礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

昔の物売りやちんどん屋には、ひとかどの芸があった

2020-08-31 03:57:05 | コラムと名言

◎昔の物売りやちんどん屋には、ひとかどの芸があった

 内海桂子師匠のエッセイを紹介した昨日のコラムに対して、inaka4848さんから「続き希望」のボタンをもらったので、師匠のエッセイを、もうひとつ紹介してみよう。
 これも、『七転び八起き人生訓』(主婦と生活社、一九九一)にあるエッセイである。

声梁塵を動かす
○昔は物売りにもひとかどの〝芸〟があった

 近所の豆腐【とうふ】屋さんと会ったので、
「近ごろ売りに来ないのねえ」
 と話しかけると、
「売りに歩いたって、さっぱり買ってもらえなくてね」
 と言うのです。
 古いなじみの豆腐屋さんで、以前は「なまあーげ、がんもどき、こんちゃ午【うま】の日」なんて元気に声を張り上げ、喇叭【らつぱ】を吹き鳴らして、売りに回っていたものです。
「油揚げなんぞ、まとめて買う人はいなくなったねえ。今のかみさん連は稲荷ずしも作らねえで、出来合いを買ってくるからだよ。栄養のあるおからを買う人も少なくなったしねえ」とも嘆くのです。
 夕暮れどきになり、遠くから豆腐屋さんの喇叭【らつぱ】が聞こえてくると、「それっ」とばかりに鍋【なべ】なぞ持ち出して、「豆腐屋さーん」と叫んだ昔が懐かしく思われます。
 下町のこの一帯では、物売りの声がよく聞けたものです。
「きんちゃん、甘いよ」と調子をつけながら回ってくる物売りがありました。きんちゃんというのは小豆を砂糖でまぶしたもので、岡持にそれを入れ、チリンチリンと鈴を鳴らしながら流していました。粟餅【あわもち】屋や水飴【みずあめ】屋など子供が喜ぶ物売りも来たし、鋳掛屋【いかけや】や研【と】ぎ屋だの、ほかにもいろんな商人が売り声とともにやってきました。夏になると、風鈴などをぶらさげた金魚屋も来ました。それが下町の風情だったのです。
 決まった時間に回ってくるので、『町まちの時計になれや小商人【こあきんど】』ともなっていて、それを聞くと、「あっ、あの物売りが来た。もう三時なんだねえ」となります。気に入った声や節まわしが耳に残り、その人のファンになってしまうこともありました。
 どの物売りも独特の節まわしと音を持っていましたが、あれが客寄せのための余興というものです。売り声だから本当の芸とは言えないでしょうが、なかには芸人顔負けとも思 える物売りもいました。
 そういう物売りの声をまねて、本職の芸人が舞台で演じたものです。物売りのあとを三 日もついて歩いて覚えた芸人もいたほどです
 卵売りの「たまごー、たまご」という節まわしと声っぷしがいいので、玉子家なにがしという芸名で出て、漫才師になった人もいました。物売りから芸人になった例です。
 客寄せがうまいといえば、ちんどん屋がまさにそれでしょう。太鼓を叩【たた】いたり、喇叭を吹いて練り歩くだけでなく、三味線のおばさんと客寄せに漫才をやっていたのです。
 今どきのちんどん屋さんは仮装行列みたいなもので、お化粧を塗りたくって黙って歩いていますが、昔はそうではありませんでした。
 商店が開業するときに呼ばれるのは、今も昔も同じですが、昔は客集めに口上を切り、 踊ったり、掛け合い漫才をやったりして、客を喜ばせたものです。もっとも、一時食いっぱぐれた芸人がちんどん屋さんになっていたこともあります。
 盆と暮れにはちんどん屋が一斉に集まって、演芸大会のようなこともしていました。東京・三河島〈ミカワシマ〉に三山【みやま】倶楽部という小屋があってそこでは漫才だけでなく、茶番や、かっぽれなどほとんどの芸を披露していました。ちんどん屋の興行というわけです。それを見るには商店で入場券のような札をもらわなければなりません。
 私は幼いころ、ショールが欲しいばっかりに親に内証で、ここで興行していたちんどん屋さんの一行について甲州まで行ったことがあります。
 浅草育ちの劇作家でいらっしゃる宇野信夫さんの本に、橋場のちんどん屋さんの話が出てきます。私も知っていますが、そのちんどん屋さんは芸人になりました。ちんどん屋の芸が本職になった例です。
 本職になつて本場に出るか、ドサ回りするかの違いはありますが、昔の物売りやちんど ん屋には、ひとかどの芸があったのは事実です。
 中国の故事に「声梁塵【るようじん】を動かす」というのがあります。魯【ろ】の虞【ぐ】公は歌声が優れ、梁【はり】の上の塵【ちり】を声で動かしたというたとえです。
 古きよき時代の下町には、そんな物売りがいたような気がします。

