礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

聖徳太子は日本最初、日本最大の政治家

2017-10-31 02:39:54 | コラムと名言

◎聖徳太子は日本最初、日本最大の政治家
 
 坂口安吾の『安吾新日本地理』から、「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介している。本日は、その三回目。引用は、『定本 坂口安吾全集 第九巻』(冬樹社、一九七〇)より。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 霊亀二年〔七一六〕五月に今の高麗村(以下コマ村と書く)がひらかれたという続日本紀の記事に於ても、決してその年に渡来したコマ人をそこに住ませたのではなく、
「駿河と甲斐と相模と上総と下総と常陸と下野の七ヶ国のコマ人一千七百九十九人を武蔵の国にうつしてコマ郡をおいた」
 とある通り、すでに各地に土着しておったコマ人を一ヵ所にまとめたにすぎない。
 これがコマ人の総数でなかったことは確かであろう。恐らくそれ以前に日本各地に土着したコマ人たちは、単に部落民として中央政府の支配下に合流して自らをコマ人、クダラ人、シラギ人などと云うことなく新天地の統治者に服従して事もなく生活していたに相違なく、これに反して、すでに日本の諸地に土着しつつも敢てコマ人と称して異を立てておった七カ国のコマ人一千七百九十九人の方が珍しい存在と云うべきであろう。彼らが土地を移して一ヵ所にまとめられた意味はそういうところにあるのかも知れない。
 この移住は高句麗が新羅に亡ぼされてのち約五十年後に起った。そしてその後、
「天平宝字二年〔七五八〕八月に帰化の新羅僧三十二人と尼二名と男十九人女二十一人を武蔵国に移して新羅郡をおいた」
 という記事もある。
「天平宝字五年〔七六一〕春正月、美濃と武蔵二ヵ国の少年二十人ずつに新羅語を習わせた」
 という記事もある。武蔵の国の新羅郡というのは明治二十九年〔一八九六〕に北足立郡に編入された新座郡のことだそうだ。
 高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる。なぜなら、日本諸国の豪族は概ね朝鮮経由の人たちであったと目すべき根拠が多く、日本諸国の古墳の出土品等からそう考えられるのであるが、古墳の分布は全国的であり、それらに横のツナガリがあったであろう。そしてコマ系、クダラ系、シラギ系その他何系というように、日本に於ても政争があってフシギではない。むしろ、長らくかかる政争があって、やがて次第に統一的な中央政権の確立を見たものと思われる。
 時の政府によって特に朝鮮の一国と親しんだものや、朝鮮の戦争に日本から援軍を送った政府もあり、そこに民族的なツナガリがあったのかも知れない。
 コマ(コクリをさす。以下も同じ)の文物を最も多くとりいれたのは聖徳太子のころであるが、太子はさらに支那の文化を直接とりいれることに志をおいた。日本統一の機運とは、まさにこれであったと私は思う。
 何系何系の国内的の政争が各自の祖族やその文化にたよる限り国内の統一はのぞめない。これを統一する最短距離は、そのいずれの系統の氏族に対しても文化的に母胎をなす最大強国の大文化にたよるにまさるものはない。太子の系統はコマの滅亡と共にあるいは亡びたかも知れないが、ともかく日本統一の機運を生みだした日本最初のまた最大の大政治家は聖徳太子であったと云えよう。支那の文物を直接とりいれる機運のたかまると共に日本の中央政府は次第に本格的に確立して、奈良平安朝のころに雑多の系統の民族を日本人として統一するに至った。こうして民族的な雑多な系統は消滅したが、それは別の形で残ったものもある。それが何々ミコトや何々天皇、何々親王の子孫という系譜である。源氏や平家の系譜の背景にも相当の古代にさかのぼっての日本史の謎があるように思われる。桓武、清和、宇多というような平安朝の天子を祖とすることまではハッキリしているが、その平安朝の天子に至るまでの大昔が問題であり謎である。甚しい謎だ。
 桓武天皇はどうして遷都しなければならなかったのだろう? なぜ長岡の工を中止したのだろう? それから数代、必ず前天皇の子を皇太子に立てる風習はなぜだろう。
 後年南北朝の休戦条約に交替に皇位継承というのがあるが、それは当時の新工夫ではなく、非常に古い源流があったのではないかと思われる節々もあるのです。【以下、次回】

