礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大逆事件公判から南北朝正閏論争へ

2015-05-13 05:00:51 | コラムと名言

◎大逆事件公判から南北朝正閏論争へ

 昨日の続きである。後南朝史編纂会編『後南朝史論集』(新樹社、一九五六)から、その巻頭にある、瀧川政次郎の論文、「後南朝を論ず」を紹介している。
 本日は、同論文の「七 幸徳秋水事件と後南朝」を紹介する。この節は、かなり長いので、本日、紹介するのは前半部のみ。引用にあたって、正字(旧字)は新字に改めた。また、原文は改行が少ないので、適宜、改行をおこなった。▼印は、引用者がおこなった改行であることを示す。

 七 幸徳秋水事件と後南朝
 明治四十三年五月二十五日、信州松本の警察署の小野寺〔藤彦〕巡査は、長野大林区署〈ダイリンクショ〉明科〈アカシナ〉製材所機械工宮下太吉〈タキチ〉が目的不明のブリキ罐を製造していることを探知し、宮下外三名を逮捕した。取調べの結果、これはこの秋、長野県下で行われる陸軍大演習を督される明治天皇に投げつける爆弾を製造していたものということとなり、社会党員の大検挙が行われた。
▼日本社会党の有力なメンバーであった幸徳秋水が、この事件の首謀者として湯ケ原で逮捕されたのは六月二日であって、事件は大逆罪として大審院に移され、十一月九日には、潮〈ウシオ〉〔恒太郎〈ツネタロウ〉〕判事の係りで予審終結となり、十二月十日より二十一日までの間、九回の公判を非公開で行っただけで、翌四十四年一月十八日には、二十四名の死刑を含む全被告有罪の州刊決が、鶴丈一郎〈ツル・ジョウイチロウ〉裁判長によって申渡された。翌日十二名の被告に対し、無期懲役に減刑する特赦令が発せられ、一月二十四日、二十五日の両日に亘って、幸徳以下十二名の死刑が執行された。當時私は十五歳の少年であったが、世間の騒ぎがあまりにも大きかったので、今も営時のことをまざまざと記憶している。
 幸徳秋水が、本当に聖徳高き明治天皇を暗殺しようと謀ったか否かは、今日となっては大きな疑問である。明治四十一年に起った神田錦輝館の赤旗事件の処罰が、あまりにも厳酷であったため、これに憤激した社会党員が過激な言葉を口にしていたことは事実であるが、幸徳秋水が実際こういう計画を立てたということは、殆ど信じられない。
▼明治四十四年十二月二十七日に印刷せられた東武〈アズマ・タケシ〉の『南山余録』には、「元来私は幸徳の大隠謀に付て今尚ほ〈イマナオ〉疑ひがある。渠等〈カレラ〉は生活問題の困難と、警察の抑圧に堪へ切れず、心にもなき大放言を為して、彼の所謂〈カノイワユル〉芳を千載に遺す〈ノコス〉ことが出来なければ、寧ろ臭を万世に遺さんとの無分別を起したのではあるまいか」とある。
▼大審院が、いかなる証拠によって、幸徳をこの事件の首謀者と断じたかは、審理が非公開裡に行われ、その訴訟記録謄本さえ、当時の弁護人であった今村力三郎・磯部四郎・平出修〈ヒライデ・シュウ〉・鵜澤聰明〈ウザワ・フサアキ〉・川嶋仟司〈センジ〉の宅から半強制的に取上げられたのであるから、一切不明である。しかし、戦後に発表せられた宮武外骨編『幸徳一派大逆事件顚末』、渡邊順三著『幸徳事件の全貌』、神崎清編『大逆事件記録』等の書は、いずれもこの事件を、軍国主義者の巨魁山県有朋の社会党員掃滅〈ソウメツ〉の一大隠謀であったと断じている。堺利彦も、曽つて私に、自分は事件が起る前から赤旗事件で入獄していたので、この事件にひっかけられなかったのは幸であったと語ったことがある。
▼山県が国民大衆の組織に工夫を凝らしていたことは、明治四十三年十一月三日、彼の子分である寺内正毅〈マサタケ〉の手によって、帝国在郷軍人会が結成せられたことによっても知られるから、彼が社会党員を一網打尽にする機会をねらっていたことは慥か〈タシカ〉であろう。明治四十四年二月十一日、細民救治〈キュウジ〉の恩詔が発せられ、内帑金〈ナイドキン〉百五十万円を以て恩賜財団済世会が生れ、山県がその顧問として専らその世話をやいているのは、多くの無辜〈ムコ〉を殺した山県の罪ほろぼしと見られないでもない。
