礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ズーカーの懐中に残ったのは2ドル4セントのみ

2020-05-31 02:12:56 | コラムと名言

◎ズーカーの懐中に残ったのは2ドル4セントのみ

 新コロナ騒動で外出自粛が要請される中、自宅でDVDを再生し、映画を楽しんだ方も多かったのではなだろうか。
 近年、名作映画の廉価版というものが出まわり、誰でも何時でも、過去の名画を気軽に鑑賞することができるようになった。ところが、この廉価版には、ひとつ重大な欠陥がある。それは、冒頭にある映画会社のヘッドマークが削られていることである。
 名画『キングコング』(一九三三)や名画『市民ケーン』(一九四一)は、RKO(Radio Keith Orpheum Entertainment)の製作で、その冒頭、電波塔から電波が飛んでいるヘッドマークが現れる。ところが、五〇〇円の廉価版では、このヘッドマークを見ることができない。何か、大事なものを紛失したようで、気分よく鑑賞できない。
 同様に、名画『カサブランカ』の廉価版でも、冒頭にあるはずの、ワーナー・ブラザーズのヘッドマークを見ることはできなかい(私が持っているのは、ケー・アイ・コーポレーション版)。
 ところで、先日、『バンビブック』という雑誌形式のシリーズの第九号「映画なんでも号」(一九五二年四月、朝日新聞社)を手にしてみたところ、「映画会社ヘッドマーク集」という無署名の記事があった。今となっては、貴重な「史料」かもしれないので、以下に紹介しておきたい。同記事は、「ハリウッド映画」の部と、「日本映画」の部に分かれているが、本日、紹介するのは、「ハリウッド映画」の部。図版は省略。

  映画会社ヘッドマーク集  ライオンやワシの意味を知ってますか

ハリウッド映画
  コロムビア
 Columbiaというのは、アメリカをあらわす言語(もちろんモトは米大陸の発見者コロンブスからきている)ニューヨーク港外にたつ「自由の女神」の像をそっくりそのままマークにしたまでの話てある。十年ばかり前から女神のささげもつ火がチカチカ画面に輝くようになって、めっきり美しくなってきた。
  パラマウン卜
 Paramountという字を辞書で引いてみると、(形容詞)最高の、最上の、(名詞)最高権威と出てくる。つまりマーク通りの「最高の映画」というわけ、雲表〈ウンピョウ〉にそびえるまん中の山は文字の中のマウント(山)に引っかけたもの。
 別にエベレストを描いたのでもなければ、マッターホルンを写生したものでもない。ところで、この商標の周囲には合計二十四の星が、ぐるりを取りまいているが、その由来というのは――一九一三年、アメリカ映画の「父」といれるアドルフ・ズーカー〔Adolph Zukor〕が、この会社の前身である「名優ラスキー会社」〔Famous Players-Lasky Corporation〕を創立したとき、先生の懐中には、何とわずかに二ドル四セントしか残っていなかったという。その二十四と二十四時間(一昼夜)を通じて「星のように」輝く映画、それと映画の最大の魅力はスター(人気俳優・星)であるという観点に立って、こういう図案ができ上ったのだ――と物知りは語り伝えている。
  RKOラジオ
 会社の正式の名前はRadio Keith Orpheum Corp.といい、その作品をRKOラジオとよぶ。印刷された商漂としてはまことに平凡で、わずかに文字の下の三角形の墨地に電波を意味する稲妻を配したところに新鮮味があるだけだが、映画となると大分おもむきが違い、地球の上に突ったった鉄塔からビビーと電波をあらわす音響が周囲に発射されて、ひどく景気がよくなる。
メトロ・ゴールドウィン・メイア
 おなじみライオン印はMGM。「百獣の王」は「映画のキング」をいみするというわけだが、このライオンの名前はレオといって、会社の創立者の名をとった。昨年〔一九五六か〕の秋新しいライオンにかわったが、これは六代目のレオ。ただし、まだ子供で、うまくほえられないのて、声だけは今のところロンドン動物園のライオンをアフレコで入れている。
 ライオンのまわりに記されているARS GRATIA ARTISとうのはラテン語で「芸術は芸術を生む」という意味。
  リパブリック
 MGMが「百獣の王」ならこちらは「百鳥の王」のワシの羽ばたきで対抗するというところ。一九三五ねんの創立だから歴史はいちばん浅い。
  二十世紀フォックス
 一九一五年にできたフォックスは三五年に二十世紀映画会社と合併して 20th Century Fox Film Corp.となったが、後者の主宰者である大プロデューサー、ダリル•F・ザナックの実力と鼻っ柱の強さのせいか、二十世紀という字がドカンと上へ乗っかってフォックスが下の片すみに、きゅうくつに押しやられてしまった。
こ れまた映画となると、まばゆいばがりの五色の光が勇壮なテーマ・ミュージックとともに、ひどく魅力的になってくる。
  ユナイテッド・アーティスツ
 これはただみた通りのマーク。
  ユニヴァーサル・インタナショナル
 やれユニヴァーサル(宇宙)のインタナショナル(国際)のと、欲ばった形容詞がつながっているが、これは実は作品の名称で会社の正式の名称は Universal Picture Co. Inc.である。
 商標は名称にふさわしく地球の上に文字がのっているだけだが、これが映画の上だと銀色に輝く地球がゆるやかに回るにつれて、しゃれた字体の帯が左から右へ回転して、澄んだ、かげの音楽がうっとりさせる。
  ワーナー・ブラザース
 ハリー、サム、ジャック、アルバートの四人のワーナー兄弟がこしらえた会社だから、ワーナー兄弟映画会社というのだが、マークのWとBは、もちろん頭文字。一九二五年にファースト・ナショナル会社を合併したので、今でもマークの中にFirst National という字をとり入れたのを使うことがある。

