礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

明治十年代の灯火を回想する

2015-05-26 06:49:14 | コラムと名言

◎明治十年代の灯火を回想する

 尾内幸次郎著・渡辺敦補筆『今昔思い出草』(伊勢崎郷土文化協会、一九六五)を紹介している。本日は、冒頭の「明治の風俗」から、「(二)照明・行灯・火止」の節を読んでみよう。以下はその全文(八~九ページ)。

(二)照明・行灯・火止
 灯火は明治十二年頃までも行灯【あんどん】が用いられました。行灯というのは蜜柑箱〈ミカンバコ〉のような物の四隅に柱を立て上端と中程を横棒で囲い、三方は紙で張り、一方口にして開閉出来るようにし、中段に板を渡したもので、この板の上に灯がい(蓋)という一種の皿を二枚重ねて上の皿に菜種油をさし、灯蕊【とうすみ】を油の中に浸して蕊の先端を皿の横に出してこゝへ点火し蕊〈シン〉が動かぬように■形の金物を置いた。普通の仕事には灯蕊二本ですから、誠に暗かった。しかし昔から夜は暗い事になって居たのだから、案外平気なものでした。細かい細工物などする人は視力を要したかと思うが、暗夜になれて見れば、闇の中にも物がハッキリ見えたものです。視力も犬猫に近かったといえましょうか。
 夏の夜などは風のために時たま灯火が消された。其の時は(二)ホクチ(火口)に火打金〈ヒウチガネ〉で石(石英)を打って、手速く点火させ、次に其の火花を附木〈ツケギ〉に移し、(一)附木の火を行灯に入れるのでした。
 (一)附木は薄板の一端に硫黄をぬりつけたもの、長さ十cm位。明治以前から長崎文化のおかげでだんだん行われて居た。その後マッチが使われるようになり、暫くの間マッチが附木の名で呼ばれたものでした。
 (二)ホクチは蒲〈ガマ〉という水草の花を干して作り、之に焰硝(エンショウ)を少し加えて用いた。別にイチビの幹から作ったものもあった。
 灯火が消えて暗く在ると子供が泣く。仲々手間取るために、家内中で大騒ぎをした。又ホウジヤク(こがね虫)が飛んで来て灯火を消し、さては油の中に入り、かき廻す為に油は四方に飛びいやな思いをした事など思出されます。
 マッチがまだ普及しないので、代りの役には火止【ひどめ】(ほだ火)という物を絶えず炉の中にふせて置きました。其れは朝御飯を焚いた残火を灰の中に伏せて、一日中火を絶やさなかった。摺附木【マツチ】もだんだん田舎の生活を便利にしましたが、附木は相変らず使われて居ました。
 振舞〈フルマイ〉のある節は燭台〈ショクダイ〉に百目蝋燭〈ヒャクメロウソク〉を一ト座敷毎に〈ヒトザシキゴトニ〉立てました。之は火力が強いから少し位の風には消えなかった。演芸の時などは高座に百目蝋燭を左右に二本立てた。芸人の顔を見る為で聴衆の方は無灯でした。又劇場では燭台を幾つも幾つも立てた。役者が花道へ出ると、其の顔を見るために、六尺の棒の先に百目蝋燭をつけて差出すのでした。普通の生活には格別の大家【たいけ】でも一灯しかつけませんでした。

 ■の部分は、印刷が薄くて読み取れなかった。また、「ホウジヤク(こがね虫)」とあるのは、原文のまま。ホウジャク(蜂雀蛾)とコガネムシは、別の昆虫だと思うが、この地方では、コガネムシのことをを「ホウジャク」と呼んでいたのだろうか。