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当時はまだ日本という国の確立がなかった

2017-10-30 02:40:56 | コラムと名言

◎当時はまだ日本という国の確立がなかった
 
 坂口安吾の『安吾新日本地理』から、「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介している。本日は、その二回目。引用は、『定本 坂口安吾全集 第九巻』(冬樹社、一九七〇)より。
 一昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 戦後の今日、朝鮮からの密輸や密入国は発動機船を用いているらしいが、それは監視船の目をくぐるに必要な速力がいるための話で、まだ沿岸に監視の乏しかった終戦直後には大昔と変りのないアマ〔海人〕の小舟でさかんに密輸や密入国が行われ、それで間に合ったのだ。別に監視のあるわけでもない大昔には、アマの小舟で易々と〈ヤスヤスト〉、また無限に入国して、諸方に定住し得たのは自然であろう。
 遠く北鮮の高句麗には、南鮮と北九州北中国を結ぶような便利はないが、今日、密輸入密入国の一基地はウラジオストックに近い北鮮の羅津〈ラジン〉あたりにもあって、小舟によって潮流を利用したり、または潮流を利用して荷物を流す方法もあるという話であるが、荷物を流すのはとにかくとして、潮流を利用するというカンタンな航海法、もしくは出航後自然に潮流に乗ってしまったという航海の可能性は十二分に考えられるのである。
 この潮流は季節によって異るかも知れないが、たとえば、裏日本の海辺に於ては太平洋戦争前から再々ウラジオストックの機雷の漂流に悩んでいたのであった。ウラジオのものらしい機雷が津軽海峡にまで漂流し、本土と北海道を結ぶレンラク船の航海にまで危険が起ったのは今年〔一九五一年〕の話である。東京はじめ太平洋岸の人々にとってウラジオの機雷という物騒な漂流児が話題にのぼったのはようやく今春来のことである。
 けれども裏日本の海辺〈ウミベ〉がウラジオからの漂流機雷に悩みはじめたのは太平洋戦争の起る前からのことだ。私が昭和十七年〔一九四二〕の夏に新潟市へ行ったとき、博物館(であったと思う。あるいは別の場所だったかも知れない)でドラムカンの化け物のようなこの機雷を見た。それはその年かその前年ごろ新潟の浜へ漂着し工兵が処理したものであったが、すでに当時から裏日本の諸方の浜ではこの機雷に悩んでいた。もっともそのタネは日本がまいたようなもので、支那で戦争を起したりノモンハン事変などもあったから、ロシヤはウラジオ港外に機雷網をしいて用心しはじめたのであろう。それが冬期の激浪にもまれ解氷時に至ってロビンソン・クルーソーの行動を起すもののようである。
 この日本海の漂流児は能登半島から福井方面へ南下するのもあるが、富山方面へ南下して佐渡と新潟間より北上を起して途中の浜辺でバクハツせずについに津軽海峡にまで至り、そこから更に太平洋にまで突入して行方をくらますという颱風の半分ぐらいも息の長いのが存在しているのである。そして、能登半島から山陰方面へ南下するのと、富山新潟方面へ南下して更に北上するのと、どっちの方が多いのか知らないが、富山新潟方面へ南下して更に北上する漂流横雷が決して少数ではなく、敗戦後元海軍の技術将校にきいた話では、そッちへ流れるのが春夏の自然の潮流だという話であった。ともかく多くの漂流機雷が能登半島の北岸沿いに新潟秋田方面にまで北上していることは事実なのである。
 日本の原住民はアイヌ人だのコロポックル人だのといろいろに云われておるが、貝塚時代の住民はとにかくとして、扶余族が北鮮まで南下して以来、つまり千六七百年ぐらい前から、朝鮮からの自発的な、または族長に率いられた家族的な移住者は陸続としてつづき、彼らは貝塚人種と違って相当の文化を持っておったし、数的にも忽ち先住民を追い越す程度の優位を占めたものと思われる。先住民が主として海沿いの高台に居を占めて原始生活をしていたのに比べて、彼らは習性的に(または当時の彼らの科学的考察の結果として)山間の高燥地帯に居を占め、低地の原野を避けるような生活様式を所有しておった。大昔の低地は原始林でもあるし洪水の起り易い沼沢地帯でもあって毒虫猛獣の害も多く、それに比して山岳地帯の盆地の方が居住地としての安全率が高かったのであろう。そこには先住民たる貝塚人種の居住もなく、全てに於て山間に居住地を定める方が他部落とのマサツや獣虫天災の被害が少なかったのであろう。またコマ、クダラが亡びて後は特に密入国的な隠遁移住が多かったであろう。
 つまり天皇家の祖神の最初の定着地点たるタカマガ原が日本のどこに当るか。それを考える前に、すでにそれ以前に日本の各地に多くの扶余族だの新羅人だのの移住があったということ、及び当時はまだ日本という国の確立がなかったから彼らは日本人でもなければ扶余人でもなく、恐らく単に族長に統率された部落民として各地にテンデンバラバラに生活しておったことを考えておく必要がある。
 つまり今日に於てもウラジオストックからの漂流機雷が津軽海峡のレンラク船をおびやかす如くに、当時に於ても遠く北鮮からの小舟すらも少からぬ高句麗の人々をのせて越〈コシ〉や出羽〈デワ〉の北辺にまで彼らを運び随所に安住の部落を営ませていたであろうということを念頭にとどめておくべきであろう。
 むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州四国本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を一巡したり、紀伊半島を廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州の北辺にまで安住の地をもとめた氏族もあったであろう。そして彼らは原住民にない文化を持っていたので、まもなく近隣の支配的地位につく場合が少くなかったと思われる。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・10・30(9位に珍しいものが入っています)

