◎饅頭屋から時計屋へ、伊勢崎の井下時計店
尾内幸次郎著・渡辺敦補筆『今昔思い出草』(伊勢崎郷土文化協会、一九六五)を紹介している。本日は、「時報と時計」の後半部分を読んでみよう。ページ数でいうと、一〇〇~一〇二ページ。
伊勢崎の町に始めて時計屋が出来たのは、およそ明治二十年〔一八八七〕の頃だったと覚えて居ます。此の年は太政官制度を内閣組織に改めた三年目で、今やまさに明治憲法が三年後に制定発布されようとして、自由思想が朝野にみなぎった時代だったのです。処は今の本町三丁目、井下〈イシタ〉時計店のはじまりだった。その以前、この店は立派な繁昌したおまんじゅう屋だった。この饅頭店を営んだのが、今の昭和町から行った平さんだったので、「平さん饅頭」で名の通った店。その頃の言葉で申すとナダイ(名代)のおまんじゅう屋だったのです。この店がよくハヤル上に、店が広すぎるからと、目をつけて、話合の上で若い時計やさんが、前橋から来て間借をした。沢山時計を壁にかけたり、台の上に置いたりして販売を第一とし、破損したものは修繕してもやるのだった。珍らしい商売なので、忽ち買手が集って売れることおびただしい。
その平さんに娘が一人あって、丁度年格好〈トシカッコウ〉も似合という訳で、この時計屋さんを聟〈ムコ〉にきめ、繁昌する鰻頭屋の方を惜しげもなく廃業して、時計屋の専業になった。その上時計の構造を知り扱い方を覚えるばかりでなく、修繕の作業を学びたいといって、弟子入する者が四方からやって来た。中でも平さんのでど(出所)の昭和町からいった三人は太田、大間々〈オオママ〉、大胡〈オオゴ〉へ分れて開業した。兎に角〈トニカク〉時計屋では井下の店が元祖というわけです。他所〈ヨソ〉へ出あるく人や若い衆は、みな懐中時計を買うのだった。掛時計の方はぜいたくといって、買う人が少かったものだ。
その後近所の人が寄合って相談の上、井下の時計店へ行って、そのゼイタクな時計を買うことになった。十二人がそろって同じ型の時計を一年払の月賦で買ったのです。店では毎月一箇ずつの代金がはいる。何とそれが一箇十二円だったのです。今の十二円とは違い、昔の十二円は村の小学校の校長さんの給料に相当したものです。今之を米に換算して見ると、四斗五升入二俵の代金に当る。私の家では今もこの時の時計を店先に掛けて使用して居ますが、ほとんど狂いません。
中台寺の鐘を大正四年〔一九一五〕に栄町の鐘楼へ移して、日に三度鳴らすことになった。昭和十年〔一九三五〕に日吉町へ警察署が新築されて、こゝにサイレンが装置され、二十年足らずの間、鐘つきに精励した鈴木のおばさんが失業した。
今大ていの家には掛時計がある。又男女老若を問わず、腕時計をアクセサリーと心得て居る。しかし時を守ることは、時の記念日を制定した頃と、大した進歩を見せて居ない。
時計も鉄砲や大砲と同様に、戦国時代の終り頃から、南蛮人と呼ばれた西洋人が伝えてくれたので、秀吉も家康も之を愛用したというが、私どもが老人から聞いた所では、朝起るのは一番とり二番とりの鳴声を聞いてしたものだった。昼にも又近所の鶏がトキをつくった。その声を聞けばお昼だと知るのだ。又猫の眼のひとみが針のように細くなる時がお昼だといゝ、雨がち蛙が沢山なく時だとか、その他にも色々と昼時を知る方法があったと思いますが今は忘れました。私共は古い事を思い出して今と較べると、丸で夢のようなので、不思議な思を致してばかり居ます。
(附記)お盆の十五日に本町三丁目の井下時計店を訪ねて、聞きましたら、今年〔一九六二〕が丁度時計屋開業八十年に当るという事です。勝山卯之助がこの家へ時計屋を始めた年もはっきりするわけです。尾内〔幸次郎〕翁が九十二ですから、八十年前は明治十五年〔一八八二〕になるといゝます。娘とうの母みさは先夫善兵衛の死後、下植木の小保方氏藤兵衛を後家入〈ゴケイリ〉に迎えた。娘とうには継父です。此人が通称平さんでした。其頃母みさは別に裏屋敷で製糸業を営み女二十人程を置いていたといゝます。明治二十年頃に井下家の聟になって、時計屋専門店になったものでしょう。(渡辺記)
最後の「附記」は、郷土史家の渡辺敦による補筆。同書巻末の「解説」(執筆・橋田友治)によれば、この本を企画したのは渡辺敦であったが、彼は同書の刊行を待たずに亡くなったという。