礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

仏陀の「生天説」は方便ながらも自力に基づく教説

2020-02-29 03:30:24 | コラムと名言

◎仏陀の「生天説」は方便ながらも自力に基づく教説

 拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書、二〇一四年八月)に対する塩崎雪生氏の書評を紹介している。本日は、その三回目。
 一行アキの部分は、引用にあたってもそのままとした。

 仏陀はそこで方便を用いざるを得なくなりました。「方便」とは、本来説くべき事柄を受け入れてもらえない際に次善の策として講ずる工夫にすぎません。ですから、率直に言えばそれを額面どおりに受け取ってしまっては畢竟誤謬に陥ります。しかしながら目的意識 をはきちがえた一般大衆はみずから省察するところはなはだ乏しく、仏陀の方便を真の教 説だと都合よく理解しました。輪廻――これはインド的生命観の根幹であり、仏教のみならずほとんどのインド思想成立の基盤です――を通じて転生をくりかえすサイクルからは 離脱しようとする努力がなされないかぎりいつまでも逃れられないわけですが、仏陀登場 以前においては、善行を積みみつづけてゆけば必ずや来世にはよりよき境遇に生まれるであろう、というふうに、輪廻を苦のサイクルではなく、安楽へとむかうサイクルとして捉える一般的傾向がありました。インドはいまさらあらためて申すまでもなく鞏固なカースト制社会です。そのため上記「安楽へと向かう輪廻」は、当然のことながら来世における上位 カーストへの出生を意味してこざるを得ません。善行(それは上位カース卜に対する屈従忍 受ということに収斂されます)蓄積によって現在の境遇から脱し、来世においてより上位の カース卜に生まれて安楽を得ようと願ったのです。この発想はあくまで楽天的な現実世界 肯定の考え方であって、究極的には仏陀の厭世観と相容れるところはありません。しかし、 この一般的に通有されていた発想にどうにか仏説を融通させなければ、真の教説に傾聴してもらえないわけですから、方便としてこの発想を援用し、在家信者向けの説法を試みた のです。
 仏陀が用いた方便は後世「生天説」と呼称されているものです。「生天」とは字面どおり「天に生ずる」という意味です。「天」とは、人間世界より上位にある「天界」、つまり天人・天女が住まう天上界です。自然環境も日々の衣食住も申し分ないほどに荘厳された夢想的楽土が思い描かれていました。しかしこの「天界」は、輪廻を繰り返す六道の外にある世界ではありません。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道(六趣ともいう)のなかに生きるすべてのものにおいては、業(つまり日常のおこない)の蓄積によって、死後その者にふさわしき段階へと生まれる因がつくられます。善行を重ねてゆけば、来世において苦患にみちた人間世界を超える天に生まれることも可能だ、とするのがすなわち「生天説」です。仏陀としては、たとえ天界に生まれたとしても輪廻の軛からは逃れられないのだぞ、という含みをもたせての方便だったわけでしょうが、どうも在家信者たちの耳には都合よき事柄しか届かなかったようです。この方便説たる「生天」が、極楽往生という発想の起源となります。
 現代日本の浄土真宗においても極楽浄土は永住の地とはされていません。往相・還相と いいまして、極楽に往生するだけでなく、やがて「天人五衰」(これについては『氷の福音』 でも触れています)を経て人界へと還らざるを得なくなります。もちろん真宗においてはその還相を否定的に捉えることはありません。すなわちあくまで輪廻肯定の非仏説なのです。
 いまから30年ほど前に、曹洞宗では「三時業」を説くのをやめた、と仄聞しました。「三 時業」とは、過去・現在・未来の「三時」を貫通する業の作用を指します。つまり、過去の業(おこない)によって形成された因が現在へと作用を及ぼし、さらに現在の業が未来へと作用するという因果の連鎖のことです。平心に見れば、仏教(といいますかインド思想)の世界認識としてなんらの疑点も感じられませんので、なにゆえそれを説くのをやめなければならないのかさっぱり理解できませんが、当時解放同盟等から曹洞宗が突き上げを喰らい、現在の境遇を説明する理論として前生の業に基づく因果応報説を説くのは差別的発想だと指弾されたため、それにより曹洞宗の宗門「三時業」を口にしないとあっさり決定したとのこと。現在もそのような決定のままなのかどうかはよく知りませんが、思い切った決断をしたものだといたく感心すると同じに、因果応報を説かないで仏教が存立するわけがないではないかと苦笑せざるを得ません。