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木畑壽信氏を偲んで・その4(青木茂雄)

2017-10-29 07:17:40 | コラムと名言

◎木畑壽信氏を偲んで・その4(青木茂雄)

 本日未明、青木茂雄氏の「木畑壽信氏を偲んで」の四回目の原稿が届いた。坂口安吾の文章の紹介は後回しにして、本日は、これを紹介する。以下、すべて、青木氏の文章である。

木畑壽信氏を偲んで(4) 青木茂雄

 ……
 わが心は恐れと喜びとを内におぼゆ。
 恐れの惹きおこさるるは、わが心、神の高きを思い見、
 その深き奥義に分け入りえざる身の程を知り、
 理性を尽くすともこの高き御業(みわざ)を悟りえぬ時ぞ。
 ……
(J.S.バッハ『教会カンタータ180番、“装(よそお)いせよ、おお わが魂よ”』 より、杉山好訳)

(Ⅳ)「喫水(きっすい)」
『ことがら』誌は8号で終刊した。発行日は1986年11月10日とある。7号が1985年3月10日とあるから、1年半のブランクがあったことになる。この1年半に起こったことが、『ことがら』終刊の導線となっていくのである。なにぶんにも遠い昔のことなので、記憶が定かではない。その前後のことで憶えているのは、1984年4月に事務所を高円寺から高田馬場に変えたことと、その年の8月に編集同人で宮城県の鳴子(なるこ)温泉に2泊旅行したことである。鳴子は長崎浩氏の勤務場所に近かったためである。長崎氏は小阪氏がかねてから私淑している数少ない人物の一人である(『叛乱論』『政治の現象学』などの著書がある)。宿舎の温泉で長崎氏を交えて語りつくし、思えばその頃が同人の共同性の最高潮であった。2日目にはそれぞれに自由行動したが、私は木畑ともう2人で少し離れたところにある山(高松岳)のふもとまで車で出掛け、鄙びた温泉につかって、それから山を登った(木畑は途中で脱落)。思い返すに、そのときの行動グループが集団のその後に微妙に影響していたかもしれない…。
 編集とその後の実務は国立市富士見台の公団住宅にある小阪氏の住居で行った。しばしば酒盛りもそこでやった。85年の4月には井の頭公園で「ことがら」同人周辺の人物にも呼びかけて「花見」の酒宴もやった。こういう催しの口火はたいてい小阪氏が切った。彼にとって「思想」と「生活」は一体のものであるし、あらねばならなかった(だから、「制度論」の第1章は「実践論」であった)。
『ことがら』終刊への経緯は8号の「後記」の小阪氏の文章に書かれている通りである。それで過不足がない。ただ、私なりに少し付け加えるならば、生活感覚やモラルなどの微妙な差異が集団に微かな亀裂を生み、それが大きくなっていったこともまた事実である。私の位置はおそらく、戦後民主主義的な感性への執着である(それが「後記」の小阪氏の文章にある「タイプへのフェティッシュ」として象徴されたのであろう)。私の「左翼倫理」にせよ「70年代記」にせよ、底に流れているのは戦後民主主義的感性とモラルの、救抜であり再生である。そう評価されて少しの異論もない。
 小阪氏たちはまた別の歩みを進めた。しばらく後に新雑誌『オルガン』(これも哲学的なタイトルだが)を始めた。進んで「現代思想」の渉猟に出たように見えた。少なくとも私の向かおうとしているのとは別の方向を目指しているように見えた。
『ことがら』終刊号の「後記」に私は次のように書いた。

 〈恣意〉的であることは、本当は集団にとっては無限の拡散を生み出すのみである。それが集団の結集軸たり得たとすれば、それが集団にとって理念的な象徴と成り得た時に於てである。たしかに一時期、それが存在し得た。
