礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

森友学園問題と集団思考の罠

2018-03-31 04:34:45 | コラムと名言

◎森友学園問題と集団思考の罠
 
 今月二八日の東京新聞夕刊のコラム欄「紙つぶて」は、海野素央〈ウンノ・モトオ〉明治大学教授の担当で、タイトルは、「集団思考の罠」であった。その最初のパラグラフを紹介してみる。

 米エール大学の社会心理学者ジャニス氏は「凝集性の高い集団でみられ、集団内の意見の一致を重視するあまり、とりうる可能性のある全ての行動を評価しなくなる思考様式」を集団思考と呼びました。集団思考の罠【わな】にはまると、「無敵幻想を抱く」「決定の正当化を過度に行う」「決定についての倫理観を検討しない」などの病的現象が現れるというのです。同氏は、ベ卜ナム戦争やチャレンジャー号爆発事故の原因を分析しました。その結果、物の見方、考え方、価値観が類似したチームメンバーのみで意思決定がなされ、集団思考に陥っていたことが明らかになったのです。

 このあと、海野教授は、話題をアメリカのトランプ大統領とその側近に振っている。しかし、このコラムの冒頭を読んで、まず思い浮かべたのは、日中戦争拡大を阻止できず、さらに日米戦争を避ける道を採れなかった昭和前期の政権とそれを支えた世論のことであった。さらには、「不正」と知りながら、森友学園に便宜をはかった財務省近畿財務局、「不正」と知りながら、決裁文書の「改竄」に関与した財務省官僚のことも思い浮かんだ。
 私見によれば、森友学園問題の発端は、籠池泰典〈カゴイケ・ヤスノリ〉氏ら経営者の「無敵幻想」だったのではないか。彼らの「無敵幻想」におびえた財務省近畿財務局が、公務員としての「倫理観」を捨て、譲歩に譲歩を重ねたというのが、今回の問題の発端だったのではないか。
 なお、この問題が大きな政治問題になった理由は、これまた私見によれば、安倍晋三首相の「無敵幻想」だったように思う。安部首相は、自分あるいは妻が、この問題に関係しているなら、「首相も議員も辞める」と表明した(二〇一七年二月一七日)。こう表明することで、首相は、こんな小さな問題は一蹴できると考えたのであろう。ところが、この首相の一言が、小心な財務省官僚をおびえさせ、決裁文書の「改竄」へと走らせたのである。財務省官僚の中に、「それはまずい」と言うものはいなかったのか。残念ながら、いなかったのであろう。「集団思考の罠」である。

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森友学園問題のキーワードは、やはり「ウソ」

2018-03-30 02:40:15 | コラムと名言

◎森友学園問題のキーワードは、やはり「ウソ」
 
 昨年の今ごろ、「ウソ」をテーマにしたコラムを何本か書いた。そのころ、浮上してきた「森友学園問題」に触発されたのある。その後、一年が経って、佐川宣寿〈ノブヒサ〉前国税庁長官に対する参議院予算委員会の証人喚問があった(2018・3・27)。この模様を視聴しながら、森友問題のキーワードは「ウソ」だということを、改めて確認したのである。
 以下、手抜きになって申し訳ないが、一年前のコラムを、三本、再録させていただきたい。