 ワーナー・ブラザーズのヘッドマークについては、若干、補足したいことがあるが、これは、次回。

*このブログの人気記事 2020・5・31

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南京政府は即時解消する(繆斌提案)

2020-05-30 01:46:02 | コラムと名言

◎南京政府は即時解消する(繆斌提案)

 志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その一〇回目(最後)で、「軍閥・和平の機会を逸す」の節を紹介する。

    軍閥・和平の機会を逸す
 石原〔莞爾〕中将は前の言に次いで更にかう言つてゐる。
「次は大東亜戦争週末六箇月前の本年〔一九四五〕二月から三月にかけての事、小磯〔国昭〕大将が首相で、フイリツピンを大王山などと空元気〈カラゲンキ〉を出して国民の尻をひつぱたいてゐた時だ。即ち日支全面的和平と日米休戦の動きで、わしの所へも支那要人から全幅的努力を望む旨の手紙があつたので、さつそく小磯首相に建言した。小磯首相も戦争収拾のために全力を尽すことを約したが、その後の報告によると、小磯と緒方〔竹虎〕が熱心に説いたのに対し、絶対反対を唱へたのは重光〔葵〕と阿南陸相〔ママ〕だつたといふ。これがたたつて遂に小磯は失脚した。然らば何故に重光と阿南〔ママ〕が反対したか。確証によると、重光は当時の国民政府から蒋介石との協定を行はぬ約束の下に二千万円といふ莫大な金を貰つてゐた。聴けば後で返したとかの話もあつたが、返したらよいではすまされない。
 ところで小磯の後を襲つたのが鈴木貫太郎大将である。さうかうしてゐるうちにドイツが敗北し、従つて煮え切らぬ日本の態度にしびれを切らした米支は、日支全面和平と日米休戦を取り止め、飽くまで戦争を継続する旨を通告して来た。これで日本は最後の致命傷を負はされたのである。わしは今野にあつてしみじみと当時の事を考へ残念で堪らない。軍閥の罪悪史など正に無限といつてもよいだらう。」
 東久邇宮〔稔彦王〕内閣の政治幕僚であつた田村眞作氏もこれを立証してかう言つてゐる。
「繆斌〈ミョウ・ヒン〉氏の運動は北支の新民会副会長の椅子にあつた当時に初まる。
 当時彼は、会自体が日本製偽民衆団体である事に不満を感じ、真実の中国人の団体たらしめようと北支軍当局に計つて一蹴され、北支から追放された。そして南京へ赴き、汪〔兆銘〕政府に迎へられて立法院副院長になつたが、彼が重慶の何応欽氏と親交のあるところに着目したわが外務省では、南京大使館の中村参事官をして何氏に連絡することを依頼せしめた。そこで彼は密使を重慶に送らうとしたが、汪の秘密警察にその秘密書類を押へられ、激怒した汪は処罰するつもりで軟禁してしまつた。すると連絡を頼んだわが大使館側は卑怯にも事件の波及を惧れて知らぬ顔の半兵衛をきめこんだ。
 その後も彼〔繆斌〕はわが憲兵隊のために苦汁を嘗めさせられたこともあつたが、日支和平の熱情を捨てない彼は、何時かその機会を掴まうと努力してゐた。そこへ昭和十九年〔一九四四〕十二月、小磯大将の親友である古い支那通が、小磯大将の意を受けて渡支し、繆斌氏と会見した。私〔田村眞作〕も同席し、種々懇談の結果、一度彼を日本へ連れて行くことにし、重慶要人をも伴つて日本向けの飛行機を待つたが、現地軍は貸してしてくれなかつた。後で判つたことだが、小磯総理が当時の柴山〔兼四郎〕陸軍次官に、繆斌氏来訪に便宜を与へてくれるやう再三頼んだにも拘らず、柴山次官は、総理には快諾しておきながら、現地へはこれを阻止する電報を打たせた。