だが、幸か不幸か、その時期は非常に短く、瞬時的なものであるにとどまった。
時は移ろった。
 同人は、それぞれの場所で、それぞれの経験を積み重ねていた。それぞれの経験の違いは、交錯させることが時を経るにしたがって困難の度合いを増していった。
 (…)いつの日か、またあい見ることを期したい。

 小阪氏の「後記」にもあるように、終刊への最初の契機は編集方針をめぐってのささいな見解の差異であった。しかし、同人解散の意味は当時の時代状況と無関係ではあり得なかった。今にして思うのだが、1980年代の時代思潮の動向が影響していたのである。
 そこに一本の線を引くならば、やはり吉本隆明の1980年代の転変(或いは変節)である。吉本の言う「高度資本主義」或いは「超資本主義」という状況認識、その下における文化思想現象への対応如何を巡ってである。コム・デ・ギャルソンの衣装を身にまとって、モデル・チェンジをしたごとくさっそうと80年代型知的大衆の前に登場した「知の巨人」の姿は、吉本の影響圏の中にいた我々にとってちょっとした“事件”であった。端的に言って、この線に沿うか、或いは背くかである。この対応が迫られ、小阪氏らは前者であり、私は後者であった、ということになる。
 思想の土着化、転向、知識人と大衆、思想のコスモポリタニズムとナショナリズム…、あの系列の問題意識はどうなったんだ、それを放擲して「高度資本主義」も「超資本主義」もないだろう。これは昔から幾度となく再生産されてきた《巨大な現実への拝跪》そのものではないのか。或いは「君子は豹変」するのか。それともただ単に営業用のモデルチェンジなのか…。
 1960年代後半から1970年代まで、私は吉本隆明に対しては常に吸引と反発の、同調と違和の境界線上にいた。しかしまた、彼の引いた線の偏差の範囲内にもいた。その偏差の構造の描写が先にあげた「左翼倫理」であり「70年代記」であった(これについては、また稿を改めたい)。しかし、1980年代の初頭を飾る『マス・イメージ論』は、当時の私がもっていたどのようなシェーマにも外れたものだった。私は当時、吉本が《共同幻想》の構想をより深化させ、さしずめヘーゲルで言えば、「客観的精神」の展開の如きものから国家の発生を理論的に解き明かせれば、それはすごい、吉本だったらやってくれる、そう期待していた。そのくらい『共同幻想論』は、基本的な構えでは了承しつつも、粗削りであり、未完成であった。何しろ、序文でヘーゲル以来の試みと謳っている以上、完成させようとするのが「学」としての責任であろう。
 当時、笠井潔氏によれば吉本は『共同幻想論』の続編を構想中であり、それが柳田国男論として実現されつつある、という予測だった。しかし、できあがった『柳田国男論集成』は作品解説以上のものではなかった。代わって登場したものは似て非なるものであった。私は頭がくらくらして『マス・イメージ論』を最後まで読み通すことができなかった。それに加え、特定の対象を定めた罵詈雑言(「反核異論」等)は相変わらずで、これを境に私は吉本の文章とリアルタイムで付き合うのは一切やめた。しかし、小阪氏の吉本との関わりはこの頃から本格化していったようであり、1987年に行われたイベント「吉本隆明25時」にも小阪氏は壇上に発言者として登場しており、さらにそのしばらく後には紀伊国屋ホールで「吉本隆明・栗本慎一郎・小阪修平」で鼎談の催しが行われた。私が小阪修平の姿をじかに見たのはそれが最後であり、吉本の姿をじかに見たのもこれが3度目でかつ最後だった。

