礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

頭蓋骨の内部は、血液が一杯つまっていていた

2024-08-31 00:08:49 | コラムと名言
◎頭蓋骨の内部は、血液が一杯つまっていていた

 正木ひろし『弁護士――私の人生を変えた首なし事件』(講談社現代新書、1964)に拠りながら、いわゆる「首なし事件」について紹介している。
 本日は、その三回目。同書の第1章「運命の事件まいこむ」の第4節「こそこそごまかしの解剖」の前半を引用してみる。

  〈4〉 こそこそごまかしの解剖
解剖の結果はやはり脳溢血
 昭和十九年一月二十六日、午前九時十分、わたしと佐藤勝子は、上野発の三等列車で、水戸に向かいました。列車が土浦に近づいたころ、佐藤はなにか気のどくそうに、
「先生、これを見てください。」
といつて、一通の電報を示しました。昨夜、加最事務所から佐藤あてに来たものでした。
 モツカカイボウチユウ
 それは前夜六時に発信されていました。わたしが二十六日に長倉に行くのを知って、急いで解剖をすましてしまったと見るほかありません。もちろん、解剖の結果がどう出たか、それが先決問題です。わたしたちは水戸地方検事局へ直行しました。
 高橋禎一次席検事は大宮警察に出張中でした。しばらく待たされてから、わたしはひとり村上雄治検事正のへやにはいりました。
 村上検事正は、わたしがまだ歩いているうちに、
「病死。病名は、やはり脳溢血。わたしもいま聞いたばかりだ。」
 わたしは追い立てられたようにへやを出て、外で待っていた佐藤勝子に、
「やはり脳溢血だったそうです。」
というと、佐藤は、
「これで安心しました。遺族に対して申しわけができます。」
といいました。

日暮れの雨の中の解剖
 わたしと佐藤とを乗せた水戸駅前のタクシーは、那珂川に沿うて約四十キロさかのぼり、午後三時半ごろに長倉村に着きました。
 旅館らしい旅館は、ここ一軒だという今出屋に案内され、那珂川でとれた川魚で夕食をしているあいだに、山岸幸作はじめ、警察で暴行を受けた四名の坑夫たちや、飯場に泊まっていた大槻の実父・実弟・細君らの遺族もやってきました。
 わたしは質問を始めました。いまならテープ録音というところですが、わたしは、レターペーパーに要点を筆録しました。それは左のようになります。
(一月九日夜)坑夫広木の自宅に他の一坑夫と選炭婦二人の合計四人集まって、トランプや花札などで遊んだ。そこへ通りがかりの大槻も寄った。現金を賭けたのではなく、マッチの棒を一銭として、約一時間、けっきょく、だれも勝ち負けなく、雑談に移った。
(一月十八日)長洲巡査に大宮署へ連行された。巡査は自転車、他は徒歩で、三里の道を、息を切らせながら下った。取り調べは、花札よりも会社の食糧買い出しのことを聞かれたが、だれも知らなかった。そのため、寒中裸体にされたもの、なぐられたものがあった。しかし、取り調べの刑事は大塚清次ではなく、植田という刑事だった。
(一月二十五日)雨天。四時ごろ、なかば暗くなってから髙橋次席検事と青柳兼之介医師などが加最商会に到着。蒼泉寺の墓地に埋めてあった棺〈ヒツギ〉を掘り出し、周囲を幕で囲み、炭坑用のカンテラ二個をつけて、戸外の小雨の中で執刀。大槻の実弟、大槻吉見だけが、幕の中にはいることを許された。
(大槻吉見の語った要点)①頭蓋骨【ずがいこつ】が切り開かれるのを見たが、内部は血液が一杯つまっていてまっかであった。②背中に、棒でなぐったような赤い筋があった。青柳医師に聞くと、「脳溢血のときは、肩から赤くなるものだ」と答えた。③さるまたがズボンの中から出た。④高橋次席検事が、「脳溢血と決まったのだから仏をたいせつに早く葬ってやれ」といった。

