◎仏陀の「生天説」は方便ながらも自力に基づく教説
拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書、二〇一四年八月)に対する塩崎雪生氏の書評を紹介している。本日は、その三回目。
一行アキの部分は、引用にあたってもそのままとした。
仏陀はそこで方便を用いざるを得なくなりました。「方便」とは、本来説くべき事柄を受け入れてもらえない際に次善の策として講ずる工夫にすぎません。ですから、率直に言えばそれを額面どおりに受け取ってしまっては畢竟誤謬に陥ります。しかしながら目的意識 をはきちがえた一般大衆はみずから省察するところはなはだ乏しく、仏陀の方便を真の教 説だと都合よく理解しました。輪廻――これはインド的生命観の根幹であり、仏教のみならずほとんどのインド思想成立の基盤です――を通じて転生をくりかえすサイクルからは 離脱しようとする努力がなされないかぎりいつまでも逃れられないわけですが、仏陀登場 以前においては、善行を積みみつづけてゆけば必ずや来世にはよりよき境遇に生まれるであろう、というふうに、輪廻を苦のサイクルではなく、安楽へとむかうサイクルとして捉える一般的傾向がありました。インドはいまさらあらためて申すまでもなく鞏固なカースト制社会です。そのため上記「安楽へと向かう輪廻」は、当然のことながら来世における上位 カーストへの出生を意味してこざるを得ません。善行(それは上位カース卜に対する屈従忍 受ということに収斂されます)蓄積によって現在の境遇から脱し、来世においてより上位の カース卜に生まれて安楽を得ようと願ったのです。この発想はあくまで楽天的な現実世界 肯定の考え方であって、究極的には仏陀の厭世観と相容れるところはありません。しかし、 この一般的に通有されていた発想にどうにか仏説を融通させなければ、真の教説に傾聴してもらえないわけですから、方便としてこの発想を援用し、在家信者向けの説法を試みた のです。
仏陀が用いた方便は後世「生天説」と呼称されているものです。「生天」とは字面どおり「天に生ずる」という意味です。「天」とは、人間世界より上位にある「天界」、つまり天人・天女が住まう天上界です。自然環境も日々の衣食住も申し分ないほどに荘厳された夢想的楽土が思い描かれていました。しかしこの「天界」は、輪廻を繰り返す六道の外にある世界ではありません。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道(六趣ともいう)のなかに生きるすべてのものにおいては、業(つまり日常のおこない)の蓄積によって、死後その者にふさわしき段階へと生まれる因がつくられます。善行を重ねてゆけば、来世において苦患にみちた人間世界を超える天に生まれることも可能だ、とするのがすなわち「生天説」です。仏陀としては、たとえ天界に生まれたとしても輪廻の軛からは逃れられないのだぞ、という含みをもたせての方便だったわけでしょうが、どうも在家信者たちの耳には都合よき事柄しか届かなかったようです。この方便説たる「生天」が、極楽往生という発想の起源となります。
現代日本の浄土真宗においても極楽浄土は永住の地とはされていません。往相・還相と いいまして、極楽に往生するだけでなく、やがて「天人五衰」(これについては『氷の福音』 でも触れています)を経て人界へと還らざるを得なくなります。もちろん真宗においてはその還相を否定的に捉えることはありません。すなわちあくまで輪廻肯定の非仏説なのです。
いまから30年ほど前に、曹洞宗では「三時業」を説くのをやめた、と仄聞しました。「三 時業」とは、過去・現在・未来の「三時」を貫通する業の作用を指します。つまり、過去の業(おこない)によって形成された因が現在へと作用を及ぼし、さらに現在の業が未来へと作用するという因果の連鎖のことです。平心に見れば、仏教(といいますかインド思想)の世界認識としてなんらの疑点も感じられませんので、なにゆえそれを説くのをやめなければならないのかさっぱり理解できませんが、当時解放同盟等から曹洞宗が突き上げを喰らい、現在の境遇を説明する理論として前生の業に基づく因果応報説を説くのは差別的発想だと指弾されたため、それにより曹洞宗の宗門「三時業」を口にしないとあっさり決定したとのこと。現在もそのような決定のままなのかどうかはよく知りませんが、思い切った決断をしたものだといたく感心すると同じに、因果応報を説かないで仏教が存立するわけがないではないかと苦笑せざるを得ません。
現在ちまたにあふれる仏教書の山を目にして当方が最も疑問に思うことは、「救い」「悟り」の2語が深く検討もされずにまったく野放図に用いられているということです。まず「救い」についてですが、多くの場合、本来の仏教ではみずからの努力の成果として(つまり 自業自得として)しか解脱はもたらされないのだという基本事項が閑却され、他者からの恵みによってなにかしら安楽らしきものがもたらされるが如くなんらの根拠もなく認識されています。これはつまりは上述した古代における在家信者たちの誤解がこんにちまでもひきずられているといえそうです。仏陀が用いた「生天説」は方便ながらもそれでもあくまで自力に基づく教説です。それが「念仏」という行為――当初は「仏を念ずる」の語義どおり「仏が眼前にいるかのように心のなかで思い描く」ことだったものが、「仏の名を口頭で唱える」ことへと変化しているわけですが――によって「救い」が他律的にもたらされるかの如く捉えるのは、仏教としての基本原理を逸脱しています。そして在家信者があくまで熱望しているのは、無論解脱などではなく極楽往生であるわけですから、これでは「最後の審判」後に堅信者が受動的にキリストによって「携挙」され天国に到るとする通俗キリス卜教と大差ないではありませんか。
それから「悟り」についてですが、この語も「救い」以上の乱脈さで使用されています。まるでとにかくなんらかの行法に専心励んだすえに一定の心的変化が得られたならば、すべて「悟り」なのだと認められるかのような誤った通念がゆきわたっております。原理的に見 れば、仏陀の菩提榭下における成道(sambodhi)すなわち『正覚」は、「諸行無常、是生滅法、 生滅滅已、寂滅為楽」に尽きているはずです。つまり、「この世のあらゆるものは移ろいゆ く。生じては滅し、滅しては生ずるを繰り返す。この生滅の繰り返しが終熄したならば、 その寂滅の境地こそが安楽なのだ。」という認識こそが覚者たる仏陀の「悟り」の内実です。 ちまたを見渡せば、この仏陀の正覚とはまったく異なる人生讚歌のような「悟り」が幅をきかせている現状を至るところで目にすることができます。【以下、次回】