礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

篠村書店「社会科学古書目録」(1989)より

2016-02-29 05:31:15 | コラムと名言

◎篠村書店「社会科学古書目録」(1989)より

 神田神保町の篠村書店が閉店した。一昨日、店の前を通ると、シャッターが閉まっていて、シャッターに、貼り紙が貼られていた「跡」が残っていた。一月いっぱいで閉店になるという話は聞いていたが、その「最期」を見届けることはできなかった。インターネットで調べてみると、一月三〇日(土)まで営業していたことは間違いないようで、翌三一日(日)も営業したらしいという未確認情報もあった。
 今月の上旬、店の前を通ると、すでに閉店したと思っていた同書店のシャッターがあいている。右側入り口のところに「今月一杯で閉店します」という紙が、「依然として」貼ってあった。店の奥には老店主の姿も見えた。「アッ」と思ったが、中にはいって挨拶するほどの「常連」ではなかったので、そのまま通りすぎた。
 それから数日後、古い書類を整理していたところ、篠村書店発行の「社会科学古書目録 1989・1」という冊子が出てきた。A5判で、本文八七ページ。
 緑色の表紙に、「乞御回覧」という文字があり、目次(分類項目)が載っている。「1・社会学、人口、移民、マスコミ」以下、「20・全集及び追加」までの項目が並ぶ。しかし、そこに、「鉄道」という言葉を含む項目はない。収録件数は、全三八六五件。
 本日は、この古書目録から、「13・産業、会社史」の一部(六一ページの上段・下段)を紹介してみたい。

二六四二 現代日本産業発達史 銀行  渡辺他     昭41 五〇、〇〇〇
二六四三 日本国有鉄道百年史 13巻 日本国有鉄道   昭49  九、〇〇〇
二六四四 日本国有鉄道百年史 7巻  日本国有鉄道  昭46 一二、〇〇〇
二六四五 相鉄五十年史        同 編     昭42  九、〇〇〇
二六四六 復刻版日本国有鉄道百年写真史
    追録その後の15 年     日本公通公社   昭47  四、八〇〇
二六四七 東武鉄道六十五年史     同 編     昭39 一五、〇〇〇
二六四八 名古屋鉄道社史       同 編     昭36  八、五〇〇
二六四九 京王自動車三十年史     京王観光KK   昭56  四、八〇〇
二六五〇 京葉地帯における工業化と都市化
            東京大学社会科学研究所編   昭40 五五、〇〇〇
二六五一 京葉臨海工業地帯     同調査委員会   昭41 六四、〇〇〇
二六五二 図説日本蒸汽工業発達史
           ワット誕生二百年記念会編    昭13 四〇、〇〇〇
二六五三 東海道電気運転沿革誌 東京鉄道局運転課   昭3  七〇、〇〇〇
二六五四 一〇〇年の国鉄車両   日本国有鉄道編   昭50  五、五〇〇
二六五五 鉄道辞典 上下     日本国有鉄道    昭33 二八、〇〇〇
二六五六 四十年のあゆみ   日本国有鉄道浜松工場  昭28  六、〇〇〇
二六五七 国鉄車両一覧     日本交通公社編    昭62  四、〇〇〇
二六五八 国鉄電車発達史 訂補 電気車研究会     昭52  二、八〇〇
二六五九 遠州鉄道40年史    同 編        昭58 二五、〇〇〇
二六六〇 水間鉄道50年の歩み 同 編         昭48 一五、〇〇〇
二六六一 富山地方鉄道五十年史 同 編   昭58 二八、〇〇〇
二六六二 東京横浜電鉄沿革史 東京急行電鉄KK  昭18 六〇、〇〇〇
二六六三 首都高速道路公団二十年史  同 編     昭54  二、五〇〇
二六六四 広島鉄道管理局この10年史 
       日本国有鉄道広島鉄道管理局       昭51  五、〇〇〇

