礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

これじゃ東條とどれだけ違うのだ(原嘉道)

2019-09-30 04:04:49 | コラムと名言

◎これじゃ東條とどれだけ違うのだ(原嘉道)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一昨日、昨日に続いて、一九四四年(昭和一九)七月一八日の日記を紹介する。昨日、紹介した部分のあと、改行せずに、次のように続く。

最後に予備よりも一人候補者を出すべしということとなり、米内〔光政〕大将、
  小磯〔国昭〕(大将、現朝鮮総督)はどうだろう。
 と提案し、
  自分の内閣にいたので彼の人物力量はよく知っている。
 とて、推讃の言葉を述べ、平沼〔騏一郎〕男もまた、米内大将同様、自己の内閣に閣僚たりし関係上、大いにこれを推称し、阿部〔信行〕大将も、
  手腕はたしかに寺内〔寿一〕、畑〔俊六〕以上だ。
 と保証す。若槻〔礼次郎〕、岡田〔啓介〕両氏は、
  小磯という人は知らない、米内、平沼両君が褒めるのなら結構だろう。
 と賛成し、最後に平沼、米内両氏より候補者の順位につき、
  寺内第一、小磯第二、畑第三ということにしてもらいたい。
 という希望あり、異議なく右に決定す。この時原〔嘉道〕氏は「これじゃ東條とどれだけ違うのだ」と不満足の意を述べ、岡田、広田〔弘毅〕両氏 も「同感だ」という。此において木戸〔幸一〕内府は、
  原君の気持は判るが、事を運ぶには、誰か人を決めなければならないから仕方がない。従来の組閣は、組閣本部へ家の子郎党を集めてやるに過ぎないから、どうしても小さなものになって仕舞うが、今度は組閣に当り、重臣に相談して作るという形にしたらどうだろう。
 という。若槻男、
  組閣に重臣が干渉しては、受け手がないだろう。
 と危む〈アヤブム〉。木戸内府、
  干渉はいけないが、重臣が組閣に協力した形にすれば世間にもっと大きく映ると思う。その方法を考えて見ることにしよう。
(註、たとえば陛下の御言葉又は内大臣としての希望を付するの意)
 かくて、此の間お菓子を頂戴したるのみにて晩餐【ばんさん】を喫する暇もなく、会議を続行すること実に四時間に及び午後八時散会せり。
 同十一時過ぎ、松平〔康昌〕内大臣秘書官長より電話あり。
 第一候補寺内呼戻しのため東條陸相に相談したら、東條は作戦上困るという返答をしたので第二候補小磯対し、今夜御呼び出しの電報を打った、と。

 注1 西溜の間 昭和二十年〔一九四五〕五月二十五日の東京大空襲で焼失した宮殿(明治宮殿)にあった一室で、陪食、拝謁する諸員の控室だった。
 注2 宇垣一成【略】
 注3 畑俊六【略】
 注4 七月十八日の重臣会議については「木戸日記」に詳細に記されている。本筋に違いはないが発言順、発言者が二、三「近衛日記」と違う。「木戸日記」では、寺内案は米内大将が、梅津案は阿部大将が、畑案は木戸内府が最初に提案している。

 この日の議論で、枢密院議長の原嘉道は、「これじゃ東條とどれだけ違うのだ」と発言している。これは、まともな反応である。原は、近衛ほか重臣会議の主流が、「従来主戦論を唱え来れる強硬分子」によって組織される「中間的内閣」を目論んでいることを、まったく知らないのである。「中間的内閣」(中間内閣)については、今月九日のコラム「近衛文麿と昭和19年7月2日付文書」で紹介した「昭和一九年七月二日付近衛文書」(仮称)を参照のこと。

*このブログの人気記事 2019・9・30(なぜか10位に木村亀二)

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敗戦以上に怖ろしいのが左翼革命だ(近衛文麿)

2019-09-29 04:02:20 | コラムと名言

◎敗戦以上に怖ろしいのが左翼革命だ(近衛文麿)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、昨日に続いて、一九四四年(昭和一九)七月一八日の日記を紹介する。昨日、紹介した部分のあと、改行せずに、次のように続く。

