礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

土肥原賢二大将を弁護して(太田金次郎)

2021-08-31 00:23:37 | コラムと名言

◎土肥原賢二大将を弁護して(太田金次郎)

 太田金次郎著『法廷やぶにらみ』(野口書店、一九五九)という本がある。
 著者の太田金次郎(一八九七~一九六九)は、早稲田大学法学部出身で、ベルリン大学に留学したのち、弁護士となった。戦後の東京裁判で、陸軍大将・土肥原賢二(どいはら・けんじ、一八八三~一九四八)の弁護人を務めたことで知られる。
『法廷やぶにらみ』には、「東京裁判について」という章があり、土肥原賢二という人物についても、若干の情報を提供している。この章を、前後二回に分けて紹介してみよう。

東京裁判について

土肥原大将の弁護して  第二次大戦はまさに人類の悲劇であった。わたくしは荒漠たる焼土にたたずんで、ただ戦争の罪悪に悲憤した。
 ところで、わたくしが東京裁判の弁護人になったイキサツについては、不思議な因縁がある。それは遠く大正十二年〔一九二三〕、わたくしがドイツに留学したときに始まっている。
 当時、この裁判に関係のふかい坂西〈バンザイ〉〔一良〕中将が、ドイツ駐在武官補佐官をしており、また石原莞爾中将や被告の武藤章中将なども陸軍省から留学生としてドイツにあり、まだ大尉であったが、青年将校として羽ぶりをきかせていた。
 一同はわたくしと逢うたびに世界を談じ、日本の将来を論じて意気けんこうたるものがあったが、はからずも彼らの論じた日本の夢が、満洲事変、支那事変、太平洋戦争とつぎつぎと実を結び、そして破れて被告席に坐ることになった。そしてわたくしが弁護人として再びあいまみえるとは何たるめぐりあわせであろうと思った。
 元来わたくしがドイツに渡ったのも、帰朝とともに政界に打って出ようというひそかな野望をいだいていたからであった。しかし、
「政治家なんかつまらんぞ。日本の将来は政治家ではおさまらん」
 などと彼らによってクソミソにこきおろされたのである。その急先鋒は石原大尉だった。おかげでわたくしは弁護士に切りかえてしまったのだが、坂西大尉の厳父の坂西利八郎〈リハチロウ〉中将は、わたくしの担当している土肥原〔賢二〕大将の北支時代における上官だったと知って、わたくしは因縁のつながりは不思議なものだと思った。
 さて、土肥原陸軍大将の弁護人に選任されたのは、大先輩の塚崎直義〈ツカサキ・ナオヨシ〉先生の推せんと、背後にあって力強くわたくしを支持し激励してくださった法学博士乾政彦〈イヌイ・マサヒコ〉先生のご後援の賜物である。
 さて、いよいよお引きうけはしたものの、世界歴史始まって以来の裁判である。当時社会党関係の弁護士は「東京裁判の弁護人はご免」との声明を出し、国民の多くもまた、戦犯に対して憎悪の目を向けているという時なので、わたくしはつくづく考えた。
 それまでわたくしは二十年来、犯罪者の弁護に身を捧げてきたのだが、正は正とし、邪を邪とし、裁判所をして正義の殿堂たらしめ被告の寃を救い、屈を伸ばさんとする信条に生きてきたのである。
 いま国を誤り、世界の平和を攪乱〈コウラン〉したるものとして訴追されている東条〔英機〕大将はじめ、A級の被告の行為は、いろいろ非難されるであろうが、しかし彼等にも正しい主張があるに違いない。かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれずして立った被告もあり、その衷情は買ってやらねばならぬ。
 いかに戦勝国が戦敗国の指導者を裁く軍事裁判でも道埋に二つはないはずである。正はあくまでも正であらねばならぬ、邪はあくまでも邪である。勝てば官軍では、正義は根底から破壊され、裁判所は正義の殿堂でなくなる。
 殊に起訴状をみれば、昭和三年〔一九二八〕以来、日本は侵略戦争に終始してきたかのようになっているが、果してその真相はどうであろうか。事件の核心をついて其根底をきわむれば、連合国の判官諸公も、なるほどと肯いてくれるに違いない、日本国民もまた納得がゆくであろう。事は極めて重大であるが、本件の弁護こそ、日本人弁護士の使命なりという考えのもとに、わたくしは弁論をすすめていったのである。
 東京裁判の結果は、諸君のよく知るところである。そこで、わたくしは幾つかのエピソードを伝えるだけにとどめる。【以下、次回】

