礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

木偏に屠と書いて何と読むか

2015-05-10 05:08:41 | コラムと名言

◎木偏に屠と書いて何と読むか

 本日も、笹澤魯羊著『宇曽利百話』(下北郷土会、一九六一年第三版)から。同書の「農林十題」の章に含まれている「南部桧」という節の最初の部分を紹介してみよう。

南部桧 下北半島の■は南部桧〈ナンブヒノキ〉といわれて、遠く永禄の昔から北陸筋に移出された。■の木肌は木曽桧〈キソヒノキ〉に似たもの、杉に似たもの又は松に似たもの、光沢のあるもの又は光沢のないもの等種々ある。■は白雪皚々〈ガイガイ〉たる厳寒二月の候に花を開いて、吹雪とともに花粉が飛び舞うて交配する。斯様〈カヨウ〉に氷雪寒冷の間に交配し結実して、而も用材となるには百年乃至百数十年を要するので、木目〈キメ〉頗る〈スコブル〉細かく耐久性に優逸して、築城又は神社仏閣の建築材に使用された。平泉の金色堂〈コンジキドウ〉は■材で建てられて居るが、九百年の星霜を経てなお堅牢を保持して居る。元文三年(一七三八年)水戸城の普請木を大畑〈オオハタ〉の桧山から伐出して〈キリダシテ〉居る。明和二年(一七六五年)加賀城火災の際にも、復旧材として大畑の添木〈ソエギ〉、高橋川〔地名〕の二ケ山〔二箇山〕から桧壱千本弐干石を伐出し積送つて居る。天保九年(一八三八)三月江戸城の西丸〈ニシノマル〉が炎上した際にも、大畑の三右衛門沢、鷲ノ巣の二ケ山から桧壱万本を伐出し、田名部の延鉄三万貫と合せて復旧工事御手伝として献納した。明治の初めに横浜港修築の際にも、木岸壁並桟橋〈サンバシ〉の用材として南部桧を使用された。古文書には桧葉〈ヒバ〉とも記されて居り、近くはヒノキ・アスナロとも呼ばれるが、あすは桧になろうの意から起きたもので、略して「アスナロ」といわれる。
 南部藩は享保の頃に桧山の内三十八ケ山を撰び留山〈トメヤマ〉として、藩の特別の用途ある場合に限り伐採することにした。宝暦十年(一七六〇年)林政の改革を行うに当り、半島の桧山全部弐百八ケ山を総留山として、七ケ年輪伐の制度を布き〈シキ〉、一ケ年三拾ケ山乃至は弐拾数ケ山、七万石乃至は六万八千石程度を限り伐出すことにした。年々伐出す山を御運上山と唱えて、山師共は運上金を納めて桧材を伐出した。【以下略】

 引用文中の■には、すべて同一の字がはいる。木偏に、旁(つくり)が「屠」という字である。旁の「屠」は、正確には、尸(しかばね)に「者」で、「屠」より一画少ない(テンがない)。
 さて、この字の読みだが、これが難問である。原文にはルビが振られていない。普通の漢和辞典には、この字自体が載っていない(たぶん国字であろう)。
 しかし、ヒントはある。「古文書には桧葉とも記されて居り」という文章がある。桧葉の読みは、たぶん「ヒバ」であろう。だとすれば、■という字の読みも、「ヒバ」である可能性が高い。そう思って、座右に常備している『社会新辞典』(郁文舎、一九〇六)で、「ひば」を引いてみると、あっけなく、この字、■が出てきた。しかし、「『アスナロ』に同じ。」という説明しかない。そこで、「あすなろ」を引いてみると、ここにもやはり、この字、■がある。
 つまり、この字は、「ひば」もしくは「あすなろ」とも読むことが判明したわけである。ただし、上記の文章においては、やはり、「ひば」と読ませていると思われえる。

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