*このブログの人気記事 2015・5・26

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明治中期における代用教員「授業生」とその苦労

2015-05-25 04:15:49 | コラムと名言

◎明治中期における代用教員「授業生」とその苦労

 尾内幸次郎著(渡辺敦補筆)の『今昔思い出草』(伊勢崎郷土文化協会、一九六五)は、今日では見かけなくなったタイプ印刷の本で、非売品。いかにも地味でローカルな本だが、内容は実に興味深い。著者の尾内幸次郎翁は、明治二年(一八六九)生まれ。この本が刊行されたとき、満九六歳で健在でいらした。「尾内幸次郎」の読みは、未詳。
 尾内翁は、若いころ(十代の後半)、尋常小学校の「授業生」(一種の代用教員)を勤めておられたという。同書には、当時についての回想が含まれているが、これは明治中期の教育事情を伝える貴重な史料である。
 以下は、「殖蓮小学校の今と昔」の項(二一~二五ページ)の全文である。
 
 殖蓮小学校の今と昔
 昭和二十九年九月の末に、小学校の角田林先生が来て、殖蓮〈ウエハス〉小学校創立八十周年の紀念行事の内、PTA新聞にかくために、学校創立時代の話を聞かせてというので、少し話したが、又少し思出を記して見ます。
 下植木〈シモウエキ〉へ学校が始まったのは、明治七年〔一八七四〕の十月四日でした。場所は常清寺の建物を借りて校舎にあてた。群馬県第一大学区第十七中学区第九十三番小学校にあてられ、粕川〈カスカワ〉小学校と称して開校した。上植木〈カミウエキ〉では同九年〔一八七六〕になって関組の雷電神社西北の所に上植木小学校が始まった。
 其の頃には子弟を学校へ出す家庭は誠に少く、二十畳位の室がようやく満される位の人数だった。明治十一年〔一八七八〕に旧藩士の長尾景盛氏が宅地二反を寄附してくれたので、間口十間奥行四間位で四教室の校舎が出来た。位置は下城雄索氏の西南方で、今は赤城神社の所属公地に成っている。
 初代の校長は鈴木久馬先生といって旧伊勢崎の藩士、その時の学務委員は下城久作氏、此人は一年位して死亡し、代って下城彌一郎氏が就任した。先生には石原兵衛三【へえぞう】、長尾景盛、光村元朔、千葉忠五郎等皆年輩の漢学の先生達でした。十二年〔一八七九〕八月から千葉仲五郎〔ママ〕と代って二代目校長になった。同十四年〔一八八一〕四月からは本県師範学校卒業の吉沢浜雄という人が三代目校長になった。その前の学務委員下城彌一郎氏は県会議員になって居たから従弟に当る吉沢先生を引きぬいて村の学校へ受入れる事に成功したものだ。
 この頃の師範学校卒業生といえばタイした大物で、新人フッテイの時代だったから、どこでも大歓迎を受けた。中でも吉沢先生は安堀村の人て、二十五才で校長に就任し、藩士あがりの旧式な先生へも親切にし、生徒らにも懇々と世話をして呉れた。
 児童の就学状況はまだ甚だ低かった。子供が少し成長すると我家の仕事を手伝わせたり奉公に出して、教育よりも子供を親の活計〈カッケイ〉の足しにする向きが強かった。之に対して吉沢校長は、学齢児童を雇入れて使う者はその雇主が就学させる義務のある事を強調したので、子供を借りる者も少くなり、学校へ出る児童が増加するようになった。
 その内に年よりの学者教師達がだんだんやめたので、其後任がなくて困った。問に合せに小学校卒業生が教員に代用されて授業生と呼ばれた。全科卒業生は第一回に井下久馬(辰雄氏の父)一人。第二回には下城絞太郎・大谷春馬と私の三人。この四人が授業生に上げられました。当時私は十六才でした。はじめ入学したのは十四五名だったのに卒業はわずか三名だけ。どこの学校でも似たりよったりでした。