死体を掘り出してカメラに
 一月二十七日の朝、今出屋旅館を出発しようとして、荷物を運んでいたとき、裏口のほうに国民服(戦時中のつめえりの服)を着た色の浅黒い、ひどく陰気な男が風のようにはいってきました。集まっていた加最炭鉱関係の人々がしんと息をのむ中で、旅館のものに、なにか一言二言いい、そのまま行ってしまいました。それが、わたしたちのようすを見にきた長洲巡査だったのです。
 その日、まず村はずれの蒼泉寺の墓場に行きました。埋めてあるところは、庫裏【くり】から五十メートル離れた木立ちの蔭でした。住職に断わると、かえってお互いにめんどうと思い、無断で棺をスコップで掘り出し、むしろに包まれていた死体を、むしろごと取り出して、手早く全身を調べました。と同時に、当時愛用していたKorelle〔コレレ〕というカメラで、何枚か撮影しました。なぐられた跡らしいという肩の条痕【じようこん】は、色鉛筆を使って写生しておきました。しかし、それが、打撲によるものか、死斑【しはん】の一種か、わかりませんでした。
 それから一行は、車で、十二キロ川下の大宮警察署に行きました。木造の、かなり大きな警察署でした。ところが、中はがらんとして、机といすだけがたくさん並び、人はだれもいません。大声で呼んだところ、奥から巡査がひとり、なんの用か、といって出てきました。〈40~44ページ〉

 検察当局は、正木弁護士が、1月26日に、現地を訪問することを察し、その前日、急遽、解剖をおこなったのである。
 原作によれば、正木は、1月27日、蒼泉寺の墓地に赴いて、スコップで大槻の棺を掘り出し、死体を調べている。しかし、映画には、そうした場面はない。

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映画『首』に登場するバスは代用燃料車

2024-08-30 05:15:27 | コラムと名言
◎映画『首』に登場するバスは代用燃料車

 正木ひろし『弁護士――私の人生を変えた首なし事件』(講談社現代新書、1964)に拠りながら、いわゆる「首なし事件」について紹介している。
 本日は、その二回目。同書の第1章「運命の事件まいこむ」の第2節「取り調べ警官の暴行」の最後の部分を引用してみる。

  〈2〉 取り調べ警官の暴行
【前略】
埋葬死体を鑑定する方法は?
 賭博の件でやられた四人の中には、さるまた一つの裸にされて、二、三十分間正座させられたものや、傷がつかないように皮で包んだ棒でなぐられたというものもあったのでしたが、氏家やその他の連中が、警察へ行って、大槻の死に顔を見たかぎりでは、顔や頭に、その傷はなかったというのです。そこでわたしは、ことによると、大槻は裸で正座させられたのが原因で、脳溢血を起こしたのではないだろうか、と素人的な考えをいだきました。
 しかし佐藤勝子は、脳溢血で死んだ人を知っているが、寝床に、口・鼻その他からの排出物がまったくないのはおかしい、といいました。
 ともかくその日、警察側では、早く死体を引き取って、埋葬するようにと強要しました。氏家と山岸は遺族の来るまで待ってくれと、いいはったのですが、警察側は、かってに自動車を頼んできて、これに乗せて行けというので、やむなく、ふたりは長倉村の蒼泉【そうせん】寺に持って行って、仮埋葬したというのです。
 いったい、こういう事件をどうしたらいいのか。被告人を弁護するというなら、本人に会うなり、記録を読むなり、すぐ着手する手段がありますが、この事件には、そんなものはなにもなく、書類といえば、ただ警察が死体埋葬用にくれた村の医師根本藤蔵という人が作成した「脳溢血(推定)」という死亡診断書があるだけです。
 この「推定」という文字が問題です。けっきょく、死因の精密な鑑定以外に、解決のいとぐちがないわけです。しかし、政府も国民も戦争でごったがえしているとき、交通不便な山の中の死体に対し、どのようにしてそれを実現することができるでしょうか。しかも、死体は刻一刻と腐敗していくにちがいないのです。〈34~35ページ〉