 内海師匠の『七転び八起き人生訓』という本には、全部で六十五のエッセイが収められている。どのエッセイも、タイトルは「ことわざ」になっていて、その「ことわざ」に関わる、師匠の芸談、体験談、人生観などが語られている。
 今回、たまたま、そのうちのふたつを紹介したが、それほかのエッセイも、味わい深いものばかりである。

*このブログの人気記事 2020・8・31(9位になぜか坂口安吾)

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「足すり合うも戸塚の縁」(内海桂子師匠)

2020-08-30 00:03:54 | コラムと名言

◎「足すり合うも戸塚の縁」(内海桂子師匠)

 一昨日の新聞報道によれば、今月二二日、漫才師の内海桂子師匠が亡くなられたという。九十七歳。ご冥福をお祈りいたします。
 師匠は、本業の話芸のみならず、エッセイを得意とされ、『転んだら起きればいいさ』(主婦と生活社、一九八九)、『七転び八起き人生訓』(主婦と生活社、一九九一)など、多数の著書がある。
 私は、以前から、師匠の『七転び八起き人生訓』を座右に置き、愛読してきた。今月一日に刊行した『独学文章術』では、その付録で、『七転び八起き人生訓』中の「袖すり合うも他生の縁」という一文を推奨しておいた。
 本日は、その「袖すり合うも他生の縁」の全文を紹介してみたい。これを味読しながら、しばし、故人を偲びたいと思う。

