礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

枢密院本会を休会し陛下の録音放送を拝聴した

2023-08-31 00:24:20 | コラムと名言

◎枢密院本会を休会し陛下の録音放送を拝聴した

 今井清一編『敗戦前後』(平凡社、1975)から、東郷茂徳の「八月十二日より十六日まで」という文章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 御前会議後閣僚と共に首相官邸に赴き閣議に参加したが、その間に外務次官を招致し連合諸国に対する通告書を準備するように話した。閣議は夜に入り詔勅案の審議を了えて捧呈し、同十一時詔勅が発布せられた。右閣議終了後全部の人がまだ円卓について居る間に阿南陸相は自分の所に来て姿勢を正した上、先刻保障占領及び武装解除に付き連合国側に申入るる外務省案を見たがあれはまことに感課に堪えない、ああ云う取扱をして貰えるのであったら御前会議でもさほど強く言う必要もなかったのだと挨拶したから、自分はこの二問題に付いては条件として提出するに反対であったが我が方の希望として申入るることはたびたび説明した通りであると答えたが、先方は重ねていろいろ御世話になりましたと丁寧に御礼を云うので、少しく鄭重過ぎる感じを受けたが、とにかくすべて終了してよかったと笑って別れた。
 同日深更から十五日早朝にかけ宮中において近衛兵一部の騒擾〈ソウジョウ〉があり、又総理の私邸及び平沼邸の焼打事件があった。又十五日早朝に陸相自決せる旨の報道に接した。それでその昨夜の態度が了解せられた。その他にも本庄〔繁〕大将以下多数者の自決があった。
十四日深夜スイス及びスエーデン両国政府を通じて米英蘇支四国政府に対し、陛下におかせられては「ポツダム」宣言受諾に関する詔書を発布せられ、右に関する諸手続を執らるる用意ある旨を申入れた。なお前記の占領及び武装解除の問題に付き十五日朝、
 一 帝国政府は「ポツダム」宣言の条項を誠意をもって実行せんとするものなるにかんがみて帝国政府の責務を容易円滑ならしめかつ無用の紛糾を避くるが如き配慮を希望する、これがため、
  (イ) 連合国側の艦隊又は軍隊の本土進入に就きてはあらかじめ通報せられたい。
  (ロ) 保障占領の地点はその数を少なくしかつ派駐の兵力も小ならんことを希望する。
 二 武装解除は帝国軍自らこれを実施し連合国は右の結果として武器の引渡しを受くるものとせられたく、又随身兵器は認められたい。
旨を述べ、なお万一先方が強圧的態度に出で、双方共に不慮の困難に遭逢〈ソウホウ〉するが如きことなきよう四ヵ国政府が我が希望に対し切実なる考慮を加えられんことを希望する旨をスイス国政府を通じ米国政府に伝達せしめた。
 なお十五日夕刻在スイス国加瀬〔俊一〕公使から在同地米国公使館より中立諸国に在る日本の公使館及び領事館の財産及び書類を連合国側に引渡すべき旨の要求があったとの来電に接したから、十六日直ちに本件要求は我が方の受諾したる「ポツダム」宣言のいずれの条項にも該当するものでないから米国の要求を応諾し得ざることを回答した。
 十五日午前十時から枢密院本会議開催せらるることになって居たが、前夜宮城内における騒擾のため幾分遅延して十一時半より陛下御親臨の下に開催せられ、自分から戦争終末に関する詳細の経緯を報告した。正午陛下の終戦に関する録音放送があったので暫時休会して一同これを拝聴したが、陛下の大仁無私にして真摯なる態度がよく現われて居るので国民一同の感動はさこそと察せられた。報告後二、三質問があり、本庄〔繁〕顧問官等は占領の長明に渉るを恐れて居るので、保障占領の性質上かつは近時の実例に照らしさほど長かるべしと思われずと説明し漸く安心を得た模様であった。更に深井〔英五〕顧問官はかねて戦争の成行に付き甚大の憂いを持って居たがかく終末に至ったのは誠に慶祝の至りで、これ御陵威【みいつ】の致す所なるも政府殊に外務大臣の苦心に対し満腔〈マンコウ〉の謝意を表するものでそのためわざわざ病躯を提げて出席したと述べて感銘を与えた。一時半までに報告及び質問に対する応答を了えた。
 右会議前総理より内閣総辞職に付いて相談があったから、自分は極めて適当の措置と思うと賛成したが、午後二時緊急閣議が開催せられ、総理から時局の収拾に付き御聖断を煩したるはまことに恐懼【きようく】に堪えずかつこの際少壮有為の人物が政局を担当することが適当と考うる旨を述べ、右の理由をもって総辞職をなしたいと申出でたので、各閣僚すべてこれに賛成して総理より全部の辞表を捧呈した。
 十六日正午に戦闘を休止すべき旨の御命令があった。しかしこの命令が各地に到達するには内地においては二日、満州、支那、南洋地域においては六日、「ニューギニア」及び比島は十二日の日子〈ニッシ〉を要する旨を先方に通報した。
   『東郷茂徳外交手記――時代の一面』
    昭和四十二年 原書房

