礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

軍を攪乱したのは軍閥ではありませんか(磯部浅一)

2020-04-30 05:07:56 | コラムと名言

◎軍を攪乱したのは軍閥ではありませんか(磯部浅一)

 中野五郎『朝日新聞記者の見た昭和史』(光人社、一九八一年一一月)から、第六章「日本軍、東京を占領す――二・二六事件――」を紹介している。本日は、その二回目。本日は、「十八」の全文を紹介する。

      十八
 このような将軍中心の三月事件と、幕僚中心の十月事件の二つのクーデター計画を未然に探知して阻止しながら、軍首脳部は軍刑法の反乱予備罪を公正に適用して断乎、関係者を軍法会議に付して、徹底的に捜査、摘発するということをせず、処罰もせず、ただ、軍の体面上より軽い行政処分(転勤ならびに禁足処分)でごまかして、ひそかに闇から闇へ葬り去ったのであった。
 これがその後に来る五・一五事件(昭和七年〔一九三二〕)から二・二六事件(昭和十一年〔一九三六〕)にいたる一連の暗殺、反乱時代をまねいたのであった。
 しかも、軍部の手による国家革新のクーデターのタネをまいた将軍や、幕僚連中が、わずか数年後には、「統制」と「粛軍」の名の下に直情径行の青年将校(尉官級)の言動をおさえて、ひにくにも昭和維新の芽をつみとろうと努力したことが、かえって全国各地の青年将校たちの憤激を誘発した。
 とくに革命家北一輝〈キタ・イッキ〉の大著『日本改造法案大綱』に心酔、感激して、「重臣、財閥とともに内閣も君側の奸臣【かんしん】として仆【たお】すべし」と主張した急進派青年将校の指導者、村中孝次〈タカジ〉大尉と磯部浅一〈アサイチ〉一等主計の両人は、昭和十年〔一九三五〕四月に、「粛軍に関する意見書」と題する三月事件および十月事件の真相を暴露、追及した怪文書を各方面に頒布したため停職処分に付せられ、さらに同年八月、免官処分となった。それ以来、青年将校たちは統制派の軍主流をむしろ敵視して、昭和維新へ独走したわけだ。(前述)
 なぜ、三月事件と十月事件の中心人物たちが、わずか数年間のうちにクーデター計画を放棄して、かえって重臣、財閥と手を結んで、高度国防国家の建設へ邁進したのであろうか?
 なぜ、青年将校たちの崇敬の的であった皇道派の大立者の真崎甚三郎〈マサキ・ジンザブロウ〉大将が、軍主流の統制派よりにくまれて、冷【ひや】飯を食わされたのであろうか?
 それは、日本人固有の偏狭な島国根性がとくに軍人心理に強く作用していた点もあるが、最大の要因は、昭和六年〔一九三一〕九月十八日、奉天北郊の柳条溝の爆音一発により満州事変が起こって、軍部のかねて計画していた日満一体化の大陰謀がちゃくちゃくと成功しつつあったため、軍主流の将軍も幕僚連中も、軍部の政治的発言権が飛躍的に増大し、巨大な軍事予算も思うままに獲得できるようになって、「わが世の春」を謳歌していたからであった。
 軍人もまた人間である以上、とくに野心満々たる将軍や出世コースをめざす幕僚たちは、新橋や赤坂の一流料亭で、政財界の有力者ならびに革新官僚グループと接触している間に、冒険的なクーデターや、空想的な国家改造計画を未練もなく棄てて、満蒙支の経営と国防充実に熱中するようになった。
 このような将軍や幕僚の変節は、純真で単純な青年将校一派をいっそう、痛憤させて、これらの軍上層部を「軍賊」と罵倒して憎悪させるようになった。
 それで、二・二六事件の首魁として銃殺刑を執行された磯部浅一元主計の獄中遺書をみると、決起将校たちは川島〔義之〕陸相にたいする要望事項の一つとして、「小磯国昭、建川美次〈タテカワ・ヨシツグ〉、宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉、南次郎などの将軍を逮捕すること」を決定していたし、さらにまた、磯部個人として作成した斬殺すべき軍人リストには、「林銑十郎、石原莞爾【かんじ】、片倉衷【ちゆう】、武藤章、根本博の五人の将軍と幕僚(いずれも統制派)」が記入されてあった。
【一行アキ】
 また磯部は獄中より、尊敬する革命の先覚者北一輝と西田税〈ミツギ〉両人(いずれも反乱罪首魁として死刑)の助命と冤罪【えんざい】について、再三、激烈な上申書を出しているが、その一節につぎのようにのべている。
「北、西田両氏の思想は、わが国体顕現を本義とする高い改造思想であって、当時流行の左翼思想に対抗して毅然としているところが、愛国青年のもとめるものとピッタリと一致したのであります」