すなわち予〔近衛文麿〕は、
  陸軍なら注文が二つある。
   第一は、東條内閣は何のために倒れたか、東條個人の不評判もあるが、 陸軍は海軍に比し政治、経済あらゆる事に口を出し、国民の不評判を買った。よって従来のやり方を変える。即ち、常道に還る事であり、
   第二は、我国の今日は極端にいえば、左翼革命に進んでいるようだ。あらゆる情勢がそういう風に見える。敗戦はもちろん恐ろしいが、敗戦と同様もしくは、それ以上に怖【おそ】ろしいのが左翼革命だ。敗戦は一時的で取り返すことも出来るが、左翼革命に至っては、国体も何も吹っ飛ぶ。だから左翼革命に就ては、最も深甚なる注意を要する。表面に起って運動している者ばかりが左翼ではない。右翼のような顔をしている軍人や官吏にも実は多いのだ。本人はそういう積りでなくともすることは全くの赤だ、というのが非常に多い。これに向って大斧鉞【ふえつ】を振う人が絶対に必要だという事だ。
 と説く。平沼〔騏一郎〕男は語調に非常に力をこめ、
  全然御同感だ。
 と叫ぶが如くいう。若槻〔礼次郎〕、木戸〔幸一〕両氏も首肯す。然らば「陸軍より採るとせばなに人か」という段になり、まず木戸内府より寺内〔寿一〕案(元帥、南方派遣軍総司令官)出でしに、皆「長老だから」とて反対もなけれど、格別熱心なる賛成もなし。ただ、寺内元帥は目下前線にあり、呼び返すに困難なれば今一人候補者を出すべしということとなり、米内〔光政〕大将より梅津〔美治郎〕新参謀総長を推したるに、阿部〔信行〕、若槻、岡田〔啓介〕氏等皆賛成し、阿部氏は最も梅津氏を推称したり。然るに木戸内府より、
  梅津は参謀総長になったばかりだから、すぐまた取り換えるの はよろしくあるまい。
 と横鎗【よこやり】出で、若槻男、
  それは構わんと思う。
 と梅津案を支持したるも、平沼男より、
  それはいけない。そう度々変えるのはよくない。
 と熱心なる反対あり、遂に梅津案消減す。次で平沼男より畑〔俊六〕案(元帥、支那派派遣軍総司令官)出づ。皆余り賛否を言わず、多く黙して聴く。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・9・29

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重臣の中から総理を互選したらどうか(原嘉道)

2019-09-28 02:45:03 | コラムと名言

◎重臣の中から総理を互選したらどうか(原嘉道)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一八日の日記を紹介する。この日の日記は、かなり長いので、数回に分けて紹介したい。