 8月15日午前11時半より、天皇親臨の枢密院本会議が開催されたが、12時に暫時休会し、「録音放送」を聞いた、とある。本会議の場にラジオが持ちこまれたのか、顧問官らがラジオのある場所に移動したのか、このあたりを書きとめておいてもらいたかったところである。
「本庄大将」と「本庄顧問官」が出てくるが、同一人物である。元侍従武官長の本庄繁は、1945年5月19日に枢密顧問官となった。同年11月20日に自決。

*このブログの人気記事 2023・8・31(10位になぜか大野久寿雄)

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二千万人を特攻とすれば……(大西瀧治郎)

2023-08-30 00:55:07 | コラムと名言

◎二千万人を特攻とすれば……(大西瀧治郎)

 今井清一編『敗戦前後』(平凡社、1975)から、東郷茂徳の「八月十二日より十六日まで」という文章を紹介している。本日は、その三回目。

 同日〔8月13日〕夜自分は前々よりの約束により松平〔恒雄〕、芳沢〔謙吉〕元両大使を主賓とせる小宴を開いて居たが、突然〔梅津美治郎〕参謀総長及び〔豊田副武〕軍令部総長が至急面会したいとのことであったから首相官邸で会うことに約束し、九時から十一時まで懇談したが、会談の内容は彼我共午前構成員会同の際の意見を繰り返すのみでなんら進捗する所はなかった。会談中に大西〔瀧治郎〕軍令部次長が入室し、はなはだ緊張した態度で両総長に対し、米国の回答が満足であるとか不満足であるとか云うのは事の末であって根本は大元帥陛下が軍に対し信任を有せられないのである、それで陛下に対しかくかくの方法で勝利を得ると云う案を上奏した上にて御再考を仰ぐ必要がありますと述べ、更に今後二千万の日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用うれば決して負けはせぬと述べたが、さすがに両総長もこれには一語を発しないので、次長は自分に対し外務大臣はどう考えられますと聞いて来たので、自分は勝つことさえ確かなら何人も「ポツダム」宣言の如きものを受諾しようとは思わぬはずだ、ただ勝ち得るかどうかが問題だよと云って皆を残して外務省に赴いた。そこに集って居た各公館からの電報及び放送記録など見てますます切迫して来た状勢に目を通した上帰宅したが、途中車中で二千万の日本人を殺した所がすべて機械や砲火の餌食とするに過ぎない、頑張り甲斐があるならどんな苦難も忍ぶに差支えないが竹槍や拏弓〈イシユミ〉では仕方がない、軍人が近代戦の特質を了解せぬのは余り烈しい、もはや一日も遷延〈センエン〉を許さぬ所まで来たから明日は首相の考案通り決定に導くことがどうしても必要だと感じた。
 翌十四日臨時閣議が開催せらるるので首相官邸に赴くと、総理から別室に呼ばれて今朝これから政府及び統帥部連合の御前会議を開催して陛下の御聖断を仰いで万事を決定したいと思う、それで本問題の論議は十二分に尽し陛下も充分御承知のことであるから本日御前会議では外務大臣の意見に反対なるもの論旨だけ御聴きを願うことにしたいとの相談があったから、それで結構ですと自分は全部的同意を表した。やがて閣僚一同に参内せよとの御召しがあった。なお急なことであるから服装はその通りでいいとのことであったが、真夏のことで「ネクタイ」の無い者などもあったがこれらの人は秘書官に借りるとかしてやっと一通りの格好をつけて参内した。閣僚以外両総長等八月九日御前会議に参列せる者が防空壕内の会議室に参集したが、陛下の御親臨をまちて総理は八月十日我が方申入れに対する米国回答に忖き慣重審議を尽したるも、最高戦争指導会議構成員会同においても閣議においても意見一致するに至らずとて外務大臣の意見とこれに反対の意見とを説明し、御前にて右反対意見を御聴取せられんことを乞い奉る旨を述べ、梅津、豊田、阿南の順に指名した。〔阿南〕陸相及び〔梅津〕参謀総長は米国回答のままに「ポツダム」宣言を受諾するならば国体護持上由々しき大事である、されば更に米国と交涉することが必要であって、もし国体の護持が出来ないならば一億玉砕を期して戦争を継続するより外にないと思うと述べた。〔豊田〕軍令部総長は論旨やや穏かで、米国の回答そのままを鵜呑みにするに忍びないから今一度日本の所信を披瀝することが適当であると思うとの趣旨を述べた。その後には指名はなかった。そこで陛下は、この前「ポツダム」宣言を受諾する旨決意せるは軽々になせるにあらず、内外の情勢殊に戦局の推移にかんがみて決意せるものなり、右は今に至るも変る所なし、今次回答に付き色々議論ある由なるも自分は先方は大体においてこれを容れたりと認む、第四項に就きては外相の言う通り日本の国体を先方が毀損せんとする意図を持ち居るものとは考えられず、なおこの際戦局を収拾せざるにおいては国体を破壊すると共に民族も絶滅することになると思う、故にこの際は難きを忍んでこれを受諾し、国家を国家として残し又臣民の艱苦【かんく】を緩げ度し〈ヤワラゲタシ〉と思う、皆その気持になりてやって貰い度い、なお自分の意思のある所を明らかにするために勅語を用意せよ、今陸海軍大臣より聴く所によれば陸海軍内に異論ある由なるが、これらにも良く判らせるよう致せよとの仰せであった。一同はこの条理を尽した有難い御言葉を拝しかつ又御心中を察して嗚咽【おえつ】、慟哭【どうこく】した。誠に感激この上もなき場面であった。退出の途次長い地下道、自動車の中、閣議室においてもすべての人が思い思いに泪【なみだ】を新たにした。今日なおその時を想うとはっきりした場面が眼の前に浮び泪が自ず〈オノズ〉とにじみ出る。日本の将来は無窮であるが、ここに今次戦争を終了に導き日本の苦悩を和らげ数百万の人命を助け得たのを至幸とし、自分の仕事はあれで畢【おわ】った、これから先き自分はどうなっても差支えないとの気持がまた甦る。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2023・8・30(なぜか9位に山本有三)

