礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

昭憲皇太后の伊勢神宮参拝と「ほまれの赤福」

2015-05-14 04:41:16 | コラムと名言

◎昭憲皇太后の伊勢神宮参拝と「ほまれの赤福」

 昨日の続きである。後南朝史編纂会編『後南朝史論集』(新樹社、一九五六)から、その巻頭にある、瀧川政次郎の論文、「後南朝を論ず」を紹介している。
 本日は、同論文の「七 幸徳秋水事件と後南朝」の後半部を紹介する。引用にあたって、正字(旧字)は新字に改めた。また、原文は、改行が少ないので、適宜、改行をおこなった。▼印は、引用者がおこなった改行である。

 明治四十四年一月、南北朝正閏の論が、『中央公論』『太陽』『日本及び日本人』等の雑誌を賑わしている最中、帝国議会においては、野党である国民党及び与党である政友会代議士の一部は、南北両朝を五分五分のものとして正閏の別を立てない文部省の方針を否とし、かかる主義の下に歴史教科書を編纂せしめた文部大臣小松英太郎の責任を問わんとする議が沸騰した。
▼教科書問題について最初に議院に質問書を提出したのは、南朝学者を以て知られる大阪の儒者、泊園書院々主南岳〈ナンガク〉藤澤恒の長子、政友会代議士藤澤元造〈ゲンゾウ〉であった。藤澤の質問書が口火となって、都下の新聞雑誌は、筆を揃えて内閣の失政を攻撃し始めたので、内閣総理大臣侯爵桂太郎は、大いに狼狽し、文部大臣小松原英太郎と共に、この事件の揉消〈モミケシ〉運動に狂奔した。故に桂首相は、陣笠代議士藤澤元造の上京するや、二頭立ての馬車を以てこれを新橋停車場に迎え、藤澤を首相官邸に招じて饗宴し、ニコニコと笑って藤澤の肩をポンと敲き、このような質問書は撤回されたらどうじゃと、なだめた。伊藤痴遊は、懐柔政策をニコポン政策ということ、これより始ったと述べている。
▼藤澤は終に桂首相の懐柔、威嚇によって、黄金の前に叩頭し、権勢の前に兜を脱いだ。二月十六日、藤澤は世論の非難に堪え切れずして、議員を辞したが、その辞職演読は、支離滅裂、殆ど常識ある人の言とは思われなかったとは、故政友会代議士東武氏より筆者が直接承った談話である。
▼二月二十三日の衆議院本会議は、この問題を議すべき当日であったため、傍聴者は午前中より院の内外に潮〈ウシオ〉のごとく押寄せ、政府の要人は愴惶として八方に馳け廻り、いついかなる変事が勃発せぬとも限らぬという情況であった。
▼政友会代議士会は、午前九時より院内予算委員会の会議室に秘密会議を開き、松田承久〈ジョウキュウ〉を議長として、此の日に上程される幸徳一派の大逆事件と教科書問題とを打って一丸とした国民党の弾劾的決議案に対処する方策を研究討議した。その席上、政友会代議士中にも、南北朝正閏の論争行われ、東武・福井三郎・小久保喜七・戸水寛人〈トミズ・ヒロンド〉・宮古啓三郎・橋本次六等は、南朝正統を唱え、武内庫太外三四の代議士は、北朝正統を唱え、議場騒然、北朝論者を打ち殺せと怒号して、卓を敵き、靴を鳴らす者あり、議場は拾集のつかない修羅場と化するに至った。
▼議長松田承久は、漸くにして議場を拾集し、本案は、国民党の案ではあるが、理由なくこれを排斥することもできないというので、院内総務をして首相と会見せしめ、話合いの結果、事局を拾集せしめることとした。桂首相は、院内総務と会見したところ、首相は、政友会の意向に従って教科書の改訂を早速行うべきこと、適当なる時機において政府はこの問題の責を引いて総辞職すべきことを口約した。
▼依って当日の本議会は、政府の請求により秘密会となり、傍聴人は全部退場せしめられた。国民党を代表して犬養毅壇上に立ち、提案の理由を説明した。犬養氏も亦熱心な南朝正統論者であったが、彼が壇上に立った目的は、この問題を携げて〈サゲテ〉桂藩閥内閣を打倒するにあったから、後南朝の問題のごときは、もとよりその論外にあった。政友会代議士元田肇は、南北朝問題を以て政争の具に供するを非とし、動議を提出して、討議を用いずして可否を決することとし、満場大多数を以て、国民党問責案を否決した。