 現在ちまたにあふれる仏教書の山を目にして当方が最も疑問に思うことは、「救い」「悟り」の2語が深く検討もされずにまったく野放図に用いられているということです。まず「救い」についてですが、多くの場合、本来の仏教ではみずからの努力の成果として(つまり 自業自得として)しか解脱はもたらされないのだという基本事項が閑却され、他者からの恵みによってなにかしら安楽らしきものがもたらされるが如くなんらの根拠もなく認識されています。これはつまりは上述した古代における在家信者たちの誤解がこんにちまでもひきずられているといえそうです。仏陀が用いた「生天説」は方便ながらもそれでもあくまで自力に基づく教説です。それが「念仏」という行為――当初は「仏を念ずる」の語義どおり「仏が眼前にいるかのように心のなかで思い描く」ことだったものが、「仏の名を口頭で唱える」ことへと変化しているわけですが――によって「救い」が他律的にもたらされるかの如く捉えるのは、仏教としての基本原理を逸脱しています。そして在家信者があくまで熱望しているのは、無論解脱などではなく極楽往生であるわけですから、これでは「最後の審判」後に堅信者が受動的にキリストによって「携挙」され天国に到るとする通俗キリス卜教と大差ないではありませんか。
 それから「悟り」についてですが、この語も「救い」以上の乱脈さで使用されています。まるでとにかくなんらかの行法に専心励んだすえに一定の心的変化が得られたならば、すべて「悟り」なのだと認められるかのような誤った通念がゆきわたっております。原理的に見 れば、仏陀の菩提榭下における成道(sambodhi)すなわち『正覚」は、「諸行無常、是生滅法、 生滅滅已、寂滅為楽」に尽きているはずです。つまり、「この世のあらゆるものは移ろいゆ く。生じては滅し、滅しては生ずるを繰り返す。この生滅の繰り返しが終熄したならば、 その寂滅の境地こそが安楽なのだ。」という認識こそが覚者たる仏陀の「悟り」の内実です。 ちまたを見渡せば、この仏陀の正覚とはまったく異なる人生讚歌のような「悟り」が幅をきかせている現状を至るところで目にすることができます。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・2・29

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剃髪は刑余者やアウトカース卜を模している

2020-02-28 00:56:01 | コラムと名言

◎剃髪は刑余者やアウトカース卜を模している

 拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書、二〇一四年八月)に対する塩崎雪生氏の書評を紹介している。本日は、その二回目。