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この案のとおり実行しなければならぬ(サザランド参謀長)

2021-08-30 01:48:39 | コラムと名言

◎この案のとおり実行しなければならぬ(サザランド参謀長)

 河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)から、第五章「大東亜戦争」の第六節「マニラへの使節」を紹介している。本日は、その七回目(最後)。

 やがてグループ毎の検討は終わり、一同もとの席に着いた。サザランドは一時その席をはずして室外に出ていたこともあったが、私には、私の説明にたいする彼側の態度、その後の感知した空気などから、相当大幅の修正を見るのじゃないかと思われたが、会議再開となって、改めて彼側の示したものによれば、私らの東京に帰った後五日間の余裕を与うるいわば妥協案であった。すなわち先発隊の厚木到着が〔八月〕二十六日、マ元帥の日本到着二十八日、調印三十一日というのである。
 そこで私は、再び、更に延期するの必要を説いた。要旨は、
《くり返して申した如く、私の気持ちは無意味に延期を主張するのでは断じてなく、また勝利者たる貴方〈キホウ〉が一日も早く進駐したいと希望をもつ気持ちはよく了解できる。要は、この際数日間の準備期間をおしんで、日本側が誠意をもってしても、なおかつ事故が起こる心配のある状態を避けようというにある。私は調印月日を著しく延ばすことを必要と認めない。第一次進駐部隊を受け入れるまでに約十日間を与えようというにある。もし、貴方が、勝利者の権威をもって、われわれを強いらるれば、われわれはこれに服するのほかはない。しかし、私の良心をもって〝引き受けた〟と回答することはできぬ。もし、貴方がどうしてもこれでやるというならば、私はここにハッキリと申しておくことは、「不安がありますよ」ということです。》
と述べたところ、サザランドは、更に陸海軍のわが代表たちのいうところも聞いて、地図をとり出して距離などを測ったりして、遂に、最後的に、
《この案のとおりでやらねばならぬ。私は日本側の誠意を諒とし、そのいうところの理由をも了解するが、われわれはこれでやらねばならぬ。》
と突っ放すような言葉つきでいった。
 そこで私は、いささか声の調子をおとし、
《私は日本将校として、かけひきのようなことをいいたくないが、少しでもよりよき状態を望むが故に今一度いう。この際は一、二日でも大きな意義があるから、もう一、二日だけでも、更に延期する寛大性を貴方は持たぬか。》
といったところ、彼は、
《われわれはこの案のとおり実行しなければならぬ。日本政府および日本軍の努力を望む。》
と答えた。私は、サザランドの言動に対し、少しの不快を感ぜず、たしかに「よい軍人だ」との印象も手伝って、ここで折れた。そして〝努力はする〟と返答した。彼は、満足げな表情をし、明日午前九時三十分から、この場所で第三回の会同をなすこと、また、その際は、政府側の代表も列席するようにとの指示をして去った。
 一同は席を立ったが、米側の諸氏が罐詰のビールを開いて、わが方に饗した。むし暑いこの地の夜半、そのビールの味はすてきであった。勿論賑やかな雑談をしたわけでもなかったが、彼側の態度はいかにも友誼的で、すぐそのあとに仕事が待っているかの如き挙措、そのあり様はわれわれ一行にも、今まで食うか食われるかで争っていた仇敵だなどという感じを起こさすものがなく、国際共通の軍職心理、殊に幕僚業務の共通性、私にはその辺の空気になんともいえぬなごやかさを覚えた。
 宿舎に帰り着いた時はもう夜中一時頃であったろう。宿舎に私宛にウィロビー氏の名刺を付けた紙包が届けられてあった。それは煙草とウィスキーであった。