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「参内して御聖断のことを御願いしましょう」鈴木首相

2023-08-29 04:25:21 | コラムと名言

◎「参内して御聖断のことを御願いしましょう」鈴木首相

 今井清一編『敗戦前後』(平凡社、1975)から、東郷茂徳の「八月十二日より十六日まで」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 翌十三日首相官邸で八時半最高戦争指導会議構成員の会同が開かれた。軍部から「バーンズ」回答第二項及び第四項は不満足であるからこれを修正せしむる必要がある、更に保障占領及び武装解除の二点について要求を追加する必要があると申出た。自分は昨日閣議で述べたと同様の趣旨で反対し、殊に新要求の追加は前回の御前会議で提出せざることに決定せるものを更に持出そうと云うのであるから甚だ不都合であると述べ、総理並びに海相は自分を支持して論難長時間に及んだ。議論は再び戦争継続の可能如何〈イカン〉にまで及んだが、阿南陸相及び梅津〔美治郎〕参謀総長いずれも決裂の場合なお一戦をなし得べきことを述ぶる計り〈バカリ〉で最後の勝利については予言するを得ずと云うのであった。自分は米回答の到着に付いて上奏するため午後二時に参内して昨日来審議の状況に付いても上奏したが、自分〔東郷〕の主張の通りでよろしいから総理にもその旨を伝えよとの御言葉であった。
 午後四時から閣議を開き更に論議を重ねた。最高戦争指導会議構成員会同において最も多く発言したのは阿南陸相であった関係上、自然自分と議論を交うることになり、更に閣議においても同一趣旨の議論を繰返すことになり、八月九日の御前会議においても同一の傾向が現れて時々はうんざりする気持にもなったが、緊張せる場面であったから誠意をもって議論したので相互の気持は最後まで明朗であった。ただし陸軍内部の動揺は前述の通り段々激化の模様があり、十二日には陛下を擁しかつ自分等閣員を隔離し「クーデター」を行う計画があるとの情報が頻々として伝わり雲行き甚だ穏かならず、自分の宅なども従前よりは遥かに多数を加えた警官によって護衛せられた。この陸軍中堅将校一部の活動は陸軍大臣にも幾分か影響した模様が見えた。閣議等において今なお一戦は可能であるから更に交渉すべしとて自分〔東郷〕を押すが、かえって自分から即時宣言受諾をもって強く押返されるので、十二日から十三日にかけ陸相は直接鈴木総理、平沼男、木戸内府の勧説にかかった。しかし総理へは常に、内大臣とは謁見の前後において面会して連絡を保持して居るので此方も効を奏しなかった。その頃以後陸相の態度につき種々の憶説があると云うことだが、自分が当時各種の機会において感知したる所をもってすると、死中活を求むると云う言は陸相の口より度々聞いたが、その脳裏には時々講和前今一度敵に打撃を与えたしとの希望が浮んだが、大局上から見てこれを固執しなかったものと考えた。しかしあの際に陸相その他陸軍首脳部の気持ちが熟しない間に強圧のみをもってこれに接したならば、その圧迫がいずれより来るにしろ部内の反撥は激成せられ、意外の暴挙も起こり、講和の成立は不可能となる懸念があった。あの際陸相が部下の刻々に盛り立つ動揺を抑え、大難局を収拾し得たのは、陛下の御聖断によることは勿論であるが、長期にわたり最高戦争指導会議構成員会同その他の機会に誠意をもってする協議によって戦争終結の根本方策が各人の胸中に蔵せられて居たに由ることが少なくなかったと思う。