『ことがら』は1986年11月で終刊し、同人も解散した。短い期間ではあったが、私はひとつの時代が終わったという思いに襲われた。ちょうどそのころ、私は地域(川崎市麻生区)で地権者を支えて環境保護運動に取り組み始めた。自分が発起して運動を手掛けるという体験はこれが最初であった。この現実の重さに比して、すべての「思想」がとめどもなく軽いものに思われた…。また、吉本からすれば、私はさしづめ「反動的なエコロジスト」であり「ソフトスターリニスト」的な市民主義者というようなレッテルの対象となろう、とも考えていた。
 私は何かを清算しなければならない、と考えて、しばらくのち、1995年に創刊された『歴史民俗学』誌上に「吉本隆明『共同幻想論』批判」を書き、5回にわたって連載した。それを機会に再度、その前後の彼の文章を含めてかなり精読したが、私の見立てはそれまでと変わらなかった。私の「批判」以上に『共同幻想論』を精読した文章に今までのところまだ出会っていない。私の文章はおそらく吉本はもとより、誰の目にもとまらなかった。反応はゼロであった。しかし、これを私は吉本の存命中に書いたのであり、それがどれほどの決意を要したかは当時でなければわからないであろう。今読み返してみても、それほど的外れのことは書いてないはずだ。
(吉本の文章でいちばん好きなのは評論集『詩的乾坤』に収録された二つの短文「誰に 向かって読むか」「何に対して書くか」である。この二つの短文があれば他のすべての膨大な文章は不要である、とさえ思える。また、彼の著作の中で、歴史の評価に耐えるものを一冊だけあげるとすれば主著『心的現象論』となるであろうか。日本の思想史の中で、コギト・エルゴ・スムを実践した唯一無二の著書として。)