越えて二十七日、東武、渡邊勘十郎、中村啓次郎、福岡精一、奥田栄之進、山本悌次郎、望月奎介、高山長幸、戸水寛人、小久保喜七等の政友会代議士は、芝山内紅葉館に会合し、速かに政府をして教科書改訂を実行せしめること、速かに文相の責任を明かならしめることを決議した。当日来会せる代議士を紅葉館組という。
▼政府は、この気勢に恐れて二月二十六日、教科書編纂委員長喜田貞吉〈キタ・サダキチ〉に休職を命じ、三月十日には、文部次官岡田良平の名において「今回本省に於て現行児童用小学日本歴史教科書の修正に着手相成〈アイナリ〉候に付ては、教授上別冊の通り各小学教員に御指示相成度〈アイナリタク〉候」なる通牒を全国各地方長官に発した。その別冊というのは、従来配布せられていた『小学日本歴史教科書教授上の注意事項』と将する冊子を修正したものであって、北朝の光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の六帝を刪除〈サンジョ〉し、南北朝の称呼を廃止したものである。
▼私が小学生時代に学んだ日本歴史の教科書は、勿論この修正以前のものであって、そこには南北朝の語が使用されていたが、後南朝のことは半言隻句も述べられていなかった。吉野朝、吉野時代の語が用いられるようになったのは、この修正以後のことである。従って大正以後終戦に至る期間に出版された歴史書は、いずれもこの語を用いているが、終戦後はまた南北朝の語が一般に用いられるに至った。このことは、国民の大部分が、南北朝正閨論を既に返上していることを語るものといってよい。そこへ立ち現われたのが、南朝正統論を真向〈マッコウ〉に振りかざす熊澤天皇であるから、青年層が熊澤氏を相手にしなかったのは当然である。
 同年八月二十日、桂内閣は、この問題の責を引いて総辞職を決行し、第二次西園寺〔公望〕内閣が誕生した。しかし、この内閣も、二箇師団増設問題によって忽ち倒れ、翌大正元年十二月二十一日には、早くも第三次桂内閣が復活した。いずれも元老山県有朋の差金〈サシガネ〉である。
 余談ではあるが、昭憲皇太后は、幸徳の処刑後、頻りに〈シキリニ〉秋水の夢を見て悩まれた。皇太后はよく夢を御覧になったのであって、〔日露戦争の直前、〕維新の志士坂本龍馬が皇太后の夢に立ち現われた話は有名である。皇太后はこの〔秋水の〕悪夢を払わんがために、明治四十四年五月二十日、伊勢神宮に参拝あらせられた。皇后が天皇と御同道でなく単独に神宮に参拝せられたのは、先例のないことである。当日神宮にては臨時祭を行い、皇后は神宮司庁に御宿泊、神宮皇學館に奨学資金として金五百円を下賜された。この御参拝が何のための御参拝であるかは、当時の人々にも合点のゆかないことであった。私がその理由を伺ったのは、当時宮内省に勤めていた某事務官からである。私はその時皇太后さまは自天王の夢を御覧にならなかったかと訊いたが、事務官はそこまでは知らぬと答えた。

 書き写しながら改めて感ずるが、瀧川政次郎の文章は、やはり「名文」である。記述は、あくまでも具体的であって、明晰にして達意。もったいぶった言い回し、難解な学術用語といったものが見られない。学者の文章というよりは、ノンフィクション作家の文章に近いように思う。

 さて、瀧川政次郎は、「余談」として、昭憲皇太后の明治末年における伊勢神宮参拝に触れている。昭憲皇太后は、明治天皇の皇后である。一九一四年(大正三)五月、宮内省から、「昭憲皇太后」の追号が発表された。
 これは、余談の「余談」であるが、昭憲皇太后の伊勢神宮参拝に際し、門前の赤福本店は、「赤福餅」の用命を受けたという。このとき、当主の七代目濱田種助が、従来の黒砂糖に替え、極上の白砂糖を使って特製したのが、今日でいう「ほまれの赤福」である。株式会社赤福は、用命を受けた五月一九日を、「ほまれ日」と名づけているという(株式会社赤福ホームページによる)。

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