「要するに、青年将校の改造思想は、時世の刺激をうけて日本人本然の愛国魂が目をさましたところからでてきておるのであります。ですのに官憲は、北、西田の改造法案を弾圧禁止することにヤッ気になっています。これは大きな的【まと】はずれです。為政者が反省せず、時勢を立てかえずに北、西田を死刑にしたところで、どうして日本がおさまりますか?」
「北、西田を殺したら、将来、青年将校は再び尊皇討奸の剣をふるうことはないだろうと考えることは、ひどい錯誤です。青年将校と北、西田両氏との関係は、思想的には相通ずるものがありますけれども、命令、指揮の関係など断じてありません。ですから、青年将校の言動はことごとく愛国青年としての独自のものです。この関係を真に理解してもらいたいのです。北、西田が青年将校を手なづけて軍を攪乱〈コウラン〉するということを、陸軍では大きな声をしていいます。こんなベラ棒な話はありません」
「軍を攪乱したのは、軍閥ではありませんか。田中(田中義一大将)、山梨(山梨半造大将)、宇垣(宇垣一成大将)の時代に、陸軍はズタズタにされたのです。この状態に憤激して、これを立て直さんとしたのが青年将校と西田氏らです。永田鉄山(陸軍省軍務局長、相沢〔三郎〕中佐に刺殺さる)が林(陸軍大臣林銑十郎大将)とともに、財閥に軍を売らんとし、重臣に軍を乱されんとしたから、粛軍の意見を発表したのです。真崎(教育総監真崎甚三郎大将)更迭の統帥権干犯問題は林、永田によってなされたのです」
「三月事件、十月事件などは、みな軍の中央部幕僚が、ときの軍首脳者と約束ずみで計画したのではありませんか。何をもって北、西田が軍を攪乱するといい、青年将校が軍の統制を乱すというのですか? 北、西田両氏と青年将校は、皇軍をして建軍の本義にかえらしめることに身命を賭している忠良の士ではありませんか!」
「昭和六年十月事件以来の軍部幕僚の一団のごとき『軍が戒厳令を布いて改造するのだ』『改造は中央部で計画実施するから青年将校は引っこんでおれ』『陛下が許されねば短刀を突きつけてでもいうことをきかせるのだ』などの言辞を、平然として吐く下劣不逞なる軍中央部の改造軍人と、北氏の思想とを比較してみたら、いずれが国体に容れるか、いずれが非【ひ】か是【ぜ】か、容易に理解できることです。軍が二月事件の公判を暗闇のなかに葬ろうとしているのは、北氏の正しき思想信念と青年将校の熱烈な愛国心とによって、従来、軍中央部で吐きつづけた不逞【ふてい】きわまる各種の放言と、国体に容れざる彼らの改造論をたたきつぶされるのが恐ろしいのが有力な理由であります。重ねて申します。北、西田両氏の思想は断じて正しいものであります」
【一行アキ】
 要するに、三月事件、十月事件から二・二六事件にいたる五年間のいたましい昭和動乱の傷あとを冷静にさぐってみると、私は天皇制の矛盾という大きな厚い壁にぶつかるのだ。
 すなわち、将軍も幕僚も青年将校も、すべて軍人勅諭によって天皇に直結し、天皇絶対の軍隊を構成しながら、みにくい派閥内争と、いわゆる下剋上【げこくじよう】の抗争をつづけ、いずれも「朕の股肱【ここう】である」という特権意識の上にあぐらをかいて驕兵【きようへい】のそしりをまぬがれなかった。しかも天皇自身の強い自由な発言権は、側近者と古い因習とによって「おそれ多い」という口実の下に封じられていたようだ。
 将軍も幕僚も青年将校も、めいめい相手を非難、攻撃しながら、それぞれ天皇をかついで、われこそ「天皇の寵児【ちようじ】」たらんと忠臣ぶって言動していた。この天皇=将軍=幕僚=青年将校の奇々怪々な四角関係に思い切ってメスを入れないかぎりは、二・二六事件の複雑な秘密は永久に解けないであろう。
 しかも戦後に民主化されたとはいえ、二・二六事件のときと同じ天皇の下に、新しい軍隊たる自衛隊はすでにかなりの兵力を備えている。多数の〝青年将校〟たちはいったい、なにを考えているであろうか? 彼らは天皇制をどう思っているであろうか?
 また、今日の自衛隊の青年将校は二十五年前の天皇制軍隊の青年将校と、どこがちがっているのか? どこがちがっていないのか?
 私は率直に訴えたい――天皇も政府も財界も官界も言論界も自衛隊も国民大衆も、どうか二・二六事件の真相を直視して、決して、腐い物にふたをすることかく、いったい、なにが誤っていたか、なにが正しかったか、当時の皇軍反乱のもろもろの教訓を、あらためて真剣に反省しようではないか! 我々の同胞と子孫とがふたたび同じような誤りを犯さないために!

