◎日本文の漢字と漢文の漢字では様子が違う
『漢文初歩学び方考へ方と解き方講義』(考へ方研究社、一九二五)の著者・塚本哲三は、同書の第一章「総説」の中で、「漢文を読解するアタマをこしらへて行く」必要を強調していた。「漢文を読解するアタマ」とは、言い換えれば、漢文に内在している論理を把握し、その論理に即して漢文を読みこなす力のことであろう。
この力を身につける際に、ひとつのネックになるのが、すでに身にしみついている日本語の言語感覚である。日本人は、「漢字」というアイテムを用いながら、日本語を操っている。塚本哲三は、そのことがかえって、漢文を読みこなす際の妨げになりうることを指摘している。
本日は、同書第二章「漢文の組立」から、「其一 漢文と日本文」の一部、および「其二 漢文の特色」の一部を紹介してみよう。
其一 漢文と日本文
漢文に使ふ漢字 漢文は漢字の行列である。だから漢字が分らなくては漢文は分らぬ、幸ひな事に吾々は小学時代から一通り漢字を学んでゐる。従つて漢文の中の漢字が丸ツきり分らぬといふ事はない。けれども吾々が日本文として仮名の中へまぜて使ふ漢字と、漢文として書かれた漢字とは大分に〈ダイブンニ〉様子の違ふ事がある。例へば日本文の書取としてアミと書く所へ「罔」の字を書いたらそれは明かに間違である。けれども漢文の中にはそれが「網」と同議に使はれた場合がいくらもある。「矣」とか「終焉」とかいふ字は日本文としては殆ど使はぬ。殊に現代の吾々の文章にはそんなものは一つも出て来ぬ。而るに漢文ではそれが文章の終りなどに頻々と〈ヒンピント〉出て来る。こんな訳だから、吾々が日本文を書く為めに利用してゐるだけの漢字の知識のみではどうしても漢文の解決はつかない。即ち漢文の中には日本人の吾々が日頃利用してゐる漢字の外にまだまだ趣の変つた色々な漢字が使はれてゐるといふ事を十分に理解して掛らなければならぬのである。【中略】
其二 漢文の特色
漢字の互用 【前略】だから漢文を学ぶについては、常によく留意して一字多義――一つの字に色々な意味があるといふ事を理解し、その平凡普通なものはなるべく正確に記憶して居て、さて実際に問題を解く場合に当つて、この字はどちらの意味に取ればよく文意に叶ふかといふ事を考へて見なければならぬ。予習復習をやるやうな場合は、苟も〈イヤシクミ〉変だと思ふ字はどんなやさしい字でも一々字引を引いて見て、自分の知つてゐる以外の意味でそこの文意にうまく合ふやうなのはないかと調べて見る事が肝要である。
一字に幾つかの意味があると同時に、一つの言葉に幾つもの字も出来てゐる。例へば、
ワレ・ワガ (一)我。(二)吾。(三)予。(四)余。
ナンヂ (一)汝。(二)女。(三)爾。(四)若。(五)而。
コレ・コノ (一)此。(二)是。(三)斯。(四)之(この字は多くはコレラと使ふが時にはコレ・コレガともなる)
ナンゾ・イヅクンゾ・ナニ (一)何。(二)奚。(三)焉。(四)悪。(五)安。(六)烏。
ニ・ヲ・ヨリ (一)於、于、乎。(二)自、従、由(この方は凡てヨリであつて、ニ・ヲとは使はない)
ゴトシ (一)如。(二)若。
シカズ (一)不如。(二)不若。
ズ (一)不。(二)弗。
ナシ・ナカレ (一)無。(二)莫。(三)勿。(四)毋。(五)亡。(六)靡。(七)蔑。(八)末。
マサニ……ス (一)将。(二)且。
ラル (一)被。(二)見。(三)為。(四)為……遣。(これは普通「所トナル」と訓ずるが意味はラルである)
シテ……シム (一)使。(二)令。(三)教。(四)遣。(五)俾
イカン (一)如何。(二)何如。(三)若何。(四)何若。(五)奈何
ノミ (一)耳。(二)爾。(三)已、而与。
カ (一)乎。(二)邪。(三)歟、与。
ヤ (一)乎。(二)邪。(三)哉。(四)也。
こんな風にいくらでもある。烏の字などは吾々の漢字としてはカラスといふ意味の外使つてゐないが、漢文ではイヅクンゾといふ反語に使ふ方が普通である。甞て〈カツテ〉高等学校の試験にこの字を含んだ問題が出た時、どうもカラスでは変だといふのでクロキコトと読んだ人があつたといふ笑話も残つてゐる。【以下略】
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