 佐位〈サイ〉那波〈ナワ〉両郡の郡役所で、新しい教育の仕方を授業生に学ばせ、古い先生方にも新しく課せられる教科目を勉強させるのには、夏休が利用された。場所はいつも伊勢崎〈イセサキ〉の赤石校だった。夏休は其頃でも八月で三十日間、教職員一同の講習会が催された。訓導以上を一級として師範の先生が教え、以下を二級として師範卒業先生が教えた。私共は授業生の若者だから勿論二級の方、所がこの外に年上の中には五六十才という老先生もこの二級には居た。この全部の講習生が生徒になって、お互に交代して先生をつとめ、各教科の教授法を実習した。我々の様な若者が教授する時の骨の折れることといったら、涙の出ない日はなく、今日は止めたい、明日は止めたいと思いながらも、どうやら講習会も終了するのでした。口答試問又は講義を多勢の前でする時などは背中から汗が出ました。又生徒に教え方や叱り方などを老人の先生に向ってする時はマッタク困ってしまいました。こんな工合で三年間続いて講習会が開催されたのです。
 上植木小学校は分校なので、四年生までおき、高等科は下植木の本校へ来た。私共は授業生として二年間こゝで勤めると、授業が大分うまくなったとほめられて、今泉の斎藤悦馬先生を分校長に私共四人で上植木小学校へ勤務した。月給は三円、三年間の合計でも僅か金百八円也。思えば夢の様ですね。
 教科書は修身書が尋常が四年高等が四年あって、其の他は地理そろばん習字作文など、算術や国語というのはなかった。その頃は相撲鬼ごっこ駈けっこ位の遊びしかなかったが、十八年〔一八八五〕から体操と唱歌が始った。体操は師範の青木先生から指導を受けて大谷春馬が受持った。卒業期の頃に理科が始められた。高等科では動物の書物をやった。それに「小学」という漢文四冊と十八史略(支那の歴史)もやった。机腰掛は四人掛のもので、机はふたが半分開く様に出来ていた。服装は皆着物で学用品は風呂敷の角を寄せ合せ、袋の様にした物に入れ、ひもをつけて背中に斜にしょった。
 私が十七才頃までは大人十人の内七八人はチョン髷をゆっていたが、十五年〔一八八二〕頃からは村内でも一二名位は洋服を着る者も出て来た。しかし女児の就学率は非常に悪く、一人もあがって来なかったが、私が高等卒業の頃、二名だけ三級下に居た事を覚えて居る。
 年二回試験があり、その日には袴をつけて登校する例であった。試験は他村の校長が来て実施した。試験場には郡書記学務委員村会議員等が立合った。試験官の前に一名ずつ呼び出された。合格すると一階級進む。一年生を八級とよび、高等卒業前を一級といった。
 十九年〔一八八六〕四月大野泉校長の時粕川校を本校とし、第二百四十八学区佐位第七尋常小学校と称し、二十一年〔一八八八〕三月十五日植木尋常小学校と改めた。二十二年〔一八八九〕四月町村制施行につき、八寸〈ハチス〉村と合したので東小保方〈ひがしおぼかた〉校の分校蓮〈ハチス〉小学校を合併し、殖蓮尋常小学校と改称した。今の小学校の位置に移ったのは矢島昇三郎校長の時二十七年〔一八九四〕三月で、新築校舎。三十五年〔一九〇二〕伊勢崎町にあった組合高等小学校が解散廃止となって四月からは(天笠久真三校長の時)殖蓮尋常高等小学校となった。大戦前から一時国民学校と改めたが終戦後には新憲法によって民主主義国家に適する六ケ年の小学校と三ケ年の中学校とが共に義務教育を施す教育機関に定められた。