 ところがこの事件は、幸徳が何でもなく言った一言から、意外な大事件を惹き起すに至った。それは十二月十日から二十一日までに開かれた公判廷で、幸徳が鶴裁判長から、聖徳高き今上陛下を弑し〈シイシ〉奉らんとするがごときは、天人倶に〈トモニ〉赦さざる大罪なるぞと恫喝せられたとき、彼は開き直って、今の天皇は南朝の天子を殺して三種の神器を奪い取った北朝の天子の子孫ではないか、それを敲き殺すのが、何故それほどの大罪か、と言い放ったことである。鶴裁判長は、返す言葉もなく、暫らく黙ってしまったので、裁判官は色を失い、法廷は大混乱に陥った。
▼この話は、大正十五年の夏、北軽井沢法政大学村の小山氏別荘で、この事件の係り検事であった小山松吉氏から私が直接伺った話であって、疑いのない事実である。当時私は法政大学の講師であり、小山氏は大逆事件当時の検事総長であった法政大学々長松室致〈マツムロ・イタス〉の下で学部長をしておられた。小山氏は私が歴史家であることを知って、恐らく誰にも話されなかったこの話を、私に聴かせて下さったものと思う。
▼当時裁判所と政府とはツーツーであったから、この法廷の模様はやがて外部に洩れ、幸徳一派がかような不祥事件を起したのは、文部省の歴史の教え方がわるい結果であるということになり、南北朝正閏の論が朝野に闘わされ、明治四十四年八月には、第二次桂〔太郎〕内閣が、教科書問題の責を引いて挂冠〈カイカン〉するという騒ぎとなった。
 幸徳秋水は、南朝の遺臣でも何でもない。また彼が日本歴史に深い造詣をもっていたとも考えられない。彼が若しこの事件の首謀者であったとしたら、彼は天皇制が、日本の民主化を防ぐ大きな障壁であるから、これを取り除かねばならぬと考えてやったものと考えられる。彼が法廷でこういうことを言ったのは、いわゆる売り言葉に買い言葉で、やけになった者が権力者に向ってついた「あくたい」に過ぎない。しかし、彼がこういう悪態を吐いたことについては、充分考えてみなければならない。
▼幸徳伝次郎は、曽つて沖野岩三郎と共に和歌山新宮町のキリスト教々会にいたことがある。この事件の予審決定書には、秋水が明治四十一年七月、郷里土佐より上京の際、紀州新宮町の医師大石誠之助を訪い〈オトナイ〉、熊野川に船を泛べて〈ウカベテ〉、船中で爆弾製造の密議をしたとあるが、彼は新宮にいた関係で、大石とも親しかったのである。新宮は北山から流す筏〈イカダ〉の着く所で、山林業で生きている北山の人々は、新宮と北山との間を常に往復している。従って熊野から新宮、那智にかけては、後南朝伝説が流布されている。秋水は、いつ誰からとはなしに、長禄元年の北山での惨劇の話を聴かされ、北朝天皇の卑劣、残忍なる処置に対して、大なる憤りを感じたものと思われる。
▼北朝の天子が南朝の天子を殺して神器を奪ったというのは、長禄の変以外にはない。この秋水の胸中にひそんでいた憤りが、鶴裁判長の恫喝に触れ、思わず前記の「あくたい」となって爆発したものと考えられる。故に幸徳の大逆事件の余波として、教科書問題が起り、内閣まで倒潰するような大事件が起ったのは、長禄惨劇の恨みが、四百五十年後に産んだ結果であるといってよい。【次回に続く】

『後南朝史論集』が刊行されたのは、一九五六年(昭和三一)一二月二日だが、同月一〇日に、雑誌『特集人物往来』の昭和三一年一二月号(第一巻第八号)が発行されている。瀧川政次郎は、この号に、「誰も知らない幸徳事件の裏面」という文章を寄せ、そこでも、上記にあるような「史実」、つまり、大逆事件公判における幸徳秋水の問題発言が南北朝正閏論争につながったという「史実」を紹介している。
 つまり、この「史実」は、ほぼ同時期に、ふたつの媒体によって、世に知られることになったわけである。なお、この「史実」は、非常に興味深く、説得力もあるが、基本的に、伝聞推定によって構成されており、史実として確定しているというわけではない。

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