 右十三日午後の閣議では陸相は時々思い惑う態が見えいつも程議論に熱心でなかったが、とにかく一応は自分と陸相との間に今朝〈コンチョウ〉構成員会同における討議が繰り返され、安倍〔源基〕内相等から抗戦を覚悟して邁進すべしとの発言があったので、自分は連合側の情勢その他から判断してこの上再回答を求めても効果がないばかりでなく我が方の和平に対する真意を疑わしむることともなる、結局連合国の回答は多数与国の主張の最低共通条件と見る外はないので、日本の再興と人類の福祉のためこの条件を受諾して和平に入るを急務とすと述べて海軍大臣の支援を得たが、自分の意見に反対するものが若干あった。そこで総理は各人にその意見を質【ただ】した結果、豊田〔貞次郎〕軍需大臣の去就不明、桜井〔兵五郎〕国務相の総理一任の外、受諾に賛成せるもの米内海相、広瀬〔豊作〕蔵相、石黒〔忠篤〕農相、太田〔耕造〕文相、安井〔藤治〕国務相、左近司〔政三〕国務相、岡田〔忠彦〕厚生相、小日山〔直登〕運輸相、下村〔宏〕無任相及び自分で、反対のもの阿南陸相、松阪〔廣政〕法相、安倍内相であった。しかし全会一致の決定を得ないので総理は散会を宣した。自分は陸相は結局「クーデター」に賛成することなきを信じて居たが、部下の動揺は激しいのでその圧迫を受け辞職その他の困難なる局面発生の懸念あり、早急に決定の必要を認めたので、右散会の後総理に荏苒【じんぜん】時を移すの不可なることを述べたが、総理は参内して御聖断のことを御願いしましょうと云った。【以下、次回】

 最後のところで、東郷外相は、阿南陸相が辞職を表明する事態を懸念している。この段階で、阿南陸相に辞職されると、その後任を選ぶ手続きに入らねばならず、天皇、鈴木首相、東郷外相による早期終戦構想は後退することになったはずである。阿南陸相は、しかし、そういった策を弄する人物ではなかったのだと思う。

*このブログの人気記事 2023・9・29(2位になぜか菅原文太さん、9位になぜか「ひとのみち」)

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東郷茂徳の手記(1967年2月)を読む

2023-08-28 03:43:39 | コラムと名言

◎東郷茂徳の手記(1967年2月)を読む

 今月17日から21日にかけて、林三郎の「終戦ごろの阿南さん」という文章を紹介した。今井清一編『敗戦前後』〔ドキュメント昭和史・5〕(平凡社、1975)に収録されていたものを引いた。初出は、雑誌『世界』の1951年8月号だという。
 実は、この『敗戦前後』には、東郷茂徳(とうごう・しげのり)の「八月十二日より十六日まで」という文章も収録されていた。この文章は、『東郷茂徳外交手記』(原書房、1967年2月)の一部だという。
 本日以降、この「八月十二日より十六日まで」を紹介してみたい。