 以前もお伝えしましたが、宗教史的に見ても浄土教は仏教と呼べるような性質のもので はありません。なかでも日本の浄土真宗は、本来は来世教であるべき仏教とは異なり、親鸞自身が如来の制戒を守れないと宣言し、一切の戒律を放擲して肉食妻帯許容の(つまり現世本位の)新宗教を唱えたわけですから、そういった意味ではあるいは現世の幸福を希求して勤労奨励の姿勢が生み出されることも可能だったのかもしれません。
 そもそも仏教で言うところの「精進」なる語は、日常レベルでの諸種の絶えざる努力をさしているのではありません。仏教は終極的には生死輪廻からの解脱(ふたたび転生することなき寂滅)を追い求める教説ですから、この解脱をめざしての「精進」、解脱実現のための「精進」であるわけで、生活改善や生産性向上を目的としての努力をなんら意味しません。なによりも仏陀の教説は世俗的労働を断然忌避しております。仏教の根本教義にのっとれば、衣食住からして常人の通常有するものをまずは捨て去らなければなりません。まとう衣服は糞掃衣(ふんぞうえ)・冢間衣(ちょうけんえ)――糞便を拭って廃棄されたボロ布を綴りあわせて衣としたり、死人の着ている衣服を墓をあばき剥ぎ取って身に着けたり――つまり廃棄物(ゴミ)なのであり、食物は乞食して得る世人の残飯であり、食事時間は午前中に限られ、しかも肉食魚食は無論避けられます。そして一所不住、ホームレスの漂泊状態で日々すごし、長期間定住することを甚だしく厭悪します。剃髪するのも社会外存在としての刑余者やアウトカース卜を模しているとお考えください。細大漏らさず家族・財産・社会的地位に対する執着を断乎断絶します。つまり、その為すことすべては通常一般の日常生活の全面的破却なのです。常人がめざすであろう生活向上が罪悪視され、まったく逆方向に努力が重ねられます。世俗的には美徳とされる事柄すべてが悪徳とされて忌避の対象となります。つまり負の業をたくわえることによって二度とふたたびこの世に生まれてくることがないよう(後生を受けざるよう)寂滅の因を得ようとするのです。
 浄土真宗は、「欣求浄土」とともに「厭離穢土」一一つまりこの世の移ろいゆく無常のあ りさまをあたかもきたない廃棄物が腐敗してゆくのと同様に嫌悪する――をスローガンと しますが、どの程度の切実さをもって叫ばれていたのか、あまり判然としません。「穢土」 (けがらわしき現世)を厭い、絶えざる「勤労」を通じて「浄土」(現世の美しき楽土)とやらを実現するのだともしも真宗勤農者が思っていたのだとしたら、それは本来の浄土教からもかけ離れたみごとな曲解です。しかしながら、あらゆる思想潮流というものは、その思想内容の程度を問わず、創唱の意図どおりに継承されつづけることはきわめてまれであり、原理主義的回帰の努力が専一に為されないかぎりその変容(崩潰というべきか)はおよそ とどまるところを知らないでしょう。
 仏教は元来出家本位の教説です。そのため仏陀在世当時から、出家しようともしないで 日常生活をそのまま営みながら仏陀につきしたがおうとする在家信者という者たちに対し ていかに法を説くべきかについては、当然のことながらきわめて煩わしい問題として捉え られていたはずです。出家が前提であることを口を極めてくりかえしくりかえし主張して いるにもかかわらず、世俗的生活をつづけながら仏陀にとり縋ろうとするわけですから、この在家信者という存在ははっきり言って仏陀がめざすものとはかなり異なった目的意識 をいだいていたのです。仏陀がめざす寂滅――輪廻のサイクルから離脱して、死後ふたた び六道にうまれなくなること――を追い求めているのではなく、ただ単に生活上の困りご とからの解放を望んでいたにすぎません。貧困・病気・家庭内の不和・長上者からの収奪・ 災害・飢饉・戦乱・暴政……。しかしながら、仏陀が懸命に逃れようとしていたのは、そのような個別の苦患ではなくして、それらの苦患が生じてやまないこの現実世界そのものであったわけです。出家修行者と在家信者とのあいだには決して埋めることのできない甚だしい現実認識の相違があります。在家信者は仏陀の説く一切皆苦・諸行無常・諸法無我といった世界認識を決して真正面から受けとめようとはしません。在家信者たちにとっては、目の前に立ちふさがっている不幸が消え去り、安楽な生活がつづけられさえすればそれでよいのです。端的に言えば解脱しなくとも、涅槃に入らなくてもよいのです。厳しい戒律遵守や日常生活放擲など土台無理だと最初から決めてかかっており、仏陀の所説が最終的には理解されることなく拒絶されています。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・2・27(なぜか2位にミソラ事件)

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『日本人はいつから働きすぎになったのか』に書評をいただいた

2020-02-27 03:54:35 | コラムと名言

◎『日本人はいつから働きすぎになったのか』に書評をいただいた

 十日あまり前、畏敬する思想家の塩崎雪生氏から、拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書、二〇一四年八月)についての書評を拝受した。「書評」と言っても、ただの「書評」ではない。A4用紙一〇ページに及ぶ本格的な書評である。いや、書評というのも当たらない。書評という形をとって、塩崎氏が、その思想の一部を披歴されたエッセイと言うべきか。
 以下、その「書評」を、何回かに分けて紹介させていただく。なお、この書評には表題がなく、小見出し等も付されていない。一行アキの部分は、引用にあたってもそのままとした。