十八日午後四時
  宮中西溜の間〈ニシタマリノマ〉において重臣会議開催

 最初、皆黙し、寂として声なし。かくては果てじと思いしにや、やがて若槻礼次郎男、まず口を切る。
  これは自分の案ではない。話の糸口という意味でいうに過ぎないが、宇垣〔一成〕では軍部関係にどうだろう。
 と、阿部〔信行〕大将に問い、一石を投ずるや、阿部大将、
  その事の可否は、自分ではお答出来ない。
 と、逃げ、他に宇垣案に対して発言する者なきため、阿部氏はさらに語を継ぎ、
  戦局は海軍が主体だから、海軍が後継を出すべきだ。自分は、米内〔光政〕君が一番よいと思う。
 と、米内大将の顔を見る。
(註、米内大将が入閣を断り倒閣せるも同然なれば「お前やれるならやって見よ」と言わぬばかりの口吻【こうふん】なり)
 これに対し米内大将は、
  自分はもう、一度総理も勤めた。海軍大臣まではよいが、総理大臣は私には絶対に勤まらない。政治は矢張り政治家がよい。
 と、応酬して平然たり。此〈ココ〉において予は、
  米内大将のお話は理想としては結構だが……又、一日も早くそうなることを希望するが……、現実の問題として今日の政治は一切軍と関連しないものはない。軍需その他百般の事、どれ一つ取り上げても皆然らざるなしという有様で、随【したが】って軍人でないと判らぬ点もある訳だ。それで変則だが、今日は軍人が内閣を作るより仕方がない。但し、米内君が言われた心がけを持った軍人にやってもらいたい。
 と述ぶ。
 若槻、木戸〔幸一〕、平沼〔騏一郎〕の諸氏、皆賛成す。
 次いで広田弘毅氏、
  非常重大な時だから殿下を煩したい。
 と宮様内閣を持出す。原〔嘉道〕枢密院議長も、
  今や国が生死の関頭に立っている。此の際だから、単独で内閣を引受け切れるものではないと思う。そこで、重臣全部に大命の降下を願い、その中から総理を互選するようにしたらどんなものだろう。
 と言い、岡田〔啓介〕大将も、
  今度はもう普通の人ではいけぬ。御親政に待つより外あるまいから陛下のお思召がもっともよく判る木戸内府が出たらよかろう。
 と言い出す。これにて一渡り発言あり、広田、原、岡田三氏の外は大体軍人に一致し、軍人内閣とすれば陸海何れとなすかの点残る訳なるが、阿部大将が海軍を推して米内大将の奮起を促したるに対し、同大将は再考の余地なき拒絶振りなれば、予はこころみに、
  鈴木貫太郎大将(現枢密院副議長)は如何。
 と発案す。然るに原氏は、
  自分は枢密院に一所にいて、鈴木の心事をよく知っているが、鈴木は絶対に受けない。
と断言す。かくて段々陸軍ということになり、木戸内府も、
  何百万の大兵を大陸、その他に動かしているのだから、その始末だけでも 大変だ。…矢張り陸軍がよい。
 と述べ、遂に陸軍に一致す。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・9・28(なぜか8位に平田篤胤)

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首相経験者と現職の枢密院議長を重臣と呼ぶ

2019-09-27 00:05:09 | コラムと名言

◎首相経験者と現職の枢密院議長を重臣と呼ぶ

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。当ブログで、この日記を最初に紹介したのは八月一四日のことで、この日は、「昭和十九年七月五日」という日付のある「まえがき」と、同年「六月二十一日午後四時」の日記を紹介した。
 この「まえがき」には、「注1 マリアナ沖海戦」と、「注2 荻外荘」という「注」が付いていたが、紹介は割愛した。
 また、「六月二十一日午後四時」の日記には、「注1 東條英機」、「注2 重臣会議」、「注3 若槻礼次郎」、「注4 マリアナ沖海戦についての、大本営発表」、「注5 岡田啓介」という計五つの「注」が付いていたが、これらの紹介も割愛した。
 しかし今にしてみれば、「注2 重臣会議」は、割愛すべきでなかったと思う。本日は、補足として、これを紹介しておくことにしたい。なお、同書の注は、共同通信社の浜田寛、横堀洋一の両記者が執筆している。

 注2 重臣会議 首相経験者と現職の枢密院議長を「重臣」と呼び、それらの人たちの会合を一般に「重臣会議」と称していた。
 昭和十五年〔一九四〇〕十一月、最後の元老西園寺公望〈サイオンジ・キンモチ〉公爵が九十二歳で死去したあとは、政変などの際、内大臣がこれらの人を招集、次期内閣の首班候補を協議、天皇に候補者を推薦していた。開戦以来、時折り首相が重臣と懇談、戦況を報告していたが、十八年〔一九四三〕十月ごろから逆に重臣側が首相を招いた。その後政府、重臣が交互に主催して毎月一回開かれた。当初、東條首相は大蔵、外務両相を会合に同伴して出席したため、重臣側は突っ込んだ見解を首相自身から聞けなかったが、十九年〔一九四四〕二月ごろになって首相が単独で出るようになった。当時、重臣といわれていたのは近衛文麿、岡田啓介、若槻礼次郎、平沼騏一郎、阿部信行、広田弘毅、米内光政の元首相と原嘉道枢密院議長。

*このブログの人気記事 2019・4・27(10位に珍しいものが)

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戦時食おむすびを喫しつつ会議を続行

2019-09-26 03:24:06 | コラムと名言

◎戦時食おむすびを喫しつつ会議を続行

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一七日午後四時の日記の後半を紹介する。昨日、紹介した部分のあと、改行せずに次のように続く。