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映画『キングコング』のテーマは「美女と野獣」

2015-05-24 05:05:22 | コラムと名言

◎映画『キングコング』のテーマは「美女と野獣」

 本年三月三〇日のコラム「キングコングは、なかなか登場しない」で、私は、次のように書いた。
 
 港を出港した船は、目的地のスカル島を目指す。この島は、スマトラ島の西南に位置しているが、海図には載っていないという設定である。この間、数週間の航海。この数週間の長さと退屈さとを、映画は、色々な場面をつなぐことで、観客に示す。「女優」アン・ダーロウ(フェイ・レイ)と、船員ジョン・ドリスコル(ブルース・キャボット)とが、徐々に惹かれあってゆく様子を見せたり、甲板でジャガイモの皮をむく中国人コックと、「女優」とが会話(雑談)する場面を入れたり。
 いよいよ、目的地に近づいてくると、カメラ・テストがおこなわれる。そう、この航海は、スカル島において、ある「記録映画」を撮影するためのものだったのである。しかし、「女優」アン・ダーロウは、その「記録映画」の内容を知らされていない。もちろん、「キングコング」の存在も。
 薄手のコスチュームを身にまとって、船べりに立った「女優」は、いろいろな演技を要求される。これを撮影するカメラは、何と「手回し」である。「女優」が、何か得体の知れないものを目にし、恐怖にかられて絶叫するシーン。もちろん「カメラ・テスト」という設定だが、すでにアン・ダーロウも、これから起こるであろう「何か」を予感している。その「予感」は、当然、映画の観客にも伝わる。心憎い演出である。

 この文章を私は、あてにならない記憶と、インターネット情報とを組み合わせて書いた。しかし、何となく気になったので、これを書いた数日後、DVDで『キングコング』(一九三三)の最初のほうを見てみた。
 実際の映画では、「数週間の航海」が、上の要約とは、まったく違った形で描かれていた。このほかにも、短い文章の中で、いくつか重要な思いちがいを犯していた。これには驚いた。記憶というものが、いかにいい加減なものであるかを実感した。
 すぐに記事を訂正すべきであったが、ついつい遅くなって、本日に到ってしまったことをお詫びしたい。
 では、実際の映画ではどうなっているか。
 早朝のニューヨーク港。いよいよ出航である。一瞬、エンパイア・ステート・ビルの遠景が挿入される。もちろん、これは伏線である。
 前夜、興行師カール・デナムに見出された「女優」アン・ダーロウ(フェイ・レイ)は、興奮を抑えきれず、甲板に姿をあらわす。ここで、航海士ジョン・ドリスコル(ブルース・キャボット)から、作業のジャマになると怒鳴りつけられるが、めげる様子はない。やがて、タグボートが離れてゆく。
 このあと、出航からすでに数週間が経過して、すでに、目的地に近づいているという場面に飛ぶ。大胆な展開だが、意外と不自然さが感じられない。なお、この時点で、デナム以外に、目的地を知る者はいない。
 甲板で、中国人コックがジャガイモの皮をむいている。コックは、小さいサルを飼っている。これは、あとで巨大なサルが登場する伏線なのであろう。そのコックと、とりとめもない雑談を続ける女優。
 そこに、航海士ジョンがやってきて、女優に今日の予定などを聞く。女優は、午後、カメラテストがあると返す。中国人コックは、そのままジャガイモの皮をむき続けているが、画面からは消える。航海士は、女優に向かって、「航海に女はいらない」などとイジワルを言うが、実は好意を寄せているようでもある(「反動形成」というヤツである)。
 話の流れで、女優は、コックの飼っているサルに向かって話しかける。ちょうどそこに、デナムがやってくる。デナムは、「まるで美女と野獣だ」と言うが、これは、女優とサルの組み合わせを見て、そのように評したのである。ところが、航海士は、女優と自分のことを言われたのかと思って、「野獣とはひどいじゃないか」と、デナムに抗議する。
 女優が甲板を去ったあと、航海士は、デナムに対し、いまだに目的地を知らされていないのはどういうわけだと問いただす。女優アンのことが心配だともいう。デナムは、野獣が美女にメロメロになったのかとからかう。ここで観客は、この映画のテーマが、「美女と野獣」であることに気づくわけである。それにしても、このあたりの場面設定とセリフは絶妙である。
 水夫がやってきて、船長がデナムを呼んでいると伝える。
 続いて船長室の場面へ。船長はデナムに、南緯二度、東経九〇度の地点に到ったことを告げる。この時点まで着たら、目的地を教えるという約束になっていたようだ。デナムは、一枚の地図を取り出し、船長や航海士に、海図には載っていない「ある島」の位置を伝え、さらに、その島には、「コング」と呼ばれるものが生息しているらしいことを伝える。
 さらに場面が変わって、カメラテストのシーン。薄手のコスチュームを身にまとって、甲板に登場した女優は、デナムから、いろいろな演技を要求される。これを撮影するのもデナム。カメラは、何と「手回し」である。それを航海士とコックが見学する。
 女優が、何か得体の知れないものを目にし、恐怖にかられて絶叫するシーン。女優も、これから起こるであろう「何か」を予感しているかのようである。観客のほうは、すでに、この得体の知れないものは、「コング」と呼ばれる野獣であろうと推測できるわけである。
 ――すなわち、中国人コックがジャガイモの皮をむいている場面から、カメラテストの場面までのすべてが、一日のこととして描かれている。そして、数週間に及ぶ航海の描写を、この一日によって済ませているわけでもある。しかも、ここで、次々と伏線があらわれる。「すごい脚本だ」と感心せずにはいられなかった。

