礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

金融資本への排撃がユダヤ人への排撃となった

2018-06-30 01:09:06 | コラムと名言

◎金融資本への排撃がユダヤ人への排撃となった

 峯村光郎著『近代法思想史』(世界書院、一九四七)から、「民族と法律」の第四節を紹介しいる。本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 かくて「われわれは唯物的世界秩序に奉仕するローマ法に代えてドイツ一般法を制定せんことを期す」(国民社会主義ドイツ労働党綱領一九条)となし、その目的達成のためには、法の淵源である民族精神または民族性の純化を必要となすのである。従つて民族の特性から生ずる慣習法は成文法に対して当然に優位性が認められる。そして民族性純化の手段として、ドイツ人の血統をもたないもの、ユダヤ人には公民権は認められないのみならず(同四条)、公民でないものゝ国外追放をすら公然と主張する(同七条)。更に「ドイツ民族保護の為めの法律」によれば、叛逆罪の概念は拡張されて、国防に対する叛逆罪、国民に対する叛逆罪、経済に対する叛逆罪、文化に対する叛逆罪、種族に対する叛逆罪などの新たな犯罪が創り出された。そしてその目的とするところは「健全な中産階級の創設と維持」にある(同一六条、フェダー綱領一三条)。中産階級の維持、金融資本に対する排撃(フェダー綱領Ⅲ)の結果として、ドイツ金融資本家の大部分であるユダヤ人の排撃となる。従来、反ユダヤ主義は帝国主義の最も尖鋭化した国際的特殊現象であつた。反ユダヤ主義の起源はユダヤ国家の崩壊によつて、ユダヤ人商業資本が全欧に散在して商業活動をつづけ重要な商業地を占拠した。その後に各国に発展した土着の商業資本は、既に資本と商業上の経験とを兼備するユダヤ人に漸次拮抗して来た。そこで、諸国は反ユダヤ人的弾圧制度を国家機関をして設けさせた。中世支配階級の思想機関であつた教会はこの民族的利益を擁護しようとして、ユダヤ人に関する宗教上の諸々の伝説を考案したものともいわれる。今日この反ユダヤ主義の武器を取上げて、階級闘争の舞台においてこれを民族的に利用しようとしたのがナチスの政策である。ナチスの法律政策或わ綱領を一読するならば、綱領、政策それ自体および相互のうちに矛盾、撞着、混乱瞹眛が多々あるのみならず、その理論と実践とが対立して一貫した理論的統一を欠き、少からず煽動的価値しかもつていないことが認められる。
 その法理論の基本的要請であるローマ法に代るゲルマン法の要求にせよ、第十六世紀におけるローマ法のドイツ国への継受の社会的・経済的要因が何であったか、ローマ法的要素は今日国際的支配形態たり得ないか、ゲルマン法が世界経済時代の今日のドイツにおける秩序の規制として適合するかどうか、というような根本問題の究明を一切無視した理想主義的要求である。だが、われわれが問題とすべきことはゲルマン法並に〈ナラビニ〉ローマ法そのものではなく、原始的農業生産の上に立つ封建制から商品生産を基礎とする資本制へのドイツ社会の移行が何故にゲルマン法に代えて、ローマ法を要求し、これを継受することになつたかという根本問題である。
 ニコライを先頭とする民族主義的法理論における種族と民族との両概念の無差別的混淆に関する批判は姑く〈シバラク〉措くとしても、その主張は既に述べたように、民族精神の高調および制定法に対する慣習法の優位性を認めることなどによつて、歴史法学派の初期の主張との間に一脈相通ずるところがある。歴史法学派が民族国家的国家主義の表現として、フランス革命を契機とする急進的新興資本家階級の法律思想に対する封建的地主階級の法律意識の表現として、反動的・保守的役割を演じたのに較べて、ナチスのいわゆる民族的法理論はドイツ資本主義組織内において、崩壊没落に瀕した小市民中産階級層の要望を反映したものであつて、法ないし法学の領域において、資本主義的要素を死守しようとする帝国主義を、あらゆる手段によつて強行的にさえ理論づけようとする役割をもつて登場して来たものに外ならない。      (一九三四・五・五)