 八月十二日より十六日まで  東 郷 茂 徳

 十二日早朝〔松本俊一〕外務次官等が辞去した後、自分は直ちに〔鈴木貫太郎〕総理を訪問して先方の回答を伝えた後、午前十一時に参内して回答の趣旨及びこれに対する措置振りに付いて上奏した。陛下は先方回答の通りでいいと思うからそのまま応諾するように取運ぶがいいだろうとの御言葉で、総理にもその趣旨を伝えるようにと仰せられた。よって直ちに首相官邸に赴き、右の事情を報告して打合せをなし居る最中に平沼〔騏一郎〕男が来訪せられて、右回答中の第二項及び第四項に付きて異存ある旨を述べられたので、自分は後に記載する閣議における陳述と同趣旨のことを簡約して述べて退出したが、総理はその以前〔阿南惟幾〕陸軍大臣からも「バーンズ」回答不十分との話しを受けたらしかった。日本の国体又は皇室の問題は「ソ」支では強硬な反対意見があることは明瞭であったが、米でも先年の不戦条約批准当時の経緯でも分る如く中々了解しないばかりでなく非常に機微の点があるのでその取扱は中々面倒であった。
 午後三時に臨時閣議が開催せられ「バーンズ」回答に付いて審議を重ねた。先ず自分は右回答は満足のものとは云い得ないが、我が方から天皇の統治権の問題を持ち出したから占領中は日本側の統治権能が無制限に行わるる訳ではなく「ポツダム」宣言の条件を実施するためには連合国最高司令官の権限が日本側のそれよりも上にあることを指摘して来たのである、すなわち保障占領の下においては降伏条件実施の枠内においては統治権に制限があるのは致方〈イタシカタ〉ないことであるが、原則的には天皇の地位は儼存するのである、第二項は天皇が降伏条件に掲ぐる条項を実施せらるる義務あることを指摘して来たのである、第三の捕虜輸送の問題及び第五の占領期間の問題はいずれも当然であって特に説明する必要はないと思うが問題は第四点である、国民の自由意思により政府の形態を決定する考え方は大西洋憲章にも記載せられて居り、「ポツダム」宣言も同様の趣旨に出て居るものである、すなわち日本の国体は日本人自身が決定ずべき問題であること、又従って外部よりこれに干渉すべからずとの意味である、又もし先方で人民投票の方法によって決定する意図であるにしても、日本人の忠誠心に照しごく少数のものを別とし大多数は我が国体の大本を変更せんとする考えを抱くものとは信ぜられぬ、他方各種の情報によれぱ連合国側の一部においては皇室問題に付いても強硬意見があるが、英米当路者が「バーンズ」回答案の程度に止めた模様と見える、先方の回答に付いて字句の修正を求めても往年の不戦条約批准前に修正を求めてその目的を達しなかったと同様、我が方の趣旨を貫撤し得ざる結果となる虞【おそ】れがあり、かつ又あくまでこの点に関する交渉を押進めんとする場合には、先方諸国における強硬派に口実を与え皇室否認の要求さえ提出せられずとは限らず、かくて遂に決裂を見るべき覚悟を要する処、八月九日御前会議決定の根本、すなわち戦争を継続することが不可能かつ不得策なりとの見地よりして本件交渉はこの辺にて取纏むることを必要と認むと述べた。
 これに対し陸軍大臣は天皇が連合国最高司令官の権限に従属すと記載せること、並びに日本政府の最終的形態を日本国民の意思により決定すとせることの不都合を挙げて先方回答は不満足であると述べ、他の二、三閣僚から日本の国体は神代の時代から決って居るので国民の意思によって決定せらるるのではないとか、武装解除の強制は帝国軍人にとって忍び得ないことであるから戦争継続の外はないとかの主張が持出された。自分はこれに対しても反駁し、〔米内光政〕海軍大臣は自分を支持したが、この時総理は武装解除を強制せらるるなら戦争継続も致方ないと発言した。これでは面倒な場面になると思ったから自分は先方からの正式回答も未着でありますからそれが到着した上更に審議を重ぬることにしたいと思う旨を述べた。それで翌日審議を継続することにして散会した。
 そこで自分は直ぐ総理の室に入って、今頃武装解除問題を持出す時機にあらざること、先方回答に付き押問答に入るの無益なることを説いて、決裂の覚悟がなければ先方回答をそのまま受諾する外ないが、陛下が戦争継続を欲して居られないのは御承知の通りである、戦争の見透しについては大元帥陛下の意見が基本となるべきは勿論であるが、このたびの問題は皇室の存否にも影響する問題であるからとくと陛下の意図のある所を按ずべきは当然のことである、されば首相及び内閣の意見が戦争継続に傾くが如き場合には単独上奏を致すことがあると御承知を願いたいと述べ、更に木戸〔幸一〕内府を訪ねて右の事情を語った。然るに内府は陛下に重ねて申上ぐるまでもなくその御意図が先方回答をそのまま受諾すべきであることは明瞭であるから、自分から総理には話しすることにしたいとのことであった。そしてその夜木戸君から電話があって、総理に話したところ総理はよく了解されたとのことであった。【以下、次回】