 今朝四時過ぎ東京の宿舎を出たまま、いままでとかく神経を張り詰めていたのであったが、宿舎に帰っても、疲れたナとも思わず、私は寝床に入ってもすぐは眠られなかった。その眠られぬ原因の最大のものは、戸外の雑音と、人の声であった。マニラの八月の夜、窓戸を開け放さなければむし暑くてたまらず、このように騒々しいのは、おそらく夜間街頭の活動が活発なのであろう。
 私はあけ方近くなって数時間熟睡した。しかし、勉強家の随員諸氏は、徹宵していろいろと検討したらしく、未明に私を起こして意見を持って来てくれた。私は敬意と謝意とを表しないわけにいかなかった。
 翌八月二十日、月曜日である。明け方マニラの空は密雲で雨模様であったが、朝から強い大粒の雨となった。
 昨夜の随員間の研究で、米側に対する将来についての質疑事項を整理し、今日直ちに回答を得なくても、その書類だけでも残してゆこうということになったが、その後更に検討の結果、かえって後害をまねくおそれもありと思われ、こうした質疑をしないということにきめた。
 敵側の進駐期がわれわれの求むるよりも五日も早くなったので――彼ら当初の案をいくらか譲ったとはいえ――取り敢ず一機分の人員を東京に帰し、準備を幾時間なりと早く着手するに便しようと、その一機の差し出し方を申し入れたが、米側は承知しなかった(昨夜敵側の意図の要旨を東京宛電報することを許すよう求めたが、これも許さなかった)。
 午前九時半から開始予定の本日の会同を一時間延刻、十時半からとする旨通知して来た。その理由として、昨夜の書類に多少変更するところもあるから‥‥ということであったから、私はあの彼側の進駐ブログラムを若干でも変更したかも知れないなどと、期待をかけていたが、そのうちに送り届けられた書類を見ると、その変更がなされてなかった。しかも予め、十時三十分からの会同では、書類に掲げられている文意についての質問はさしつかえないが、内容の改変に関する意見はきかぬと言明して来た――昨夜はあまり寛大に過ぎたと後悔したのかも知れない。
 宿舎から、迎えられて、十時三十分、昨夜の室に入った。今日は岡崎〔勝男〕外務省局長も列席した。
 サザランド参謀長は、書類の要点を朗読した。私は、〝降伏実施に関する連合国最高司令官として、中国軍またはソ連軍と日本軍との間における何事かのトラブルが起きるような場合に必要な指示をされるか?〟との質問を発したところ、〝それに関してわが方にはなんらの権限がない〟との答であった。
 われわれは更に若干文書上の疑いをただしたが、内容の改変を促す発言は、今の場合無意味のトラブルの発生を避けるために行なわなかった。
 最後に、東京に伝達すべき三種の文書を改めて手交され、十二時近く、全会譲の終わりを宣せられたから、私は、立って、われわれがマニラ滞在間に与えられた先方の好意に感謝の意を述べたところ、サザランド氏もまた、わが方の協力に対して謝意を表し、一同解散をした。

『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』の第五章第六節「マニラへの使節」は、このあと、「帰路、夜半海浜に不時着」、「復命」の項に続くが、この両項は、すでに、当ブログで紹介済である。

*このブログの人気記事 2021・8・30(9位に極めて珍しいものが入っています)

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三グループにわかれた検討は一時間余に及んだ

2021-08-29 00:18:13 | コラムと名言

◎三グループにわかれた検討は一時間余に及んだ

 河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)から、第五章「大東亜戦争」の第六節「マニラへの使節」を紹介している。本日は、その六回目。