 文中、「その日」とあるのは、文脈から、1月22日のことであろう。
 映画『首』では、この日、遺体を引き取りに警察署に向かったのは、炭鉱所長・岸本(下川辰平)、鉱夫・石橋(小川安三)、鉱夫・河内(加藤茂雄)の三人である。
 三人は、「茨北交通」の「東大崎町」というバス停で下車し、「大崎警察署」に向かう。驚いたことに、三人が乗ってきたバスが、うしろに釜を付けた「代用燃料車」であった。ナンバーは、「茨1003」。そんな古いバスを、どこから見つけてきたのか。
 三人は、警察で大槻徹の遺体を引き取り、警察が手配した乗用車に運びこむ。そのあと、鉱夫・石橋は、遺体を包んでいたフトンを、警察官たちに投げつけている。激しい怒りである。鉱夫・石橋は、このあとも、たびたび登場するが、それを演じている小川安三(おがわ・やすぞう、1932~)は、その都度、印象的な演技を見せている。
 なお、文中、「山岸」とあるのは、加最炭鉱の次長格・山岸幸作のことである。この山岸幸作の相当する人物は、映画には登場していない。

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「首なし事件」とは、どういう事件か

2024-08-29 02:42:26 | コラムと名言
◎「首なし事件」とは、どういう事件か

 映画『首』(東宝、1968)は、戦中の1944年(昭和19)1月、茨城県で起きた、いわゆる「首なし事件」を映画化したもので、原作は、正木ひろし著『弁護士――私の人生を変えた首なし事件』(講談社現代新書、1964)である。
 では、「首なし事件」とは、どういう事件か。正木ひろしの同書を、少しずつ引いてゆくことで、その説明に替えたい。本日は、第1章「運命の事件まいこむ」の第1節「警察の留置場で怪死」の前半を引用する。

  〈1〉 警察の留置場で怪死
聞いてくれ、殺されたらしい
 昭和十九年一月二十四日の昼すぎ。わたしは第二東京弁護士会館にいました。食堂に行こうと立ち上がったところへ、「近きより」の印刷所主、松村保から電話がありました。電話に出てみると、茨城県の炭鉱の現場主任が、土地の警察に留置され、そのまま脳溢血で死んだというのだが、殺された疑いがあるといって、現地の責任者が、東京にいる佐藤勝子という同氏が懇意にしている鉱主のところに報告に来た、というのです。「鉱主の佐藤さんが、どうしたらいいのかわからないといって、いま相談に来ているのですが、至急、会ってやっていただけないでしょうか。」
 わたしはすぐ、弁護士会館に来てもらうことにしました。

炭鉱主と現場所長の話
 佐藤勝子というのは、モンペをはき、四十五歳ぐらいの、小柄で日やけした顔に利口そうな目をもつ、いなかのおばさんといった感じの人でした。いっしょに来た現地の所長は氏家〔庄次郎〕といい、もと佐藤家に出入りしていた商店主だったという四十がらみの気の強そうな男です。
 鉱主佐藤勝子と氏家所長の話を要約するとこういうことになります。
 ――怪死したのは、大槻徹(四十六歳)というもので、妻子を福島県永盛町〈ナガモリマチ〉に置き、長倉の炭鉱へ出かせぎに来ていた。かれは郷里の親戚の結婚式のために、一月十五日に帰省し、二十日の夕方、御前山〈ゴゼンヤマ〉駅に着き、駅前で一杯やり、そこに預けておいた自転車で五キロ走り、長倉村の宿舎まで帰ってきたが、かれの帰りを待ち構えていた駐在所の長洲巡査がやってきて、大槻をせき立て、十二キロ以上離れたところにある大宮警察署まで自転車で連行し、留置場に入れた。逮捕の表面の理由は、一月九日の晩に、坑夫たち四人が、ある坑夫の家に集まってやった花札賭博に、大槻も加わっていたということだった。ところが、留置してから中一日おいた二十二日の早朝、長洲巡査が、氏家の宿直していた炭鉱事務所にやってきて、大槻が脳溢血を起こして死亡したから、すぐ死体を引き取りに来るようにと伝えた。――