袖すり合うも他生の縁
〇忘れられない古い旅籠での一夜

 はからずも戸塚の古い旅籠【はたご】に泊まって、いろいろ学んだことがありました。昭和三十四年〔一九五九〕のことで、現天皇陛下が美智子様と結婚なさった年です。
 私は小田原の公会堂で昼夜興行の仕事があり、昼の部が終わってから、街に買い物に出かけました。そこでしゃれこけてパンタロンとハイヒールを買い、それに着替えてから、会場に戻りました。夜の部もたいへんな盛況で、入り口にお客さんが行列していたので、私は美智子様気取りで手を振って会場に入ろうとしたのです。
 あの当時、美智子様が国民に手を振られるしぐさが流行【はや】っていたので、それをまねたつもりでしたが、慣れないことを、しかも新しいハイヒールを履いてやったものですから、つんのめって足首を捻挫【ねんざ】してしまいました。それでも痛みをこらえて、なんとか舞台をすませました。
 その翌日は小田原からさほど遠くない戸塚での仕事が待っています。ボウリング場の開場式に出ることになっていたのですが、当初の予定ではいったん東京の自宅に戻り、明くる朝、出直そうとしていました。ところが、マネジャーとして同伴していた息子が、
「母さん、足を引きずって行ったり来たりするのも大変だから、戸塚に泊まりなさい。ぼくがあした車で迎えに来よう」
 と言ってくれたので、そうすることにしました。
 息子とは戸塚駅で別れて、駅前でタクシーを拾い、「どこかいい旅館に行ってちょうだい」と頼んだところ、駅の近くの古風な旅籠屋に運んでくれました。足を引きずって玄関まで行き、「泊めてください」と大声を出しても、しばらく応答がない。ようやく出てきたのがそこの主人で、
「きょうはお客は一人もいないし、うちの連中は熱海に行っていて、一人で留守番をしているんだ。それでよかったら、泊まっていきな」
 と言うのです。見ると、その主人も足を引きずっていました。
 夜も遅くなっていて、お腹【なか】もすいていたので、食事を頼むと、
「おれは足を捻挫していて何もできないから、店屋物でもとろうじゃないの」
 と言うのです。
 寿司が来るのを待つ間、主人は、
「姐【ねえ】さんも捻挫したのかい。なら、おれがきょう戸塚の総合病院でもらってきた膏薬【こうやく】があるから、これ貼りなよ」 
 と、大きな膏薬袋を差し出してくれるのです。そこで二人は仲よく足首に膏薬を貼りました。
 やがて二人分の寿司が届いたので、主人と一緒に炬燧【こたつ】で食べることにしました。ここか ら炬燧で向かい合っての面白い話が始まります。
「姐さん、三下【みくだ】り半というのを見たことあるかい」と、いきなり聞くのです。私が首を振ると、「年季証文【ねんきしょうもん】は知っているだろう」とも聞かれました。
「知りません」
 と言つたら、
「芝居なんかで見せる証文は、はじっこが切れているけど、あれは証文にはならないんだよ。証文というのは一枚漉【す】きでなければ役に立たないんだ」
 と言い、主人は痛い足をひきずり、簞笥【たんす】の中から分厚い紙束を出して戻ってきました。 
「これが本当の年季証文だよ。おれんとこは古い旅籠だから、昔は飯盛り女というのがいてね。親が娘を連れてきて、五両借りるのと引き替えに娘を飯盛り女として置いていった んだ。そのときに三年とか五年の年季を決めて、証文を取ったというわけだ」
 と、奉書紙の証文を見せながら教えてくれました。
「この年季証文を取ると、娘がどんな男に抱かれても、親は文句が言えなかったんだ」
「どうして?」
「十両盗んでつかまったら、首をはねられた時代だ。五両借りるというのは体半分売ったことになるのさ。だけど、五両の値打ちは四両二分だったので、親は四両二分しか借りられなかったんだ。それで証文には親から兄弟から親戚にいたるまで全員が判を押させられたものだ。もっとも、女は判を持っていなかったから、爪印というのを押していたんだよ」
 その証文には、娘にいかようなことがあっても苦情は申しません、という意味のことが書かれていました。封建的な江戸時代の貧民の苦しさがわかるようです。
 話はまだ続きます。
「姐さん、昔は自分の判をどこにしまっておいたか知ってるかい」
「知りませんね」
「煙管【きせる】入れの尻にしまったんだよ。江戸時代には華奢【きやしや】禁令(奢侈【しやし】禁止令)があって、ぜいたくしちゃいけないというんで、百姓は竹筒で作った煙管を使っていて、煙管入れの尻んとこに判が入るようになっていたんだ。ただ、男は判を持っていたけれど、女は大店【おおだな】のおかみさんでもないかぎり、判を持たせてもらえなかったので、爪印を押していたのさ」
「爪印というのは今の拇印【ぼいん】と同じですね」
「そう、この世に二つとない印だよ。それから、百姓が字を書けないというのは、本当はうそなんだ。字が書けたから、年貢米を納めるときに、なんのたれべえ何俵納めた、というのを自分で書けたんだよ。書けなかったら、村役が代筆したり、十人衆とかが証人になってくれないと、納められなかったからね」
 こんな話が夜のふけるまで続いたのです。
 この旅籠屋には江戸時代からの古いものが保存されているし、主【あるじ】の頭には当時の世相がいっぱい詰まっていました。それもそのはず十六代も続いていた旅籠屋というのですから。
 この旅籠屋はいまや転業していますが、私にとっては捻挫の足が取り持つ縁で忘れられません。『袖【そで】すり合うも他生【たしよう】の縁』と言いますが、さしずめ『足すり合うも戸塚の縁』とでも言うのですかね。
『袖すり合う……』と同じような意味で『一村雨【ひとむらさめ】の雨やどり』というのがあり、なかなか風情があって私の好きなことわざです。