*このブログの人気記事 2020・4・30(8位の福沢諭吉、10位の力道山は久しぶり)

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朝日新聞記者・中野五郎が捉えた二・二六事件

2020-04-29 01:15:54 | コラムと名言

◎朝日新聞記者・中野五郎が捉えた二・二六事件

 本日からしばらく、中野五郎『朝日新聞記者の見た昭和史』(光人社、一九八一年一一月)から、二・二六事件関係の記述を紹介してみたい。
 第六章「日本軍、東京を占領す――二・二六事件――」のうち、「十七」以下を紹介する予定である。本日、紹介するのは「十七」の全文。

      十七
 さて、二・二六事件が昭和動乱のクライマックスであるならば、それより五年前の奇怪な三月事件と十月事件は、まさに二・二六事件の導火線ともいえるだろう。
 この軍部中心の二つのクーデター陰謀事件は、戦後の今日でこそ、一般に知れわたってはいるが、昭和六年〔一九三一〕の事件当時はもちろんのこと、戦前も戦中も長年の間、終始一貫して厳秘に付せられていた。
 なぜならば、それは上〈カミ〉は軍閥を牛耳【ぎゆうじ】る老将軍たちから、下〈シモ〉は陸大出のいわゆる天保銭【てんぽうせん】組(陸大卒業の楕円形の記章が天保年代に徳川幕府の作った銅銭に似ていることに由来す)の秀才少壮幕僚(佐官級)まで参加して、武力発動により政党政府を打倒し、戒厳令下に軍部政権を樹立して、いわゆる「天皇親政」の実現を企てたものであったから、その後の非常時色の時代相と世論の高揚の手前、軍部としてもはなはだ都合が悪く、面目上より、闇から闇へと葬り去って、「そんなことは軍を誹謗するデマだ」と空トボけて頬被【ほおかむ】りしていたからだ。
 当時は早耳の新聞社情報通でさえ、事件については、いわゆる怪文書によって推察するほかはなかった。
 それが日本国民の前に正々堂々と公表され、はじめて自由に事件の真相を討議されるようになったのは、敗戦後の昭和二十一年〔一九四六〕四月より二年有半、世界注目の中に、東京で開廷された極東国際軍事裁判の法廷であった。そしてこの東京裁判の判決(昭和二十三年〔一九四八〕十一月)によって、三月事件の正体はつぎのように明らかにされ、これまで久しくツンボ棧敷におかれていた天皇はじめ、 国民大衆を驚かせたものであった。
 その後、旧軍人の手記などで三月事件も十月事件もいろいろと論議されたが、いずれも自己弁護か、あるいは派閥の相手方を非難する偏狭な言辞がめだち、この東京裁判の判決文の冷静、かつ客観的な批判にとうていおよぶものではない。今日では、この判決文も入手困難であるから、 読者諸君の参考のためにつぎに原文を引用、紹介しよう。
「一九三一年(昭和六年)三月二十日を期して、軍事的クーデターを起こす計画が立てられた。この事件が、後に『三月事件』として知られるようになったものである。参謀本部による絶え間ない煽動と宣伝の流布【るふ】とは、その効果を挙げた。当時、軍事参議官であった岡田啓介男爵(海軍大将、元首相)が証言したように、陸軍が満州の占領を開始することは、単に時の問題であるというのが一般の人の考えであった」
「陸軍が満州に進出する前に、このような行動に対して好意を有する政府に政権を握らせることが必要であると考えられた。当時は浜口内閣が政権を握っていた。そして、総理大臣(浜口雄幸)の暗殺未遂事件(昭和五年〔一九三〇〕十一月十四日、犯人は佐郷屋留雄)のために、『友好政策』の主唱者、すなわち外務大臣幣原〔喜重郎〕が総理大臣代理をしていた」