時日は無益に流れたが、和平を捨てない繆斌氏は、二十年〔一九四五〕六月十五日漸く単独で日本へ飛んで来てすぐ小磯総理と会見し、次のやうな提案をした。
 「南京政府は即時解消すること。その要人周仏海等八名を日本側で引取り、日本内地で保護すること。中国における日本軍は即時全面的に撤退すること。かくして日支の停戦をして日本と他の連合国との和平の前提たらしめること」  
 これに対し小磯大将は曖昧な態度であつたが、重光外相が第一条に大反対し、第二条には現地軍が猛烈に反対した。それでも小磯総理は一応これを最高国防会議にはかり、その進展を期待したが、閣僚中これに賛成するものは緒方情報局総裁だけで、米内〔光政〕海相は中立を表明し、杉山〔元〕、重光、石渡〔荘太郎〕が全面的に反対した。表面に出ぬ反対者に木戸〔幸一〕内府がゐた。東久邇宮〔稔彦王〕は当時和平の実現を期待せられ、もし日支の全面的和平が実現したら蒋介石をして大東亜戦争に終止符を打つべき大きな世界的和平的提議の役割を演じて貰ひたいといふ熱烈な希望の下に繆斌氏を激励された。併し閣内の不統一と木戸内府の反対とで、この提案は闇に封ぜられたばかりか、小磯内閣挂冠〈カイカン〉の原因ともなつた。
 内閣瓦解前、杉山陸相の後任に阿南〔惟幾〕大将が据つたが、阿南は対米交戦対支和平といふ意見で、陸軍はこの提案に頭から反対するものではない、反対者は個人で説得するから大いに話を進めて貰ひたいと総理を激励しようとしたが、惜しいかな其の忠告が総理まで届かないうちに内閣総辞職となつてしまつた」
 以上は日支間の問題であるが、日米間においても幾度か同様な動きがあつた。シンガポールが陥落した時、英国の外相イーデンは和平を提議して来た。即ち「英国の面子上シンガポールを返してくれさへすれば、北支五省は日本にまかせるし、日本から和平を提案してくれゝば米国と重慶とは英国で説得する」と言つて来た。だが戦勝の甘酒〈カンシュ〉によひしれてゐた東條は、これを鼻であしらつた。
 同様のことが他の方面からも持出され、その真相は近い将来において明るみに出されるであらう。比島占領の時、ガタルカナル失陥の時、ソロモン海戦の時、マリアナ失陥の時、レーテ放棄の時など、先方が動きもしたし、こちらから能動的に動けばよい機会は幾らもあつたと思はれる。然るにその努力を怠り、本土決戦など、空元気をつけて飽くまで政権にかぢりつき、終に国家をして最悪の淵にまで追込んでしまつたことは、責任ある当局者として正に罪万死に価する。反省したつて懺悔したつて、或は辞職したつて切腹したつてその罪を免れるものではない。

 この本を書いた志賀哲郎については、まだ調べていない。わかり次第、報告したいと思う。
 明日は、一度、話題を変える。

*このブログの人気記事 2020・5・30

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東條陸相は撤兵問題にこだわった

2020-05-29 02:49:19 | コラムと名言

◎東條陸相は撤兵問題にこだわった

 志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その九回目で、「戦争を弄ぶもの」の節の後半を紹介する。