 ここに、「フェダー綱領」とあるのは、フェダーの綱領という意味か。ゴッドフリート・フェーダー(Gottfried Feder)は、国民社会主義ドイツ労働者党(峯村のいう「国民社会主義ドイツ労働党」)の初期の幹部のひとり。同党の二十五か条綱領(一九二〇)は、アントン・ドレクスラー(Anton Drexler)とアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)によって起草されたが、それとは別に(たぶん、それに先行する形で)、フェーダーによって起草された「綱領」があったのであろう。

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ヘルムート・ニコライの民族法理論

2018-06-29 04:00:54 | コラムと名言

◎ヘルムート・ニコライの民族法理論

 峯村光郎著『近代法思想史』(世界書院、一九四七)から、「民族と法律」の第四節を紹介しいる。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 以上において、われわれはいわゆる民族主義の階級的基礎が中産階級にあることをみた。そのイデオロギーもまた矛盾に満ちた中産階級のそれであることが理解されるであろう。民族主義の高調する国粋主義的国家主義的イデオロギイーは、客観的には全く帝国主義的である。それゆえそのイデオロギーには次のようなー般的命題が内含されていることが観取できる。即ち第一は国家は全社会生活の決定的要素となるべきものであるというのである。第二は、市民は国家に対して何らの権利も享有しない。あらゆる権利の起源は国家であつて個人の権利意識ではないというのである。第三は国家は階級を超越した一〈ヒトツ〉の有機体である。従つて階級の存在する限り国家による統制支配を受けるというのである。第四は階級闘争は国家の指導の下に解決さるべきであるということである。
 以上の一般的命題を一瞥するだけでも、その矛盾撞着は理解に難く〈カタク〉ないが、それらはいずれも民族主義運動の内在的矛盾の表現に外ならない。そのいわゆる国家の無条件的優越性の主張といゝ、あらゆる自由の廃棄といゝ、いずれもファツシズムの要求に全面的に合致するところのものである。かくて民族主義の主張は、イデオロギーの領域においても何ら新鮮なもの、独創的なもの、完成されたものなどをもつことなく、反動的性質が色濃く一貫していることが観取される。
 右にみたような性格をもつ帝国主義的民族主義を法ないし法学の領域において代表するいわゆる民族法理論について、ナチスの御用法学者ヘルムート・ニコライ(Helmut Nicolai)の主張を通じて次に検討しよう。
 ナチスの法理論の基調をなすものは、法は各種族の秩序維持を目的として発生するものであるから民族の異なるに従つて当然に相違する。それゆえ、ドイツ民族にはドイツ的内容をもつドイツ固有の法があり、これこそがドイツ民族の必要とするところのものであるというのである。かゝる基礎理論から出発してニコライは次のように論じている。
 純粋な民族においては、その民族慣習がそのまゝ法となるものであるから、民族精神の核心としての法は道徳と合致すべきものである。然るに民族がその純粹性を喪失するときには、団体と個人との精神的紐帯〈チュウタイ〉である民族精神は弛緩〈シカン〉し、法と道徳との内的関連は稀薄となり、国家と個人との結合は国家の強制力によつてのみ可能的に保持される。これをドイツ民族についてみるに、ドイツ民族がその種族的純粋性を失わなかつた時代のゲルマン法においては、法は一の道徳的な力であつて、国家の権力をすら支配したものであつたが、種族的混合民族であるローマ人の法即ちローマ法においては、法と道徳は乖離〈カイリ〉し、団体思想は欠乏し、国家権力の命令が法であった。然るにに現代のドイツ法は全くローマ法的であつて、ゲルマン法の根本思想である団体主義的なもの、父権的なもの、民族的なものなどはすべて失われている。そこで、ゲルマン民族だけが知るゲルマン固有の法を再生させるためには、先づローマ法的なものを排斥しなければならないと結論するのである。【以下、次回】