「橋本(A級戦飯、橋本欣五郎陸軍大佐、終身禁錮刑)の計画は、参謀次長であった二宮(二宮治重中将)と参謀本部第二部長であった建川(建川美次少将)とをふくめて、参謀本部の上官の承認をえたものであるが、それは議会に対する不満の意を表わす示威運動を始めることであった。この示威運動の中に警察と衝突が起こり、それが拡大して陸軍が戒厳令を布き、議会を解散し、政府を乗っ取ることを正当化するような混乱状態にまで達せさせることができようと期待されていた」
「小磯(当時、陸軍省軍務局長小磯国昭少将、のちに陸軍大将、戦時中に首相)、二宮、建川およびその他の者は、陸軍大臣宇垣(宇垣一成大将)を官邸に訪問し、この計画について宇垣と討議し、彼らの策謀のためには、宇垣はいつでも利用できる道具であるという印象をもって辞去した」
「大川博士 (A級戦犯、大川周明博士、獄中で精神異状を呈し免訴釈放)は大衆示威運動に着手するよう指示された。小磯がその際に使用するために確保しておいた三百個の演習用爆弾を、橋本は大川にとどけた。これらの爆弾は群衆の間に驚愕と混乱をまき起こし、暴動のような外見を強くするために使用することになっていた」
「ところが、大川博士は熱心さのあまりに、陸軍大臣宇垣にあてて書簡をおくり、その中で宇垣大臣が大使命を負うことになる時期が目前にさしせまったとのべた。陸相はいまや陰謀の全貌を見てとった。彼はただちに小磯と橋本をよび、政府に対するこの革命を実行するために、陸軍を使用する今後のすべての計画を中止するように命令した。計画されていたクーデターは未然に阻止された。当時の内大臣秘書官長であった木戸(A級戦犯木戸幸一元内大臣、終身禁錮刑)は、このことを宮中に知らせておくべきだと告げた友人によって、この陰謀のことを前もって十分に知らされていた」
「この『三月事件』は浜口内閣の倒壊【とうかい】をはやめ、この内閣につづいて一九三三年(昭和八年)四月十四日に若槻〔礼次郎〕内閣が組織されたが、幣原男爵が抱壊していた『友好政策』をとり除くことには成功しなかった。彼が総理大臣若槻の下に、外務大臣として留任したからである。朝鮮軍司令官を免ぜられ、軍事参議官になっていた南大将(A級戦犯、南次郎大将、終身禁錮刑)が陸軍大臣として選ばれた。陸軍の縮減を敢行し、また、『三月事件』に参加することをこばんだために、陸軍の支持を失った宇垣大将に代わって、南は陸軍大臣の地位に就いた。宇垣は陸軍を辞めて隠退した」
【一行アキ】
 要するに、この三月事件は軍部の枢要部が中心となり、軍部独裁をめざすクーデターを企てたもので、その関係者のリストをみると、当時の軍事課長永田鉄山大佐(のちに陸軍中将、昭和十年〔一九三五〕に軍務局長に在任中、相沢三郎中佐に暗殺さる)のごとき志操堅実の統制派の智謀まで参加していたことは注目される。けっきょく、彼らは、政党政治の腐敗を口実に武力を使用して政府を倒し、天皇制軍事国家を建設しようと策動したのだ。
 しかし、一味にかつがれた当時の宇垣陸相自身が、にわかに変心して計画を裏切ったのか、それとも誠心誠意で反乱を未然に防止したのか、この点を戦後にも、明らかにせず他界してしまった。あるいは悲運の老将軍の心中に、なにか暗い影が秘められていたせいかもしれない。
【一行アキ】
 すると、同じ年〔一九三一〕の十月に、またもや軍部中心のクーデター(十月事件)が計画されたが未遂に終わった。その主謀者は、三月事件の中心が、参謀本部の将軍級であったのに反して、佐官級のいわゆる幕僚ファッショ連中であり、その指導分子は、参謀本部支那課長重藤千秋〈シゲトウ・チアキ〉大佐、同ロシア班長橋本欣五郎中佐(当時)、北支軍参謀長勇〈チョウ・イサム〉大尉といった顔ぶれで、皇道派の重鎮、荒木貞夫中将(のちに陸軍大将、陸相、文相を兼任す、A級戦犯、終身禁錮刑)をかついで、軍事革命政権の首班にしていた。