二六六五 東京の電車道    高松吉太郎       昭52  八、〇〇〇
二六六六 創業70周年記念
 最近20年のあゆみ       近畿日本鉄道KK   昭55  三、四〇〇
二六六七 大東運輸五十年史   同 編        昭60  三、四〇〇
二六六八 伊予鉄道百年史同編  同 編        昭62 一八、〇〇〇 
二六六九 停車場一覧    日本国有鉄道編      昭47  四、八〇〇
二六七〇 五十年史 日本交通公社           昭37  四、〇〇〇
二六七一 静岡操車場新設電気工事記録 日本国有鉄道      四、五〇〇
二六七二 京阪神急行電鉄五十年史 同 編 昭34 一五、〇〇〇 
二六七三 鉄道辞典 補遺版共3冊 日本国有鉄道    昭41 六八、〇〇〇
二六七四 大阪電気軌道株式会社三十年史 同 編    昭15 六八、〇〇〇
二六七五 南海電気鉄道百年史 同 編         昭60 一五、〇〇〇
二六七六 五十年史 2冊 譜 伊豫鉄道電気KK      昭11 四四、〇〇〇
二六七七 北海道鉄道百年史 上中下
       日本国有鉄道北海道総局  昭56 二七、〇〇〇
二六七八 省線電車史綱要 東京鉄道局電車掛         七〇、〇〇〇
二六七九 南海鉄道発達史     同 編       昭13 五二、〇〇〇
二六八〇 山陽電気鉄道65年史   同 編       昭47 一五、〇〇〇
二六八一 小田急五十年史     同 編       昭55 二六、〇〇〇
二六八二 小田急二十五年史    同 編       昭27 三五、〇〇〇
二六八三 八幡製鉄所化工部概史            昭36  七、五〇〇
二六八四 三菱鉱業社史                昭51 一三、〇〇〇
二六八五 大阪商船株式会社八十年史          昭41  五、八〇〇
二六八六 三井船舶株式会社社史            昭44  三、〇〇〇
二六八七 三十五年史   三井造船株式会社      昭28  五、〇〇〇
二六八八 明治百年史叢書205
 日本近世造船史―明治時代―   造船協会      明44 一六、〇〇〇

*このブログの人気記事 2016・2・29(9位にきわめて珍しいものが入っています)

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神仏を拝むのも、人に功徳を施すのも一つ事

2016-02-28 06:06:56 | コラムと名言

◎神仏を拝むのも、人に功徳を施すのも一つ事

 まず、昨日の補足から。昨日は、千葉徳爾の『近世の山間村落』(一九八一、名著出版)から、「両白山地住民の袖乞い慣行」という論文の第四節を紹介した。
 それによれば、小原乞食の場合、「物乞い」に出る動機は、「御先祖様には毎日白飯を進ぜなくてはならない」というものであった。これに対し、牛首乞食の場合は、純粋に、「自己の食物を得るため」に物乞いに出たのだという。ただしこれは、あくまでも、小原乞食の関係者による説明である。
 牛首乞食が、物乞いに出た動機については、牛首乞食の関係者に確認する必要があるだろう。小原地区の関係者から見れば、牛首乞食は、あたかも「自己の食物を得るため」に物乞いに出たかのように思えたかもしれない。しかしこれは、偏見だったかもしれない。牛首乞食にしてみれば、物乞いに出るにあたり、牛首地区なりのイデオロギー(共同幻想)、あるいは牛首地区における「関係性」に促されていた可能性が高い、と私は捉えている。
 ところで、千葉徳爾は、右論文の第三節「民俗としての袖乞習俗」の中で、柳田國男の「乞食は人によいことをさせようとする行為だ」という言葉を引いている(出典は明記されていない)。
 ここで柳田が言わんとしたことは、こういうことだろう。――乞食は、人から金品を受け取るばかりで、「何も与えていない」かに見えるが、実はそうではない。乞食は、その人に、よいこと(施し)をする機会を「与えている」。すなわち、「よいことをする機会」を与えるということが、施しをおこなってくれる人に対して、乞食の側からおこなう反対給付なのである。――
 この論理は、布施とか喜捨とかいう仏教用語になじんでいる日本人にしてみれば、そう難しいものではないだろう。
 その後、私は、宮本常一の『村里を行く』(一九四三、三国書房)という本を読んだ。そこには、次のような話があった。宮本は、旅先で、「金坂さん」という人の歓待を受ける。その席に、「金坂氏の母親」が出てきて、挨拶する。宮本が厚く謝礼を述べると、彼女はこう言った。
「私は神仏を拝むのも、人に功徳をほどこすのも一つ事だと思いまして。」
 旅先で、歓待される宮本は、歓待する人々に何も与えていないかに見えるが、実はそうではない。「人に功徳をほどこす」機会を与えているのである。「物乞に近いような旅人」を自称していた(前掲書)宮本であるからして、おそらく、それに気づいていたことであろう。

*このブログの人気記事 2016・2・28(6位にやや珍しいものが入っています)

