礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

友田吉之助、「旧本日本紀」の存在を示唆す

2015-05-28 07:53:51 | コラムと名言

◎友田吉之助、「旧本日本紀」の存在を示唆す

 昨日は、国立国会図書館に行って、友田吉之助の論文「日本書記後世改刪説の再検討」(『開学十周年記念論文集』島根大学、一九六〇年二月)を閲覧してきた。この論文は、友田教授の主著『日本書紀成立の研究』(風間書房、一九六九:増補版、一九八三)に収録されており、一度、読んだことがあるが、初出の形で読んでみたかったのである。
 友田吉之助は、一九一二年生まれで、島根大学名誉教授。インターネット情報によれば、すでに故人となっている。友田は、日本書紀の研究者であって、今日、伝わっているものとは別の日本書記(旧本日本紀)が存在したとする説を唱えていた。つまり、日本書記改刪〈カイサン〉論者である。また、日本書記の紀年についても、独自の学説を唱えていたことで知られる。
 友田吉之助という学者が、アカデミズムの世界で、どのように評価されているかは知らないが、私個人としては、その著『日本書紀成立の研究』は、稀に見る名著ではないかと信じている。友田の文章は、論旨が明快な上に、挙証に説得力がある。対立する見解(多くの場合、アカデミズムの世界における多数派)を批判する際も、穏やかな表現に終始しており、一見、論争的でない。しかし、この穏やかな姿勢が、読む者を惹きつけずにはおかないのである。
 百聞は一見に如かずというから、本日は、「日本書記後世改刪説の再検討」の一部を引用させていただくことにしよう。引用は、『日本書紀成立の研究』増補版の第二章から。ページでいうと、五三~五五ページである。
 友田は、ここで、『日本書紀』の敏達天皇紀と『聖徳太子伝暦〈デンリャク〉』のそれに相当する記述とを比較しながら、旧本日本紀が存在した可能性を示唆している。

 ……以下、伝暦と日本書紀との関係について検討を加えてみよう。
 十年春潤二月。蝦夷数千寇於辺境。由是召其魁帥綾糟等。【魁帥者大毛人也】。詔曰。惟你蝦夷者。大足彦天皇之世合殺者斬。応原者赦。今朕遵彼前例欲誅元悪。於是綾糟等懼然恐懼。乃下泊瀬中流。面三諸岳漱水而盟曰。臣等蝦夷。自今以後子子孫孫【古語云。生児八十綿連】。用清明心。事奉天闕。臣等若違盟者。天地諸神及天皇霊絶滅臣種矣。(日本書紀、敏達天皇紀)
 十年【辛丑】春二月。蝦夷数千寇於辺境。天皇召群臣議征討之事。於時太子侍側。竦耳左右。聞群臣論。天皇近召太子詔曰。汝意如何。太子奏曰。少児何足議国大事。然今群臣所議。皆滅衆生之事也。児意以為。先召魁帥【魁帥者大毛人也】。重加教喩。取其重盟。放還本洛。加賜重禄。奪其貧性。天皇大悦。即勑群臣。召魁帥。綾糟等詔曰。惟你蝦夷。大足彦天皇之世。合殺者斬。応原者赦。今朕遵彼前例。欲誅元悪。於是。綾糟等怖懼乃至泊瀬川【長谷川也】。面三諸山而盟曰。臣等蝦夷。自今以後。子子孫孫用清明心。事奉天闕。臣等若違盟者。天地諸神及天皇霊絶滅臣種矣。自此後時久不犯辺。(聖徳太子伝暦、敏達天皇)
 両文を比較してみると酷似している。とくに「召其魁帥綾糟等。」以下は二・三の語句の小異を除けば、全く同文である。このように両者は酷似しているから、両者の間には資料的に親近関係があるに違いない。しかも伝暦と書紀との間に同文が見られるのは、この十年の条のみではなく、敏達天皇紀のみについて見ても、五年・六年・八年・十二年・十三年・十四年の条にそれぞれ同文がある。伝暦は延喜十七年の成立であることが明らかにされているから、伝暦は日本書紀を一つの資料として撰述されたものと思われる。では伝暦の資料として用いられた日本書紀は、現存本であろうか。いま十年の条の両文を比較してみると、伝暦の「天皇召群臣議往討之事。(中略)天皇大悦。即勑群臣。」の文が書紀には見当らない。書紀になくして伝暦にのみある部分の内容をみると、蝦夷数千辺境に寇した際、「天皇は群臣を召して征討のことを議した。時に太子は側に侍して群臣の論を聞いていた。天皇は近く太子を召してその意見を尋ねられた。それに対して太子は、年少なるわたくしは国の大事を議するに足らないが、群臣の議するところは皆衆生を滅すことである。わたくしは先ず魁帥を召して、教喩を加えて重盟を取り、本洛に還して重禄を賜わり、その貪性を奪うことが必要であると考えます。と奏した。」というのである。この太子の奏上は、慈悲の精神を述べたものであるから、あるいは撰述者の創作であるかも知れない。しかし「天皇召群臣議往討之事。(中略)天皇大悦。即勑群臣」の文全体も撰述者の創作であろうか。
 こゝにおいて書紀の文を検討してみると、書紀には「蝦夷数千寇於辺境。由是召其魁帥綾糟等。」とある。蝦夷数千が辺境に寇したことと、その魁帥綾糟等を召したこととの二つの文を「由是」で結合させているのは、余りにも唐突である。「由是」という句は、何かの処置がとられ、それに基づいて魁帥を召したことを意味する句であるから、この上下両文の間には、何かが省略されているに違いない。これを伝暦にひいて見ると、「天皇召群臣征討之事。」以下の文があり、「召其魁帥綾糟等詔曰。」の文が、上の「蝦夷数千寇於辺境。」の文に自然に接続して、無理のない文章になっている。このように見て来ると、現存日本書紀の原拠になったものには、「天皇召群臣議征討之事。」以下の文があったのであるが、(その文が伝暦記載のものと同文であったか否は、明らかにすることはできないが、)現存日本書紀の編纂に際して、この文を省略し、そこを「由是」の句で接続させたため、不自然な文章になったものと解せられるのである。従って伝暦は、現存の日本書紀を原拠としたものではなく、現存の日本書紀と伝暦とは、同一の原拠に拠っているのであり、現存の日本書紀は、その原拠の文の一部を省略しているのである。
 以上の解釈に誤りがないとすれば、現存日本書紀以前に、現存本とほぼ同文の旧日本紀が存在し、この旧日本紀は、現存日本書紀の原拠になったばかりでなく、聖徳太子伝暦の原拠にもされていると言わなければならない。もしそうだとすれば、信友が改刪説の根拠した〔ママ〕伝暦の敏達天皇三年の条の記事も、旧日本紀に存在したものと推測されるのであり、旧本日本紀の存在を推定する一つの根拠たり得ると思われるのである。

 日本書紀、聖徳太子伝暦を引用している部分に、「你」という字があるが、これは原文では、ニンベンに爾である。聖徳太子伝暦を引用している部分に、「貧性」とあるが、これは、あきらかに「貪性」の誤植である。また、「召魁帥。綾糟等詔曰。」とあるのは、「召魁帥綾糟等。詔曰。」の誤植ではないかと思われる。いずれも、そのままにしておいた。【この話、続く】

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