*このブログの人気記事 2020・8・30(10位に極めて珍しいものが入っています)

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古賀峯一連合艦隊司令長官は飛行機に乗って逃げた

2020-08-29 02:41:27 | コラムと名言

◎古賀峯一連合艦隊司令長官は飛行機に乗って逃げた

 安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言 中』(毎日新聞社、一九七二)から、遠藤三郎元陸軍中将の証言を紹介している。本日は、その六回目(最後)。

  サイパンで最後の痛手
 ―― 航空機生産が資材の欠乏によって崩壊せざるをえなくなったのは、直接的には海上輸送の崩壊、つまりだいたいサイパンの陥落(昭和十九年七月)あたりでしょうか。
 遠藤 そうです。サイパンのときは大西〔滝治郎〕さんはえらいと思うのですけれども、私と大西さんと航空兵器総局の仕事は二の次にして、サイパンの確保に全力を注ぐよう陸海統帥部に意見具申をしておった。ただ意見を具申してもきかんから、二人で手分けして、私は三笠宮〔崇仁親王〕を通じて天皇様に直訴する。大西さんは高松宮〔宣仁親王〕を通じて天皇様に直訴して、あそこで航空決戦をやる。あそこで決戦して負けたらお手上げでやめる。あそこでならば私は勝てるという判断だったのです。というのは、すぐ南にテニヤンがあるでしょう。あそこの飛行場はまだ確保しておる。北のほうでは硫黄島〈イオウトウ〉の飛行場がりっぱに使えるし、南ではトラック島、西のほうにはフィリピンとパラオに飛行場をもっている。それに反して米軍はあの当時、航空母艦からでなくちゃサイパンまでこれない時期です。だからこっちはもう一か八か、全航空戦力をあげてあそこで決戦をやる。そうしてあそこに敵の飛行場をつくらせない。サイパンにいる日本の守備軍にはお気の毒だけれども、ゲリラ戦でもいいから最後まで抵抗してもらう。そして飛行場の占領を妨害する。パラオで油がなくなって動けないでいる連合艦隊にも死に花を咲かすべく、片道の油だけはなんとかしてサイパンまで行って、サイパンに擱坐〈カクザ〉するのです。これは私はサイパンの地形を見てきておりますからよく知っているのです。あそこは泥ですから、ひっくり返らんのです。全速力で浅瀬に乗りあげれば、ちゃんとすわっている。そうして上陸したアメリカ軍の兵隊のケツを串刺しにして、飛行場をつくらせないように砲撃する。そうしてあそこで決戦する。アメリカは日本とちがって上陸したものを見殺しには致しませんから、増援隊を送る。増援隊は船でくるのですし、飛行機にしても航空母艦を基地にしてくるのですから、それを相手にこっちはシラミつぶしにしてやる。そうしたらアメリカもこれ以上やるのはいやだと。ことにご婦人の力がそうとう強い国だから、夫や愛人がバタバタ死ねばいくさをやめてくれやせんかというので、そういう意見具申をやっておった。
 ところが高松宮様も三笠宮様も転任させられちゃったのですよ。そうして「陸軍のほうでは、決戦するならば陸軍を二個師団増派しなければならん」というので、きかないわけで す。「とんでもない、そんなことをしたら日露戦争のときの常陸丸を何べんも繰り返すようなものだし、こっちが決戦に使う航空兵力を護衛に使わなければならん。それではいくさ にならんじゃないか」というのだけれども、参謀本部の作戦を担当している部長、課長がわからないから、決戦しようと思うと銃剣をもった兵隊をやらにゃだめだと思っている。しかし海軍のほうはその気になりまして、連合艦隊は出ていくことにきめました。そうして古賀(峯一)連合艦隊司令長官がパラオから出ていったわけですよ。
 ところが、飛行機を飛ばしたあとで、敵に見つかったという情報が届いた。そこで航空母艦に帰ってくるはずの飛行機を飛ばしっぱなしにして、艦隊はいのちからがらパラオに逃げてきたけれども、船で帰っちゃ間に合わんというわけで、古賀連合艦隊司令長官は飛行機に乗り、福留参謀長(繁。中将。太平洋戦争開戦時、軍令部第一部長、敗戦時は第十三航空艦隊長官)も別の飛行機に乗ってフィリピンに逃げたのです、船を置いて。これは罪悪だと思うんじゃけんどね。それで古賀連合艦隊司令長官は行方不明です。スコールにあったか、敵につかまったかわからないけれども、とにかく行方不明です(戦死)。福留氏は幸いにしてフィリピンまでたどりついたけれども、日本軍のいないところに着陸しちゃってひどい目にあったあげく、生命だけは助かって帰ってきましたが、出て行った飛行機は終わりですよ。