 これについて、東京裁判の判決文は、つぎの通り鋭く論断している。
「(日本政府が満州事変について)国際連盟とアメリカ合衆国に与えたこれらの誓約(「日本政府が満州においてなんらの領土的意図をも抱くものでないことは、あえてくり返す必要がないであろう」)は、内閣(第二次若槻内閣、幣原外相)と陸軍との間には、満州における共通の政策について、意見の一致がなかったということを示した。この意見の相違がいわゆる『十月事件』を引き起こした。これは政府を転覆するクーデターを組織し、政党制度を破壊し、陸軍による満州の占領と開発の計画を支持するような新政府を立てようとする参謀本部のある将校たちと、その共鳴者との企てであった。この陰謀は桜会(急進派の橋本欣五郎中佐を中心に昭和五年〔一九三〇〕九月に結成された国家改造をめざす革新将校一味の団体)を中心としていた。その計画は政府首脳者を暗殺することによって、『思想的と政治的の雰囲気を廓清【かくせい】する』ことにあった。橋本がこの一団の指導者であり、陰謀を実行するために必要な命令をあたえた」
「橋本は、荒木(当時、陸軍中将)を首班とする政府を樹立するために、一九三一年(昭和六年)十月の初旬に、自分がこの陰謀を最初に考え出したということを認めた。木戸〔幸一〕がこの反乱計画のことをよく知っていた。彼の唯一の心配は、広汎【こうはん】な損害や犠牲を防止するために、混乱を局限する方法を見出すことにあったようである。 しかし、根本(根本博中佐)という中佐は、警察にこの陰謀を通報し、陸軍大臣(南次郎大将)がその指導者の検挙を命じたので、この陰謀は挫かれた。南がこの反乱に反対したという理由で、白鳥(元駐伊大使白鳥敏夫、枢軸外交の提唱者、A級戦犯終身禁固刑)は彼を非難し、満州に新政権を立てるために迅速な行動をとることが必要であり、もし南がこの計画に暗黙の承認をあたえたならば、『満州問題』の解決を促進したであろうと断言した」
【一行アキ】
 記録によると、橋本中佐一味は同年十月十八日を期して若槻首相、幣原外相、牧野〔伸顕〕内府らの重臣、大官を暗殺した上、軍隊を出動させて政府と議会その他、要所を占領し、戒厳令下に新内閣を樹立する計画であった。そして宮中には東郷〔平八郎〕元帥を参内させて天皇の承認を得る一方、閑院宮〔載仁親王〕と西園寺〔公望〕公には急使を特派して、新興勢力に大命降下を奏上させる工作を企てた。
 彼らはみずからを新興勢力と称して、きわめて権勢欲が強く野心的であり、つぎのとおり新内閣の顔ぶれまで手まわしよく内定していた。(この点は、名利を求めず、昭和維新の捨て石たらんと念願した純忠な二・二六事件の青年将校たちとは、まったく精神も理想もちがっていた)
 首相兼陸相 荒木 貞夫中将
 内務大臣  橋本欣五郎中佐
 外務大臣  建川 美次少将
 大蔵大臣  大川 周明博士
 警視総監  長   勇少佐
 海軍大臣  小林〔省三郎〕少将(中将として 霞ヶ浦に在る海軍航空隊司令)
【一行アキ】
 これをみると、橋本中佐一派の計画したクーデター計画は、まるで日本でトルコやエジプトや中南米諸国なみの軍事革命を起こそうとしたものであり、しかも、一味は財界の一部より多額の軍用金を提供させて、連日連夜、築地の待合「金竜亭(きんりゆうてい)」その他の料亭に居つづけて酒と女にひたり、明治維新の志士を気どって大言壮語していたとつたえられている。
 まことに腐りはてた軍人魂の正体である。こんな邪心と野心と私心をもって国家改造とか昭和維新とかを論じながら、天皇制軍隊を革命の道具に使おうと企てた彼らこそ、じつに昭和日本の墓穴を軍人みずから掘ったものといえよう。