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白山麓住民の袖乞い慣行

2016-02-27 03:37:56 | コラムと名言

◎白山麓住民の袖乞い慣行

 今月二四日、鵜崎巨石さんのブログに、「インドネシアの乞食村」と題する文章が載った。非常に興味深い内容で、思わずコメントしてしまった。
 鵜崎さんの文章を読んで、まず思い出したのは、白山山麓にあって、かつて袖乞いの慣行を持ち、「白山乞食」などと称された村民のことである。
 かれこれ四〇年ほど前、千葉徳爾が「白山乞食」について考察した論文を読んだことがあった。また、一〇年ほど前、歴史民俗学研究会の席上で、飯尾恭之さんから、同じく「白山乞食」についてのご研究を拝聴したこともあった。
 さて、千葉徳爾の「白山乞食」論文だが、千葉の論集である『近世の山間村落』(一九八一、名著出版)で読んだという記憶があった。しばらくぶりに同書を取り出してみると、たしかに、「両白山地住民の袖乞い慣行」という論文が収録されていた。初出は、同年の『愛知大学綜合郷土研究紀要』第二六輯である。なお、この論文で千葉は、「白山乞食」という言葉、あるいは「乞食村」という言葉を使っていない。
 千葉の論文は、三〇ページに及ぶもので、全八節からなっている。本日は、そのうちの第四節「小原乞食と牛首乞食」を紹介してみたい。