 石原莞爾中将はもとは東條派であつたが、その後主義を異にしたので東條閥に追はれ、予備役編入のゝち京都帝大〔立命館大学〕で講座を持つたが、それさへも東條閥のために邪魔せられ、その著書は殺禁を喰はされるといふ憂目〈ウキメ〉を見た人であるが、支那事変について、次のやうに語つてゐる。
「昭和十二年〔一九三七〕、つまり蘆溝橋にはじまった支那事変の当初、わしは既に今日の結果を招来するのではないかと非常に心痛し、勿論当時の総理近衛〔文麿〕公は不拡大方針を以て臨んでゐたが、現地軍を圧へるだけの力がなかつたし、そのまゝに放つて置けば世界動乱を誘発するぞと非常な危険を感じ、幸ひ日本軍の戦果が良好な途上にあつたので、それを機会に日支の円満協定を結び、東亜の安定を図らうと、当時わしは参謀本部の第一部長の職にあつたから、さつそく現地軍参謀をして内々支那側の意向を調査させた。ところが向ふの識者達も日本と手を打ちたいといふ考へが非常に濃厚なことがわかつた。またわしの親友〔親交〕のあつた某要人なども手紙を寄せ、日支協定を望んできたので、さつそく各方面に渡りをつけ、南京で近衛首相と蒋介石氏との会見を計画し、このことを時の内閣書記官長たる風見章氏へ参謀本部から電話し、何ならわしもお伴してもよろしい旨を提言した。それは事変直後の昭和十二年〔一九三七〕八月の二十日ごろだつたと思ふ。ところが風見からは、首相は蒋介石に会ふ必要がないといふ意見を持つてゐられるし、政府としてもその必要がないといふ断り状が来た。今にして考へると、果して風見がそ時の事を首相に話をしたのか、それとも通り一遍の礼儀として伝へたか、或は握り潰したかは□〔解〕らない。いづれにしても折角〈セッカク〉の機運を作りながら逸したことは、今日の敗戦の遠い因を作つたのと同然だ。」
 南京が陥落した時も、事変はもうこの位で打ち切らうといふ気運が双方に動き、近衛首相は自ら南京へ行つて和平交渉をしてもよいとの気持を持つてゐたのに、杉山〔元〕陸相等は正面からこれに反対し、却つて首相をして「蒋介石を相手にせず」などといふ飛んでもない声明を発せしめてしまつた。折角意気込んでゐるのに此処で止めさせたら兵隊たちは必ず騒ぐだらう、もしこれを丸く治めることが出来なかつたら自分の責任になる、責任は問はれたくない、仲間からは憎まれたくない、政権には有りついてゐたい、といふ無責任な、個人的な、消極的な考へから戦争が継続せられたのである。
 同様なことが大東亜戦争の前にも東條〔英機〕陸相によつて行はれた。
 当時(十六年〔一九四一〕十一月二十六日)日米交渉はかなりな難関に陥り、米国から過酷な(?)提案を突きつけられてゐた。一、日独同盟をやめろ。二、支那に対して門戸開放、機会均等主義を認めろ。三、汪〔兆銘〕政権をやめさせて蒋介石政権を相手にしろ。四、わが派遣軍を撤退させろ。この四つである。当時軍閥の宣伝に載せられてゐた我々国民は、こんな手前勝手な提案が容れられるかといきまき、それを宣戦布告の理由と思つてゐたが、豈図らんや〈アニハカランヤ〉東條陸相は、吾々が最も重大だと考へてゐた前の三箇条は承認してもよいと言ひ、最後の撤兵問題だけにこだはつた。近衛首相が再三再四会見して説得しようとしたが、彼は、
「総理の苦心と衷情は諒とするが、撤兵は軍の士気維持の上から、到底同意することは出来ないと共に、一度米に屈せんか、今後どんな事を言ひ出されるか知れはしない。よし此処で、事変を一時圧へても、三年も経てば又戦争しなくてはならなくなるだらう。だから今のうちに一気に片をつけておくに限る」
と言つて日米開戦を主張したといふのであるが、これとても撤兵すべきでないといふ信念から出たものではなく、自分の責任を問はれたくない、仲間に憎まれたくない、地位を守つてゐたいといふケチな考へから出たものであることは鴫山大将同様であつた。
 彼等の如きは寔に〈マコトニ〉私情を以て戦争を弄び、国民を弄び、国家を誤らしむるものといふべきである。

