礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『社会新辞典』の中の難訓語(付・天然記念物としてのカワウソ)

2012-08-31 05:39:30 | 日記

◎『社会新辞典』の中の難訓語

 一昨日のコラムで、カワウソについて書いたところ、その日に限って、アクセスが多かった。
 同日のコラムでは、『社会新辞典』(一九〇六、郁文館)という明治後期の辞典に言及した。この辞典は、今日の私たちから見ると、「難語難訓語」の宝庫である。たとえば、次のような語句がある。ためしに、お読みになれるかどうか、挑戦していただきたい。

1 十六島     
2 小凝菜       
3 仮漆
4 枸櫞油        
5 苦土  
6 鉄丹       
7 鳳梨       
8 鸚哥
9 川粘    
10 魚狗
11 白鑞      
12 石黄         
13 爆裂丸 
14 扁桃     
15 衝角

 正解は以下の通り。

1 うっぷるい    
2 いぎす      
3 わにす
4 れもんゆ      
5 まぐねしあ
6 べんがら    
7 あななす   
8 いんこ
9 かわねば    
10 かわせみ
11 しろめ      
12 しおう      
13 かんしゃくだま
14 あめんどー    
15 らむ

 こういう問題は、いくらでも作れるのだが、あまりに「難字」が多く、このブログでは、入力に限界があるのが残念である。同辞典については、機会を改めて、また紹介させていただきたいと思う。

今日の名言 2012・8・31

◎天然記念物にしただけではダメ

 ニホンカワウソを20年以上追い続けてきた高知大学名誉教授・町田吉彦さんの言葉。本日の東京新聞「こちら特報部」欄より。町田さんによれば、ニホンカワウソは、1964年に国の特別天然記念物に指定されたという。しかし、「指定後も保護は進まなかった」という。養魚場で魚を狙うカワウソを殺すのは、公然の秘密だったという。カワウソは、国の不作為によって絶滅したという面は否定できないだろう。なお、同欄記事によれば、カワウソは、1928年に捕獲禁止になったとある。インターネット上にもそういう記述があるが、根拠が示されていない。まさか、インターネット情報をそのまま記事にしたのではないとは思うが、できれば、どの役所がどのような禁令を出したのかという説明がほしかった。

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カワウソに関する伝説(藤沢衛彦執筆「カワウソ」を読む)

2012-08-30 05:57:01 | 日記

◎カワウソに関する伝説(藤沢衛彦執筆「カワウソ」を読む)

 今回絶滅種に指定されたカワウソについては、多くの伝説があったようだ。特に有名なのは、魚を祭るという伝説である。正岡子規の別号「獺祭書屋〈ダッサイショオク〉主人」は、この伝説に基いていることはよく知られている。
 たまたま『大百科事典』を開いたところ、その第五巻(一九三二)の「カワウソ」の項は、二名で執筆していて、後半は、民俗学者の藤沢衛彦〈モリヒコ〉の執筆であった。なかなか興味深い一文なので、紹介しておきたい。ただし、原文の引用が多く、かなり読みにくい文章である。