 閑話休題。
「ことがら」同人は解散したが、高田馬場のアパートの一室はそのままであり、そこを使って月に3、4度「講座」を企画した。木畑を含む同人の残存グループ数人で始めた。そのうちの一人高野幸雄氏の命名で「テクネ社」とした。講師としてよばれたのは、笠井潔氏(フランス現代思想の解説)、三上治氏(吉本『重層的な非決定へ』の講読)等々であった。ほかにもいろいろと企画があったが、詳しいことは憶えていない。「テクネ社」は1年くらい続いたが、そののち消滅した。「テクネ社」の終了とともに、私と木畑との関係も疎遠になった。
 そのあと私は職場の方が忙しくなり、また、地域の活動や組合活動などでも多くの時間を割かれるようになり、思想表現の活動全般からは遠ざかった。その間私が書いた文章は、大体が、組合運動その他の関係で必要に迫られて書いたものか、自分の仕事(高校社会科教員)に関するものか、2004年から始まった「日の丸・君が代」強制反対の裁判闘争に関するもの、それと「映画論」など趣味的な文章にとどまった。必要もないのに書く(書くことを目的として書く)などということがおよそ考えられなくなった。10代の後半から断続的に続けてきた「日記」を書く習慣(というよりも書かずには済まない衝動のようなもの)もこの頃に消滅し、あとはただその日に起こったことを事後的に振り返るメモを残すだけとなった。この頃、確かに何かが変わった…。30歳代の後半にさしかかっていた。
 私は、実生活的にはまったく充足していた。そのうちに、待望の子供もできた…。
 さて、木畑は「ことがら」同人解散後しばらく経って、新宿区役所を退め、そしてアメリカにわたって大学で勉強したという話などが聞こえてきた。その頃だったか、彼自身で綴った手書きの分厚い冊子が、時折私のもとへも郵送されてきた。その言わゆる「木畑文書」は、彼の学術的な精進の証しであることは間違いないのだが、とうに関心のなくなっている私などには到底読み通せるものではなかった。そのうちにそれも送られて来なくなった。〈木畑はまだ「学術的なもの」にこだわっているのか、私はもうとうに捨てたのに…。〉
 その後は約20年間、彼とはまったく連絡が途絶えていた。私の定年退職を2年後に控えた2006年から、水道橋の「アソシエ」で子安宣邦氏の日本思想講座に出るようになった。つまり、これからの定年後の自由な時間のために言わば「思想的なリハビリ」と自称した。
 その「アソシエ」の講座で、20年ぶりに木畑と出会った。これが三度目の出会いである。帰りに何回か喫茶店などで話したが、まったく変わっていない、そして考えていることも昔とまったく同じで、私は彼といるとタイムスリップしたような気さえした…。

 長々と続いたこの文章もそろそろ終わりとしなければならない。「偲ぶ」文章がその範囲を大幅に逸脱してしまった。人を思うのが「偲ぶ」の字義であるごとく、木畑壽信を偲べば当然周辺のことも思い出されてくる。良きにつけ、悪しきにつけ…。
 最後に。彼はよく「喫水」(きっすい)という言葉を使った。〈『ことがら』は「喫水」は良い…。〉それが『ことがら』に対する彼のイメージだった。船首の切っ先がさっそうと水を切っていく姿、つまりそれは彼の浮かべる“前衛”のイメージなのである。その姿勢は最後まで変わらなかった。
 木畑壽信の遺作となったのは『流砂』11号(2016年7月)に掲載された「知の政治―共産主義の誕生」という長めの文章である。彼が以前からテーマとしていた「権力論」の集大成である。一見すると、全編にわたって引用とカタログの集成で、木畑自身の地の文があまりないという、読むのに骨が折れる文章ではあるが、ここには明らかに木畑自身のモチーフが貫かれている。その一本の線は、「知の政治」から「言語の政治」へという太い糸であり、そこには木畑自身の〈何か〉が凝縮されている。ここに、先行する《思想家》からの引用を指摘することもまた容易いものではあろう。しかし「引用する」そのスタイルこそが木畑壽信のイメージする「喫水」なのである。「喫水」する木畑壽信の姿をイメージしつつ、思わず長くなってしまったこの文章を終わりたい。(了)

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坂口安吾「高麗神社の祭の笛」(1951)

2017-10-28 02:01:57 | コラムと名言

◎坂口安吾「高麗神社の祭の笛」(1951)
 