 大竹〔貞雄〕少尉が入って来て、〝只今先方の連絡員が来て、日本側一行中の軍人たちの武装を会議の席においてはずしてもらいたい。これは決して日本軍軍人の威厳をそこなおうという気持ちではなく、米国側は全部非武裝のスタイルで出るのだから‥‥〟と丁重な態度で申し込んで来たと伝えた。この件については、伊江島からマニラへの飛行機内、着陸近くなってから、岡崎〔勝男〕氏からも好意的に、〝武装について先方から何か注文をつけるかも知れませんから‥‥〟と私に注意してくれたことであった。私は大竹少尉に、〝つぎのように返事をしなさい。われわれ日本将校の佩刀〈ハイトウ〉は服制としてきめられ、いかなる場合でもみだりにはずすことは許されぬ。これをもって、いわゆる武装とか武器携帯というふうにこの場合に解釈されぬよう望む。だから本日の場合においても、ホテルと会場との往復には私等はこれを佩びる〈オビル〉ことをやめるワケにはゆかぬ。ただ会議の席には、日本でも佩刀をとるのが例であり、貴方〈キホウ〉の希望もあることだから、はずして出ます。会議室の前室等適宜の個所に帽子や手套〈シュトウ〉とともにおくことを許されたい。われわれは拳銃を携行しているが、これは会議への往復途上にも帯びることをしない〟といった。先方は満足して帰ったとの報告を受けたので、特に軍人一同を私の室に集めて、会議出場の際の服装について申し伝えた。
 午後八時三十分から開かれる会同のための書類が宿舎に届けられた。日本語の翻訳文も付けられてある。これに一応目をとおして見ると、正式降伏調印は、八月二十八日東京湾内米国軍艦の艦上で行なわれると指定され、それがために、同月二十六日マッカーサーは、空輸部隊を伴って厚木飛行場に到着、その先発の一部は二十三日に到着するとプログラムがきめられている。そしてわれわれ使節が受理して帰るべき書類は、㈠降伏文書、㈡降伏に関する天皇の布告文――すなわち詔書、㈢降伏実施に関する陸海軍総命令第一号、この三種類のものであることがわかった。
 私の懸念していた問題、すなわち陛下親ら〈ミズカラ〉降伏調印のため臨席なさるよう要求されることがあるまいかの問題は、この渡された書類によって、そうではないことが明らかになった。というのは、降伏調印は、政府および大本営それぞれの各代表者によってなさるべきものと、示されてあるからであった。
 そこでこの地での私自身の努力は、敵側の進駐プログラムを可及的に延期せしめるということになった。私はあらためて一行と会同して、一応協議の結果、われわれ一行が東京に帰った後十日の余裕を与えられなければ、とうてい混乱のない整斉たる米軍の進駐ができ得ないということを、陸海空情報提示の際に彼側に了解させるように申し合わせた。
 夕食をすまし、マッカーサー司令部――マニラ市庁――に出頭した。
 先方から差し向けられた車によって案内された。案内にあたった人は、飛行場に来ていた代将――情報部長ウィロビー氏であることがわかった――その人で、今日の会同には軍人だけと指示して来たので、政府代表岡崎氏は出席せず、ウィロビー代将、横山〔一郎〕海軍少将と私の三人が先頭に同車して行った。
 司令部に着くと、写真撮影の集中射を受ける。覚悟の上ながらうるさい限り。フラッシュの閃光でまばゆくてたまらぬ。ウィロビー代将は、〝写真撮影だけは禁止するわけにはいかなかった。なにしろ世界的の事柄だから‥‥〟と私に気の毒そうに陳弁していた。
 階上に登り、一事務室で一同は佩刀をはずし帽子手套とともに机の上におき、案内を受けて参謀長の室に入った。
 私は持って行った親任状を〔サザランド〕参謀長に提示手交し、一行に各自自分の名前を述べるように命じた。この間参謀長は立っていたが、その態度は別段に威厳をつくろうこともなく、なんらの不愉快感を与えず、われわれは直ちに導かれて、三階の一室に入った。
 相当に広い一室であったが、その一側〈イッソク〉に机が一線にならべられ、既に先方側は七人着席していた。われわれはそれぞれ名札で示してある席に着いた。私はSutherlandと書かれた名札を前にして座っている参謀長の向かいに対座した。通訳に任ずる大竹少尉と溝田〔主一〕海軍省嘱託は、私の左右後に坐った。
 われわれ一同の着席終わるとともに、サザランド参謀長は、開会を宣した後、〝只今から第一次進駐に必要な情報の提供を求める。まず空軍関係から〟と指示した。