前略 
 昨年末には貴著『日本人はいつから働きすぎになったのか』をご恵贈いただき、誠にありがとうございます。年頭は野暮用多く、実際に繙いたのは三が日を過ぎてからなのですが、一読種々触発されるところがありました。以下思いつくままに記しましたが、なんらかのご参考ともなれば幸甚に存じます。

 年末の某日、たまたま中野泰雄『政治家中野正剛』上巻巻頭の、正剛自決前夜を描いた序章『断 十二時』を読んでおりましたが、はからずも下掲のごとき一文に逢着したため、傍線を施さざるを得ませんでした。
「国生と書いてコクショウと読ませる名の憲兵をわきにして、雑談はつづいた。仮面をかぶりあったような雑談に私は興味が持てなかった。父は憲兵に、「泰雄もこの一一月一日に徴兵検査だが、兵科はなにが一番よいだろうか。」憲兵は自分としては憲兵がよいと思っているが、経理などがよいのではないでしょうか、と答え、これにたいして、父は、「経理はつまらんね、やっぱりいくさをする部隊がよかろう、馬が得意だから騎兵はどうだ」と言っていた。「軍隊生活からはなにか得るところがあるかね」という父の問にたいしては、憲兵は、軍隊生活は人間をきっちり型にはめてくれますからよいですと答え、父はこれにたいして、人間は型を破ってゆくのでなければ、ものにはなれない、といっていた。型にはめられながら、矛盾があっても命令にしたがうことによって責任をさけることのできることを、この憲兵は若いくせにすでに会得していた。」(14~15頁)
 昨今あまり聞かれなくなりましたが、かつては巷間、小役人根性を指弾して「休まず遅れず働かず」などと揶揄したものです。上記憲兵の心性などはまさしくそのモデルタイプで、いかなる大戦争が勃発しようとも決して死ぬことはない部署を本能的に選んでいます。戦地憲兵などというものもありましたが、それとて最前線で敵とドンパチやるわけはない。この憲兵国生は内地勤務の、しかも丸腰の政治犯・思想犯を相手にしているだけですから、一億が目の玉を三角にして奮闘している狂乱状況を安楽な桟敷から眺めやって、内心「憲兵が一番有利だが、経理なら死ぬことはないぞ。なぜ騎兵などになってわざわざ死にたがるのだ」と冷笑しているわけです。
 如上の問答のあと正剛は、俺は早く休みたい、誰か起きていると気になって寝つけない からみんな早く寝ろ、と家族にも憲兵にも告げて人払いをします。すでに最後の決意はで きていたのです。
 翌早朝、当然のことながら家中騒然となるのですが、午前8時ごろ泰雄のもとに憲兵がやってきて言うには、「御容態はいかがですか。私たちは前の晩の様子でお察ししてはいたのですが」。そして「御大事に」となんら実意のともなわぬ捨てせりふを残し任務無事完遂 とばかりにそそくさと辞していく。帰趨を察していながら「どうか思いとどまりください」 と一言かけるわけでもない。まるで「最後を見届けよ」と密命を帯びていたかのようです。決して責任が問われぬよう「静観」を常とする狡猾さはまさに賤吏の亀鑑と申せましょう。
 さて、やにわに本題に入りますが、この憲兵国生は「勤勉」なのでしょうか。それとも「怠惰」なのでしょうか。下級官吏としての本領を遺憾なく発揮し、当面の国策に反する不平分子掃滅に寄与し、職務を滞りなく全うしているのですから、「勤勉」といえるのでしょうか。それとも大戦のさなかにありながら真箇《皇国軍人精神》とやらに「覚醒」するわけでもなく、安穏安楽安閉悠長な立場に安住し、保身のみを計算しているから「怠惰」なのでしょうか。宮沢賢治の言葉に「ほめられもせず、苦にもされず」というのがありましたか、あるいは「そういう者に私はなりたい」と思わせるほどの理想像として仰ぐべきなにものかをこの憲兵は体現しているのでしょうか。
 結論から言ってしまえば実もふたもないのですけれども、貴著の最終ページにおいて到達されたお考えから喚び起こされる人間像は、実際どのようなものになるのか、と考えた際、ふと想い起こされたのは、この決してハッチャキにもならず、またこれといって目立った粗相もしない、きわめてノンビリでありながら要領よく立ち回る憲兵国生の去就でありました。国生はどう間違っても過労死することはありません。そしてまた、どう間違っても甚だしい懶惰に流れることもありません。大してほめられもせぬと同時におそらく上司同僚から苦にされることもないでしょう。いかなる状況に立ち至ったとしてものらくらとしたたかに生き抜いてゆきます。しかし、この男の生きざまは決して美しくはありません。それこそ映画「一番美しく」で描かれた登場人物とは対極にあるといえます。