ウソも真実も、さして多くを語りはしない 2017・3・30
 一昨日〔2017・3・28〕のコラムで、映画『理由 Just Cause』について論じた。本日は、その続きである。一昨日は、この映画のテーマは、「夫婦の信頼関係」だと述べたが、この映画には、もうひとつ、「ウソ」という重要なテーマがある。
 主人公のポール・アームストロング(ショーン・コネリー)に対し、妻のローリー(ケイト・キャプショー)は、ひとつ、重大な隠し事をしていた。結果的に、このことが、夫婦および娘のケイティ(スカーレット・ヨハンソン)を、生命の危機に陥れることになるのである。
 死刑判決を受けたボビー・アール(ブレア・アンダーウッド)の「冤罪」を晴らさんと、フロリダで再調査を始めたポールは、現地の保安官タニー・ブラウン(ローレンス・フィッシュバーン)から、意外なことを聞かされる。妻のローリーが、かつて検事として、ボビーを起訴したことがあるというのである。
 ポールは、妻に、それが本当かどうかを確認する。すると妻は、結婚前に話しているという。即座にポールは言う、「ウソだ」。さらに、なぜ、この再調査に着手する前に、そのことを伝えなかったのかと、妻を追及する。
 刑務所を訪れたポールに対し、ボビー・アールは、「真犯人は別にいる」と伝える。同じ刑務所にいるブレア・サリヴァン(エド・ハリス)が真犯人だというのである。
 続いてポールは、ブレア・サリヴァンと面会する。この男はタダモノではなかった。サリヴァンは、「あなたのことが知りたい」と言って、ポールにいくつかの質問をする。そのうち、「子どもはいるか」、「不眠症か」、「死はこわいか」という三つの質問に対し、ポールはウソをつく。そのたびごとに、サリヴァンは、ポールのウソを見抜く。
 そして、激しくポールを非難する、「ペテロも三度、イエスを否定した。死刑囚にウソをつくとは、恥を知れ」。この非難に対して、ポールは静に答える、「ウソも真実も、さして多くを語りはしない」。
 サリヴァンは、意外にも、「OK」と言いながら、ポールの言葉に、深くうなずく。
 帰り際、サリヴァンから、重要な情報を得たポールは、その足で、ブラウン保安官の自宅へ向かう。
 保安官の自宅では、その娘が誰かと電話をしている、「彼はあなたにウソをついているのよ。ゆうべ、彼女と居たもの」。こういう、どうでもよい会話にも、「ウソ」という言葉が出てくる。
 ネタバレになるので、すべては言わないが、このあとの展開でも、ふたりの人物がついた大きな「ウソ」が明らかになる。
 というようなことを、くどくど書いたのは、例の「森友学園問題」が解決していないからである。この問題が浮上して以来、誰が「本当のこと」を言っているのか、サッパリわからない状態が、二か月近く、続いている。
 関係者のほとんどが、多かれ少なかれ「ウソ」をついている。そして、そのことが、さして不思議とも思われない状態が、この間、ずっと続いている。これ自体が、何とも不思議なことに思えてならない。
 いったい、この事態は、どういう形で、決着するのであろうか。

映画『クイズ・ショウ』(1994)のテーマはウソ 2017・4・1
 一昨日〔2017・3・30〕のブログに、「ウソも真実も、さして多くを語りはしない」と題するコラムを書いた。映画『理由』(一九九五)のテーマのひとつは「ウソ」である、ということを述べた。
 それで思い出したのだが、一九九四年に公開された『クイズ・ショウ』という映画がある(ハリウッド・ピクチャーズ)。
 この映画は、一九五〇年代に大きな問題となった、クイズ番組に関わる不正事件を素材にしている。そして、この映画のテーマのひとつが、やはり「ウソ」であった。
 映画の最後のほうで、大学講師でクイズ番組のヒーロー、大学講師のチャールズ・ヴァン・ドーレン(レーフ・ファインズ)が、立法委員会に証人として出席し、番組における不正を証言する。そこで、チャールズは、一通の「声命文」を読み上げる。この映画のハイライトである。その声明文は、ビデオの字幕によれば、次のようなものである(適宜、句読点を加えてある)。
 この一年間にあった事を、もし変える事ができたら…。
 過去は変えられません。しかし教訓となります。
 私は人生を、自分自身を学びました、そして社会に対する責任を。
 善と悪が見かけと異なる事も学びました。
 私は深く、欺瞞行為に関わりました。
 友人を裏切りました。数千万の友を。
 この国の人々に嘘を、知っている事と知らない事の両方で嘘を〔つきました〕。
 なのに、消え去ることだと、子供のように思っていました。消え去るわけはないのに。
 私は怖かった、死ぬほど。自分というものがなかったからです。
 真実を語る事が、唯一の道です。
 私事で恐縮ですが、私は自分を見つけました。
 今までの私は、役を演じてきたのです。自分は能力があると錯覚を〔していました〕。
 運にめぐまれ、自分というものの基盤を、泥にまみれて築くことをしなかったのです。
 借り物の翼で、飛んでいたのです。すべてが安易でした。
 これが、その結果です。
 テレビのクイズ番組における「不正」が大問題になり、ついに、立法委員会で不正を証言する人物があらわれた。たかが「クイズ」と思われるかもしれない。しかしこれは、アメリカという国で、実際にあったことである。
 一方、日本では、近年、国有地の売却という重大な案件をめぐって不可解な動きがあったにもかかわらず、これを「不正」として糾弾する動きが弱い。また、「不正」を証言する人物も、今のところ、あらわれそうにない。いったい、これはどうしたことなのだろうか。