 すでにミッドウェー海戦(昭和十七年六月)で海軍は航空戦力の大半をなくしていました。それに加えて今回のサイパン出撃でもう海軍の航空は全滅です。とても戦争遂行の能力なし。また私の本任務に帰っても、サイパンを失えば日本本土を爆撃されますから、もう航空工業もなにもありゃせんというので戦意を失っちゃった。バカらしい。「こんな阿呆らしいいくさやっておってもしようがない」と思って、任務を放擲しようと思ったが、これまた大西さんに忠告されて思いとどまりました。大西さんというのはえらいですな。「長官、ヤケ起こすんじゃない、必ずもう一度戦機がくると思うから、我慢しましよう。その戦機を待ちましよう」。そうして彼はすばらしい意見具申書を書いた。それを私に、ちょっと見ていただきましょうという。見ましたら、ほんとうに涙がこぼれるような、諸葛孔明の出師の表〈スイシノヒョウ〉を見るようなりっぱな戦局転換の意見書です。要は首班人事の交代です。第一は、 嶋田(繁太郎)海軍大臣が軍令部総長の兼務をやめて、海軍大臣に専念する。軍令部長には末次(信正)大将を予備から現役に復活してきてもらう。そうして海箪次官には多田(武雄)中将、これも海軍大学を出ない人ですけれども、人物としてはりっぱな人です。その次に私の驚いたのは、あの難局にもっとも苦しい仕事である海軍の軍令部次長に乃公〈ダイコウ〉みずから行くというのです。その勇気と、私心のないということに感激したですよ。ほんとうに涙のこぼれるような意見具申であるけれども、その次がいけない。「条件として陸軍は参謀次長 に遠藤をもっていけ」というのです。
 それで私は、「せっかくの意見具申がこれで台なしだ」といった。陸軍は私をそんなに高く買っていないのです。それに参謀次長には優秀な河辺虎四郎中将がなったばかり(昭和二十年四月就任。その前に駐ソ、駐独武官、飛行団長等歴任)じゃないか。どうしてそれを更迭できるか。そんな馬鹿なことをいったら、せっかくのあなたの意見が汚れるから消しなさいといったのだが、これはあなたの部下の航空兵器総局の総務局長としての意見具申じゃない、一海軍軍人としての意見具申だから、なにも長官から指図を受ける必要はない。ただ徳義上見てもらっただけだ。こういうわけです。
 その意見具申を見た当局は大さわぎです。「遠藤と大西でクーデターやるから、二人ともすぐ東京から退去させにゃいかん。二人ともフィリピンにやれ」。大西は第一航空艦隊司令長官、私は第四航空軍司令官に出すというわけです。これはいよいよもってまた死刑の宣告だわいと思っておったら、こんどは軍需大臣が抗議を申し込みまして、二人いっしょじゃ困る、順序をつけて出してもらわんと、航空兵器総局の仕事はストップしちゃうというわけで、直接意見書を書いた大西滝治郎氏が第一に出されちゃったのですよ(その後大西氏は昭和和二十年五月末に軍令部次長に戻った)。そして私は残りました。
 その後も第四軍司令官にという話があったけれども、またどこからか抗議が出ましてね。行かずに終わりまで長官をやっておったもんだから、生命が助かったわけで、本日あなた 方にお目にかかれたのもそのおかげですよ。
 話が余談になりましたが、航空生産の崩壊の最大原因は資材の不足、爆撃の激化もさることながら、根本原因は戦争目的の不純にあるのでしょうね。「大東亜共栄圏」などと美名に飾られておりましたが、やはり日本の帝国主義的不純なものであったことは否めません。それゆえ、日清戦争や日露戦争のときのように国民の一致協力ができず、緒戦の成功に心おごり、戦況が非になると戦意を失い、真におのれを空しゅう〈ムナシュウ〉した真剣さに欠けておったことを忘却することはできないでしょう。アジア諸国の真の協力を得られなかったこともそのゆえでありましょう。