〔伝説〕『和名抄』には水獺〈カワウソ〉を「宇曾」〈ウソ〉と記してゐるが、『月令』の書は水獺と記して山獺と区別してゐる。川獺、海獺といふ種は共に水族として同様の伝説を存せしめてゐる。水獺は小獣ではあるが、淵の底に住んで悪事をなすこと頻〈シキリ〉に、よく人語を真似て、人を惑はし、人を騙かして〈ダマカシテ〉水に引込むなどと伝へられ
てゐる。河に住むを川獺といひ、海に住むを海獺と名づける。『佐渡志』によると、佐渡の両津町附近では、昔から海獺はけしからぬ詐術を以て人の命を奪ふと信ぜられ、一名を海禿〈ウミカブロ〉といふ説話は、河童と同系の伝説をなすものである。それで『信濃奇談』などは、老獺が変つて河童となるといつてをり、さう信じてゐた地方があつた。獺〈カワウソ〉伝説は少なくとも河童伝説の一素因をなすやうで、『西安奇文』の陳西咸寗県趙氏の娘が水獺に魅せられる話は、水獺が一種の好色獣として人間と交婚し遂に惨殺する説話で、水獺には元来雌雄がなく、多くは■(手長猿)を相手とするといふ伝説が、幾多人間との交婚説話を将来したものと考へられる。獺の雌なきを□獺といひ、■を選ぶことについて「援鳴而獺候」などいはれることは恐らく獺の交尾期を示してゐるものらしい。常に魚を食して水信を知るといふことも、獺の尋常ならぬ動物であることを指せるもので、『月令』に、正月、十月、獺魚を祭るといふことについて、女陰を魚にて描くのであるといふ俗説をなせるものは、寧ろ〈ムシロ〉『呂氏十一月紀』に、「獺祭円鋪、円者水象也。」といへる見方が正しいであろう。『小戴記月余』には、「此時魚肥美、獺将食之先以祭也。」と見える。その祭日を雨水の日となし、円を描くは女陰を象る〈カタドル〉のである故に獺の皮を以て褥〈シトネ〉を作り、これを産婦に敷かしむるに安産をするなどの俗説が立てられてゐる。『七十二候』には「水獺祭魚、以饗北辰、獺不祭魚、必多盗賊」と見え、日本に於ても、この民俗を伝へてゐる。(藤沢) 【引用者注】 ■はケモノヘンに媛のツクリ、□は、ケモノヘンに賓。

 漢和辞典で「獺祭」〈ダッサイ〉を引いてみたところ、「かわうそが自分のとった魚を食う前にならべること」とあった。しかし、日本のカワウソにも、このような「習性」ないし「伝説」はあったのだろうか。また漢和辞典には、上記の意味から転じて「詩文などを作るときに、多くの参考書を左右にならべること」とあった。いずれにしても、日本カワウソは今や、「獺祭」という熟語によってのみ、想い出される存在になってしまった。

今日の名言 2012・8・30

◎大夕焼不平不満も消えにけり

 俳人にして八六歳現役漁師・斉藤凡太さんの句。本日の日本経済新聞「文化」欄より。

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カワウソは、かつて「駆除」の対象だった

2012-08-29 04:51:30 | 日記

◎カワウソは、かつて「駆除」の対象だった

 昨二八日のテレビニュースで、環境省が、それまで「絶滅危惧種」に指定されていた日本カワウソを、「絶滅種」としたことが報じられていた。
 それにしてもなぜ、日本カワウソは絶滅してしまったのか。これを考えるときに参考になると思うので、『社会新辞典』(一九〇六、郁文館)の「かはをそ」の項を引用してみたい。同辞典は、明治後期(明治三六年)に出た一冊物の百科辞典である。

かわをそ 水獺 水獺〈カワオソ〉は体細長くして、イタチに似、頭部やや扁平にして、眼大きく、耳短く、四肢短く、五趾にして蹼〈ミズカキ〉あり、蹠〈アシウラ〉は裸出す。皮膚には、短毛密生す。体色は背部〈ハイブ〉暗褐色にして、腹部淡鼠色なり。頬〈ホホ〉及上唇に白き斑紋あり。身長は尾を除き、二尺〔六〇センチ強〕内外にして、尾は尺余あり。河川湖沼または海辺に棲息し、よく水中を潜行し、魚類を捕ふ。食餌〈ショクジ〉を獲たる時は、必ず岸に持ち来り、掌〈タナゴコロ〉にて圧へ〈オサエ〉、頭部より食ふ。樹根もしくは洞穴に巣を営み、数頭の児を産す。その肉は、美味にて、毛皮は襟袖口〈エリ・ソデグチ〉等に用ひられ、価〈アタイ〉高し。養魚の盛んなる地方にては、水獺を駆除し、もしくはその襲来を予防する方法を講ぜざるべからず。