 四、小原乞食と牛首乞食
 加賀市在住のI氏は、旧新丸村(現小松市)小原〈オハラ〉に生れ、そこがダムで水没するまで在住した。氏は民俗研究家としても知られているが、同時に祖父母の袖乞〈ソデゴイ〉体験を鮮明に記憶している数少い人である。小原谷も山間集落であって、場合によっては牛首乞食と平野部の人からは一括して呼ばれたようであるが、I氏に従えば両者の間には若干の意義の差がある。したがって、以下では氏に従って小原乞食と牛首乞食(狭義の)を別個に記述してゆきたい。
 小原谷は牛首〈ウシクビ〉方面から北に流れる手取川本流に、鳥越村〈トリゴエムラ〉下野〈シモノ〉で合流する大日川〈ダイニチガワ〉上流を占め、現在のダム上流部は小松市域に属するが、白峯〈シラミネ〉地区に類した焼畑を主とする山村であった。主食は昭和三十年ころまでアワ・ヒエであって、米作は極少に止まった。夏季は焼畑の出作小屋〈デヅクリゴヤ〉に居住して一家農耕に従い、冬季のみ本村に帰住する点でも、よく知られている白峯方面の出作りと類似し、慢性的食糧不足を感じていたといわれる。牛首方面では特に記載がないようだが、ヤモメゴヤと称して結婚相手がない年長者、いわゆるオジ・オバ暮しの者が、焼畑の隅に半地下式の簡単な小屋を建てて住んでいた。
 いま、I氏の知悉する小原乞食のことを中心として記述を進める。両者共に専ら乞食行動が行われたのは明治の前半までであって、もっとも盛〈サカン〉だったのは文化~文政年間から天保年間であったと伝えられている。以後嘉永・安政と新らしくなるにつれて漸次減少したというが、これらの詳細は今後の検討にまちたい。
 両者ともに、乞食=袖乞いに出てゆくのは新暦の十二月中旬から一月の七日までであり、帰宅するのは旧暦の彼岸前後であった。すなわち約三ヵ月であって、高山代官が白山麓一八ヵ村の越冬食糧の準備に必要な期間とした九五日にほぼ見合っている。また金沢方面で一月二十日を乞食正月と称し、このころになると乞食がよくきたからだと伝えている点も、山村住民が、特に女・子供の行程として袖乞いをしつつ金沢に到達する時期として、ほぼ当っているといえるのではなかろうか。
 小原乞食の袖乞いの目的は、I氏の言によれば、それは先祖の仏壇に供えるオボクメシとして、白米を確保するためであったという。もちろん、それと共に家族の口べらし―これを口をアズケルという―にあったことは否定されない。特に不作の年には、ワルドシコジキといって多くの家族が袖乞いに出た。しかし、村内の申合せのようなものがあったわけではなく、必要とする家々がそれぞれの都合で出るのである。
 オボクメシを必要とする家庭から出るのは、オボコメ乞食といって、毎年自宅で正月をすませ、三が日が過ぎてから出かけてゆくのであるが、ワルドシコジキをせねばならぬ家族は、十二月に村を出て正月は袖乞いの旅の途中で迎えたのである。帰宅はいずれも旧彼岸過ぎであった。
 乞食に出るのは家族全員ではなく、オッカ(母親)であり、子供がある場合には小さい子を一人だけつれて行く。つまり袖乞いを行うのは母子二人である。子供をつれて行くのは口べらしのためと、いま一つは同情をひいて袖乞いのもらい高を増すためでもある。そうして、幼少の子を世話するためのトト(父親)の労力を減らし、仕事の邪魔にならぬようにする心づかいもあった。