 ヘルムート・ニコライについては、よく知らない。インターネットで「Helmut Nicolai」を検索しても、たいした情報は得られない。かろうじてわかるのは、イギリスのマーティン・ハウスデン(Martyn Housden)博士が、一九九二年に、『ヘルムート・ニコライとナチ・イデオロギー』(Helmut Nicolai and Nazi Ideology)という本を出していることぐらいである。

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ナチス民族主義の理論に体系なし(峯村光郎)

2018-06-28 01:57:31 | コラムと名言

◎ナチス民族主義の理論に体系なし(峯村光郎)

 先日、某古書店の「百円均一」の棚から、峯村光郎著『近代法思想史』(世界書院、一九四七)を拾い上げた。終戦直後に出た論文集だが、収録されている論文は、すべて戦前に発表されたものである。
 峯村光郎〈ミネムラ・テルオ〉は法哲学者で、慶応大学教授、慶応大学法学部長などを務めた(一九〇六~一九七八)。多くの著書を持つ。書名は忘れたが、私も以前、労働法関係の著書を手にした記憶がある。
 さて、『近代法思想史』に収録されている論文のうち、興味を惹かれたのは、「民族と法律」(一九三四)、「ナチス・ドイツの法律観」(一九三六)、「福沢諭吉の法律思想」(一九四〇)の三本であった。本日は、このうち、「民族と法律」の第四節を紹介してみたい。

       
 法ないし法学の領域において、前述の帝国主義的民族主義を主張するものにヒットラー(Hitler)に率いられるナチスの法理論がある。ナチスの運動即ち「国民社主義ドイツ労働党」は一九一九年にはじめられ、翌一九二〇年にその綱領二十五条が採択されて、はじめて政党として一小形態をとつた。爾後、十年余で政権を掌握して全世界を驚かした。ヒットラーの天性および環境が或わ彼をして民族革命家となすに十分であつたにせよ、ナチス運動は決して彼一人の個性によつて創り出されたのではなく、またそのような隆盛が結果したのでもない。ナチス運勧はヒットラーによつて勃興したというよりは、むしろ時代を得てはじめて勃興したというべきであらう。一九二四年から始つたドイツ産業の急激な合理化の傾向に次ぐ一九三〇年四月におけるブリユーニング内閣の極度の財政緊縮によつて中産階級は極度に窮迫した。資本投下の方法および団結的闘争の武器のいづれをももたないとり残された中小資本家および農民は、この経済的重圧と闘うべき何等の手段をももつていなかつた。かゝる立場にあつた者にとつて、国民社会主義運動が最適の地盤を見出したのである。
 次に、われわれはナチスの法理論の検討に先立つて、ナチスの社会的・思想的背景を一瞥しておかう。
 ナチスの社会的基盤をなすものは、資本主義の危機によって没落に瀕した中産階級並に大戦によつて階級性を喪失したものおよび部分的には革命的期待に幻滅を感じ、憤懣の状態にある無産者などである。第一には都市における中小商工業者である。資本主義社会における競争は資本の集積と集中の過程を促進し、独占的大資本の制覇を現出する。それゆえ中小企業者は到底その競争に耐えることはできない。旧式な技術と小資本とは巨大な規模をもつ優秀な技術と大資本との敵ではない。かくしてその経営は悪化し、負債は増加せざるをえなくなる。戦後〔第一次大戦後〕における資本の集中は急激に中小企業の圧迫、隷属、没落という犠牲の上に発展したのみならず、その後の恐慌は、その窮迫を一層甚だしくした。この経済的重圧下にあつて、一方において大資本によつてうちくだかれ、他方においてはプロレタリアートの攻勢の脅威によつて、都市中小企業者は絶望的な前途と社会そのものゝ危機を前にして、極度な不安の中に動揺した。第二には農村における中小地主および自作農民である。狭小〈キョウショウ〉な私有地に割拠する中小地主およびその全家族の労働力を以てしてもなお引合わない自作は、都市における大資本家の敵でないことはいうまでもない。これらのものもまた中小企業者と同様に資本主義の発展と共に独占的大資本の圧力におしひしがれて、窮乏に瀕した社会層の一要素を形成した。第三にはインテリゲンツイヤの群〈ムレ〉である。資本主義の発展はインテリゲンツイヤの大量生産を伴い、そのため彼等の特権であつた「学問」は脅され、彼等の社会的地位は低下し、彼等の登竜〈トウリュウ〉の門は閉された。かくて彼等の生活は貧困化し動揺せしめられるに至つた。自己の顛落から生ずる大資本に対する彼等の反感はやがて絶望感とならずにはいなかつた。
 要するに、ナチス民族主義の社会的基礎は資本主義の発展に伴つて没落し、動揺し、窮乏化し、不安な状態に低迷する中小企業家、中小地主および自作農民、インテリゲンツイヤなどである。従つて幾多の利害感情を包含するから、その間に何らの統一なく互に矛盾し対立してさえいる有様である。この点にナチス民族主義の理論に体系なく、その政策に矛盾撞着が存在する理由がある。
 現代社会において何らの積極性および創造性のない消極的な社会階級を礎礎とする点ににおいて、民族主義社会の非常時的特殊政治形態としてのフアッシズムと提携して、資本主義の危機に当る可能性が存在する。【以下、次回】

