◎政府としては余りに政治が無さ過ぎる
南原繁著『人間革命』(東京大学新聞社出版部、1948)中の「憲法改正」という文章のうち、「二」を紹介している。本日は、その五回目(一昨日からの続き)。
文中、傍点が施されていたところは、太字で代用した。
(五)次に憲法内容に関する質疑の第三項目として、国民の社会経済生活に関し伺ひ度い。民主政治の発達は国民全体の経済的基礎を確立するのでなければ不可能と思ふが、この問題解決に関し草案第三章「国民の権利及び義務」の規定は果して必要なる条件を充たしてゐるかどうか。草案が一般に個人の自由及び権利に関する基本的人権を保障したことは、遅れ馳せながら我が国に於ける啓蒙思想の完成として、現行憲法に比し、一段の進歩を示すものとして、吾々はその意義を高く評価する者である。しかし、単に個人の天賦人権思想を以ては、政治的国家生活に於てと同じく、国民の社会経済生活の問題は解決し得られるものではない。
ここにも十八世紀の自由主義的民主主義ではなく、新たに共同体民主主義が確立される必要があると思ふ。別して敗戦後、国土並びに資源の著しく狭少〈キョウショウ〉となつた我が国に於ては、従来の如きひとり自利心の追求とそれによる個々の企業の発達と競争といふよりも、寧ろ全体の計画経済の樹立と新経済秩序の確立、それによる国民生活の安定保障がより重要となると思ふが、政府はいかに考へられるか。それは個人の自由及び権利といふよりも、より多く社会的正義と福祉の問題である。戦争抛棄について世界に偉大な理想を宣言した日本は、国内の社会的正義の実現に向つても、今少しく画期的な方向を新憲法に於て明示する必要はなかつたか。
草案に於ては成程、個人の権利は濫用してはならず、公共の福祉のためにこれを利用すべき責任がないわけではない(第十一条、第二十七条二項)。政府はこの規定を手懸りとして或る程度まで適当な方策を講じ得るであらうが、それには限界があり、若しこれを越えれば新憲法に於ては最高裁判所が憲決違反の判決を為し得べく、為めに政府の折角の政策も無効に終ることあるは、最近、米国に於ても苦き経験を持つたところである。
今ここに一つの例を採り上げて論じ度い。草案には『すべて国民は勤労の権利を有する』(第三十五条)ことが認められてある。これを認めた以上は、国家は凡て〈スベテ〉の人に勤労の機会を与へ、正当なる報酬を得しめるやう、具体的に施設をなす義務を負ふ筈である。そのため政府は場合によつては経済の編成替〈ヘンセイガエ〉をなす必要が生ずるに相違ない。然るに本案に於ては、飽くまで財産権は侵してはならぬといふのが建前であつて、私有財産は必ずこれを正当なる補償をなすのでなければ、これを公共のために使用することができぬこととなつてゐる(第二十七条)。特定の目的のための公用徴収の場合ならばそれでも支障ないかも知れぬが、国家がすべての国民に勤労権を保障するために組織的な計画と施設を行ふ場合に、殆どそれが不可能に終らないであらうか。一体、政府はこの勤労権を具体的にどこまで保障する意図と計画を持つてゐるのであるか。またこれを忠実に実行せんとする場合に、上述の関連に於て新憲法上矛盾又は支障を来す惧れ〈オソレ〉はないか。以上の諸点につき厚生大臣の説明を承り度い。
なほ「国民の生活保障」の問題であるが、今回、衆議院の修正によつて『すべての国民は健康で文化的な最低生活を営む権利を有する』とせられたのは、先きに述べた社会的正義の実現を期した一つの新な条項として、喜ばしきことである。これに関連して質問いたし度きは、政府は現下の国民大衆の生活をいかに見て居られるかといふことである。かの長期に亘る遅配により主食配給の大幅の繰延〈クリノベ〉については、ここに問はぬ。今は連合軍の食糧放出の好意によつて、この七・八月を吾々都民は漸く生き延びて来たのである。それでも配給量を以ては、健康な生活は愚か、生存を維持することさへ絶対に不可能である。他方、当局の否認し続けてゐられる間にインフレは亢進し、諸物価の上昇停止するを知らず、国家大衆にとつて文化生活の享受は想ひも及ばぬことである。かやうな状態の下に、国民の生活保障といふは意味を為さぬのである。事態の困難性は十分了解せられるも、かくては政府としては余りに政治が無さ過ぎるではないか。
総じてこの種問題については、いかに憲法に於て明文化されたとしても、政府の熱意と努力がなければ空文に終る惧れがある。私は、憲法改正に当り、国家が国民の生活権を認めた以上、先づ現下の問題に対し、政府自身従来と異り、いかなる国民の生活標準を考へ、これに対するいかなる新たな具体的方策を立てんとして努力してゐられるかを、農林大臣に伺ひ度いのである。【以下、次回】
最後に、「農林大臣に伺ひ度いのである」とあるが、この時の農林大臣は、和田博雄であった。