 さて、ここで問題となるのは、口をアズケルことは当然として、現代人の意識からすれば、どうして先祖に捧げるオボコメは白米でなくてはならないのか、自己の焼畑でとれたアワ・ヒエを捧げては、何故によくないのかということである。I氏によれば、それは昔からの仕来りであって、御先祖様には毎日白飯を進ぜなくてはならないことになっており、一種の義務感として住民の間に定着している。したがって、隣家が乞食までして白米を確保し、先祖に毎朝白米を供えているのに、自分の家では乞食をしないでアワやヒエを供えるのは、横着な心持をもっていることになるという対抗的意識もあった。「あの家は乞食をしないで、仏様をそまつにし、ヒエママをあげている」という噂を立てられることは苦痛だったのである。しかしながら、家庭の状況によって乞食の形態はさまざまだったようで、たとえばメオトコジキといって、分家した結果、水田がなく子も親もない若夫帰が、オボク米のため口をあずけに出ることもあった。もちろん、平野部も凶作でもらいがなく、せっかく乞食に出ても白米が得られないために、御先祖様にその事情を説明して許しを乞い、ヒエ・アワの飯を供えることもあったという。
 他方で、このような乞食を受入れる加賀・越前方面の平野部住民も、御先祖様にさしあげる白米がないから、として袖乞いをされたとき米を与えるだけの同情心がなくては、このような乞食行動も無効である。両者がともに一向宗という、特に祖先崇拝において大きな仏壇を設け専心念仏を心がける宗教的同類型の社会であったということが、このような袖乞いの可能であり、長い期間にわたって継続し得た有力な因子であったとも考えられる。
 牛首谷の方では、食糧条件はほぼ同様であったが、水田耕作はより乏しく、大多数の住民にとって米は全く入手できないといってよかった。このため、オボクメシを白米にしなくてはならないということは、はじめから不可能なことといってよかったようである。したがって、こちらではまったく「口をアズケル」ための袖乞いが多かったようだとI氏はその方面の知人から聞いているとのことである。したがって、こちらの袖乞いは真に飢えに対する行為であって、現代的な意味での自己の食物を得るための乞食であった。牛首乞食の名称がひろく記憶され、伝えられたのは、いわばその目的がより切実なもの、全くの乞食としての意味に徹していた結果ではなかろうか。したがって、こちらの方が多かったと考えられ、平野部住民にとっては山間住民の物乞いたちの代名詞となったことがうなずかれるのである。

 最初、この論文を読んだとき、芸能や祝詞といった反対給付をおこなうことなく、純粋に物を貰う乞食という存在が成り立っていたことに関心を抱いた。また、ふだんは山間に暮らす農民が、かつて、三ヵ月もの間、物乞いを続けていたという事実に驚いた。
 今日、久しぶりに、この論文を読んだ感想は、右と少し違う。特に、引用した箇所に関しては、小原出身のI氏が、小原乞食と牛首乞食との違いを強調していることが興味深かった。小原乞食は、御先祖様に供える白飯を確保しようとして、物乞いに出た。一方、牛首乞食は、純粋に「自己の食物を得るため」に物乞いに出たのだという。
 おそらく千葉も気づいていたと思うが、ここには、小原出身のI氏の「誇り」、あるいは牛首に対する優越意識のようなものが感じられた。これが、今日の感想のひとつ。二番目に、少なくとも小原乞食の場合、「物乞い」に出る動機は、「御先祖様には毎日白飯を進ぜなくてはならない」という、一種のイデオロギー(共同幻想)であったということが興味深かった。さらに、もうひとつ、そのイデオロギーを補強していたのが、「隣家が乞食までして白米を確保し、先祖に毎朝白米を供えているのに、自分の家では乞食をしないでアワやヒエを供えるのは、横着な心持をもっていることになる」という、地域との「関係性」であったということである。【この話、続く】