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弁天島の岩波茂雄、母の訪問に驚く

2018-06-27 03:09:42 | コラムと名言

◎弁天島の岩波茂雄、母の訪問に驚く

 昨日の続きである。昨日は、山崎安雄著『岩波茂雄』(時事通信社、一九六一)の第二章「東都への遊学」から、「涙の野尻湖」の前半部分を紹介した。本日は、その後半部分を紹介する。

 ある風雨のはげしい夜、かれが神殿の板の間に身を横たえて大自然の怒りを聞いていると、人声がする。たれも訪ねて来るはずもないこの島に、しかもよりによってこのはげしい嵐の夜、たれが来たのであろう。不審に思いつつ身を起こすと、数間先きの雨戸が開かれ、ボーッと明るくなった隙間から黒い人影がはいって来た。驚いて起ちあがるかれに、「茂雄かえ?」の聞きなれた言葉、近づいて見れば母ではないか。頭から髪も着物もびしょぬれである。ああもったない! 胸を衝かれる感激に言葉もなく、しばし手をとりあうばかり。あふれるものは母も子もただ涙であった。……
 聞けば母は心配のあまり、まっしぐらにここまで駆けつけ、風雨のはげしいため舟は出ないというのを、無理に船頭をたのんできたとのこと。母にはこの島に来る一カ月前から音信を断ち、居所も知らさなかったが、伊藤長七と文通したことから、伊藤の切なる勧告によって母に音信をしたのだった。
 その夜――それはこの島に来て十日目の七月二十三日のことだが――母は懇々とその不心得をさとした。お前を東京へ遊学させるために母はいかに窮乏に堪え、親戚や近隣の嘲笑を浴びてきたか。いまお前が学業を放棄し、あまつさえ親に先きだつようなことをしてくれたら、母はどうしておめおめと生きていかれよう。母の願いはただ一つ、お前が立派な人間になってくれること、それだけである。地下のお父さんもさだめしそれを願っていよう。……
 涙ながらの母の訓戒に、岩波〔茂雄〕は頭を垂れたまま泣くばかりであった。そして嵐の一夜を母と子は語り明かしたのである。
 翌日、岩波は母を柏原駅に送って行った。そのまなざしにはほっと安堵の思いがこめられていたが、びんのほつれ毛にも母老い給うの感慨をかれは抱かないわけにはいかなかった。岩波が島で書いた「惝怳録〈ショウキョウロク〉」(はからずも昭和三十一年〔一九五六〕末、蔵の中で発見された)によると、