 私の右測に着席していた横山海軍少将が、私に耳語〈ジゴ〉して、〝冒頭に一応先方のプログラムに無理があることを述べたらどうですか〟との意見を述べたが、私は、〝待って下さい。一応状況を見て時機をつかまえましょう〟と、横山氏の意見をしりぞけた。
 米側では第一次進駐を予定している厚木飛行場の状況についてたずね出した。彼側はいままでこの飛行場について集め得た諸情報、その中には彼側が撮影した空中写真もあったが、それらの諸情報をもとにして寺井〔義守〕海軍中佐に対し、いろいろ技術的かつ具体的の諸問題をたずねたが、彼らの予測し期待してるところと実情が非常に違っていることが判明し、質問者もいささか当惑の体である。
 この状況を見た私は、参謀長に対して発言を求め、彼が応諾するとともに口をきり、およそつぎの意味を述べた。大竹少尉はいわゆる二世の出身者であるだけに、見事な通訳ぶりを示した。私のいったことは、
《あらかじめ申しておくが、私がここに口を挿んで述べることは、故意に米軍の進駐時期を遅れさせようとか、あるいはそれを妨げようとかの意から来るのでは毛頭ない。私の誠意の表現であると了解願いたい。
 只今空軍関係の情報提供の実況を見てよくわかるように、一体に米軍側においては、日本国内部現在の実情についての見方がはなはだ誤っているようである。その認識がちがっているから、進駐のプログラムも殆んど不可能に近い無理が含まれているように私は思う。》
ここまで大竹氏が通訳すると、サザランドは、〝実情とは何か〟と問う。私は
《たとえば、いま第一次進駐を貴方〈キホウ〉が企図している関東地方について見るも、ここには現在米軍の上陸作戦を考慮して多数の軍隊が充満している。この地方に米軍を進駐せしめるためには、某地域にわたり日本軍隊の全部を他に移さなければならぬ。この事は目下の運輸交通の力からして、短い期間の間にはこれをなし得ることではない。しかも一面、わが国は建国以来はじめての一大悲劇にあい、民心の昂奮状態は、貴方でも想像ができることと思う。そこでこの民心の平静を保ち、貴方軍隊との間に、なんらの不祥事件をも発生する心配をなくするには、軍隊撤去の後に必要な警察力を配置しなければならぬ。そして空襲による戦禍のため、地方の疲弊がはなはだしく、食糧と住居の確保がはなはだ困難な状態にあり、煩雑な民政処理がいる。これらのことで、いわゆる実情が大体想像し得られるであろう。私はこの場合に臨んで、決して貴方軍隊の進駐をことさらに遅延させようとか、または、これを阻害しようとかという気持ちは断じて持っておらぬ。誠意をもって、なんとか両国の間に思わぬ不祥事件の起こらぬようにと念願するが故にこの事情を述べる次第で、更に陸海空の各部門について、これからあと、それぞれ分担に従って説明を聴きとつてもらいたいが、要は、よく日本内地の現状に応ずるよう、検討を加え貴方軍隊の進駐に対するわが方の受け入れ態勢を整えるに十分の時間的余裕を与えるよう再考せらるべきものと信ずる。実にこの際両国間の問題が、事故なく円滑に進むかどうかは、将来のいっさいに関し大なる関係があると私は信ずるが故に、貴方においてもとくと考慮されたい。この際数日をおしんで、無理をすることは、遠く将来に必ず大きい禍根をのこすものと思う。》
との意を述べた。彼側の全員はたしかに、緊張真面目の態度をもって、大竹氏の淀みない英語に、なんら疑いをさしはさむような表情もなくきいていた。私が〝まず私の申すことはこれで一段落です〟といったところ、サザランドは彼側一同に何事か数語指示し、それから、陸海空三部門に分かれ、それぞれ情報を聴取しはじめた。
 当初頗る厳粛にはじめられた会議――それは当然といわねばなるまい――であったが、こうして、室内にバラバラになって、彼我〈ヒガ〉談合をはじめてからは、一般の空気が非常になごやかになり、ここかしこ朗らかな笑い声さえきかれるようになった。
 かようにして、三グルーブにわかれた検討が約一時間余に及んだが、その間私は直接〔サザランド〕参謀長やそのほかの幕僚とも話をし、われわれが東京に帰った後、十日を与えらるれば、大体私は良心をもって「マアよかろう」と答え得られるであろうとの意味を知らせるように努力した。この話の間にサザランドは、広島の被害状況を私にたずね、私の答をきいて、彼もまた驚きの表情をしていた。おそらく彼にも生まれてはじめての知識であったのではあるまいか。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・8・29(9位に極めて珍しいものが入っています)