*このブログの人気記事(2016・2・27)

 

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護衛憲兵はなぜ教育総監を守らなかったのか(改)

2016-02-26 04:16:22 | コラムと名言

◎護衛憲兵はなぜ教育総監を守らなかったのか(改)
 
 今から、七一年前の二月二六日、「二・二六事件」という軍部クーデター未遂事件が発生した。
 当ブログでは、今月一二日以降、同事件に関する話題を積極的に取り上げてきた。その間、いくつかの文献にあたったため、ブロガーの知見も、幾分か向上したように思う。かつて、「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」(2012・8・11)というコラムを書いたことがあるが、今、読みかえすと、不十分なところが目につく。
 本日は、このコラムを、この間に得た知見を踏まえながら、書き直してみたい。なお、もとのブログは、自身に対する戒めの意味も兼ねて、そのままの状態にしておきたい。
   *   *   *
 二〇一二年八月一〇日発売の雑誌『文藝春秋』本年九月号に、渡辺和子さんの「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」という手記が載った。新聞広告でこれを知り、久しぶりに同誌を購入した。渡辺和子さんは、この事件で射殺された渡辺錠太郎〈ジョウタロウ〉教育総監(陸軍大将)の次女にあたる。事件当時、九歳だった彼女は、至近距離から父・渡辺錠太郎の死を見届けたという。
 その手記の一部を引用させていただこう。
 
 一九三二年には五・一五事件がありました。その約三年後の三五年七月に皇道派とされる真崎甚三郎大将が教育総監を更迭〈コウテツ〉され、父が後任になりました。翌月には永田〔鉄山〕少将が暗殺される事件も起きました。そのような背景がありましたから、父の警護のために自宅には憲兵が二人常駐していました。私と父とで一軒先にある姉夫婦の家に行くわずかな時間にも、必ず憲兵が後ろについておりました。
 私が疑問を感じているのは、この憲兵たちの事件当日の行動です。お手伝いさんの話では、確かにその日、早朝に電話があり「(電語口に)憲兵さんを呼んでください」と言われ、電話を受けた憲兵は黙って二階に上がっていった、というのです。しかし、一階で父と一緒に寝ていた私たちのもとのは何も連絡が入りませんでした。私にはその電話の音は聞こえませんでしたが、もし彼らから何か異変の報告があれば、近くに住む姉夫婦の家に行くなりして逃げることも出来たはずです。しかし、憲兵は約一時間ものあいだ、身仕度をしていたというのです。兵士が身仕度にそんなに時間をかけるでしょうか。
 また、父が襲撃を受けていた間、二階に常駐していた憲兵は、父のいる居間に入ってきていません。父は、一人で応戦して死んだのです。命を落としたのも父一人でした。この事実はお話ししておきたいと思います。

 この早朝の電話は、牛込憲兵分隊の「当直下士官」からのもので、その内容は、「今朝、首相官邸、陸軍省に第一師団の部隊が襲撃してきた。鈴木侍従長官邸や斎藤内大臣邸もおそわれたらしい。軍隊の蹶起だ。大将邸も襲われるかもしれない。直ぐ応援を送る、しっかりやれ」というものだったという(大谷敬二郎『昭和憲兵史』)。
 しかし、電話を受けた佐川憲兵伍長は、この内容を渡辺錠太郎教育総監に伝えなかったばかりか、襲撃部隊が到着するまで、一時間近く、二階で慢然と待期していた。このことから、この「当直下士官」の電話は、公的なものでなく私的なもので、その内容は、「これから、そちらに襲撃部隊が向かうと思うが、このことは渡辺総監には伝えるな。また、襲撃部隊に対して、最後まで抵抗すると、命を落とすことになるので、それは避けよ」といったものだったと推測される。
 さて、この手記を読んで、あるいは、関係の文献を読んで、今なお、いくつかの疑問が去らない。箇条で挙げよう。

1 渡辺和子さんは、『文藝春秋』二〇一二年九月号の手記で、常駐していた護衛憲兵が教育総監を守らなかった事実を、初めて、明らかにされたのか、それとも以前にも、何らかの形で、それを明らかにされていたのだろうか。
2 事件当時、渡辺錠太郎邸に常駐していた護衛憲兵は、佐川憲兵伍長と憲兵上等兵のふたりだったというが、その氏名(フルネーム)は? また、その所属は、牛込憲兵分隊で間違いないか。
3 当日早朝、渡辺邸に電話をした「当直下士官」の階級および氏名は? また、その思想傾向は?
4 二名の護衛憲兵、および「当直下士官」は、当日の挙動をどのように釈明したのか。また、その釈明についての記録は残っているのか。
5 二名の護衛憲兵に対し、「行政処分」がなされたというが、「辱職罪」が適用されなかった理由は何か。また、「当直下士官」に対して、何らかの処分がなされたのか。