真実を話さない限り自身が苦しむことになる 2017・4・2
【前略】
 さて、映画『クイズ・ショウ』において、大学講師のチャールズ・ヴァン・ドーレン(レーフ・ファインズ)は、事件との関わりを避ける意図で、当初、メキシコに居を移していた。しかし、その後、気が変わり、立法委員会に証人として出席し、「不正がなかった」ことを証言しようと思い立つ。
 帰国したチャールズを待っていたのは、立法管理小委員会の捜査官ディック・グッドウィン(ロブ・モロー)であった。チャールズは、ディックの情理を尽くした説得を受け、さらに父親のマーク・ヴァン・ドーレン(ポール・スコフィールド)に背中を押されて、「不正があった」ことを証言する決意を固めるのであった。
 さて、今回の森友学園問題において、今後、これに似た「劇的な」展開があるかどうかは、何とも言えない。しかし、それを期待する人にも、期待しない人にも、この『クイズ・ショウ』という映画は、おすすめである。映画そのものが、実によくできている。楽しめ、かつ考えさせられる。ちなみに、『クイズ・ショウ』のビデオ(ポニー・キャニオン発売)のパッケージによれば、五〇年代の「クイズ・ショウ」、六〇年代の「ケネディ暗殺」、七〇年代の「ウォーターゲート」は、アメリカの「三大スキャンダル」と呼ばれているらしい。

*このブログの人気記事 2018・3・30

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丸川珠代参議院議員の印象操作

2018-03-29 04:49:32 | コラムと名言

◎丸川珠代参議院議員の印象操作

 佐川宣寿〈ノブヒサ〉前国税庁長官に対する参議院予算委員会の証人喚問(2018・3・27)は、「期待外れ」、ないし「予想通り」の結果に終わったようだ。
「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、また、何事も付け加えないことを誓います」と宣誓しながら、肝心なところにくると、「真実」を隠していた。たとえば、丸川珠代参議院議員の質問に対して、「大変、申し訳ございませんが、この決裁文書の書き換えの、いわゆる経緯に関わるお話でございます。従いまして、その決裁文書で、誰が指示をしたのか、どのような対応で書き換えが行われたのかということ、そのものが捜査の対象となっているわけでございますので、大変恐縮でございますが、刑事訴追の恐れがございますので、答弁を控えさせていただきたいというふうに思います」というような答え方をしていた。
 佐川前長官は、丸川議員の質問「では、改めて伺いますが、この森友学園への国有地の貸し付け、ならびに売り払いに総理、および総理夫人が関わったことはないと断言できますか」に対して、「私が昨年、勉強して、ずっと一連の書類を読んで、国会で答弁させていただいたなかで言えば、総理も総理夫人の影響もありませんでした」という慎重な回答をおこなっていた。これは、偽証を避けるためのギリギリの表現であって、やはり、「真実」を隠さんがための答弁なのだろう、と思えた。
 それにしても、丸川議員の「ありがとうございました。少なくとも今回の書き換え、そして森友学園に国有地の貸し付け並びに売り払いの取引について、総理、総理夫人、官邸の関与はなかったということは、証言を得られました。ありがとうございました」という「マトメ」には腰を抜かしそうになった。これだけ、「真実」から遠い証言から、どうしたら、そういうマトメを引き出すことができるのか。
 丸川議員のこのマトメは、一種の「印象操作」である。ただし、この印象操作によって、「総理、総理夫人、官邸の関与」は、やはりなかったようだ、という印象を与えられた視聴者は少なかったと思う。むしろ、佐川前長官は、首相夫妻を護るために、偽証をせざるをえなかった、という印象を与えられた視聴者が多かったのではないか。コワイのは、前者の印象操作でなく、むしろ後者の印象操作である。
 しかし、佐川前長官の答弁を、その日の夕刊で読んでみると、首相夫妻を護るために、みずからが犠牲となるなどという殊勝な心掛けは、微塵も感じられない。佐川前長官は、あくまでも、自己の保身を最優先にしながら、慎重な答弁に終始したのである。ということであれば、佐川前長官は、丸川議員の恣意的なマトメのあと、挙手して発言を求め、「チョット待ってください。私は、総理、総理夫人、官邸の関与はなかった、とまでは断言していません」と言っておくべきだったように思う。