*このブログの人気記事 2020・5・29(10位に珍しいものが入っています)

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清軍派から軍閥ファッショ派に乗り換えた東條英機

2020-05-28 01:40:47 | コラムと名言

◎清軍派から軍閥ファッショ派に乗り換えた東條英機

 志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。本日は、その八回目。
 本日は、「戦争を弄ぶもの」の節を紹介する。この節は、やや長いので、二回に分けて紹介する。

    戦争を弄ぶもの
 併し、これが国内の政権を左右するだけに終つたならば害の及ぶ所はまだ少なかつたのであるが、国内革新派の鉾〈ホコ〉を他に反らせようとして対外戦争を計画するに至つては、最早言語道断といふも愚かなことである。
 これについて真崎大将はその間の消息を暴露してゐる。
「最後に支那事変と大東亜戦争であるが、この戦争が敗けるにきまつた戦争であることは、敗戦の結果からいふのではなく、私は支那事変の頃から幾度警告したか知れない。二・二六事件で、あはよくば政権を獲得せんとしてたが成功せず次第に軍への不平も昻つて〈タカマッテ〉来たので、そのボロ隠しに国内の関心を外に向けようと企てた大博奕が支那事変であり、更にその上塗りをしたのが大東亜戦争である。こんな不純な動機で初められた戦争に勝つはずがない。海軍は最初から反対で、山本〔五十六〕元帥も、一年間はどうにか出来るが、後は保証できない、と戦前から言つてゐた程で、既に陸海の協力は破れてゐた。整備や地の利の点でも勝ち目のないのは判つてゐた。ではどうして負けると判りながら米英を相手にするに至つたかといへば、支那事変において道理の立たぬ苦しまぎれから、じり貧になるよりは潔くやらうといふ単純な気持のもの、ドイツが必ず勝つと思つてゐたもの、米国は個人主義だから長期戦は出来ぬと思つてゐたもの等の綜合された空気に躍らされた東條〔英機〕が強引にやつてしまつたのである。東條は私が第一師団長当時、その第一連隊長だつたが、私が参謀長時代、山下〔奉文〕が軍務局長に就任した。山下を嫌つてゐた東條は、これを私の差金〈サシガネ〉と邪推して、私から離れてしまつた」
 これによつて見ると、元清軍派だつた東條大将が、個人的な感情問題から軍閥フアツシヨ派に乗替へ、政権を獲得した増長慢に陥つて遂に無謀な大戦争を初めてしまつたわけである。こんな大ベラボウがあるだらうか。
 この大ベラボウは軍閥フアツシヨどもに共通のものであつた。
 支那事変を引起したのは出先軍部と示し合はせた彼等であつたが、その前途を憂へて近衛〔文麿〕首相は直ちに不拡大方針を声明し、軍の中にもこれを支持する者が多かつたが、自分の地位を確保するためには此の一手より他にないと考へた彼等は、蒋介石など何程のことやあるとタカをくゝつて益々事変を拡大して行き、事変解決の機会が与へられても故意にこれを避けてゐた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・5・28(9位のセイキ術は久しぶり)

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二・二六事件は清軍派の一掃を計った大芝居(真崎甚三郎)

2020-05-27 01:53:45 | コラムと名言

◎二・二六事件は清軍派の一掃を計った大芝居(真崎甚三郎)

 志賀哲郎の『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)を紹介している。
 本日は、その七回目で、「清軍派追出しの陰謀」の節の後半を紹介する。