 先月二三日以降のコラムで、埼玉県の高麗神社について触れた。この神社を訪ねた文化人のひとりに、作家の坂口安吾がいる。本日は、『安吾新日本地理』から、「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介してみたい。この文章は、かなり長いので、ところどころ、割愛しながらの紹介になるかと思う。
 引用は、『定本 坂口安吾全集 第九巻』(冬樹社、一九七〇)より。初出は、『文藝春秋』一九五一年(昭和二六)一二月号というが、未確認。

 高麗神社の祭の笛

 今日では埼玉県入閒郡〈イルマグン〉高麗【コマ】村ですが、昔は武蔵の国の高麗郡であり、高麗村でありました。東京からそこへ行くには池袋駅から西武電車の飯能【ハンノウ】行きで終点まで行き、吾野【アガノ】行きに乗りかえ(同じ西武電車だが池袋から吾野行きの直通はなく、いっぺん飯能で乗りかえなければならない)飯能から二ツ目の駅が高麗【コマ】です。高麗村の北側背面は正丸峠〈ショウマルトウゲ〉を越えて秩父に通じ、東南は高麗峠を越えて飯能に、また高麗川を下れば川越市へでて入閒川〈イルマガワ〉から荒川となり(つまり高麗川が入閒川に注ぎ、入閒川が荒川にそそいで)昔の隅田川で申しますと浅草で海にそそいでおった。その海にそそぐところが今の浅草観音様のところ、そこが当時の海岸で海はそこから上野不忍池まで入海〈イリウミ〉になっていたものの由です。もっともそれは江戸開府ごろの話ではなくて、浅草の観音様ができた当時、千何百年むかしの話です。本郷の弥生ヶ丘〈ヤヨイガオカ〉や芝山内〈シバサンナイ〉がまだ海岸だった頃のことだ。
 続日本紀〈ショクニホンギ〉、元正〈ゲンショウ〉天皇霊亀二年五月の条〈クダリ〉に、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人一千七百九十九人を武蔵の国にうつし、高麗郡を置く」とある。これが今の高麗村、または高麗郡(現入閒郡)発祥を語る官撰国史の記事なのである。
 この高麗【コマ】は新羅【シラギ】滅亡後朝鮮の主権を握った高麗【コウライ】ではなくて、高句麗【コクリ】をさすものである。
 高句麗は扶余【フヨ】族という。松花江〈ショウカコウ〉上流から満洲を南下して朝鮮の北半に至り、最後には平壌に都〈ミヤコ〉した。当時朝鮮には高句麗のほかに百済【クダラ】と新羅【シラギ】があった。百済は高句麗同様、扶余族と称せられている。日本の仏教は欽明天皇の時、今から千四百年ほど前に百済の聖明王〈セイメイオウ〉から伝えられたと云われているのである。
 ともかく扶余族の発祥地はハッキリしないが満洲から朝鮮へと南下して、高句麗、百済の二国をおこしたもので、大陸を移動してきた民族であることは確かなようです。
 この民族の一部はすでに古くから安住の地をもとめて海を越え、日本の諸方に住みついていたと考えられます。高句麗は天智天皇の時代に新羅【シラギ】に亡ぼされたが、そのはるか以前からの当時の大陸文化をたずさえて日本に移住していることは史書には散見しているところで、これらの史書に見ゆるものは公式の招請に応じたものか、または日本のミヤコや朝廷をめざして移住してきたものに限られているのであろう。
 自分の一族だけで自分勝手に海をわたり、どこかの浜や川の中流、上流などで舟をすて、自分の気に入った地形のところへ居〈キョ〉を定めた。というテンデンバラバラの家族的な移動は、日本の諸地に無数にあったものと想像しうるのである。
 もとより、新羅人や百済人の来朝移住も多かった。南鮮と九州もしくは中国地方の裏日本側とを結ぶ航海が千数百年前に於ても易々たる〈イイタル〉ものであったことは想像に難くない。いかなる猛獣や毒虫が住むかも知れぬ原始の山野を歩くのに比べれば、南鮮と北日本を結ぶ航海の方ははるかに易々たるものであったに相違ない。【以下、次回】

