パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

押熊八幡神社

2022年05月17日 | 日記
平城ニュータウン・旧押熊地区の在所にある鎮守に祀られているのが
「押熊八幡神社」で、初詣には毎年参拝にでかけます。
久し振りに散歩がてら歩いてみました。
誰も居ない境内は、掃き清められ、野鳥の鳴き声以外は静寂そのもの。


境内付近案内図


参拝入口と狛犬

 
狛犬

 
屈強そうな狛犬


扁額「八幡宮」 八幡の「八は鳩」


本殿正面と狛犬


扁額「八幡宮」 

 
狛犬

 
狛犬


本殿 御祭神 誉田和気命

 
三社 御祭神 武甕槌神      祓戸神
                           木之花咲耶姫命                          市杵島姫命
 

押熊八幡神社「御神符」



押熊八幡神社に隣接して「忍熊王子、麛坂王子舊跡地」があります。    
おそらく、「押熊」の地名のもとになった「忍熊王」縁の場所なのでしょう。
近くに神功皇后の御陵が、八幡神・応神天皇を祀る神社境内に隣接するという、
皇位を巡り戦い、非業の死を遂げた「王子の舊跡地」があるのも皮肉ですね。
兄は大阪市北区の兎我野、弟は滋賀県大津市の瀬田で斃れたのに      
「押熊」が縁の地とは。                        



   

  


「説明板」によると
『日本書紀』によれば、忍熊王と兄の麛坂(かごさか)王は仲哀天皇の皇子で、母は
彦人大兄の娘、大中姫(仲哀天皇の后)である。
 仲哀天皇の崩御のあと、神功皇后は新羅出兵を終え、尽くしに還り誉田別皇子
(ほむたわけのみこ のちの応神天皇)をお産みになった。翌年春二月、皇后は皇子と
共に大和へ凱旋の途につかれたが、このことを知った押熊、麛坂(かごさか)両王は、
皇位が幼皇子に決まることを恐れ、皇后軍を迎え撃とうと、菟餓野(とがの、今の大阪市北区)
に出て、その吉兆を占うと狩を催したとき、兄の麛坂王は赤猪に襲われて亡くなられた。
 弟の忍熊王とその軍は、皇后軍のため次第に押され、莵道(宇治)まで退脚した。                     
一方皇后軍は三月の初めに山背へ進出し、莵道に至って河の北に布陣、
戦闘を始めようとした忍熊軍は謀略に欺かれて敗退。山背を退き近江との国境の             
逢坂におけるたたかいにも敗れ、忍熊王は瀬田の渡し場所付近で入 水、亡くなられた。                                      この『日本書紀』の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い 人物、
王の一人であったと考えられる。 そして、
この地域にある日本有数の巨大な前方後円墳を 含む「佐紀盾列古墳群」との関わりも考えてみる必要がある。                 
古来より連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域の古い歴史を偲ぶことができる。             
忍熊王子神社の祭礼は4月18日で、当日は宮座も物が参列して古来の儀式により、         
お祭りをする。また、農家では、昔からこの日を「だんご休み」と言って農作業を休み、            
ヨモギ餅を作り祖先にお供えするとともに近隣縁者の家に配る風習がある。              
「押熊」は鎌倉時代に作成された「西大寺田園目録」の中の、添下郡京北三里の所に         
「押熊原」との地名がみえ、また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の            
地名があることから、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であることに疑いはない。             
なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」「かご坂」は押熊の祖先、麛坂(かごさか)王            
にちなんでつけられた名称であろう。






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