「これは罪悪だと思うんじゃけんどね」という一言に、遠藤三郎の苦々しい感情が読みとれる。なお、本書三一一ページに、次のような注がある。

 遠藤三郎氏 明治二十六年〔一八九三〕、山形県に生まれる。大正十一年〔一九二二〕陸大卒、参謀本部部員、フランス駐在を経て、参謀本部、関東軍等の要職を歴任したが、日華事変期には、野戦重砲兵第五連隊長として華北に出征、太平洋戦争では第三飛行団長としてジャワ攻略戦などに参加した。陸軍航空士官学校長から陸軍航空本部総務部長を歴任、 昭和十八年〔一九四三〕、軍需省航空兵器総局長官に就任した。陸軍中将。戦後は、平和憲法擁護国民連合の常任理事。

 明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2020・8・29

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あなたは三菱コンツェルンの実力をご存じない(岩崎小弥太)

2020-08-28 00:32:07 | コラムと名言

◎あなたは三菱コンツェルンの実力をご存じない(岩崎小弥太)

 安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言 中』(毎日新聞社、一九七二)から、遠藤三郎元陸軍中将の証言を紹介している。本日は、その五回目。

  民間企業を軍需工廠に
 ―― 軍需省の設置と並行して、軍需会社法(政府の指定した重要軍需企業を政府が強力に管理する立法で、これによって政府は民間企業の人事や経営にも立入ることができることになった)ができましたが、民間の軍需会社、とくに航空機会社をごらんになってのご感想は……。
 遠藤 やはり株式会社の性格が尾を引きまして、利益をあげにゃなりませんね。だからあの苛烈な戦争をやっておりながら、利潤追求の考えは抜けておらないのです。それで私、 素人なりに単純に考えました、兵器生産を民間にまかすことは誤りであると。そしてもうけようと思うから非常にコストの高いものになってくる。しかも作戦上の必要に応じて危険を冒してでもつくってもらわにゃならん。これはどうしても国営にしなくちゃならんという考えで株式会社を「軍需工廠」(このときはじめて設けられた民有官営工場の制度)に改め始めたのです。
 ところが、「遠藤はアカい」というわけです。赤かろうが黒かろうが、どうしてもやらんならんわけです。小磯さん(国昭。陸軍大将、昭和十九年七月~二十年四月首相)が総理大臣になったときにも、極力これを実行してほしいと願うと、小磯さんももっともだというので、先ず中島さん(知久平。中島飛行檢会社の創立者、政界では政友会の実力者で、中島派政友会の総裁となる。鉄道相、軍需相にも就任、故人)に交渉したのです。交渉は、いちおう成功しました(中島飛行機は昭和二十年四月「第一軍需工廠」として国営に移された)。だけれども、初代軍需工廠長官には弟の中島喜代一〈キヨイチ〉をあててほしいという条件をつけられました。「もう二十年近くも航空機事業でご奉公したものを、一ぺんに首切ってしまうということは人情のないしわざで、これでは航空産業界の士気を沮喪させるから、ぜひこれはやってくれ」という。もっともだと思って私は同意してきました。