県境の亜炭地帯、長倉村
 長倉村は茨城県の西北、栃木県に接している高原地帯にあって、戸数二、三百の小さな村です。地図で見ると、ちょうど茨城県の水戸市と栃木県の宇都宮市とを勅選で結んだその中央あたりになります。村の南を那珂川が流れています。交通はひどく不便で、水郡線常陸大宮駅から約十二キロ、私鉄茨城城交通線の終駅「御前山駅」から約五キロの川上にあります。
 この村の地層の中から、亜炭というカロリーの低い石炭が出ます。平和時代には、亜炭などだれも問題にしなかったのですが、戦争が続いて、燃料がひどく乏しくなった昭和十七、八年ごろには、こんな交通不便なところの亜炭までが掘り出されることになりました。
 村には、亜炭を掘り出す炭坑が数か所あり、佐藤勝子の加最【かさい】商会は、その中の二坑をまえの持ち主から買い、昭和十七年の秋から経営していました。その他の炭坑は、倉橋四郎という人を鉱主に、倉橋炭鉱と称し、加最炭鉱よりすこしまえからやっていました。〈26~28ページ〉

 1944年(昭和19)1月22日早朝、茨城県大宮警察署に留置されていた加最炭鉱の現場主任・大槻徹が変死した。この変死事件の真相を明らかにすべく、正木ひろし弁護士(1896~1975)が、国家権力と対峙した事件を「首なし事件」という。なぜ、「首なし事件」と呼ばれたのかという説明は、何回かあとになろう。

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事件の舞台は、那珂郡長倉村の蒼泉寺

2024-08-28 01:26:03 | コラムと名言
◎事件の舞台は、那珂郡長倉村の蒼泉寺

 数日前、DVDで、森谷司郎(もりたに・しろう)監督の東宝映画『首』(1968)を鑑賞した。この映画を観るのは三回目だったが、やはり傑作だと思った。
 映画の冒頭、「蒼龍寺」という額のある山門が映し出される。蒼龍寺のモデルは、茨城県那珂郡長倉村(当時)にある曹洞宗の古刹・蒼泉寺(そうせんじ)である。
 映画を観たあと、原作が読みたくなって、正木ひろし『弁護士――私の人生を変えた首なし事件』(講談社現代新書、1964年6月)を引っぱり出してきた。映画は、おおむね原作に即している。しかし、登場人物の名前前、役職名、地名、機関名などは、変えられている場合が多い。
 以下に、映画における名前・役職名、原作における名前・役職名、映画における俳優名(太字)を、順に挙げてみよう。映画における名前・役職名および俳優名は、ウィキペディア「首(1968年の映画)」に拠った。