*このブログの人気記事 2020・4・29(10位に極めて珍しいものが入っています)

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東亜協同体は今日吾々の理念である(土肥原賢二)

2020-04-28 09:39:35 | コラムと名言

◎東亜協同体は今日吾々の理念である(土肥原賢二)

 二〇一八年九月六日の当ブログに、「いちばん可哀そうなのは土肥原賢二だった」という記事を書いた。それ以来、どういうわけか、この記事に対するアクセスが多い。
 土肥原賢二(どいはら・けんじ)という軍人については詳しくない。右の記事も、東京裁判の弁護人だった三文字正平(さんもんじ・しょうへい)の発言を、そのまま引用しただけのものである。出典は、花見達二著『大転秘録』(妙義出版株式会社、一九五七)の巻末に収録されていたインタビュー記録であった。
 数日前、たまたま、竹山道雄の『昭和の精神史』(新潮社、一九五六)を読んでいたところ、戦中における土肥原賢二の発言を引用しているところがあった。本日は、同書から、その前後(一二四~一二六ページ)を紹介してみよう。

 昭和十二三年〔一九三七・一九三八〕ころから以降の雑誌類を読みかえすと、つくづく思想家とか評論家とかいうものは、そのときによつてどうにでも理窟をつける愚かしいものだという感を禁じえない。いまカーテンの内の国々について、「言論の自由はある。ただしある枠の中で」と説明されているが、あのころには日本でも人々はそういう自由を満喫していた。そしてこの枠も、ほとんど自分で作つたようなものだつた。あのような説を唱えた人々はみな自発的にいいだしたので、日本ではそう言わねばならぬという教制はなく、黙つていてもすんだ。しかし、あの説はついに世論として圧倒的な力をえることになつた。
 しかし、その人たちとて、はたしてそれほど心から賛同していたのだつたろうか? 多くの人人が精神的二重生活をしていた。不平をいだきながら勢いよく協力していた。いまその人々は、この心にいだいていた不平の分をもつて弁明としている。現在のポーランドのインテリについて読んだことがあるが、それがあのころの日本とそつくりなのにおどろいた。
 それらの論文は残つていていま読むことができる。便乗もあり、心からの信念のものもあり、尾崎氏のように他の目的をひそめたものもあり、また現在行われている戦争に正しい目的と性格をあたえようと努力したものもあつた。まことに目をみはるようなことも多いが、それは別のはなしである。ただいかに指導的インテリ(ほとんどすべての指導的インテリがあれを唱えた)の意見が合致して、ついに国が思想的に一元化したかの例として、つぎに二つだけをあげる。
  三木清(昭和十四年〔一九三九〕五月の中央公論)
 ……必要なことは愛国心が革新の情熱と結びつくことである。……愛国心は諸君のモラルの基盤でなければならない、だが愛国心は何よりもわが民族の使命の自覚となつて現はれなければならない……学問を我々の使命に結び付けるといふことは学問を軍に有用性に従属させるといふことではない。わが民族の使命は世界史的意義を有するものとして単なる有用性を遥かに超えたものでなければならない筈である。
 同じ雑誌に、土肥原〔賢二〕将軍は同じ趣旨をもつとはげしい口調で説いて、自由主義観念を打破せよと教えている。
 ……東亜協同体、これは今日吾々の理念である。だがそれは今次事変を戦つてゐる吾々の情熱的戦闘心と一致する。偉大にして高邁なる理念であり、端的な信念である。吾々が既成の世界秩序を打破して、新文明史的な進歩的な新東亜を建設するには、この情熱的な戦闘心と偉大にして高邁なる理念と端的な信念を常に実践して、今日それらには全く欠如してゐるが、一つの世界観によつて武装してゐる旧思想と戦はねばならない……。旧時代、旧思想と戦つて、新しき時代、新しき思想を建設するわれわれは、行動原理及びその性格と推進力を、吾々の民族的なもの、国家的なもの、歴史的なものの中に求めなければならない。……現在は解体と建設の中から新らしい道徳的領域を確立せねばならないのである。かかる新らしい世代にとつて、新らしい世代の実践から遊離した真理の存在は許されない。
等々、これらの類〈タグイ〉のものは無数である。
 このころは、超国家主義者の土肥原将軍も国を長期消耗戦から敗北へと導こうとしていた尾崎秀実〈ホツミ〉も、同じことを唱えていた。これで日本の思想的目標は定まつた。
 全国の山野に錬成場が設けられて、みそぎがはじまつた。対米宣戦が布吿されたときには「これで天の岩戸がひらけた」といつたりした。このとき人々は、今まで引きまわされていた迷路の中から、はじめてはつきりとした目標を見たと思ったのだつた。戦争中に新兵器がしきりに要望されたとき、さる大新聞に「瘋癲病院の患者の着想を利用せよ」書いてあつた。【以下、略】

 文中、「ほとんどすべての指導的インテリがあれを唱えた」とあるが、「あれ」というのは、「聖戦完遂」、「国家体制革新」、「あたらしいモラル」をセットにして説く主張のことである。
 土肥原賢二は、中国工作に深く関与した軍人として知られるが、その一方で、『中央公論』に論文を掲載しうる「インテリ」でもあった。
 ここで、竹山道雄が名前を挙げた三人の「インテリ」だが、尾崎秀実は、戦中の一九四四年(昭和一九)一一月七日に、ゾルゲ事件の首謀者として絞首刑となり、三木清は、敗戦直前に検事拘留処分を受けたのち、一九四五年(昭和二〇)九月二六日に獄中死した。そして、土肥原賢二は、一九四八年(昭和二三)一二月二三日、A級戦犯として絞首刑になっている。

*このブログの人気記事 2020・4・28(なぜか1位に喫茶アネモネ)

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金日成の部隊から銃撃を受け九死に一生を得た(瀬島龍三)

2020-04-27 02:18:27 | コラムと名言

◎金日成の部隊から銃撃を受け九死に一生を得た(瀬島龍三)

 瀬島龍三の『瀬島龍三回想録 幾山河』(産経新聞ニュースサービス、一九九五)を紹介している。本日は、その六回目(最後)。
 本日、紹介するのは、第一章「幼少期から陸大卒業まで【明治四十四年~昭和十五年】」の第三節「結婚~満州出動~陸大受験」中の「原隊の出征」の項、および「二・二六事件」の項である(四九~五二ページ)。