 馬鹿に簡単に取引をすまして帰ってきたら、「遠藤長官はダラ幹だ」といわれました。軍需工廠に同意したのは、陸海軍の有力な将官を長官にして軍隊式にやるところにあったの だ。それを負けてくるようじゃだめだというわけです。それで監督官の将校がボイコットをやってしまったのです。つまり「いままでアゴで使っておった中島社長に敬礼ができるか、そんなものの命令をいまさら聞けるか」というわけです。これにはまいっちゃったですよ。
 そこで、しかたがない、それなら「おれがその下の次長になろう。そうして毎朝朝礼の式には現役中将の服装で敬礼してみせるから、監督官は少将以下ですからおれの真似できないことはないじゃないか」といったところが、大臣から叱られましてね、次長にはやられませんでした。それでいろいろ考えたあげく、中野に退役中将の方を見付けました。この方は中島が非常に経営に困っているとき、細々ながら陸軍から注文を出して助けてきたいわば中島の恩人、陸軍航空の元老です。その人にお願いして次長になって貰ったのです。
 ところが三菱のときは私は負けました。岩崎さん(小弥太。当時三菱本社社長、岩崎弥太郎の甥。大正五年〔一九一六〕三菱合資社長に就任、明治末から敗戦まで四十年間にわたり実権を振って三菱財閥を指導し、とくにその重工業化を推進した。男爵、昭和二十年財閥解体のさなか病没)というのはえらいですね。「あなたはまだ実業界のことをご存じない。三菱コンツェルンの実力をご存じないのだ。私は航空第一主義には同意です。全力をあげて協力しているのですよ。ですから、三菱コンツェルンのもっている優秀な人間、もっておるあらゆる資材をあげて航空にやっているのです。それを三菱コンツェルンから航空部門だけ切り離したらまったく無力になります」と。
 これももっともですね。私はすぐ人のいうことを素直に聞く癖があるので「いやそれはごもっともです。中島は国営にしたから、民間事業がいいか国営がいいかひとつ競争してみてください」といったのです。官営は従来能率があがらぬものということも私は知っていますけれども、しかしこの難局に対してそんなこともなかろうと思って、中島はじめ川崎、川西、それから立川と片端から国営の「軍需工廠」にしたのですよ。しかし成績があがりつつあるなと思っているうちにいくさは負けちゃって、正確な結論は出ませんでしたが、しかし長びけば社員が官吏になってダレたでしょうな。やはり民間の欲がなくちゃいかんのかもしれませんが、しかしいまでも私は思いますよ、軍需産業は民間にやらすべきでないと。民間会社なら当然利潤を追求せねばならない。儲けるためには兵器をたくさん売らねばならぬ、つまり「死の商人」になってしまうのですね。死の商人は軍縮されちゃ困るわけですね。軍人や悪い政治家と結託することになりますよ。

*このブログの人気記事 2020・8・28(10位の吉本隆明は久しぶり)

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隠しておくだけで飛ばすことができないのです

2020-08-27 02:01:15 | コラムと名言

◎隠しておくだけで飛ばすことができないのです

 安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言 中』(毎日新聞社、一九七二)から、遠藤三郎元陸軍中将の証言を紹介している。本日は、その四回目。