《……此夜床につき、彼を思ひ是を思ひ、母の恩愛の厚きに係らず、我の罪深かりしを追想して、情緒紛糾悔念転切に眠〈ネムリ〉につく能はず、感情高潮になれる時一決心をなせり。曰く、「吾人の理性が如何に生存の無意義を示すとも、吾人の感情が如何に死の安慰を訴ふるとも、吾人は我が唯一の母の天地間に存命せられる限り、断じて断じて自ら我が生を絶たざる可し」たとへ万有の不可解を知ることあるも、藤村〔操〕君を学んで花の如き最後に安慰を得る能はず、又人生の憂苦を免るゝ道に失敗することあるも、かのウェルテルの跡を追ふ能はず、噫〈アア〉、一度一決心をして喜びし我は、直ちに大なる悲境に陥りぬ……あゝ涙多かりし一夜、母の愛を得たるの日。死の自由を失ひし日、人生の原野に何れに行く可きを知らざりし我〈ワレ〉が、僅に〈ワズカニ〉一活路を得たるの日。忘れがたきは明治三十六年〔一九〇三〕七月二十三日なり。》
 岩波が島を去ったのは八月二十日過ぎのことだから、母を送ってからなお一カ月ばかり滞在したことになる。
 島へ来た直接の動機について、安倍能成は、第一に学年試験を放棄したため、進級の望みを失い母に合わせる顔がなかったこと、第二に失恋からきた人生への絶望を挙げている。相手の女性は同郷詉訪の出身で東京に留学中、かれと知り合ったようだが、「惝怳録」に散見する、「余は一度愛するものをすつるに忍びず、彼は我を偽るも余は彼を偽るを得ざるなり、彼は余を怨むも余は彼を怨む能はざるなり。彼は余をさくるも余は追はざるを得ず、遂に彼の心を得る能はずとも罪を彼に帰する能はず、余は我を怨まんのみ、自ら泣かんのみ」とか、「彼女の霊と合体せん為には、水火も辞せず、生命も顧みず、只全力を尽して之を求めて止まざるなり。かく彼女を追求すると雖も、敢て彼女を神なりと見るにあらざるなり。彼女の欠点我之を認む。然れども霊妙なる力は如何に動く可しやを知らずと雖も、余の霊は彼女の得んとしてやまざるなり。かくして遂に彼女の心を得んか、余は彼女の肉体は直に〈タダチニ〉死すと雖も、余が心霊は飢えざるなり、之れ彼女の霊は彼女と共に死せざればなり。余はかくて一生独身なりと雖も、彼女の霊を慰藉者として、歓喜して清き真面目なる生涯を送るを得ん。之を余の恋愛となす」と書いているところから見て、要するにプラトニックラブの範疇を出でなかったようだ。
 前後四十日におよぶ愛着の島を去るときには、万感こもごも至って、かれは地に伏して号泣した、といっている。

 文中、「柏原駅」とあるのは、信越線の柏原駅、今日の「しなの鉄道北しなの線」の黒姫駅のことである。
 明日は、一度、話題を変える。

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岩波茂雄、野尻湖上の弁天島にこもる

2018-06-26 05:18:29 | コラムと名言

◎岩波茂雄、野尻湖上の弁天島にこもる

 昨日の続きである。昨日は、山崎安雄著『岩波茂雄』(時事通信社、一九六一)の第二章「東都への遊学」から、「藤村操の投瀑」という節を紹介した。本日は、それに続く「涙の野尻湖」の節を紹介する。ただし、本日は、その前半のみ。