 かうして荒木〔貞夫〕、真崎〔甚三郎〕両大将を中央から追出しはしたものゝ、青年将校の間にはなほ昭和維新を叫ぶ者が多かつたので、重臣、財閥たちは、齋藤〔実〕、岡田〔啓介〕等の穏健な海軍内閣を作り、只管〈ヒタスラ〉清軍派の一掃を期したが、野に下つてもなほ隠然たる勢力のある真崎大将を完膚なきまでに陥れようとし、二・二六事件が勃発したのを奇禍〔奇貨〕とし、真崎大将が背後で糸を引くものと言ひふらし、真崎を法廷にまで引出して宣伝これ努めたが、真崎の逆襲にあつて無関係を認めずにはゐられなかつた。
 これに就いて真崎大将はかう語つてゐる。
「二・二六事件も、やはり青年将校が社会改革の熱情に燃えてゐるところをフアツシヨ亡者共が利用し、軍や自分達の意に満たぬものゝ一掃を計つた大芝居である。私も一年間さんざん苦しめられたが彼等は青年将校の間で私が人気のあるのに難癖〈ナンクセ〉をつけ、何とかして陥れようとしたものである。しかし私としては全然覚えのないことで、左の五箇条を法務官に提示し、事件の根本的調査を申入れて無関係を諒解せしめた。それは、
 一、前もつて西園寺〔公望〕公等の元老が知つてゐたのは何故か。
 二、十月事件と抗争も方法も同一だから、その時の黒幕がゐるはずだ。
 三、青年将校はこの結果相澤〔三郎〕中佐(永田鉄山少将を斬つた人)を救ふことができると或る人から聞かされてゐる。その証拠には大半が相澤の同情者である。
 四、事件が起ると同時に私等が躍らせた如く報道されたのは、何人〈ナンピト〉かゞ予め準備してゐたことを物語るものである。
 五、磯部浅一(十月事件にも関係す)と刑務所で対決させながら、磯部が「閣下、たうとう彼等の術策に陥りました」と口走つたので、その先を反問しかけたところ、法務官は磯部を退廷させでしまつた」
 二・二六事件は政権慾に眼のくらんだ一部軍人が反間苦肉の策として深く謀らんだものであるが、社会改革の気運が青年将校達の間に旺盛なのを見、これに動かされ、或はこれを圧へるための両面から観て、予備に編入せられた荒木、真崎を再びかつぎ出さずにはゐられないやうな状勢になると、軍閥フアツシヨの陰謀団は、これを圧へるために、「現役将官に非ざれば陸軍大臣たり得ず」といふ規則をあわてゝ作つてしまつた。これは現在の次田〔大三郎〕内閣書記官長が、時の広田〔弘毅〕内閣の法制長官として考へ出し、得意になつて重臣や枢密院の老人達を説得して歩いたものであるが、これこそ軍閥フアツシヨ共の考へた両刃の剣〈モロバノツルギ〉で、この一剣、清軍派の再起を圧へると同時に、陸軍が政治に絶大な容喙権を獲得したもので、彼等がウンといつて陸相を出さない限り内閣は成立しないのだから、政権は自ら〈オノズカラ〉我が手に転げ〈コロゲ〉こむ、少くとも政府を陸軍の思ふがまゝに躍らせることが出来るわけである。支那事変において近衛〔文麿〕内閣が三度倒れたのも、平沼〔騏一郎〕内閣が倒れたのも、日独伊軍事同盟が重臣の意に反して締結せられたのも、みなこれがためである。そして東條〔英機〕首相によつて初めて軍部内閣を組織し、政権を軍部に掌握するの永い野望を実現することを得たのもみなこの為である。然も東條首相は、現役のまゝ首相となり、陸相をも兼ね、更に参謀総長まで兼任するに至つて、彼等はさぞかし我が世の春を謳歌したことであらう。しかしながら、これあつたが故に今日、重臣はその地位を奪はれ、財閥はその財を失ひ、政界人はその官職を追はれるやうになつたのも、これみな現役軍人に非ざれば陸相たり得ずと規定したそのためである。つまり仇敵〈キュウテキ〉清軍派を葬るために謀み〈タクラミ〉に謀んだ陰謀が、今自らの生命を断つの剣となつたのである。因果応報恐るべしといふも余りに深刻な失策であつた。

 文中、「現在の次田内閣書記官長」とあるが、この時の内閣は、幣原喜重郎内閣である(一九四五年一〇月~一九四六年五月)。

今日の名言 2020・5・27

◎因果応報恐るべし

 志賀哲郎の言葉。『日本敗戦記』(新文社、一九四五年一一月)の四五ページに出てくる。志賀によれば、軍部大臣現役武官制は、清軍派の巨頭である荒木貞夫・真崎甚三郎両大将の影響力を排除するために、重臣・財閥・政界人が考え出した制度であったという。ところが、因果応報恐るべし、その制度が、重臣・財閥・政界人の生命を断つことになった。

*このブログの人気記事 2020・5・27(10位に極めて珍しいものが入っています)

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