 非常に観察が細かい。この当時においては、ありふれた野外動物のひとつだったのであろう。
 この記述で重要なのは、カワオソ(カワウソ)が、「駆除」の対象となっているということである。人間に害を与える害獣であるが、肉は美味で、毛皮は高く売れる。ということであれば、人々は争って、このカワウソを殺したことであろう。
 カワウソが絶滅した理由としては、ほかにも自然環境の変化などが指摘される。もちろん、そうした要因も否定できないが、基本的には、明治以降の乱獲によって、個体数が激減し、これによって絶滅に追い込まれたということであろう。あえて言えば、カワウソは、明治以降の日本人の「意思」によって絶滅させられたのである。
 なお、インターネット情報によれば、一九二八年(昭和三)に、カワウソの捕獲が禁止されたというが未確認。この禁令は、徹底しなかったか、もしくはすでに「手遅れ」だったのではないだろうか。

今日の名言 2012・8・29

◎昭和まで生息していた哺乳類が絶滅種に指定されたのは初めてです

 日本カワウソの「絶滅種」指定を伝えた昨28日のNHKテレビのニュースより。上記コラム参照。

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外務省通訳養成所が英訳した「五箇条の御誓文」

2012-08-28 05:51:40 | 日記

◎外務省通訳養成所が英訳した「五箇条の御誓文」

 数日前のブログで、外務省通訳養成所の『日米会話講座』(一九四六)という冊子を紹介した。私は、この冊子の性格を未だによく把握できないでいる。特に、「時事問題」の部に、一九四六年(昭和二一)の元旦に渙発された詔書の英訳が載っていたのは意外だった。
 外務省通訳養成所「日米会話講座」は、この年の時事問題の第一講で、詔書の「英訳と謹解」に取り組んだとある。この冊子で、その際の成果を紹介したということらしい。
 一九四六年元旦の詔書が、「五箇条の御誓文〈ゴセイモン〉」の引用から入っていることは、よく知られている。この詔書の英訳においても、当然ながら、その冒頭に「五箇条の御誓文」がある。
「五箇条の御誓文」について、少しだけ注釈しておこう。「五箇条の御誓文」というのは、慶応四年三月一四日(一八六八年四月六日)に示された「国是〈コクゼ〉」(新政府の基本方針)で、明治天皇が、公卿〈クギョウ〉・諸侯を率いて天地神明に誓うという形をとっている。「五箇条の御誓文」というのは通称であり、「御誓文」と呼ぶのが正しいらしい。五箇条のあとに、「我国未曾有ノ改革ヲ為ントシ/朕躬ヲ以テ衆ニ先シ天地神明ニ誓ヒ/大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ/立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ」という文章がつくが、この部分が紹介されることはあまりない。一九四六年の元旦詔書においても、引用されたのは「五箇条」の部分のみであった。
 とりあえず、外務省通訳養成所「日米会話講座」訳の「五箇条の御誓文」を紹介しておく。解説や訳注にも、興味深い記述があるが、その紹介は機会を改めて。

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
1. Deliverative assemblies shall be established on a broad basis and all measures of government decided in accordance with public opinion.
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
2. All classes high and low, shall unite and vigorously carry on the affairs of State.
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス
3. All common people, as well as the civil and military officials, shall be allowed to fulfil their just desires, so that there may not be any discontent among them.
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
4. All past and present purposeless and useless customs discarded, the fundamental truth permeating the universe shall be the guide of all action.
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ
5. Knowledge and learning shall be sought throughout the world and status of the Empire be ever higher and higher.

今日の名言 2012・8・28

◎社会情勢は如何に変らうとも、誓文は誓文でよいのではあるまいか

『日米会話講座』中の「五箇条の御誓文」英訳(上記コラム参照)の訳注部分にある。同書の実質的な著者は熊谷政喜と思われるので、これも熊谷の言葉であろう。当時、英文毎日は、第二箇条の「官武一途庶民」を、all individualと訳した(つまり、「武」の訳出を避けた)という。このことに対する著者のコメントである。

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雑誌『ことがら』と発行にともなう実務(付・アップルの価値観)

