礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本人の漢作文とその和臭

2015-05-21 05:26:41 | コラムと名言

◎日本人の漢作文とその和臭

 昨日の続きである。昨日は、塚本哲三著『漢文初歩学び方考へ方と解き方講義』(考へ方研究社、一九二五)から、ウィリアム・マーティン(丁韙良)が書いた文章を紹介した。
 本日は、その「解」である。「解」の前半では、原文(白文)に句読点・帰り点・送り仮名が施されたものが示される。これは、ブログ上では表記しにくいので、白文に句読点のみを施したものを、まず掲げる。

  瓦徳童年嬉戯、以器煮水、句股画地、習以為常。師長呵斥、人多笑其迂。弗顧也。及長、才敏過人。洞察牛氏気機之弊、数年研究、思欲除之、終能設改法補其不足。至今所用火輪機関、仍瓦徳之模式也。
 
 次に、漢文書き下し文を掲げてみる(本には、漢文書き下し文は載っていない)。

 瓦徳〈わっと〉童年嬉戯スルニ、器ヲ以テ水ヲ煮、句股モテ地ニ画シ、習ヒテ常ト為セリ。師長ハ呵斥〈かせき〉シ、人ハ多ク其ノ迂〈う〉ヲ笑フ。顧ミ弗ル〈かえりみざる〉ナリ。長ズルニ及ビ、才敏ナルコト人ニ過ギタリ。牛氏ノ気機ノ弊ヲ洞察シ、数年研究シ、之ヲ除カンコトヲ思欲〈しよく〉シ、終ニ能ク法ヲ設ケテ其ノ不足ヲ補ヘリ。今ニ至ルマデ用フル所ノ火輪機関ハ、瓦徳氏ノ模式ニ仍ル〈よれる〉モノナリ。

 続いて、「解」の後半にある現代語訳を引用する。本では、カタカナ文(固有名詞「わつと」、「にゆーとん」はひらがな)だが、読みにくいので、ひらがな文に直して紹介する(「わつと」、「にゆーとん」は逆に、カタカナに直した)。

 ワツトは小供の頃遊びたむれるのに、器物で水を沸かし、三角定規で地面に囲を画いて、いつもそれを習はしとして居た。教師長上の人々はそれをしかりつけて、人々は多く其の愚かしさを笑つたが、一向に頓著〈トンジャク〉しなかつた。生長するに及んで、才能の英敏なる事、人並すぐれて居た。ニユートンの蒸気機関の欠点をすつかり見抜いて、数年研究して、どうかしてその弊を除かうと考へ、とうとう法を立て、其の足りない所を補ふ事が出来た。今日に至るまで用ひて居る所の汽車の機関はこのワツト氏の様式に依つて居るのである。

*日本人の漢作文とその和臭 昨日のコラム「ウィリアム・マーティンの漢文を読む」について、畏敬する鵜崎巨石さんから、該書には「日本人の誤りやすい漢文」に類する記述があるのかというご質問をいただいた。
 結論から言うと、塚本哲三の本には、漢文を「解釈しよう」とするとき、日本人が陥りがちな過ちについての記述が、何度も出てくる。しかし、日本人が漢文を「作ろう」とするときに犯しがちな過ちについての記述は、あまりないというか、ほとんどない。日本人が漢文を作ると、どうしても「和臭」があらわれがちだが、そうしたことに対する注意は、この本には、ほとんどないのである(まったくないわけではない)。こうした記述については、明日、紹介させていただければと思う。
 鵜崎さんのご質問を受けて思い出したが、最近、森博達〈モリ・ヒロミチ〉氏の『日本書紀の謎を解く』(中公新書、一九九九)という本を読んだ。同書によれば、日本書記には、模範的な漢文で書かれている諸巻と、「倭習」(和習、和臭)が目立つ諸巻とがあるという。「倭習」が目立つとは、具体的には、日本人が漢作文をする時に犯しがちな漢字の誤用・奇用が指摘できるということである。森氏は、前者は中国人によって執筆され、後者は日本人によって執筆されたものとして、全巻の区分けをおこない、それぞれの執筆者まで推定している。つまり氏は、日本書記の文章に含まれる「和臭」を手掛かりに、日本書紀成立の真相に迫ったのであった。
 ところで、塚本哲三の『漢文初歩学び方考へ方と解き方講義』においては、引用される漢文の大半が、日本人の手になる漢作文である。おそらく塚本は、「和臭」という問題については、明確な自覚を持っていなかったのではないだろうか。

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コメント (1)
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