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机の上の扇子に「君辱臣死」の四文字が

2021-08-28 02:07:23 | コラムと名言

◎机の上の扇子に「君辱臣死」の四文字が

 河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)から、第五章「大東亜戦争」の第六節「マニラへの使節」を紹介している。本日は、その五回目。

 午後一時半頃われわれは伊江島に無事着陸した。着陸ぶりは敵側将兵の目の前で、みっともなくない手ぎわであった。
 この飛行場は私がはじめて見るので、日本時代との比較はできぬが、滑走路の舗装状況や土地の掘開状況などを見ると、敵側の占領後に大いに手を入れたことがよくわかり、戦争間われわれの最も手痛い強敵であった動力化土工器材の偉勲をマザマザ見せつけられた。
 われわれの乗機がピストに誘導せられると、物見高く黒白の兵隊ども、戦争がすんでいかにも嬉しいというような顔付きで、大勢集まって盛んに写真機を向けている。覚悟をして来たこととはいいながら、不快極まりない。
 われわれの乗機は、約十人ばかりの軍人がキチンと整列している前に誘導され、そこで一同機体から出た。整列者の最左翼にいた一人の白人と思われぬ(フィリピン系か)、われわれの前に来て、まずい日本語で、〝誰が長か〟とたずねた。私は右手を挙げて、〝私が長だ〟というと、彼は手合図でついて来いというかっこうをした。数十メートルを歩くと、DCⅣ式機がある。タラップまで案内され、またも、手合図でそれに乗れとの意が通ぜられた。
 四発の堂々たる大型機、機内にゆったりした座席三十二、通路も広い。せせこましい軍用機内に窮屈な姿勢で、「これが大体空中飛行」というものと観念づけられていた私――日本の空軍将官には、〝すばらしいものを奴さん等〈ラ〉使っていやがる〟と、羨望やら反感やら自侮感やらわからぬ感じがひらめいた。しかも機内の奇麗なこと、各座席には新品と思われる水中救命具一式が整然とおいてある。数名の兵が機内にあってわれわれのサービスをする。あたかも空輸会社の飛行機に観光旅客として乗り込んだような感じだ。こうした待遇ぶりは、敵国の軍使にも丁寧な取り扱いをする文明国の態度でもあろうが、一面また余裕綽々〈シャクシャク〉たる大戦勝国の威風を誇示するものとも考えざるを得なかった。
 午後二時過ぎ、この大型機は悠々と離陸した。離陸前に、要求されて着装した救命衣を、場周飛行の終わるとともに、取りはずした。当番兵は間もなくサンドウィッチとレモンジュースとをわれわれに配給した。今朝七時頃木更津で朝食をしたそのままの腹中であっただけに、非常な食欲で食い終わった。
 伊江島以降もまた天気がよく、高度は目測四千メートルぐらいであろうか。