 「新映画」1943年3月号に「一番美しく」と題する黒沢の随筆が載っているそうです。 映画製作着手以前の執筆かと推測します(以下は浜野保樹編『大系黒沢明』第1卷〔講談社、2009〕収載文からの孫引き)。
「……簡単に映画の面白さなどと云うが、日本人が映画から受けとっている面白さと云う ものの性質をもっとよく研究して見る必要があると思う。
 (中略)
 アメリカ人はハッピイ・エンドが好きで、日本人は悲劇的な結果が好きだと云う事実にしても、そのかげにアメリカ人が単に面白さだけに満足しているのに、日本人はそれ以上にある美を求めているのだと云う様な理由が何かある様に思われるのである。
 僕は、『ハワイ・マレー沖海戦』の試写の時、尊き犠牲……飯塚機が自爆するところでスクリーンを拝んでいるお婆さんを見た。
 入道雲を背景にスモークをひっぱって飛んでいる艦上戦闘機に向って手を合せているその老婆の顔は何か物凄く美しいものに酔っている様な表情を浮べていた。
 僕はジーンと目頭が熱くなって来る中で、これだと思った。
 これがつかめれば、アメリカ映画糞喰えと思ったのである。
 (中略)
 面白さと云い、美しさと云い、すべては見物の胸の中にあったのである。
 先ずその琴線をさぐりあてるのが第一なのである」(153~154頁)
 アメリカ人は美など考慮せず面白さだけで満足していると断定する偏見にはこの際目をつぶるとして、観衆がなにに美を見出して心底称賛するのかを映画人は把握しなければならないと黒沢は自分自身に言って聞かせているわけですが、それはたとえ悲劇的末路を迎えようとも職務に尽瘁する姿こそが美しいのだという認識に要約できます。
 貴著論述の最終到達点「怠けてもいいじゃないか」からは、容易に「美しくなくてもいいじゃないか」「見苦しくてもいいじゃないか」が導き出せるはずです。しかし、大衆心理というものは意外なことになかなか「醜くてもいいじゃないか」と割り切る方向へは働かないものです。現実に置かれた状況が醜悪この上もなく自分自身が日夜いそしんでいる営為そのものか見るに耐えないということをあやまたず認めていればいるだけ、どうにか現状を変えたい、いくぶんなりとも美しくなりたいと願うものです。それが戦時下の隸従状況であっても、また戦後焼け跡のルンペン状況であっても、(究極的には表層現象に過ぎないとしても)よりよい生活をしたい、堕落した現状から脱出したいと願いながら庶民は懸命に努力していたのではないでしょうか。
 かかる貧困脱出の努力志向というものは、万人通有のものなのではないでしょうか。それがある限られた民族性に根ざすとか、ある特定宗教・宗派の教義が根柢に作用しているといった捉えかたは、それこそ「心的機序」をどうにかうまく説明できているかに見えて、僭越ながらいまひとつ本質に迫れていないのではないかと当方は思っています。
 たとえば、ピューリタニズムや浄土真宗が教勢を張る地盤において「勤労農民」が多数登場してきたということがたとえ事実であったとしても、そのほかのカトリックやギリシア正教や、勤倹を絵に書いたようなユダヤ人、あるいは禅(とりわけ曹洞宗)・日蓮宗諸派などが「怠農」ぞろいだったとはどうしても思えません。余英時が朱子学に裏打ちされた士大夫精神のなかに宋明時代以降の商業勃興の原動力を見ようとしましたが、この捉えかたも同様に整いすぎの感があり、肝心なツボをはずしているように思われてなりません。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・2・27(5位に珍しいものが入っています)

