上に集まるという場面を目にすることがある。こうしたシーンのルーツが、映画『ゼロの焦点』であることは、ほぼ間違いない。私は、この映画の「第二部」をあまり評価しないが、「ヤセの断崖」のシーンが、観光業界やテレビ業界に寄与した「功績」を否定する者ではない。

*このブログの人気記事 2023・1・21(なぜか、4・9・10位に「種樹郭橐駝伝」関係)

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