礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

明治中期における代用教員「授業生」とその苦労

2015-05-25 04:15:49 | コラムと名言

◎明治中期における代用教員「授業生」とその苦労

 尾内幸次郎著(渡辺敦補筆)の『今昔思い出草』(伊勢崎郷土文化協会、一九六五)は、今日では見かけなくなったタイプ印刷の本で、非売品。いかにも地味でローカルな本だが、内容は実に興味深い。著者の尾内幸次郎翁は、明治二年(一八六九)生まれ。この本が刊行されたとき、満九六歳で健在でいらした。「尾内幸次郎」の読みは、未詳。
 尾内翁は、若いころ(十代の後半)、尋常小学校の「授業生」(一種の代用教員)を勤めておられたという。同書には、当時についての回想が含まれているが、これは明治中期の教育事情を伝える貴重な史料である。
 以下は、「殖蓮小学校の今と昔」の項(二一~二五ページ)の全文である。
 
 殖蓮小学校の今と昔
 昭和二十九年九月の末に、小学校の角田林先生が来て、殖蓮〈ウエハス〉小学校創立八十周年の紀念行事の内、PTA新聞にかくために、学校創立時代の話を聞かせてというので、少し話したが、又少し思出を記して見ます。
 下植木〈シモウエキ〉へ学校が始まったのは、明治七年〔一八七四〕の十月四日でした。場所は常清寺の建物を借りて校舎にあてた。群馬県第一大学区第十七中学区第九十三番小学校にあてられ、粕川〈カスカワ〉小学校と称して開校した。上植木〈カミウエキ〉では同九年〔一八七六〕になって関組の雷電神社西北の所に上植木小学校が始まった。
 其の頃には子弟を学校へ出す家庭は誠に少く、二十畳位の室がようやく満される位の人数だった。明治十一年〔一八七八〕に旧藩士の長尾景盛氏が宅地二反を寄附してくれたので、間口十間奥行四間位で四教室の校舎が出来た。位置は下城雄索氏の西南方で、今は赤城神社の所属公地に成っている。
 初代の校長は鈴木久馬先生といって旧伊勢崎の藩士、その時の学務委員は下城久作氏、此人は一年位して死亡し、代って下城彌一郎氏が就任した。先生には石原兵衛三【へえぞう】、長尾景盛、光村元朔、千葉忠五郎等皆年輩の漢学の先生達でした。十二年〔一八七九〕八月から千葉仲五郎〔ママ〕と代って二代目校長になった。同十四年〔一八八一〕四月からは本県師範学校卒業の吉沢浜雄という人が三代目校長になった。その前の学務委員下城彌一郎氏は県会議員になって居たから従弟に当る吉沢先生を引きぬいて村の学校へ受入れる事に成功したものだ。
 この頃の師範学校卒業生といえばタイした大物で、新人フッテイの時代だったから、どこでも大歓迎を受けた。中でも吉沢先生は安堀村の人て、二十五才で校長に就任し、藩士あがりの旧式な先生へも親切にし、生徒らにも懇々と世話をして呉れた。
 児童の就学状況はまだ甚だ低かった。子供が少し成長すると我家の仕事を手伝わせたり奉公に出して、教育よりも子供を親の活計〈カッケイ〉の足しにする向きが強かった。之に対して吉沢校長は、学齢児童を雇入れて使う者はその雇主が就学させる義務のある事を強調したので、子供を借りる者も少くなり、学校へ出る児童が増加するようになった。
 その内に年よりの学者教師達がだんだんやめたので、其後任がなくて困った。問に合せに小学校卒業生が教員に代用されて授業生と呼ばれた。全科卒業生は第一回に井下久馬(辰雄氏の父)一人。第二回には下城絞太郎・大谷春馬と私の三人。この四人が授業生に上げられました。当時私は十六才でした。はじめ入学したのは十四五名だったのに卒業はわずか三名だけ。どこの学校でも似たりよったりでした。
 佐位〈サイ〉那波〈ナワ〉両郡の郡役所で、新しい教育の仕方を授業生に学ばせ、古い先生方にも新しく課せられる教科目を勉強させるのには、夏休が利用された。場所はいつも伊勢崎〈イセサキ〉の赤石校だった。夏休は其頃でも八月で三十日間、教職員一同の講習会が催された。訓導以上を一級として師範の先生が教え、以下を二級として師範卒業先生が教えた。私共は授業生の若者だから勿論二級の方、所がこの外に年上の中には五六十才という老先生もこの二級には居た。この全部の講習生が生徒になって、お互に交代して先生をつとめ、各教科の教授法を実習した。我々の様な若者が教授する時の骨の折れることといったら、涙の出ない日はなく、今日は止めたい、明日は止めたいと思いながらも、どうやら講習会も終了するのでした。口答試問又は講義を多勢の前でする時などは背中から汗が出ました。又生徒に教え方や叱り方などを老人の先生に向ってする時はマッタク困ってしまいました。こんな工合で三年間続いて講習会が開催されたのです。
 上植木小学校は分校なので、四年生までおき、高等科は下植木の本校へ来た。私共は授業生として二年間こゝで勤めると、授業が大分うまくなったとほめられて、今泉の斎藤悦馬先生を分校長に私共四人で上植木小学校へ勤務した。月給は三円、三年間の合計でも僅か金百八円也。思えば夢の様ですね。
 教科書は修身書が尋常が四年高等が四年あって、其の他は地理そろばん習字作文など、算術や国語というのはなかった。その頃は相撲鬼ごっこ駈けっこ位の遊びしかなかったが、十八年〔一八八五〕から体操と唱歌が始った。体操は師範の青木先生から指導を受けて大谷春馬が受持った。卒業期の頃に理科が始められた。高等科では動物の書物をやった。それに「小学」という漢文四冊と十八史略(支那の歴史)もやった。机腰掛は四人掛のもので、机はふたが半分開く様に出来ていた。服装は皆着物で学用品は風呂敷の角を寄せ合せ、袋の様にした物に入れ、ひもをつけて背中に斜にしょった。
 私が十七才頃までは大人十人の内七八人はチョン髷をゆっていたが、十五年〔一八八二〕頃からは村内でも一二名位は洋服を着る者も出て来た。しかし女児の就学率は非常に悪く、一人もあがって来なかったが、私が高等卒業の頃、二名だけ三級下に居た事を覚えて居る。
 年二回試験があり、その日には袴をつけて登校する例であった。試験は他村の校長が来て実施した。試験場には郡書記学務委員村会議員等が立合った。試験官の前に一名ずつ呼び出された。合格すると一階級進む。一年生を八級とよび、高等卒業前を一級といった。
 十九年〔一八八六〕四月大野泉校長の時粕川校を本校とし、第二百四十八学区佐位第七尋常小学校と称し、二十一年〔一八八八〕三月十五日植木尋常小学校と改めた。二十二年〔一八八九〕四月町村制施行につき、八寸〈ハチス〉村と合したので東小保方〈ひがしおぼかた〉校の分校蓮〈ハチス〉小学校を合併し、殖蓮尋常小学校と改称した。今の小学校の位置に移ったのは矢島昇三郎校長の時二十七年〔一八九四〕三月で、新築校舎。三十五年〔一九〇二〕伊勢崎町にあった組合高等小学校が解散廃止となって四月からは(天笠久真三校長の時)殖蓮尋常高等小学校となった。大戦前から一時国民学校と改めたが終戦後には新憲法によって民主主義国家に適する六ケ年の小学校と三ケ年の中学校とが共に義務教育を施す教育機関に定められた。

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