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「テイル形」の出現(浅利誠先生の講演より)

2017-10-27 01:21:03 | コラムと名言

◎「テイル形」の出現(浅利誠先生の講演より)

 一昨二六日(水)、東京・神田の晶文社イベントスペースで開かれた、浅利誠先生の講演会に参加した。テーマは、「日本語の論理と思考:文法の誤りを解く」であった。
 熱弁二時間、非常に刺激的、示唆的、かつ高度に論争的な講演で、学問という世界の厳しさ、奥の深さ、楽しさを改めて認識させられた。と同時に、どの世界にもあるイカガワシサが、いわゆる「学界」にもあるということを教えられた。
 講演の内容は、テーマの通りだが、話のトッカカリは、現代日本語における「テイル形」であり、結局、ほとんど最後まで、この「テイル形」の文法をめぐる説明が続いた。
 この講演の内容を、適切に要約する自信がない。しかし、浅利誠先生の新刊『非対象の文法――「他者」としての日本語』(二〇一七年一一月、文化科学高等研究院出版局)の③章の内容は、この日の講演の内容と、ほとんど重なっている。とりあえず、同書五九ページから、二段落分を引用させていただこう。

 現代日本語の「テイル形」は、言文一致体成立時に出現した動詞形であり、近代日本が国民国家としての骨格を整え始めた時期の産物であった。つまり、ネーション成立のための基本条件の一つである俗語(俗語としての標準語)の成立と時を同じくして登場した動詞形であった。「テイル形」は、従来の文法システムに対するあからさまな切断を示す代表的存在の一つとして、日本語の劇的に一新された共時的均衡空間の中で、ある特異な場所を占めることになった動詞形であった。私の見るところ、同時期にしかるべき位置を占めることになった他の助詞形に比べても、これまでの文法論がその定義に大きな困難を覚えてきた動詞形である。現在、ほとんど確固とした位置を得ているかのように見える他の三つの動詞形(ル形、タ形、テイタ形)に比べても、定義を与えるのに、はるかに難渋してきた動詞形である。
「テイル形」の成立を通時論的に跡づけようとする、起源への遡行の試みは、数々なされてはきたが、「テイル形」の先行形を言い当てる試みが成功しているようには見えない。それにはそれ相応の理由があるにちがいない。その試みはある程度は可能であろうが、必然的に一つの不可能性の壁にぶつかるように私には思える。「テイル形」成立過程の解明に迫る遡行的試みに対しては一定の敬意を表しつつも、私としては、次の問いを立てることの方をより重視したい。時間表現システムというレベルで、テイル形は、いかなる新均衡システム(新共時態)の中で、いかなる位置を占めることになったのか。この問いを立てることの方をより重視したい。言文一致という事件は、テイル形の成立過程を確実に跡づけることをゆるすような緩やかな異変ではなかったからである。

 ハッキリ言って、これまで「テイル形」という動詞形について意識したことはなかった。この動詞形が、明治の言文一致体の成立時に出現した俗語(俗語としての標準語)だということも知らなかった。この動詞形をめぐって、文法上の議論がおこなわれてきたことも知らなかった。
 今回、浅利誠先生の講演をお聴きしたのを機会に、先生の新刊『非対象の文法――「他者」としての日本語』を読みはじめた。講演と同様、刺激的、示唆的、かつ高度に論争的である。「日本語」に関心をお持ちの皆さんに、ぜひとも、お薦めしたい一冊である。
 なお、引用部分で浅利誠先生は、「テイル形」成立過程の解明に迫る遡行的試みは、「必然的に一つの不可能性の壁にぶつかる」と述べておられる。そう述べられた理由は不明だが、私にとっては、「テイル形」の成立過程を遡ることは、興味深く、かつ魅力的な研究課題である。また、この成立過程を把握することは、「テイル形」についての文法上の論争においても、重要な意味を持つのではないか、と愚考した。

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