 東郷茂徳(1882~1950)は、鈴木貫太郎内閣の外務大臣。戦後、A級戦犯に指名され、1948年、禁錮20年の判決を受ける。禁錮中の1950年に病死。

*このブログの人気記事 2023・8・28(9位になぜか大川周明。10位になぜか桓武天皇)

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史料「南北朝正閏論者番付」(1911年3月)

2023-08-27 00:05:21 | コラムと名言

◎史料「南北朝正閏論者番付」(1911年3月)

 昨日の記事の補足である。当ブログの読者の中で、「南北朝正閏問題」に関心があるという方には、昨日、紹介した千葉功著『南北朝正閏問題』(筑摩書房、2023年7月)をお求めになるとよろしいと思う。定価1600円だが、間違いなく定価以上の価値がある。
 インターネット上で、同問題の概要をつかみたいという方には、山本四郎さんの「南北朝正閏問題について」という論文にアプローチされることをおすすめしたい。この論文は、『史林』第56巻第3号(1973年5月)に掲載されたものだが、今日、インターネット上で、その全文が閲覧できる(プリントアウトもできる)。
 数年前、私は、国立国会図書館に赴いて、この論文をコピーしてきた。32ページに及ぶ重厚にして周到な論文であった。その後、この論文の注に挙げられていた『グラフイック』第三巻第七号(明治四四年三月十五日号)を確認したくなって、再度、国立国会図書館に赴いたが、探し方が悪かったのか、『グラフイック』という雑誌を閲覧することができなかった。
 ちなみに、同誌同号には、「南北朝正閏論者番付」というものが載っているらしい。山本論文の64ページには、これを簡略化したものが掲載されている。貴重な史料だと思う。以下に、この「南北朝正閏論者番付」を紹介してみたい。

南 北 朝 正 閏 論 者 番 付

 南ノ方                 
張出大関 犬養 毅           
横 綱  井上哲次郎          年寄  楠  正成    
大 関  姉崎 正治              新田 義貞              
関 脇  三宅雄二郎              北畠 親房
小 結  穂積 八束              名和 長年
前 頭  黒板 勝美              足助 重範
 ″     笹川 種郎              菊池 武時 
 ″     黒岩 周六              藤原 藤房
 ″     福本 誠               児島 高徳
 ″     佐々木安五郎             村上 義光
 ″     小久保喜七
 ″     菊池謙次郎
 ″     蔵原 惟廓
 ″     佐藤 正嗣
 ″     石河 幹男
 ″     斎藤 隆三
 ″     小滝 淳
 ″     田中 舎身
 ″     高橋 義雄
 ″     猪狩 史山
 ″     伊藤 銀月

 蒙御免  行司 神皇正統記  呼出      勧進元 文 部 省
         梅 松 論  東京各新聞社      帝国議会

 北ノ方
張出大関 小松原英太郎           
横 綱  喜田 貞吉          年寄  足利 尊氏
大 関  吉田 東伍              宇都宮公綱
関 脇  久米 邦武              赤松 満祐
小 結  三上 参三              佐々木清高
前 頭  浮田 和民              二階堂道温
 ″     田中 光顕              大内 義弘
 ″     菊池 大麓              二条 良基
 ″     岡田 良平              高  師直 
 ″     下岡 忠治              塩谷 高貞
 ″     元田 肇
 ″     山路 愛山
 ″     荒川 五郎
 ″     辻 善之助
 ″     徳富 芦花
 ″     田中 義成
 ″     中村 勝麿
 ″     村上直二郎
 ″     渡辺薫之助
 ″     和田 英松
 ″     三島 霜川

*このブログの人気記事 2023・8・27(10位に極めて珍しいものが入っています)

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