正木ひろし ← 正木ひろし弁護士(第二東京弁護士会) :小林桂樹
吉田弁護士 ← A弁護士 :古山桂治
山口助手 ← B助手 :鈴木良俊
滝田静江 ← 佐藤勝子(加最炭鉱鉱主) :南風洋子
岸本正治 ← 氏家庄次郎(加最炭鉱所長) :下川辰平
奥村 登 ← 大槻 徹(加最炭鉱現場長) :宇留木康二
同 進 ← 大槻吉見(徹の弟) :鈴木治夫
石橋(鉱夫) ← C鉱夫 :小川安三
河内(鉱夫) ← D鉱夫 :加藤茂雄
宮崎三郎 ← 橋本三郎(第一東京弁護士会) :北 竜二
浜謄写店の細君 ← 同(浜謄写店は原作のまま) :辻 伊万里
秋山検事正 ← 村上雄治検事正(水戸地方検事局) :灰地 順
橋岡次席検事 ← 高橋禎一次席検事(水戸地方検事局) :館 敬介
青倉村駐在巡査 ← 長洲巡査(茨城県那珂郡長倉村駐在所) :木崎 豊
里見巡査部長 ← 大塚清次(茨城県大宮警察署経済係) :渋谷英男
大崎署の警官 ← 大宮署の警官 :権藤幸彦
堀本医師 ← 根本藤蔵(長倉村医師) :池田生二
堀本の妻 ← 根本医師の妻 :小沢憬子
川島運送社長 ← 四倉繁作(常北陸運大宮出張所所長) :寄山 弘
蒼竜寺の住職 ← 蒼泉寺の住職 :榊田敬二
田代検事 ← 井出廉三検事(東京控訴院検事局) :神山 繁
司法省刑事課長 ← 岡原昌男(司法省刑事局刑事課長) :加藤和夫
室田(水戸の医師) ← 青柳兼之介(水戸の医師) :大滝秀治
野村(印刷所社長) ← 松村 保(松村印刷所) :今福正雄
中原(東京大学雇員) ← N氏(東京帝国大学解剖学教室職員) :大久保正信
高林浩三 ← 小林俊三弁護士(第二東京弁護士会、正木の先輩) :清水将夫
花井(東京大学助教授) ← 氏名肩書不詳(東京帝国大学法医学教室のスタッフ) :飯沼 慧
南(東京大学教授) ← 西 成甫教授(東京帝国大学解剖学教室) :三津田 健
福畑(東京大学教授) ← 古畑種基教授(東京帝国大学法医学教室) :佐々木孝丸

 若干、注釈する。「吉田弁護士」は、正木ひろしの源作『弁護士』では、「A弁護士」として登場する。しかし、映画では、その「吉田弁護士」に相当する人物が出てこない。クレジットには、古山桂治の名前があるが、古山桂治は、この映画に登場しているのだろうか。あるいは、どこで登場しているのだろうか。
 原作では、「山口助手」に相当する人物が出てこない。しかし、映画では、比較的、重要な役どころで登場する。これを演ずるのは、鈴木良俊。鈴木良俊という役者については不詳。
 東京控訴院検事局の「田代検事」の実名は、井出廉三と思われる。原作では、「井出簾三」と表記されているが、井出廉三が正しいようだ(井出廉三の読み、生没年などは不詳)。田代検事を演ずる神山繁(こうやま・しげる、1929~2017)の演技は、この映画の見どころのひとつである。
 原作には、「花井(東京大学助教授)」に相当する人物出てこない。しかし映画では、法医学教室に三人のスタッフがおり、そのうちのひとりが、福畑教授から「花井君」と呼ばれ、「首」を預けられている。この「花井君」を演じているのは、飯沼慧(いいぬま・けい、1926~2011)。

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近衛公は、はやまったことをされた(吉田茂)

2024-08-27 00:55:44 | コラムと名言
◎近衛公は、はやまったことをされた(吉田茂)