*このブログの人気記事 2015・5・24

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不復来=もう来ない、復不来=またも来なかった

2015-05-23 05:34:50 | コラムと名言

◎不復来=もう来ない、復不来=またも来なかった

 昨日の続きである。塚本哲三『漢文初歩学び方考へ方と解き方講義』(考へ方研究社、一九二五)から、漢文を読む際に陥りがちな過ちについて注意しているところを紹介している。
 塚本哲三は、同書で、菊池純が頼山陽について書いた文章を引いたあと、「考へ方」のところで、次のようなことを述べている。

 不復は二度ト何々シナイ、モウ何々シナイである。
・不復来=不 復来(マタト来ハ シナイ)
・復不来=復 不 来(マタモ コ ナイ=前ニモ来ナカツタガ来ナイ事ガ二度ニナツタ)
と考へ分けてしつかりアタマに入れておく。
・不重来=重ネテ(二度ト)来ハシナイ
・重不来=来ナイ事ガ重ナツタ
などの区別をその通りに考へればよく分る。この文〔菊池純の文章〕に於て
・不復著朝服-見貴人
と考へると、復ビ〈ふたたび〉朝服ヲツケナイデ貴人ニ見エヨウ〈まみえよう〉となる。それでは何の事か分らぬから
・不復著朝服見貴人〔今後二度と出仕の服を身につけて高貴の人にお目にかゝることはしない=もう決して官途にはつかぬ〕
と解決する。

 ここで塚本哲三が述べていることは、あくまでも、漢文を「読む」にあたって陥りがちな過ちについての注意事項である。こうした注意事項は、漢文を「書く」にあたっても、十分に役立つはずのものであろう。
 ただ、旧幕時代は知らず、明治以降の学校教育においては、漢文を「書く」ことを目指す指導、「漢作文」の指導は、積極的には、おこなわれていなかったのではないかと推測する。少なくとも、この『漢文初歩学び方考へ方と解き方講義』には、「漢作文」の視点に立ったような記述は、ほとんど見られない。
 いま、「ほとんど見られない」と言って、「全く見られない」としなかったのは、同書の最後の方に、「復文」の練習問題が載っているからである。「復文」というのは、書き下した漢文を原文に戻すことをいう。これは、一種の漢作文であるとも言える。このあと、「復文」の練習問題を、そのまま紹介してもよいのだが、同じような話題が続くのもどうかと思うので、とりあえず明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2015・5・23

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日本文の漢字と漢文の漢字では様子が違う

2015-05-22 04:20:38 | コラムと名言

◎日本文の漢字と漢文の漢字では様子が違う

『漢文初歩学び方考へ方と解き方講義』(考へ方研究社、一九二五)の著者・塚本哲三は、同書の第一章「総説」の中で、「漢文を読解するアタマをこしらへて行く」必要を強調していた。「漢文を読解するアタマ」とは、言い換えれば、漢文に内在している論理を把握し、その論理に即して漢文を読みこなす力のことであろう。
 この力を身につける際に、ひとつのネックになるのが、すでに身にしみついている日本語の言語感覚である。日本人は、「漢字」というアイテムを用いながら、日本語を操っている。塚本哲三は、そのことがかえって、漢文を読みこなす際の妨げになりうることを指摘している。
 本日は、同書第二章「漢文の組立」から、「其一 漢文と日本文」の一部、および「其二 漢文の特色」の一部を紹介してみよう。