  航空兵器総局長官に就任
 そうこうしているうちに天下り式に軍需省というものができました(昭和十八年十一月行われた行政機構の大変革の一環として、商工省の商業行政部門を除いた全部と企画院、陸海軍の民間航空工業の監督行政部門を統合して軍需省が設定された。航空工業行政のために航空兵器総局が設けられたが、職員にはすべて陸海軍現役軍人、軍属があてられた)。そこで陸海軍の航空の生産だけを一本にするというのです。そんな生産だけをいっしょにするというような請負仕事みたいなものはだめだ、技術研究もいっしょにしなくちゃだめだという意見を出したけれどもそれは陸海軍とも承知しない。軍需省の役人は文官なので、そんなところにまかせられるか。研究は陸海軍でやって、陸海軍の注文を軍需省のなかにつくった航空兵器総局で受けてやるのだということですね。
 ところがいよいよ人事の問題になったら、まるでオリンピックに選手を出すようなもので、陸海軍各々最精鋭を出して、一本になった航空兵器総局内においても陸海軍がそれぞれ他方を牛耳ってやろうというわけです。ほんとうに第一人者がそろったわけなのだけれども、長官は一人だから、この長官を陸海軍どちらから出すかが大問題でした。陸軍はもちろん海軍を牛耳るに足る最も有力な大将を擬している。ところが海軍は、嶋田(繁太郎)海軍大臣を先頭に立てて、東条さん(英機。当時首相兼陸相、軍需相)に大西滝治郎中将が直談判ですわ。「遠藤を長官にせんことにはいっしょになるのはごめんだ」と。大西さんは私より年も上だし、少尉任官が私より一年先なのです。しかし中将になるのは私のほうがちょっと先なのです。だから向こうはそれを知っているものだから、私を長官に、大西さんが総務局長、女房役ですね。しかし陸軍部内の空気からいうても私なんか行く柄じゃないし、私自身行ったって何も仕事できんし、また徳義上も私の先輩である大西さんを部下にすることは忍びないからだめだといったのですが、大西さん何といってもきかない。それで陸軍部内の反対があったにもかかわらず私行ったのです。大西さんはほんとうに縁の下の力持ちでよくやってくれましたよ。
 私は陸海軍のけんかをやめさすことを主目的として行ったのですが生産実嫌は上がりました、軍需省ができましてから。けれども、なにせ資材、特にアルミが足りません。制度上はかなり行くようにできているにもかかわらず、陸海軍の実力がものをいいましてね。軍需省に総動員局(前身は企面院)というのができて、椎名君(悦三郎。現代議士、外相)が局長になって、そこで物資を分配するのです。航空第一主義というのは国策できまっているから、航空兵器総局に物資をたくさん分けてくれなければいけないわけです。ところが陸海軍に要求されるとみんなやってしまう。だから民需はちょびっとで、航空兵器総局はゼロです。航空兵器総局は陸海軍からもらってくれといって、私にそのむずかしい仕事をやらすんです。椎名君はいまでもずるいけれども、その当時もずるかったね。私が陸海軍に交渉して航空兵器をこしらえる資材をもらってくるのだけれども、一ぺん陸海軍に行ってしまうと、おれのところからやった資材ではおれのところの飛行機をつくらなければいかんぞというのです。工場まで行って監視しやがるものだから、うまくいかんのですよ。それにだんだん物資が不足してくると、それが惨めに生産成績に現われてくるんですな。そのうちに、こんどは爆撃が始まった。工場を疎開せにゃならんというわけで、生産はガタガタと落ちちゃった。しかしその落ち方も油の落ち方から見ればもったいないほどたくさんつくりすぎているのです。つくったって百姓家の庭先や林のなかに隠しておくだけで飛ばすことができないのです。当時、飛べない飛行機をつくるというのでさんざん悪口もいわれたが、そうじゃない、油がないから飛べやせんのです。それで油の状態を見て「それにマッチするように飛行機を生産せい」ということをいうたら、海軍は「もっともだ」というのだけれども、陸軍のほうは「貴様は油のことなんか口出しする必要はない」という。松の根から油を絞っていながらそういうことを言っている。あのいくさの指導は メチャクチャですよ。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・8・27

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