  涙 の 野 尻 湖
 岩波〔茂雄〕のこもったのは弁天島という野尻湖上の一孤島で、横が一町〔約一〇九メートル〕、縦が二町ほどもあって、琵琶の形をしているところから琵琶島ともいわれていた。湖はあくまで清澄の水をたたえて美しく、見渡せば飯綱〈イイヅナ〉、黒姫、妙高の山々が湖のほとりから裾野をひいて聳え立っている。わけても妙高は最も高く、その雄姿はいうべき言葉を知らなかった。
 島は老杉をもって蔽われ、その奥深いところに作物の神を祀る神社があった。土地の先覚者(池田万作)の語るところによると、明治十四、五年〔一八八一、一八八二〕ごろこの神社はなかなか栄えたもので、野尻部落からこの島まで二間幅の橋が架り、人力車なども通って参詣人の絶え間がなかった。
 その橋も明治二十二年〔一八八九〕にこわれたまま修復するものもなく、さびれる一方になってしまった。
 もと天台の僧(雲井某)が住んでいたという拝殿の右側の荒れはてた板の間に、岩波は蓆〈ムシロ〉を敷いて仮りの宿りとした。ここから毎日、湖に下りて米をとぎ、自炊生活をしたのである。野菜などは、かれが「牧童【ヒルテンクナーベ】と呼んだ少年(石田才吉)が対岸の部落から運んでくれた。それ以外に村との連絡はまれに参詣人が舟を雇ってきた時だけである。
 社殿から舟のつく鳥居のところまで二町ほどある。一日の生活といえばこの短い道を二往復するだけ。終日、本を読むでもなく、何をするでもなく、鳥の声をきいたり(鶯や時鳥〈ホトトギス〉や郭公〈カッコウ〉などがよく鳴いた)、雲の峰を眺めたりしていた。特に印象に残っているのは月の夜、霧の中から横笛の音のもれてきたことで、あの時はまるで夢の国にでも遊んでいるような思いにかられた。また静かなもの音一つしない夜、鯉が突如として湖面をたたくのなども忘れられない、と岩波は回想している。
「黒姫は誰を待つらん薄化粧」とは土地の女学生がよんだ黒姫の初雪の姿であるが、紺碧〈コンペキ〉の空を流れる白雲の千変万化といい、山肌の色のきのうにかわる姿など、見ていれば飽きることがない。とはいえ「空洞の生活ではなく充実した生活であった」と岩波はいう。かれの筆によれば、
《……赤子が母の腕にねむるが如き、自然の懐に抱かれた安らけき生活であった。自然を友とするとか、自然に同化するとかいう言葉があるが、最も自然に接近し、天地の心にふれた生活であった。自然は何時でも何処でも限りなく慰みを与えてくれ、決して愛する者の心に背くことはない。古人は「天地の悠々を思い愴然として涙下る」といったが、私は左千夫の「寂しさの極みにたえて天地〈アメツチ〉に寄する命をつくづくと思う」の歌を口ずさんで涙ぐむ心を、うれしくも有難くも思う。(「思い出の野尻湖」)》
 そうはいうものの、この島に初めて来た当座は、さびしくて身のおき場もなかった。そして親しいたれかれの名を呼んだ。いくら呼んだとて、なんの反応もあればこそ、迫るは漆黒の闇ばかり。それはさながら死を暗示するもののごとくであった。さびしさを求めてこの島に来ながら、友の名を呼び、生を厭うて死場所をここに求めながら、死の恐怖に身がふるえた。なんという矛盾だ、なんという弱さだ。岩波は自分で自分がわからなかった。
 人恋しさに堪えられなくなると、岩波は、親しい友へ手紙を書いた。伊藤長七、上野直昭、樋口長衛、吉崎淳成、林久男、阿部次郎などである。かれらからも返事があった。その多くは東京にもどって学業をつづけるよう勧告する文面であった。そのうち、最も親しかった林久男ははるばる島までやって来た。突然の友の来訪に喜んだ岩波は、夜中、湖を泳いで対岸の部落にふとんを借りに行き、村人を驚かしたこともある。【以下、次回】

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