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人間は振出しが大切だ(田中光顕)

2018-03-28 03:05:22 | コラムと名言

◎人間は振出しが大切だ(田中光顕)

 月刊誌『うわさ』通巻一六七号(一九六九年七月)から、山雨楼主人(村本喜代作)による「宝珠荘の偉人」という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

 話のついでだから書いて見るが、田中は天皇陛下を天子様という言葉で呼んで親しみある人間扱いをした。そして自分が宮内大臣を辞めてから後の宮内省が、「どうも天子天子様を生神様〈イキガミサマ〉に扱って困る。あれではだんだん皇室と国民とが離れてしまう」と憤慨しておった。昭和の御大典に際して、陛下が京都に行幸の往途、田中は蒲原町〈カンバラチョウ〉の在郷軍人分会に対し、訓練銃に実弾を装置して鉄道沿線を警備せよと申し渡した。これを聞いた清水警察署長が吃驚〈キッキョウ〉して田中を訪問し、取締上困るから止めて欲しいと話したら、
「あの鉄砲を白川〔義則〕陸軍大臣から払い下げて貰った時、陛下御警衛の為という理由で許可されている。在郷軍人が銃をもって警備するのが何が悪い。軍人は陛下の赤子だ。近頃共産党などという悪思想を持った者がいて、何をしでかすか判らん。折角だが断わる」と叱り飛ばされて帰った。
 時の警察部長金森太郎が私〔村本〕のところへ相談に来て、
「実に困った。理論としてはゴもっともだが、それでは警察が法規上黙ってはいられない、何とか貴郎〈アナタ〉からうまく話して貰いたい」と泣きを入れて来た。仕方がないから私は早速蒲原に行って田中に逢い、警察部長も困っていると話したところ、私に対しても同じようなことを言って、
「どうもこの頃は天子様のお通りだというと、警官が人垣を作って物々しく警備するが、あんなことはいかん。天子様と国民とはモッと親しく出来るようにして、天子様も人間、百姓も人間という観念を植え付けぬと、日本の国は亡びてしまう。私が宮内大臣の時はモッと自由にしてあげた」と、頑として自説を撤回せぬ。これは話しても無駄だと思ったから、私は分会長の岩辺弥之助と相談し、また警察部とも打合せ、弾だけは田中に内密で装置せぬことにして解決した。今思うと、田中は豪かった。その後の宮内官僚が天皇を生神様扱いをしたことによって、軍閥の跳梁を招き、延いては無暴な侵略戦争を捲き起し、可惜〈アタラ〉敗戦の憂目〈ウキメ〉を見るに至った。
 田中は明治維新の際、軍曹に召され終身十人扶持〈ジュウニンブチ〉を下賜された。その時の軍曹というものは、勿論将校格であった。伊藤博文が兵庫県令の時、病の為に休職し、馬をつれて伊藤のところへ食客に入った。そのうち病気が治ったので、伊藤の勧めに従って権判事〈ゴンハンジ〉に任官し、兵庫県西宮支庁に出仕した。
「人間は振出しが大切だ。私と伊藤は維新前は対等以上であった。偶々〈タマタマ〉病気で伊藤の食客となり、病気全快後遊んでいても仕方がないと思ったので、伊藤の下で働いたが、これが終生ついて廻って、私はどうしても伊藤の上へ出ることができなかった」と私に告白したことがある。
 私が宝珠荘を訪問した頃、田中のところに伊藤の手紙などは束にして積んであったが、余り勿体ないではないかと話したら、其後年月日順に揃えて横巻に表装した。一巻に二、三十宛〈ズツ〉納めて五十余巻あったから、田中と伊藤の交遊こそ、真に水魚の如きものがあったと思う。田中の背後に伊藤の光っておったことが、田中を永く宮内大臣たらしめたとも言えよう。
 山県含雪〔有朋〕の手紙もこの時同じように横巻に表装したが、これは二十数巻だったと記憶している。
 田中は自分の邸内に表具師を置いて年中仕事をさせ、多数の書画を愛蔵していたが、その大部分は維新前後の盟友の筆蹟であった。これ等の軸物は全部田中自身が箱書〈ハコガキ〉したが、一寸私共の奇異に感じたことは、「西郷隆盛君七絶」とか「梅田雲浜君一行書」とか、すべて君と書いてあるところ、よく考えてみると不思議でも何でもないが、この点だけでも国宝的人物だなと思った。