2012-08-27 05:26:37 | 日記

◎雑誌『ことがら』と発行にともなう実務

 昨日のコラムで、雑誌『ことがら』の「規約」を紹介した。その「7、」には、「寄稿者は雑誌発刊に必要な作業おこない雑誌の頁数におうじた費用を支払う」という文言があった。同誌が発行されていた当時、この規定にともなって、実際にどのような「実務」がなされていたのか。本日は、この点を紹介してみよう。
『ことがら』という雑誌の提案者であり、また事実上の主宰者であった小阪修平は、同誌の終刊号で、次のように述べている(八二~八三ページ)。

 そういうわけで、3号までは、版下〈ハンシタ〉作成の日というのが毎号につき一日か二日あった。編集後記や雑記事をタイプで打ち、指定をやり、写植や今打ったばかりの雑記事をはっつけ、カットを描く。ところで編集というものを知らない烏合〈ウゴウ〉の衆が集まってやるのだから、非能率きわまりない。だが、それはそこそこ雑誌が出来ていく薫りにふれるてんやわんやであったとわたしは思う。
 そして、雑誌が刷り上がった週の日曜日には、最初は高円寺のアパート、印刷所がわたしの家〔国立市〕のすぐ近くのゴトー印刷に移った3号以降はわたしの家に編集委員が集まり、ここでもてんやわんやがくりかえされた。まず、定期購読者への発送などの雑務をやり、次に各人が直販(個人売と直販の書店おろし)でもち帰った部数と、売れずに返還する部数の精算をやり、わたしがこれも時間がないせいでヒス気味になりながら、複雑な負担金の精算をやる。『ことがら』の会計はわたしが担当していたのだが、この計算たるや、次のような代物〈シロモノ〉であった。『ことがら』は各号で分担比率を出していた。分担比率は、総頁数から、目次やお知らせなどをさっぴき、残りを自分が書いた頁と自分が金を負担して書いてもらった頁の和で(もちろん、外部から自己負担で掲載した人はその人の分を)割り、六分の一頁を一単位として各人の分担比率を割り出す。雑誌の売上が現金として入ってくるのは随分おくれるので、前々号と前号の収益を分担比率に応じて分けもどす。総経費を寄せ、出来上がった号の分担金を計算する。直販はなかなか回収できないことが多いのだが、直販の金銭的な精算。出来上がった号の経費の立替えと、さまざまな経費の総計をやる。そしてその場にいない人間への立替えや、払い戻しのほうが多かった場合のプールなど、もろもろの金銭関係をひとつの貸借対照表にしあげ、精算をするのである。そして各人の直販部数をノオトに記載し、直販と分配の部数を渡す。むろん、時間がなくてあせっているから計算間違いを往々にしてやってしまう。そういうてんやわんやで、用意している料理と酒もそそくさながらに散会するのが、つねであった。一度、出来上がった雑誌を前に全員で、印刷したばかりの雑誌の香りを寿ぎ〈コトホギ〉ながらゆっくり酒を飲みたかったというのがわたしの『ことがら』にたいする最大の悔いである。こういうことはどんぶり勘定でやったらもっと楽なことだったが、そういうことをあえてやるのが『ことがら』の平等主義のタテマエ、というより『ことがら』の関係を実質的につくってきたスタイルであった。
 あと、『ことがら』は各人に拒否権を与えた全員一致制の組織であったことは付け加えておかねばならない。ともかく、『ことがら』は手間がかかる組織であった。

 なぜ、小阪は、同誌の終刊にあたって、このような「実務」的なことを、こまごまと書き残したのであろうか。これは一方では、雑誌『ことがら』に対する深い「思い入れ」の表白であり、他方では、こうした「手間がかかる」雑誌ゆえに、その維持が困難になったという釈明であったと思う。と同時に、こうした「雑務」から解放されるという安堵感を、はからずも表出したという面もあったと憶測する。

今日の名言 2012・8・27

◎問題は賠償金や特許ではなく、価値観だ

 サムソン電子との特許訴訟で、今月24日に勝訴したアップルのコメント。本日の日本経済新聞より。あくまでも記事を読んでの印象だが、アップルの価値観は、「コピーは許さない」という言葉に置き換えられるのではないか。

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