礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

漢文を読解するアタマをこしらえる(塚本哲三)

2015-05-18 05:03:21 | コラムと名言

◎漢文を読解するアタマをこしらえる(塚本哲三)

『漢文初歩学び方考へ方と解き方講義』(考へ方研究社、一九二五)の著者・塚本哲三であるが、国立国会図書館のデータを見ると、国文漢文の古典の注釈書、国文漢文の学習参考書を中心に、かなり多数の編著書がある。〈ツカモト・テツゾウ〉と読み、生没年は、一八八一~一九五三。経歴などは、まだ調べていない。
 本日は、前掲書の第一章「総説」から、著者が「本書の読み方」などを説いている部分を紹介してみたい。

 本書の目的とその読み方 本書は諸君の既に学んだ事、今現に学びつゝある事、これから学ばうとする事の中で、ほんとに正しく漢文を学ぶについて特に大切な事柄を整理して、諸君をして誤る事なく漢文を学ばしめ、従つて漢文についてのほんとの実力を養はしめんが為めに書いたものである。本書一巻で漢文のあらゆる事項を残らず悉さう〈ツクソウ〉といふではない。本書一巻を読みさへすればどんな漢文でも立所に〈タチドコロニ〉読解されるやうになるといふではない。本書の目標はどこまでも漢文の初歩である、正しい第一歩である。それにしても漢文としての主要な事項は大抵この内に収められてゐて、而もそれが整理されてある為めに、本書は諸君に取つて恐らくやさしい面白い読み物ではないに違ひない。けれども苟も諸君が漢文を学ぶといふ以上――学んでほんとに漢文の力を附けようといふ以上、諸君はどうしても辛抱強く正しい道に進む外ない。
 教場で長い時間を掛けて口から耳へ教へ込むのなら、必ずしも一時に一事を授けて了ふ〈シマウ〉必要はない。段々と色々の事を遣つて行つて、自然々々にアタマへしみ込ませればよいのであるが、書物ではさうは行かぬ。勿論書物でも、沢山の問題を出して、それを解する間に自然々々と根柢の力を養ふやうにして行くといふ方策も無くはない。諭し今球欝は嚢竈その菱を魅けて、漢文としての根柢事項を整理して、それに依つて諸君のアタマを整理しようとした。諸君の多くは教場で自然々々にアタマヘしみ込ませるやうに教へられてゐると思ふ。従つて本書はそれを整理して諸君のアタマにはつきりした漢文の輪郭を形造らせるのがいゝと信じたからである。
 本書は決して諸君の教科書の字引ではない。教科書を予習復習するやうな時、一寸〈チョット〉分らぬ所があるからとて本書を開いて見ても、恐らく諸君に満足を与へることは出来なからう。けれども若し諸君が辛抱強く本書を読んで、一章々々その説く所を理解記憶してしつかりとアタマに入れるやうに勉めたならば、必ずや諸君のアタマに漢文といふものがはつきりと分つて来て、従つて教科書中の文の真意も理解され、未知の漢文を解くについても比較的らくにその手懸りを見つけるだけの実力がついて来ると信ずる。
本書をほんとに理解した上で、更に本書の兄とも謂ふべき「漢文学び方考へ方と解き方」に進めば、中等程度、受験程度としての漢文は殆ど完成される。その書に書いてある事項も、又書いてゐる精神も、概ね〈オオムネ〉本書と異なる所はない。只その例題問題の程度が高いといふ事、根柢事項に対する説明のしかたがやゝ進んでゐるといふ事、まづその位のものである。
 只読むだけ、只教はるだけでは、どうしてもほんとの力は附きにくい。自ら進んで遣る――何といつても実力は自力でなくては附かない。諸君は常に本書の示す学び方に従つて、その通りに問題練習を試みると同時に、更に本書中に説明してある幾多の根柢事項の類例を自分の学んでゐる教科書などから求め出して、その知識を更に確実な、更に充実したものとするだけの努力が肝要である。
 考へ方といふ言葉の意味 吾々は常に考へ方といふ事を主張する。それは別段不思議な方案でも何でもない。一口にいへばアタマの働かせ方といふ事である。まづ其の学科として必要な根柢の事項をしつかりと理解記憶し、それを根柢としてあらゆる既知未知の問題を自分のアタマでアタマ相応に徹底的に解釈するといふに過ぎない。教へられた事柄をそのまゝ鵜呑みにして、それを只一つの事柄として丸暗記するやうな学び方をしてはいけない、ほんとにその事柄を理解して、なるほどと自分のアタマに納得の出来た上で、それをほんとに自分のものとして記憶する、そしてどんな問題を解くにしても、只ぼんやりとそれを解くでなくて、それを解くについての目のつけ所をしつかりと摑み、その問題を解くについての根柢事項をしつかりと想起して、その問題から或〈アル〉解を得るに至る迄の手順をはつきりと意識して、それが人に説明の出来るやうに学ばなくてはいけないといふのが吾々の主張であつて、それが即ち考へ方である。つまり学んだ事柄を一つ一つアタマの内に孤立させて置かないで、それを自分の血とし肉として、それが他の問題を解く時の役に立つやうにしなければならぬといふ事である。さうすれば一つが一つとしてでなくて、二つにも三つにも乃至〈ナイシ〉十にも役立つのである。だから考へ方の一番の眼目は、なるべく脳力の浪費を避けて、少い事をほんとに学んでそれが多くに役立つやうなアタマを作らうといふ事にある。諾君には学ぶべき沢山の科目がある、寧ろ多過ぎる程にある。だからいくら漢文が出来るやうになりたいと思つても、さうさう漢文ばかり遣つてはゐられぬ。昔の人のやうに漢文の本ばかり沢山読んで知らず識らずの間に漢文が出来るやうになるといふやうなそんな余裕は事実無い筈である。そこで諸君には殊更〈コトサラ〉考へ方の必要が痛切に起つて来る。考へ方的に漢文を学んで、一方には漢文の主要な根柢事項を整理し系統立てて、はつきりした輪郭をつけてそれを理解記憶すると同時に、一方ではその根柢事項を活用して漢文を読解するアタマをこしらへて行く必要があるのである。本書によつて漢文を学ぶ人は、常にその心掛を忘れてはならない。

 説明がややくどいように思うが、斬新な発想に立ち、独自の教授法を打ち出していることはよくわかる。ここで、塚本哲三は、「考え方」ということを強調しているが、インターネット情報によれば、塚本は、藤森良蔵〈フジモリ・リョウゾウ〉とともに、雑誌『考へ方』の創刊に関わっていたらしい。

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