 文中、「警察部長金森太郎」とあるのは、のちに徳島県知事、山県県知事などを務めた金森太郎(一八八八~一九五八)のことである。その長女の和子は、政治家の石破二朗〈イシバ・ジロウ〉に嫁した。石破茂〈シゲル〉衆議院議員は、二朗・和子の長男である。
 以上、五回にわたって、山雨楼主人「宝珠荘の偉人」という文章を紹介した。実を言うと、「宝珠荘の偉人②」という文章もあるのだが(月刊誌『うわさ』通巻一六八号、一九六九年八月)、この紹介は、しばらくあとに廻す。なお、偶然だが、本日三月二八日は、宝珠荘の偉人・田中光顕の命日である。

*このブログの人気記事 2018・3・28

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我れ再び函嶺を越えず(田中光顕)

2018-03-27 03:31:57 | コラムと名言

◎我れ再び函嶺を越えず(田中光顕)

 月刊誌『うわさ』通巻一六七号(一九六九年七月)から、山雨楼主人(村本喜代作)による「宝珠荘の偉人」という文章を紹介している。本日は、その四回目。

 私は、ある時田中〔光顕〕に向って西郷隆盛の話を聞いてみた。すると田中は「養徳」と二字書いた西郷の額を出して来て、
「これは僕が西郷に書いてもらったものだ。当代〝養徳〟の二字を書いて楣間〈ビカン〉に仰ぎ見ることのできる筆者は貴郎〈アナタ〉を措いて外にはないと言ったら、西郷は非常に謙遜して容易に筆を執らなかったが、僕の強って〈タッテ〉の懇望により遂にこれを揮毫してくれた。西郷とは維新前から薩摩屋敷で時々逢って懇意にしておったが豪い人だった。僕が何かの話のついでに、一度朱鞘〈シュザヤ〉の刀を差して見たいと言ったら、西郷がそれでは今度国へ帰ったら琉球朱〈リュウキュウシュ〉を持って来てやると言った。一年程たって私は忘れてしまったが、上洛した西が遥々〈ハルバル〉本国から上等の琉球朱を持参して来てくれたには驚いた。西南の役に私は陸軍会計監督長(少将担当官)として官軍に従軍したが、城山〈シロヤマ〉陥落後西郷、桐野〔利秋〕、村田〔新八〕等、生前知己の遺骸を見たが、実に感慨無量だった。桐野は維新前中村半次郎と称し、堂々たる偉丈夫で実に立派な武士だった」
 西郷と田中との間には、別に因縁の深い話がある。しかもそれが近藤勇〈イサミ〉に関係し、後には田中の一生に大きな影響を与え、宮中の大問題にまで発展したのだがら猶更面白い。それは京都を落ち延びた新選組が、官軍の江戸城入城によってさらに下総流山〈シモウサ・ナガレヤマ〉に走り、近藤勇は大久保大和と変名しておったが、顔見知りの加納金子雄〔ママ〕のために見破られて、官軍の手に捕えられ、越ケ谷〈コシガヤ〉の軍営所に曳かれて香川敬三の取調べを受けた。この時勇は昂然として、
「勝つ為の官軍か、まことの官軍か、仮令〈タトイ〉寃罪の名はきても、心に疾しいところが無ければ天地に俯仰〈フギョウ〉して恥ずるところはない。関東武士は死するにも生くるにも唯〈タダ〉義の為に働らくのじゃ。反覆常なく人を売り友を売って自から勤王の名を偸む〈ヌスム〉左様な西国武士の前に命惜しさに屈する膝は持たぬ。死生命あり、勝敗は兵家の常である。今となってまた何をか言わんや」と大喝した。香川は怒って勇を板橋の本営に送ったが、これを聞いた田中光顕は、その近藤の気概に敬服し、西郷に宛てて助命の依頼状を認め〈シタタメ〉、斯様〈カヨウ〉の人物は助けて置けばまた世の中の為にもなるであろう。是非寛大の処置をお願いすると書いて香川に托し、近藤の身柄と共に西郷に引渡すように頼んだ。ところが板橋の本営に曳かれた近藤は、二十数日後の慶応四年〔一八六八〕四月二十五日、そこの原中〈ハラナカ〉において斬首(享年三十五才)された。これを聞いた田中は早速西郷に逢って、自分が心を籠めて依頼したのに斬首とは気の毒だと話したら、西郷は全然田中の手紙のことは知らなかったので、それは惜しいことをしたと嘆息した。田中の手紙は途中で香川が破ってしまったのである。明治になってから田中は宮内大臣となり、香川は皇后宮大夫〈コウゴウグウダイブ〉となった。田中は心中香川を目して武士の情を知らぬ奴とさげすんでいた。この感情が香川に反影せぬ筈はない。二人の仲は自然犬猿であったが、偶々明治大帝〇御の日、田中が写真師を連れて来てその遺骸を撮影しようとしたところ、香川は真向から反対した。