 午後五時四十五分(私の時計――東京時間)マニラのニコラス・フィールド飛行場に着陸した。この飛行場は、かつて私が、航空本部の総務部長として、南方戦場を巡視した際、わが部隊の駐留している勝利の雰囲気の中に実視し、改築施工などのことについて論じあったこともあったが、今、この国家の完全な敗戦にもとづく新しい任務をもって、敵の占有下に着陸する運命に際会した。その前後の時間間隔三年と四ヵ月。
 飛行機を出て、タラップを降りようとすると、写真機の集中射を蒙った。タラップを離れるとともにそこに立っていた一人の大佐が、日本語でハッキリと、〝お迎えに来ました〟という。この言葉によって、私には一種の親和感がおこり、その刹那まで体内に充ち満ちていた重苦しい気持ちが瞬間的にほぐれて、殆んど無意識的に握手の手をさしのべた。彼もまたこれに応ずるように、右手をのばしたが、ヒョッと思いなおしたかのように、その動作をやめた。それで私もハッと気がつき、「握手はまだいけないんだ」と感づき、また、直前の重苦しい気持ちに戻り、その大佐の案内について、数十歩行くと一台の自動車があった。その入口の側に一人の将官が立っていて、私に対し手の合図で乗車せよとの意を通じた。私の左側にこの将官がすわり、運転手の助手席にさきの大佐が腰をかけた。
 車が動き出してから、大佐の通訳で将官はいう、〝日本側の一行は六名ぐらいだと思ってあるホテルに準備したが、十六名と知ってから急にホテルを変更した。上等ではないが十六名に応ずる部屋は準備できた〟云々、あたかも遠来の客にものいう態度であった。
 ホテルに行けば、八時三十分から会同するから、それまで休憩し、その間沐浴食事などを終わってくれとのことであった。
 マニラの夏の夕べのこと、はなはだむし暑い。私はシャワーを浴びて出て来ると、室内の机の上に日本の扇――もうだいぶ使われたものであったが――が一本おいてあった。一行の誰かの好意で持って来てくれたものと内心感謝しながら、これを使おうと開いたところ、名筆とは思い得ないが、毛筆の墨書で、君辱臣死という四文字が書かれてあった。
 瞬間的に私は烈しい緊張感を覚えた。一行の中にも誰か私と同じ感を抱いて来たものがあって、ここで私にあらためて覚悟を促したのであるまいかと思った。誰がこれをここにもって来てくれたのか、ことさらに私は詮議することをやめ、心ひそかに感謝して、その扇子で風をいれた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・8・28(なぜか10位に土肥原賢二)

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もしも天皇の臨場署名等を要求されたら……

2021-08-27 02:27:33 | コラムと名言

◎もしも天皇の臨場署名等を要求されたら……

 河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)から、第五章「大東亜戦争」の第六節「マニラへの使節」を紹介している。本日は、その四回目。