 

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栗原中尉は白ダスキ姿で民衆に対し演説をブッた

2020-02-26 03:25:07 | コラムと名言

◎栗原中尉は白ダスキ姿で民衆に対し演説をブッた

 県史編さん室編『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県史刊行協力会、一九八一)から、金子良雄さんの「総理の写真」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 襲撃終了後全員車廻し付近に集合して四斗樽(清酒国冠、地下室に保管してあった)を抜いて乾杯した。
 次いで私は別動隊となり、栗原〔安秀〕中尉等と共にトラックで朝日新聞社の襲撃に出発した。間もなく数寄屋橋を渡った所で我々MG〔機関銃〕班が下車、将校と小銃班が現地に向った。我々は橋のたもとにMGをすえて一般人の渡橋を遮断した。警戒中数名の民間人がきて「演習ですか」と聞いたので「これを見れば判るだろう」といって実弾を見せたが、彼等はそれでもまだ演習だと思っていたようである。
 新聞社の襲撃は一時間足らずで終了した。我々は再びトラックに乗り各報道機関を巡回した後官邸に引揚げた。
 その日〔二月二六日〕は寒い一日だった。歩哨以外は適宜暖をとったが、正門脇の詰所では戸を閉めて木炭を一俵一度に焚いたため忽ち一酸化炭素の中毒をおこし気が狂って発砲する騒ぎまでおこった。
 翌日〔二月二七日〕霊柩車がきて遺体を運び出したので、近くにいた我々は整列して見送った。将校たちが忙しく出入し状況が刻々変ってゆく様子がみえる。栗原中尉は他所に行ったまま長時間戻ってこないので、下士官兵は警備体制のままでノンビリしていた。そうなると屋内見物や調度品に目が注がれ、いつしか記念品の蒐集が始まった。各種の目ぼしいも のが兵隊のポケットに入ったようで、中にはシャンデリアの飾りをダイヤと思込み途中から切って失敬した奴もいた。
 私はこのチャンスを逃さず総理の部屋に入り室内にある文書を片端から読みふけった。一体どんな政治が行なわれているのか、それが私の興味をそそったからだ。そのうち床次竹二郎〈トコナミ・タケジロウ〉、荒木貞夫からの建白書が出てきた。これらの内容をみると既に二・二六事件の前ぶれが汲みとられ、発生を予測していた惑がもたれた。私はここで手文庫の中からパイロット万年筆を取り出しボケットに収めた。
 その夜私が非常門の歩哨に立ったとき、荒木大将がきた。私は早速「誰カッ!」と誰可〈スイカ〉した。すると相手は、「お前は何年兵か」と反問したので「初年兵であります」というと「そうか立派なものだ」といって帰って行った。
 当時歩哨線を通過できるものは合言葉「尊皇―討奸」及び体のどこかに三銭切手を貼布してある者とされていたのである。
 夜何時頃だったか、民間人が大八車に握り飯を山のように積んで持ってきたことがあった。
「兵隊さん、これは私共の気持です。ゼヒたべて下さい」
 その人は泣きながらそういって握り飯を置いていった。民衆が我々に味方し援助してくれることは実に有がたいことだ。我々の蹶起は民衆も認めているのである。栗原中尉は坂を下った交叉点付近に出向いて白ダスキ姿で民衆に対し演説をブッた。民衆がそれにこたえて盛んに拍手と檄を送っている。民衆にとって我々の蹶起が当然のことのように受け止めているようだった。【以下、略】