「生前あれ程写真というものがお嫌いだった陛下が、今崩御せられるとすぐそのお嫌いな写真を撮るというのは、不忠も甚だしいものである」と罵った。実際明治天皇の写真嫌いは有名で、全国の学校等に頒布せられた御真影も、外国の肖像画家を招聘して、遠くカーテンの蔭から写生したものであった。田中は香川の説を反駁して、
「陛下の写真嫌いは生前のことである。既に崩御せられた御遺骸は陛下ではない。今日この時御遺影を写して置かなかったら、日本国民は、永久に明治天皇の御姿を偲ぶよすがを失うであろう」と力説し、双方激論して段々声が高くなった。そこで〔昭憲〕皇太后陛下が仲に入って、
「香川の言うところももっともであるが、また田中の言うところも道理である。しかし今陛下の崩御せられた枕辺で重臣が互いに相争うことは面白くない。これは自分に任せて欲しい」と言って、田中の連れて来た写真師を帰し、別に彫刻家岡崎雪声〈セッセイ〉を呼んで、後日銅像を造ることの出来るようにと命じ、寸法を計ったり、写生などさせた。明治大帝に殉死した乃木希典〈マレスケ〉も香川の説に賛成し、殉死の際に書いた遺書の中に君側の奸〈クンソクノカン〉云々とあったのは、それが暗に田中を指したものだという噂もあって、これに憤慨した田中は、我れ再び函嶺〔箱根山〕を越えずという訣別の詩を山県有朋に贈って岩淵の古渓荘に隠退した。田中は土州人で一徹なところがあり、言い出したことは中途で止めない。その後明治天皇の等身大の銅像を造ってこれを明治神宮の外苑に建てようとしたところ、一木喜徳郎〈イチキ・キトクロウ〉の宮相時代宮内省が反対した。後に田中は私に語って、
「明治神宮外苑に明治天皇の銅像を建てようとしたら、宮内省で反対したが、その理由は神霊の尊厳を毀つける〈キズツケル〉というのだ。君そんな馬鹿なことがあるかね。銅像は神様じゃアない、明治天皇という人はこういうお姿の人だったかと、国民が仰ぎ見るのが何んで尊厳を毀つけるのだ。大体人間の身体などというものは、死んでしまえば仕方のないものだ。三日も置けばウジがわくよ。だから歴代天皇中には、粉葬を行なった為御陵のないものもあるくらいだ。それを写真を撮っては不忠になるという香川の議論なども根本から間違っている。銅像だってそうだ。ただ明治天皇の御姿を模した金属なんだよ。外国へ行ってみたまえ、モット人通りの多い繁華街に帝王の銅像が建ってるじゃアないか。明治天皇の銅像を建って悪いという規則はないのだから、僕は断乎として建設すると言ったら、また宮内省で大騒ぎになった。そこで不止得〈ヤムヲエズ〉水戸の常陽館〔常陽明治記念館〕にその銅像を安置することにしたが、先頃皇太后陛下〔貞明皇后〕がわざわざ常陽館にお立寄りになって、大層よく出来ているが、心持お顔がいかついように思われると仰っしゃって、よくやったと御賞め下すった。これで僕もやっと自分の念願が達したように思う」と述懐しておった。【以下、次回】

 若干、注釈する。文中、「加納金子雄」とあるのは、新撰組の元隊士・金子道之助(一八三九~一九〇二)のことであろう。
 また、「粉葬」とあるのは、今日の言葉で言えば「散骨葬」のことである。歴代天皇中、「粉葬」がおこなわれたのは、淳和〈ジュンナ〉天皇(七八六~八四〇)で、ほかには例がないらしい。淳和天皇は、みずからの葬儀に関し、「骨を砕き粉となし之を山中に散らせ」と遺詔したという(インターネット情報による)。

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