 マニラにおける私
 八月十九日、日曜の朝早く宿舎を出で、五時四十五分羽田飛行場に着いた。天気快晴である。私は全く予期していなかったのに、吉積〔正雄〕、宮崎〔周一〕両中将、榊原〔主計〕大佐その他の諸氏が見送りのため来てくれていた。どうも昨夕の乾杯といい、今朝の見送りといい、出征軍司令官にでも対するようだ。好意に感謝しながら、なんとなくくすぐったいような気持ちでもあった。せつかく見送りの人々に対しても、不快の旅出とて、あまり話もしたくなかった。
 六時一同ダグラスに乗り込み、十分ばかりで木更津の海軍(第三航空艦隊)基地に到着し、寺岡〔謹平〕海軍中将に迎えられ、ここで朝食の馳走にあずかる。
 勢ぞろいした一行の顔触れは、外務省側――つまり先方の指令による政府側――から岡崎〔勝男〕調査局長と湯川〔盛男〕書記官、陸軍側は前に決まったメンバーに変化なく、海軍側からは横山〔一郎〕少将、大前〔敏一〕大佐、吉田〔英三〕大佐、寺井〔義守〕中佐、杉田〔主馬〕書記官、溝田〔主一〕嘱託で、伊江島まで往復する藤原主計少尉がいた。
 全体白塗、青色の十字を胴体に描いた――先方の指令による――海軍用「陸攻」機二機は、不名誉の一団をのせるべく、その準備が完了していた。
一団は二機に分乗し、午前七時十五分頃あいついで離陸した。昨日からの情報を考慮して相当遠く南方洋上に出で、伊江島を目標に、その航法は寺井海軍中佐が指導した。
 エンジンは好調、空路は大部快晴であったが、南西列島の上空で断雲が出た。
 一行それぞれ何事かの感懐を持っているであろうが、私の乗機の中では、談笑するものもなかった。私自身は、別段、使命達成の上に気がかりも持たなかったが、ただ一つ、正式の降は調印の際に天皇親ら〈ミズカラ〉出て来いということを指令されることがあるまいか、過日のサンフランシスコの放送では、そういった意味を伝えていた。二、三日来先方の公式通告では、この心配が殆んどないが、現実になると平然として予告を変えられる場合あることは、外人との間にはまれでない。もしも天皇の臨場署名等を要求されたら、その指令を知って甘受して、復命できることか。この「不安」が胸中のシコリとなってとれず、その際私のとるべき処置を一通り考えた。私は昨夕、一行中の軍人連の服装をきめた際、拳銃携行を命じたのは、別段今の場合、敵側から受ける加害を考慮した自衛用のものではなかったのだ。
 半日の飛行間、気のまぎれる風物も外に見られず、敗戦国の帝者王者の屈辱史など漠然として頭に浮かぶ。只今のわれわれとはまるで趣きのちがった状況ではあったが、セダンのナポレオン三世のことなど、あの名画など、一緖に思い出されてしようがなかった。
【一行アキ】
 一八七一年の昔である。セダンを攻囲中のドイツ大本営は、「プロシャ王の脚下に剣を投ず」との、ナポレオン三世の親書を受領した。開城談判となって、片やビスマルクおよびモルトケ等、片やウィンプェンおよびカステルノー等、折衝応酬なかなか運ばれぬ。やがて、カステルノーは、〝‥‥皇帝は私につぎのことを委任した。それは、皇帝の佩剣を国王ウィルへムル陛下に無条件をもって献じ、全く個人的に降伏する。そして、仏軍の光栄ある降伏を許さるるよう懇願せよとのことである〟といった。ビスマルクは問うて、〝その剣は仏国の剣であるか、それとも皇帝の剣であるか〟といった。カステルノーは、〝単なる皇帝の剣である〟と答えた。モルトケはそこへ言葉を挿み、〝それでは条件に変わりはない〟といった。その翌日ナボレオンはビスマルクを宿舎に訪ねて、自らウィルヘルム一世に会って条件の緩和を求めたい意志を伝えたが、ビスマルクは、王にこれを取り次ごうとしなかったので、皇帝はビスマルクに降伏条件について語ろうとしたが、〝それらの軍事上の問題は、モルトケの決裁するところだ〟と、突き放した。
 その日降伏調印が終わり、ナポレオン三世はカッセルに囚われの身となった。(私は一九三九年―昭和十四年―夏、ドイツ在郷軍人の大会に賓客として招かれ、その開催地カッセルに行き、ヒットラーの大獅子吼〈ダイシシク〉をきかされたことがある) 
【一行アキ】
 沖縄島付近に近づいた頃、かねて彼側から通告されてあったとおり、誘導機が現われてわれわれの機を誘導した。【以下、次回】

 文中、「全体白塗、青色の十字を胴体に描いた」とあるが、実際には、緑色の十字が描かれていた。これを、「青色の十字」と呼んでいるのは、別に不思議ではない。今日でも、緑色の信号のことを、「青信号」と称している。

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