 富田健治『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)から、第四九号〝近衛公自決の真相「その一」〟を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 そこで私は卒直に中村〔豊一〕公使の言った詳細を報告した。更に私は『特に近衛公に対しては多分に政治的意味のある出頭命令だといっている様子だし、この際これ以上延期の運動がましいことをやると却って色々世論の誤解を招く虞れもあるから、この延期交渉は、近衛公の発意として近親者に、これ以上やらぬように申渡して頂きたいと思う』と言った。近衛公は黙って肯いた。併しその時、思いなしか、一抹の淋しそうな近衛公の表情だったことを、未だに私はふと思い出す。あんな風な悄然たる近衛公を私は公との永いおつき合いにおいて、只の一度も見ることがなかった。
 併しこの中村公使の返事は公爵自決後十六日午後吉田茂氏(当時外務大臣)が弔問に来ての話と大変な、喰い違いがある。
 吉田氏は『自分は近衛公は入院されると思っていた。勿論それは総司令部も許す筈である。二三日前にマッカーサーに逢ったときに、近衛公に対しては、ハウス・アレスト(自宅監禁)と言っていたし、当然出頭は入院によって延期され得ると思っていた。そこで自分さえ、近衛公に逢っていたならこんなことにはならなかったのに、実に残念至極なことであった』と言い、翌昭和二十一年一月の近衛追悼祭の席上でも吉田氏は公然とこの言葉を繰り返されたのである。又私は吉田氏には、その後十数年の間、度々お目にかゝっているが、談偶々近衛公自決のことに及ぶと、必ずや『近衛公は死なれなくともよかったのだ。はやまったことをされた。マッカーサーも出頭延期は諒承していたのだ。それを中村公使が、間違った処置をしたのである。自分はこのことだけでも中村公使を職務上許せないと思っていたのだ』と度々言われるのを聞いている。吉田氏のことである。その言に偽りはあるまい。併し前述した通り、中村氏は『公に対する出頭命令は政治的なものだから、総司令部はその延期は承認しそうにない。健康のことを持ち出してもあちらの医者が来て連れて行くにきまっている。そういうことになっては、近衛公にとつても好ましくないことだと思う』と言い、また当時アメリカ側に付いての消息通の間にも、概ね中村公使と同じ見解の者が多かったように思う。
 只私として残念に思うことは、当時あれ位親しかった、許し合っていた近衛公と吉田さんとの仲である。両人直接でも又私が使いに行ってもよかった。吉田氏に直接、総司令部との折衝を頼めばよかった。それだのに、近衛公も亦私も、吉田外務大臣は恐らく人一倍、蔭に於て近衛公のために動いてもらっているだろう、外務大臣という地位に於て日夜心労している吉田さんである。その人を更に苦しめるようなことは言い出したくない。こんな気持ちで、吉田氏には何も交渉しなかったのである。若し吉田氏によってマッカーサー元帥の承認の下に、近衛公が出頭延期を許されていたなら、恐らく近衛公も自決は絶対にしなかったことであろう。とすれば、歴史は変っていた。そして近衛公の存在する今日の日本の政界を想像することも亦愉快なことではないであろうか。

 これを読んで、いろいろ考えさせられた。吉田茂の言う通りだったとすれば、たしかに近衛は「はやまったことをされた」のである。自決の原因については、中村豊一公使の情況判断を挙げることもできるし、その情況判断を、そのまま近衛に伝えた富田健治の対応を挙げることもできる。
 富田は、中村公使の情況判断を受けて、近衛に対し、「この延期交渉は、近衛公の発意として近親者に、これ以上やらぬように申渡して頂きたいと思う」と進言した。富田自身は、あまり意識していないようだが、この進言は、近衛に、みずから退路を絶つよう、強く促したものである。単に、中村公使の情況判断を伝達したにとどまる性格ものではない。近衛の自決という問題については、富田の「責任」も少なくなかったと思う。
 しかし、「責任」ということを考えるならば、最も「責任」が大きかったのは、近衛文麿自身であろう。巣鴨への出頭の回避ないし延期を本当に望んでいたのであれば、富田を使って情報を集めるなどといった姑息なことはせず、みずから吉田茂外相を訪ねるなどして、出頭回避ないし延期を働きかけるべきだったのである。そういうことをしなかったところに(できなかったところに)、彼のプライドの高さ、意志の弱さがあったと考えている。
 明日は、話題を変える。

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  • 「大いに不穏当なり」奈良武次侍従武官長
  • 現状では希望に沿うことはできない(谷査恵子)



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