 金子良雄さんの文章は、このあとも続くが、以下は割愛する。
 二・二六事件については、さらに諸資料を紹介してゆくつもりだが、明日は、いったん話題を変える。

*このブログの人気記事 2020・2・26

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日本間にある総理の写真を持ってきてくれ(栗原安秀中尉)

2020-02-25 00:30:02 | コラムと名言

◎日本間にある総理の写真を持ってきてくれ(栗原安秀中尉)

 県史編さん室編『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県史刊行協力会、一九八一)から、金子良雄さんの「総理の写真」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 日曜日は休日で用のない者には外出が許可される。そんな時栗原〔安秀〕中尉は外出者を集めて次のような訓示をした。
「お前たちは天皇の軍隊であり軍人である。だから外出中警官に文句をいわれたらブッとばせ、連絡あり次第俺が馬に乗って応援に行く」
 以上のように栗原中尉の気質や思想はいつしか私達初年兵にしみこみ、信頼を深めていった。従って事件への参加は全員抵抗なく一致結束できたのだと思う。しかも日頃の訓話によって世なおしの必要を教えこまれていたので蹶起は独り将校だけでなく、下士官兵も気脈をあわせて立ち上ったとしか考えられない。中尉は我々の入隊時勅論など形式的なものは覚えなくてもよい。それよりも何日何時でも天皇の前で潔よく死ぬ覚悟を堅持してもらいたいといったがこれこそ真に憂国の至情というものであろう。
 栗原中尉という人はそういう無駄のない赤誠にあふれた青年将校であった。
 なお栗原中尉との個人的ふれあいは、私が川越出身だということでいろいろと町の様子を聞かれ親しくなっていた。初めのうちは知人でもいるのかと思っていたが、実は昭和八年〔一九三三〕十一月に起きた救国埼玉青年挺身隊事件で本人も連座し、政友会総裁鈴木喜三郎の暗殺を企図した経緯が秘められていたのである。
 さて二月二十五日の晩、点呼後我々は二装用軍服を着て待機するよう命令された。班長たちはピストルに実弾を込めて張切っているし何かが始まる気配がヒシヒシと迫っているようだった。私はフト、ベットの上で友達の東郷ヒ口シ、松津耕平の二人に手紙を書いた。
  <大事件発生、株暴落>
 この手紙は本人に届いたが、その後憲兵によって没収されたそうである。
 二十六日〇三・三〇非常呼集がかかった。私はいよいよ始まったなと直感した。
 その後大急ぎで仕度をして舎前に集合した。ここで実包を一人六〇発ずつ受領したあと、栗原中尉から訓示を受けたが、興奮していたためか何を話されたか覚えていない。そして出動先も判らなかった。その夜雪は止んでいたが前日までの残雪で外は明るかった。
 四時過ぎ出発、営門を出ると隊列は左折し赤坂方面に向った。途中私は鉄道大臣官邸前のポストに手飫を投凾した。やがて三十分もたった頃首相官邸に通ずる坂道を上って行った。いつも演習できた道だ。すると官邸の非常門と思われるあたりからビービーという非常ベルの音が聴えてきた。何のための合図なのか不明である。隊列は官邸を左に見ながら十字路を通過するとみるや、先頭の栗原中尉が突然戻ってきて通用門に近づき警戒していた警官を無言のうちに制圧、それを合図に各分隊は持場に散った。何事ぞ、襲撃目標は〔岡田啓介〕総理大臣だったのである。私は機関銃の第六分隊で裏門にまわりその付近の警戒にあたったが、その時襲撃隊は早くも屋内に入った模様で銃声が聞えてきた。
 しばらく銃声が響き緊張が続いたが間もなく静かになった。私は中の様子を見ようと加藤二等兵と共に警戒しながら家屋に近ずくと、栗原中尉が出てきて「日本間にある総理の写真を持ってきてくれ」と命令された。すでに射殺されている総理と照合するためであった。そこで私は写真をはずし栗原中尉の所に持って行くと、中尉は両方の顔を交互に見ていたが、その結果間違いないという確認を得たので遺体を日本間に移し安置した。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・2・25(24日はなぜか閲覧数が急伸)

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