 原隊の出征
 昭和十年〔一九三五〕一月二十四日の婚約、二月八日の母の死と続いたが、三カ月後の五月になって、私の歩兵第三十五連隊が所属する第九師団(司令部は金沢)に渡満の命令が出た。私は第一機関銃中隊長として出征する内命を受けた。
 そこで、瀬島・松尾両家で急遽協議が行われ、出征前に正式の結婚式を挙げることに決まった。清子は福井、私は富山、それでは真ん中の金沢でということになり、六月六日、前田藩の祖廟である尾山神社で挙式した。披露宴は金沢でも古く格式のある「鍔甚〈ツバジン〉」という料亭で、こぢんまりとやった。仲人は歩兵第三十五連隊の大先輩で、松尾と縁のある静川中佐夫妻。私は二十四歳、妻は十九歳だった。
数年前、満五十年の金婚の年、妻と金沢に旅行して尾山神社に参詣したが、五十年前の挙式の記録がちゃんと社務所に残されていた。しみじみと往時を回顧して、私の、また妻の亡き父母を思い、感慨無量だった。
 将校の結婚は、前に触れた通り陸軍大臣の許可を必要とした。まず、結婚前に連隊長に「結婚願い」の書類を提出し、師団経由で陸軍大臣宛に送付される。その内容は「今般、別紙の者と結婚致し度〈タク〉、許可相成り度候也」。別紙には相手の戸籍謄本などを添付する。おそらく、陸軍省人事局に書類が届けられると、今度は憲兵隊が身元調査を行い、その結果 がOKであれば陸軍大臣から師団長、連隊長へと「願いの通り許可する」の通知が来るという手続きになっていた。ここで初めて正式に結婚できるわけである。
 十年六月二十六日、私は新妻を残して駐屯地を出発し、宇品〈ウジナ〉から乗船、渡満した。第九師団(師団長・山岡重厚中将)の渡満は、第二師団の後を受けて満洲の治安を維持するのが目的で、師団の主力は南満の遼陽に駐屯した。
 機関銃中隊の任務は、満洲東部、東辺道地区の治安確立のための匪賊討伐。白頭山系の大密林地帯で、道なき道を毎日匪賊を追っての討伐作戦であった。この間、幾度か銃撃戦を交えた。のちに北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の国家主席となる金日成の部隊から銃撃を受け、九死に一生を得たこともあった(もっとも、当時、金日成の名を名乗る匪賊部隊は複数いた。本物かどうかはわからない)。翌十一年〔一九三六〕五月ころまでの一年余りの期間だったが、振り返ってみると、私の軍人生活を通じて唯一の前線指揮官の体験だった。
 十三年〔一九三八〕に陸軍大学校を卒業してから、師団及び軍の参謀、大本営陸軍参謀へと参謀の道を終戦までの六年八力月間歩いたが、この前線指揮官体験は大変意義あるものだった。

 二・二六事件
 二・二六事件は、渡満して八カ月後に起きた。師団司令部から事件の発生を知らされたが、当初は概要のみでよくわからなかった。何か起きそうな時代の空気はあったが、遠い満洲にいたこともあり、ただびっくりするばかりだった。しばらくたって、松尾の父〔傳蔵〕が岡田〔啓介〕総理の身代わりのような状況で反乱部隊に殺害されたという情報が届き、一層のショックを受けた。電報によれば、妻は福井から岡田の実妹に当たる母とともに急ぎ上京したようである。外地にいる軍人としては、ただ父の面影を偲び冥福を祈るのみだった。それにしても清子か不憫だった。
【一行アキ】
《清子夫人の話「二・二六事件のときは、福井市の実家に母(稔穂)といました。事件の知らせを聞いて、二十六日夜、二人で夜行列車に乗って福井を発ち、二十七日朝に東京に着きました。父が岡田の秘書官名儀で地元との連絡に当たっているはずの官邸にも入れず、事情もわからないまま迎えた二十八日夕、伯父、岡田の遺体が自宅に戻ると連絡がありました。しばらくすると、迫水〔久常〕が自転車でやってきて、お棺を置いた奥の四畳半を閉め切り、「親族だけ入っていただきたい』と言うのです。そして『岡田ではなく、松尾のおじさんです』と。ハッと息をのむ声が聞こえ、サーッと血の気が引くのがわかりました。父の遺体は、東京で荼毘〈ダビ〉にふして、福井で葬式をしました。
後で聞いたところによると、反乱軍将校たちは「天皇陛下万歳」と言って亡くなった父、松尾を見て、『立派な死に方だ、岡田さんに間違いない』と思ったようです。二人には血のつながりはありませんが、ヒゲ、白髪の軍人的容貌や、年格好が共通していて、知らない人にはそう区別はつかなかったでしょう。
 父は、福井では今でいうボランティアのはしりのような活動をしていました。在郷軍人会の会長をしていて、福井市にある旭小学校の教育委員長のような職にも就いていました。正月には、おモチを買えない人のところに持っていったり、病人に医者を紹介したり、一生懸命地域の人々のために働いていました。今でも、旭小には銅像が立っています」》
【一行アキ】
 後でわかったことだが、反乱軍将校の中には松尾、迫水の遠縁に当たる青年将校もいた。また、当時、北支・山海関の守備隊に勤務していた義兄〔松尾傳蔵の長男〕、新一の 出身部隊は、反乱軍将校の中心である歩兵第三連隊だった。
 二・二六事件は、天皇の軍隊には、もとより許されることではない。ことに、純粋な私の同期生や青年将校を自分の思想や思惑のため扇動、誘導した一部の人々に対し、限りない憤激を感じた。
 余談になるが、昭和六十一年〔一九八六〕は二・二六事件から満五十年目に当たった。妻や義兄の新一夫婦は、一度も首相官邸の父が倒れた場所を見ていなかったが、満五十年目の二月二十六日、中曽根〔康弘〕総理夫妻は私たち遺族を官邸に招待し、祭壇を設けて、お参りをさせてくれた。岡田啓介の二男、貞寛も同席した。新一は最後まで二・二六事件について苦悩し、かつ残念に思っていたようだが、その翌六十二年〔一九八七〕に亡くなった。八十三歳だった。