午後六時三十分に至り、皆打ち揃う。(これより先、会議においては若槻〔礼次郎〕男に劈頭の発言を依頼し、阿部〔信行〕大将に対しては、東條首相との関係上、必ず我々の意見に反対すべければ、木戸〔幸一〕内府に伝達することは秘密に付し置くベしと申合す)
 すなわち若槻男爵まず、
  東條内閣はいくら改造しても、すでに人心が去っているから、此の際、適当に善処せしめたらどうだろう。
 と口を切る。
 次で米内〔光政〕大将いわく
  自分は今、政府から執拗【しつよう】に交渉を受けている。岡局長〔岡敬純軍務局長〕が二度も来て、その上、野村〔直邦〕新大臣も来るはずだ。新大臣で駄目なら東條が来る。東條で駄目なら優諚【ゆうじよう】を奏請するというのだ。自分はこんな事に優諚【ゆうじよう】を云々するのは、 実に大権をもてあそぶものだと思う。自分はたとえ優諚【ゆうじよう】があっても拝辞する決心だ。
 と、すこぶる明快なる決意披瀝【ひれき】あり。
 次に平沼〔騏一郎〕男いわく
  人の和がなければ戦には勝てぬ。東條内閣があっては、かえって人の和を破壊する。
 広田弘毅氏は「改造の経緯を知らぬ」とか何とか不得要領なる言辞をならべ全く問題に触れず。阿部大将(信行)は、
  翼政会にも内閣更迭説盛んだけれども…。自分は、東條内閣を決して完全とは思わぬが、これよりよい内閣が出来るという目途がなく、ただ内閣を破壊するということは無責任と思っている。此の事を内閣倒壊論者に言っても、誰もこれ以上よい内閣が出来る成算があるという者はない。
 という。
 最後に予は「若槻、平沼、米内三氏と結論においてほとんど同一なり」と述べ、阿部氏はなお、
  こういう話をして一体、これを政府に伝えるのか。
 と質し、皆、
  政府に伝えなくてもよいが、阿部さんからでも伝えてもらいましょうか。
 と、お茶を濁す。
 阿部氏は自己が何のために参集せるやを結局知らざる訳なり。米内、広田両氏も真相を知らざることは阿部氏と同様なるも、岡田大将は後刻両氏を自邸へ同伴して説明する由。かくて平沼邸心尽しの戦時食おむすびを喫しつつ会議を続行し、散会したるは午後八時過ぎ。
 岡田大将は自邸にて米内、広田両氏に今日までの経過を説明したる後、午後九時三十分に至り報告のため木戸内府を訪問す。
 予は重臣会議散会後、松平〔康昌〕侯爵邸において結果を待ちいたり。午後十一時過ぎに至り、岡田大将の使者として福田耕〈タガヤス〉(大将の女婿)来訪す。即ち、その報告によれば、大将と木戸内府との間に上奏の文言を左の如く決定したり。
  此の重大なる時局を乗り切るには、人心を新にすることが必要であります。国民、皆相和し、相協力し、一路邁進【まいしん】する強力なる政府でなければならぬと思います。一部改造の如きは何もならぬと存じます。
 (かく認め〈シタタメ〉たる時、即ち、十八日午後零時三十分、内田〔信也〕農相より電話あり。此の日午前十時、東條首相参内、内閣総辞職のため、閣僚の辞表を取りまとめ、闕下【けつか】に捧呈せることを内報し来る。なお、此の事は後継内閣成立まで発表せざる方針なりと)

注1 嶋田海相の後任問題 【略】
注2 広田広毅 【略】
注3 原嘉道 【略】
注4 福田耕 原文では岡田大将の女婿となっているが、これは誤り。同氏は昭和十一年〔一九三六〕岡田内閣での首相秘書官。岡田大将の女婿は迫水久常〈サコミズ・ヒサツネ〉氏で当時岡田首相の秘書官だった。
注5 内田農相 【略】
注6 優諚 特別の思召しによる天皇のお言葉。闕下は天皇の御前のこと。

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