 二・二六事件に関しては、まだまだ述べたいことがあるが、このあと、しばらくは、話題を変えたい。

*このブログの人気記事 2016・2・26(ここ数日、岡田首相関係にアクセスが集中)

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鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」

2016-02-25 03:01:35 | コラムと名言

◎鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」

 二〇一二年一一月三〇日のコラム「鈴木貫太郎を蘇生させた夫人のセイキ術」において、たか夫人が試みた「セイキ術」による止血法について述べた。このコラムは、今日まで、足かけ五年の間、多くの方からアクセスをいただいてきた。
 ところが今年になって、たか夫人が試みた止血法が、「セイキ術」に基づくものではなく、「霊気術」に基づくものだったかもしれないと思うにいたった。それは、鈴木貫太郎の「嵐の侍従長八年」(『特集文藝春秋』一九五六年一〇月、所載)という回想文を読んだからである。ここで鈴木は、事件当日、夫人から「霊気術止血法」を施されたと書いている。
 そこで本日は、この「嵐の侍従長八年」を紹介してみよう。なお、この文章は、三段組一〇ページに及ぶ長文であり、全部で八節からなっているが、本日、紹介するのは、末尾に近い「二・二六事件」の節、および末尾の「死より再生す」の説である。

 二・二六事件
 二月二十五日にアメリカ大使のグルー君から齋藤〔實〕内大臣夫妻、それから私達夫婦と松田元大使、榎本海軍参事官が晩餐の招待を受け、食後映画の催しがあつて十一時頃帰宅した。その晩は大変に歓待を受けたのだが、電灯のせいか何となく暗く陰気な感じを受けた。
 二十六日の朝四時頃、熟睡中の私を女中が起して、「今兵隊さんが来ました。後ろの塀を乗り越えて入つて来ました」と告げたから、直感的に愈々やつたなと思つて、すぐ跳ね起きて何か防禦になる物はないかと、床の間にあつた白鞘の剣を取り、中を改めると槍の穂先で役に立とうとも思われなかつたから、それはやめて、かねて納戸〈ナンド〉に長刀〈ナギナタ〉のあるのを覚えていたから、一部屋隔てた納戸に入つて探したけれども一向に見当らない。その中〈ウチ〉にもう廊下や次の部屋あたりに大勢闖入した気配が感ぜられた。そこで納戸などで殺されるのは恥辱であるから、次の八畳の部屋に出て電灯をつけた。すると周囲から一時【いつとき】に二、三十人の兵が入つて来て、皆銃剣を着けたままでまわりを構えの姿勢で取巻いた。その中に一人が進み出て「閣下ですか」と向うから叮嚀な言葉で云う。それで「そうだ」と答えた。
 そこで私は双手を上げて「まあ静かになさい」とまずそう云うと、皆私の顔を注視した。そこで「何かこういうことがあるに就いては理由があるだろうから、どういうことかその理由を聞かせて貰いたい」と云つた。けれども誰もただ私の顔を見ているばかりで、返事をする者が一人もいない。重ねて又「何か理由があるだろう、それを語して貰いたい」と云つたが、それでも皆黙つている。それから三度目に「理由のない筈はないからその理由を聞かして貰いたい」と云うと、その中の帯剣してピストルをさげた下士官らしいのが「もう時間がありませんから撃ちます」とこう云うから、そこで、甚だ不審な話で、理由を聞いても云わないで撃つと云うのだから、そこにいるのは理由が明瞭でなく只上官の旨を受けて行動するだけの者と考えられたから、「それならやむを得ません、お撃ちなさい」と云つて一間ばかり隔つた〈ヘダッタ〉距離に直立不動で立つた。その背後の欄間〈ランマ〉には両親の額が丁度私の頭の上に掲つていた。
 するとその途端、最初の一発を放つた。ピストルを向けたのは二人の下士官であつたが向うも多少心に動揺を来たしていたものと見えて、その弾丸は左の方を掠めて後力の唐紙を撃ち、身体には当らなかつた。次の弾丸が丁度股の所を撃つた。それから三番目が胸の左乳の五分〈ゴブ〉ばかり内側の心臓部に命中してそこで倒れた。倒れる時左の眼を下にして倒れたが、その瞬間、頭と肩に一発ずつ弾丸が当つた。連続して撃つているのだからどちらが先か判らなかつた。
 倒れるのを見て向うは射撃を止めた。すると大勢の中から、とどめ、とどめと連呼する者がある。そこで下士官が私の前に坐つた。その時妻は、私の倒れた所から一間も離れていない所にこれも亦数人の兵に銃剣とピストルを突き付けられていたが、とどめの声を聞いて、「とどめはどうかやめて頂きたい」と云うことを云つた。
 丁度その時指揮官と覚しき大尉の人が部屋に入つて来た。そこで下士官が銃口を私の喉に当てて、「とどめを刺しましようか」と聞いた。するとその指揮官は「とどめは残酷だからやめろ」と命令した。それは多分、私が倒れて出血が甚だしく惨憺たる光景なので、最早蘇生する気遣いはないものと思つて、とどめを止めさせたのではないかと想像する。
 そう云つてからその指揮官は引きつづいて「閣下に対して敬礼」という号令を下した。そこにいた兵除ば全部折敷き跪いて〈オリシキヒザマヅイテ〉捧げ銃〈ササゲツツ〉をした。すぐ指揮官は、「起てい、引揚げ」と再び号礼をかけた。そこで兵隊は出て行つてしまつた。
 残つた指揮官は妻の所へ進んで行つた。そして「貴女は奥さんですか」と聞いた。妻が「そうです」と答えると指揮官は「奥さんの事はかねてお話に聞いておりました。まことにお気の毒な事を致しました」と云う。そこで妻は「どうしてこんなことになつたのです」と云うと、指揮官は「我々は閣下に対して何も恨みはありません。只我々の考えている躍進日本の将来に対して閣下と意見を異にするため、やむを得ずこういうことに立ち至つたのであります」と云つて国家改造の大要を手短かに語り、その行動の理由を述べた。妻が「まことに残念なことを致しました。貴方はどなたですか」と云うと、指揮官は形を改めて、「安藤輝三」とはつきり答え、「暇がありませんからこれで引揚げます」と云い捨ててその場を去り兵員を集合して引揚げた。その引揚げの時、安藤大尉は女中部屋の前を通りながら、閣下を殺した以上は自分もこれから自決すると口外していたということを、これは引揚げた後女中が妻に報告した話である。(果して安藤大尉は山王の根拠地へ引揚げた後、自殺を企て拳銃で喉を撃つたが急所を外して死に至らず治療して治つたが、軍法会議の裁判の結果死刑になつたのである。)