 明日は、少し話題を変える。

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よくこんな草深い田舎に来てくれました(瀬島つゑ)

2020-04-26 02:58:46 | コラムと名言

◎よくこんな草深い田舎に来てくれました(瀬島つゑ)

 瀬島龍三の『瀬島龍三回想録 幾山河』(産経新聞ニュースサービス、一九九五)を紹介している。本日は、その五回目。昨日の話の続きである。

 延対寺という由緒ある料亭で、見合いをすることになった。出席したのは、父と私、松尾父娘と仲介役の伊賀さんの五人だった。
この初対面の前、私が結婚を決意したとき、兄は「お母さんの言葉で結婚を決意してくれたのは本当にありがたいが、結婚は一生の大事、本当にそれでいいのか」と念を押した。私は何と答えたか、今もはっきり覚えている。「いいです。お母さんの命ある間に決めてください」。
 そこで、兄が伊賀さんに連絡したわけだが、二十二日朝に話が始まり、二十四日朝に対面して婚約というプロセスは、まさに電光石火だった。私の方は既に決心していたが、問題は清子の方である。清子も私と同様、こっちのことをほとんど知らなかっただろうからだ。延対寺では、一応初対面の席が終わり、別室で清子と二人向かい合った。はっきり覚えていないが、清子の後年の話によると私は「お願いがあるのです。母に会ったら〝お母さん〟と呼んであげてほしい」と言ったそうだ。
 これで話はまとまり、事実上の婚約が決まった。その足で、五人は汽車で二十分くらいかけて高岡から石動へ移動し、生家へ向かった。北陸らしい雪深い日だったが、既に村中にこの話が広がっていて、村人たちが朝早くから総出で、駅から私の家までの二㌔ほどの道を、自動車が通れるようにきれいに雪かきをしてくれていた。
 松尾父娘は母に対面、挨拶を交わした。清子は病臥している母に向かって「お母さん」と呼びかけた。母は痩せ細った手で清子の手を握り、「こんな田舎へよく来てくれました。龍三のことはよろしくお願いします」と、途切れ途切れの小さな声で、精一杯の言葉をかけた。清子は見舞いのため持参してきた千疋屋の果物を布で絞って、母にふくませるのだった。家の広間に集まってきていた村のおじいさん、おばあさんや青年団の人たちが、この情景を目を潤ませて見守っていた。
 松尾の父は清子に向かって、「お前はあとに残って看病せよ」ときつく言ったが、父は「とんでもない。これで十分です」と断った。父娘はその日の夜行列車で東京に帰っていった。そのとき、姉が結婚指輪代(カマボコというんだそうだが)を「母からです」と言って清子に渡したという。これは清子の話だ。こうして婚約が成立、私も軍務のため、その二日後には帰京した。
【一行アキ】
《清子夫人の話「瀬島の家は広く、玄関を入ると土間があって、その向こうに板の間があって、さらに一段高くなった広い部屋にお母さんはいらっしゃいました。胸の病気で、声がうまく出せないようでした。それでも振り絞るようにして私に話しかけたのを、付き添いの看護婦さんが通訳してくれました。『一本の電報で、よくこんな草深い田舎に来てくれました』。私はリンゴを絞ってお母さんに一口か二口飲ませたのですが、気づくと、八畳間を四つぶち 抜いた広い部屋は、大勢の村の人たちで埋まっていました」》
【一行アキ】
 さらに十日余りが過ぎた二月八日、母は念仏を唱え、父や皆に別れを告げて安らかに息を引き取った。 五十七歳だった。この約一年後の十一年二月二十六日、今度は清子の父、松尾傳蔵が首相官邸で義兄、岡田啓介首相の身代わりとなって殺され、この世を去った(二・二六事件)。【以下、略】

 文中、「延対寺」とあるのは、宇奈月温泉の「延対寺荘」のことであろう。
 瀬島龍三という人物は、いまだ評価の定まらない人物らしい(ウィキペディア「瀬島龍三」の項などによる)。ただし、この『幾山河』という回想録は、なかなか読ませる。資料としての価値も高いと思う。特に、昨日から本日にかけて紹介した「結婚」の話は、当時の日本人の「家族」意識、当時の村落共同体の様子などがわかって、たいへん興味深い。

*このブログの人気記事 2020・4・26(なぜか8位に「ナチス」)

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