 其一 漢文と日本文
 漢文に使ふ漢字 漢文は漢字の行列である。だから漢字が分らなくては漢文は分らぬ、幸ひな事に吾々は小学時代から一通り漢字を学んでゐる。従つて漢文の中の漢字が丸ツきり分らぬといふ事はない。けれども吾々が日本文として仮名の中へまぜて使ふ漢字と、漢文として書かれた漢字とは大分に〈ダイブンニ〉様子の違ふ事がある。例へば日本文の書取としてアミと書く所へ「罔」の字を書いたらそれは明かに間違である。けれども漢文の中にはそれが「網」と同議に使はれた場合がいくらもある。「矣」とか「終焉」とかいふ字は日本文としては殆ど使はぬ。殊に現代の吾々の文章にはそんなものは一つも出て来ぬ。而るに漢文ではそれが文章の終りなどに頻々と〈ヒンピント〉出て来る。こんな訳だから、吾々が日本文を書く為めに利用してゐるだけの漢字の知識のみではどうしても漢文の解決はつかない。即ち漢文の中には日本人の吾々が日頃利用してゐる漢字の外にまだまだ趣の変つた色々な漢字が使はれてゐるといふ事を十分に理解して掛らなければならぬのである。【中略】
 其二 漢文の特色
 漢字の互用 【前略】だから漢文を学ぶについては、常によく留意して一字多義――一つの字に色々な意味があるといふ事を理解し、その平凡普通なものはなるべく正確に記憶して居て、さて実際に問題を解く場合に当つて、この字はどちらの意味に取ればよく文意に叶ふかといふ事を考へて見なければならぬ。予習復習をやるやうな場合は、苟も〈イヤシクミ〉変だと思ふ字はどんなやさしい字でも一々字引を引いて見て、自分の知つてゐる以外の意味でそこの文意にうまく合ふやうなのはないかと調べて見る事が肝要である。
 一字に幾つかの意味があると同時に、一つの言葉に幾つもの字も出来てゐる。例へば、
 ワレ・ワガ (一)我。(二)吾。(三)予。(四)余。
 ナンヂ (一)汝。(二)女。(三)爾。(四)若。(五)而。
 コレ・コノ (一)此。(二)是。(三)斯。(四)之(この字は多くはコレラと使ふが時にはコレ・コレガともなる)
 ナンゾ・イヅクンゾ・ナニ (一)何。(二)奚。(三)焉。(四)悪。(五)安。(六)烏。
 ニ・ヲ・ヨリ (一)於、于、乎。(二)自、従、由(この方は凡てヨリであつて、ニ・ヲとは使はない)
 ゴトシ (一)如。(二)若。
 シカズ (一)不如。(二)不若。
  (一)不。(二)弗。
 ナシ・ナカレ (一)無。(二)莫。(三)勿。(四)毋。(五)亡。(六)靡。(七)蔑。(八)末。
 マサニ……ス (一)将。(二)且。
 ラル (一)被。(二)見。(三)為。(四)為……遣。(これは普通「所トナル」と訓ずるが意味はラルである)
 シテ……シム (一)使。(二)令。(三)教。(四)遣。(五)俾
 イカン (一)如何。(二)何如。(三)若何。(四)何若。(五)奈何
 ノミ (一)耳。(二)爾。(三)已、而与。
 カ (一)乎。(二)邪。(三)歟、与。
  (一)乎。(二)邪。(三)哉。(四)也。
 こんな風にいくらでもある。烏の字などは吾々の漢字としてはカラスといふ意味の外使つてゐないが、漢文ではイヅクンゾといふ反語に使ふ方が普通である。甞て〈カツテ〉高等学校の試験にこの字を含んだ問題が出た時、どうもカラスでは変だといふのでクロキコトと読んだ人があつたといふ笑話も残つてゐる。【以下略】

*礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50(2015・5・21現在)

1位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
2位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判 
3位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
4位 13年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか     
5位 13年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』 
6位 15年3月1日  呉清源と下中彌三郎
7位 14年1月20日 エンソ・オドミ・シロムク・チンカラ     
8位 13年8月15日 野口英世伝とそれに関わるキーワード     
9位 13年8月1日  麻生財務相のいう「ナチス憲法」とは何か   
10位 15年2月20日 原田実氏の『江戸しぐさの正体』を読んで

11位 13年2月27日 覚醒して苦しむ理性             
12位 15年2月27日 エノケンは、義経・弁慶に追いつけたのか 
13位 15年2月28日 備仲臣道氏評『曼荼羅国神不敬事件の真相』
14位 15年3月4日  「仏教者の戦争責任」を問い続ける柏木隆法さん
15位 14年7月19日 古事記真福寺本の中巻は五十丁        
16位 15年1月8日  伊藤昭久さん、田村治芳さん、松岡正剛さん
17位 14年8月15日 煩を厭ひてすべてはしるさず(滝沢馬琴)   
18位 14年2月1日  敗戦と火工廠多摩火薬製造所         
19位 15年2月4日  岩波新書『ナンセン伝』1950年版の謎
20位 15年1月14日 このブログの人気記事(2015・1・14)

21位 15年3月7日  イスラム教がアジアを結ぶ(有賀アフマド)
22位 14年3月28日 相馬ケ原弾拾い射殺事件          
23位 14年1月21日 今や日本は国家存亡の重大岐路にある        
24位 15年2月19日 「日本われぼめ症候群」について
25位 14年8月14日 滝沢馬琴が参照した文献(その2)      
26位 15年1月9日  寺尾宏二の『日本賦税史研究』(1943)
27位 15年3月11日 『横浜事件と再審裁判』(2015)を読む
28位 15年2月5日  家永三郎教授と山折哲雄講師
29位 15年1月1日  海老沢有道と「ごまかされた維新」
30位 15年1月4日  現代にタイムトラベルした必殺仕事人

31位 15年2月9日  山折・新田論争における争点のひとつは「国家神道」
32位 13年12月9日 「失礼しちゃうワ」は昭和初期の流行語   
33位 14年12月16日 国策を否定した危険なヘイトスピーチ   
34位 15年5月20日 ウィリアム・マーティンの漢文を読む
35位 15年1月21日 岩波新書『ナンセン伝』第二刷(1946)
36位 14年3月27日 日本の農業は最高に発達した造園
37位 15年2月22日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50
38位 15年2月23日 柳田國男、「保守主義」を語る(1943)       
39位 14年3月29日 アメリカ最高裁決定、ジラードを日本の   
40位 15年3月2日  璽光尊から神詔を受けた下中彌三郎 

41位 15年3月20日 戦時学徒自戒五條(1942)
42位 15年2月24日 妖に美し、『放射線像』(2015)の世界に佇む
43位 14年12月25日 生方恵一アナウンサーと「ミソラ事件」 
44位 15年5月14日 昭憲皇太后の伊勢神宮参拝と「ほまれの赤福」
45位 15年3月9日  エノケンは義経・弁慶に追いつけたのか(2)
46位 15年1月17日 生産力の拡充がかへつて生産力の破壊的現象を生ずる
47位 15年5月9日  柴五郎少年、鍛冶屋の仕事場で暖をとる
48位 15年3月22日 教団が隠したサリンは今どうなっているのか
49位 14年3月20日 戦時下に再評価された津下剛の農史研究  
50位 15年3月3日  柿沼昌芳氏書評『曼陀羅国神不敬事件の真相』

次 点 15年1月28日 湯川秀樹の中間子理論を少年少女に紹介

*このブログの人気記事 2015・5・22

 

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