 思想の犠牲 安藤大尉【略】

 死より再生す
 襲撃隊が引揚げると同時に、妻は私を抱き起して出血する個所、殊に頭と胸の血止めに努めた。それから電話で事の次第を侍従職に告げ侍医の来診をお願いした。その時の当直の侍従は黒田〔長敬〕子爵であつたが、すぐ知合いの塩田廣重博士に電話で診察を頼んでくれた。間もなく真先に湯浅〔倉平〕宮内大臣が見舞に見えられたので、私はその御好意を感謝し、「私は大丈夫ですから御安心して頂くよう、どうか陛下に申上げて下さい」とお願いした。血が、ドクドクと流れるので、妻から「もう口を利いてはいけません」と云うわれた。つづいて廣幡〔忠隆〕皇后宮大夫が見舞に来られた時は只目礼で謝意を表した。まだ三十分から一時間と経たないうちに、塩田博士が御自分の自動車を待つ間ももどかしく、円タクを拾つて駈けつけて下さつた。博士は妻に、「私が来たから大丈夫だ、御安心なさい」と言葉をかけて部屋へ入ると、一面の血に辷つて〈スベッテ〉転ばれたのであつた。博士はお宅を出る時飯田町の日本医大に緊急の用意を命令して来られたので、御自身は医療の道具を持つておられなかつた。すぐ現状を診断され、気忙し気〈キゼワシゲ〉に妻に繃帯はありませんかと云われ、ありませんと答えると何でもいいから白布を出しなさいとのことで、それならばと羽二重〈ハブタエ〉の反物を切つて使つた。一応それで出血を止めた。私は寒い寒いと云つたそうだが、だんだん冷たくなる、脚が冷える、例とかしてくれそうなものだと思つたが、怪我をした者は動かしてはいけないというので畳の上に転がつたままだつた。それでもどうやら一間ばかりの所につくつた床の上に移されたが、その動かした後で意識がなくなつてしまつた。塩田博士は雪の中を円タクを見つけて日本医大へ行かれたが、この時には稲垣博士と吉田博士が見えていた。稲垣さんは輸血の方へ電話をかける。妻は駄目かと心配しながら懸命に霊気術をかけている。そこへ白衣の塩田博士が二名の助手を連れて帰つて来られた。すぐにリンゲルの注射が打たれ、この時私は気がついた。
 飯島博士が輸血者を連れて来て、稲垣さんが輸血をすることになつた。五百グラム採血する途中、脈がだんだん衰弱して来てこれ以上待てないので、取敢えず三百グラム注入するとこれがよく利いた。脈がしつかりして来たので十畳の間へ移り、夜になつてから床の下に乾板を入れてレントゲンを撮り弾丸のありかを調べた。こうして治療は続けられて行つたが、ここに一つ不思議な話があつた。それは飯島博士が輸血者を伴なつて急いで来る途中、総理大臣官邸の前で兵に車を止められた。それで議会の方へ抜けようとすると又止められて何処へ行くと問われた。鈴木侍従長の所へ行くと云つたら、下士官が行つちやあいかんと云つて自動車へ乗り込んで来た。そして御案内しましようと云つて英国大使館前までついて来てくれ、ここまで来れば大丈夫ですと別れた。それは飯島さんの病院で一カ月前に助けられた人だつた。
十日間絶対安静で仰向けに寝たままだつたが一週間目ぐらいに塩田博士から「もうこちらのものになりましたよ」と云われたので愁眉を開いた。
 この時の顳顬【こめかみ】に入つた弾丸は耳の後に抜け心臓部の弾丸は背中にとどまつて今でも残つている。心臓を貫いたのだというのと、その傍を廻つたのだというのと二説ある。最近は心臓を貫いてもすぐ血をとめれば生ききられると云うことだが、これは妻が必死にやつた霊気術止血法が成功したのかも知れない。
 私は最初死去したと報道され、後〈ノチ〉重傷で命は取り留めたと報道されたので、叛軍が再撃を図る恐れがあるというので、当局では厳重な警戒を怠らなかつたそうである。
 臥床中宮中から栄養物、スープ、牛乳など毎日のように御鄭重な御下賜品があつた。私は御慈愛に感激した。又各方面からの懇ろな御見舞を受けて感謝に堪えなかつた。
 傷は重かつたのに拘わらず予後は順調で五月中旬頃参内して親しく御礼を申上げ、その夏には葉山にお伴し、九月北海道の陸軍大演習にも、十月の海軍特別大演箇にもお伴したが、奉仕は七十になつたら御辞退申上げるつもりでいたので、丁度その十一月に御暇を願うことにし、幸いお許しが出たので時従長八年の奉仕を終えることになつたのである。その翌年から毎年二月二十六日には齋藤實、高橋是清、渡邊錠太郎大将のお墓詣りをすることを今日まで定例としている次第である。
 侍従長を拝辞してかけは専ら枢密顧問官としてお勤めし、昭和十五年〔一九四〇〕枢密院副議長、同十九年〔一九四四〕議長。終戦内閣の総理大臣になつた。

 コラム「鈴木貫太郎を蘇生させた夫人のセイキ術」では、幣原喜重郎の自伝『外交五十年』(読売新聞社、一九五一)を典拠とした。ここで、幣原は、鈴木貫太郎からジカに聞いた話を披露したのであった。一方、「嵐の侍従長八年」は、鈴木がみずから執筆した文章である。後者のほうが事実に近い、と考えるのがスジであろう。
 さて今回、インターネットで、「霊気術」を検索すると、「鈴木貫太郎の命を救ったレイキ(日本発祥の手当て療法)」(ちくてつのブログ)という記事にヒットした。同記事によれば、レイキ(霊気術)というのは、塩谷信男医学博士(一九〇二~二〇〇八)が開発した「ハンドヒーリング」のことらしい。塩谷博士自身は、かつて「生気術」を学んだという。
 生気術と霊気術との関係が、よくわからない。また、塩谷信男博士と鈴木たかとの接点については、まだ調べていない。というわけで、二〇一二年一一月三〇日付のコラムは、加筆・訂正などをせず、まだ、そのままにしてある。

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