知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『大ピラミッドのこと 7(遂に「ピラミッドの石材運搬方法が完全解明)』—実際に発見「遺構の丸太の滑車」で石を運び上げるイメージ図(目から鱗)—

2020-06-14 21:49:06 | 歴史・世界

    『大ピラミッドのこと 7(遂に「ピラミッドの石材運搬方法が完全解明)』 

   『実際に発見「遺構の丸太の滑車」で石を運び上げるイメージ図(目から鱗)』
   
 大ピラミッドの数々の不思議は、かなり解明されてきていますが、先日のNHKBSプレミアムで最大の不思議『ピラミッドの石材運搬方法』が放映されました。 タイトルにも衝撃が走りました。 そのタイトル『遂に「ピラミッドの石材運搬方法」が完全解明される! 4500年前に書かれた日記の衝撃内容が決定打に!』です。 

 4500年前の日記が残っていたことに、『古代の記録と現代日本の議事録問題の温度差ならぬ隔絶の感』を覚えました。 不謹慎ですが、いまの日本では、いろんな記録を『記録しない・残さない・事後変更する』などの情報に、晒されている人々の中に一人の自分がいます。 又益々、不可解なりとなります。

青字文と写真は、ウエブ情報『遂に「ピラミッドの石材運搬方法」が完全解明される! 4500年前 ・・・』からの引用です。

 ギザのピラミッドの謎を解く鍵を考古学者が発見したとのニュースが舞い込んできた。 ピラミッドの建設を指揮した人物から、2tの巨石をピラミッドまで運搬した方法が4500年前に書かれた“日記”に書かれていたというのだ!

■ピラミッドに使われた巨石の運搬方法が判明!
 
発見された日記「Ancient Code」より引用
 
 一般にピラミッド建造に使われた巨石はギザ大地から500マイル(約804km)離れたルクソールから運ばれたとされているが、一体どのようにしてそれほどの長距離を運搬したのかについては分かっていなかった。

 ここで疑問です。 ピラミッドの石材、260万個の内のほとんどは、ギザのピラミッドの存在場所から、およそ1㎞の石切り場で切り出された石灰岩でした。 ルクソールで切り出されたのは花崗岩で、ピラミッドの複雑な内部構造に使用されていたと理解しています。

 しかし、この度、ピラミッド建設時の監督官がパピルス紙に書いた日記が紅海のワディ・アル・ジャルフ地域で発見されたことで、古代エジプト人がナイル川を利用して巨石を運搬していたことが、今月24日に英国で放送されたドキュメンタリー番組「Egypt’s Great Pyramid: The New Evidence」で明らかになったのだ。

 発見された日記はMererと呼ばれる監督官が書いたものとされ、ピラミッド建設に関する当時の文書としては唯一のものだという。 それによると、彼は40人のエリート作業員とともにナイル川からピラミッドまで巨大な水路を掘ったと書かれているとのことだ。
 
 ピラミッド建造の謎に取り組んできた考古学者のマーク・レーナー氏によると、現在もギザ台地の地下には水路が埋もれており、当時は木製のボートを使って、巨石がピラミッド付近まで運ばれたという。 だが発見された日記には巨石の積み上げ方に関する記述はなく、これについての謎は残るとのことだ。

 この水路のことですが、ナイルの増水期に、ルクソールから切り出された花崗岩はナイル川を船または筏で運ばれ、ギザ付近でナイル河岸から、水路(運河)でギザ大地の麓まで水運で運んだものです。 それから先が、『直線傾斜路説』で、この場合の傾斜路の傾斜角と長さに、まだ謎が残っていました。 傾斜角が数度ですと傾斜路が長くなって、ピラミッドの本体より大きなボリュームの傾斜路になり収拾のつかない大工事になってしまう。 今回解明された運搬方法なら傾斜度を20度前後まで大きくできて、短い傾斜路が実現出来て、この問題の解決ができたようです。 

  
Point;
① ギザの大ピラミッド建設に使われたとされる「傾斜システム」の遺構がエジプトの採石場にて発見される
② このシステムを用いれば、20°以上の急角度であっても巨大な石を運び上げることができる
③ この発見が、長年考古学者を悩ませてきたピラミッド建設の謎を解明するための手がかりとなることが期待される

 世界最大のピラミッドとして知られるギザの大ピラミッドですが、考古学者たちは、古代エジプトの人々がどのようにして巨大なピラミッドを建造したのか未だに全貌を明らかにすることができていません。

 しかし最近、エジプト東部の砂漠の採石場において、彼らが4,500年前に巨大な石を引っ張り上げた設備が発見されたと話題になっています。 考古学者らが採石場で発見したのは「傾斜路の遺構」であり、この発見により当時ピラミッド建設に用いられた設備や技術についての解明が進む可能性があります。

 この設備は、両脇に階段のような段差を作ったスロープから成るもので、スロープの両端には「滑車」としての役割を果たす木の杭を深く打ち込むための穴があけられています。そして古代エジプトの人々は、ロープを結びつけた「そり」の上に巨大な石を乗せて、スロープの上下から引っ張ることで、石を高い位置まで持ってきたことが考えられます。

 

  実際に発見された「遺構」 石を運び上げるイメージ図(目から鱗でした。 これに滑車の理論が適用できるのかと、ヤシの木の皮のロープの摩擦係数等、気になる要素は沢山ありますが。)

 この方法を用いることで、20°以上の傾斜であってもピラミッドの材料となる石を運び出すことができたのです。また、このような設備は他のどの場所においても見ることができませんが、採石場の調査により、それがギザの大ピラミッドの建設を命じたとされるクフ王の年代以前のものであることが分かっています。

 クフ王、カフラー王、メンカウラー王が被葬者とされる3大ピラミッドの中でも最も大きいのが「クフ王」のものであり、建設された当時の高さはおよそ146メートルと相当のもの。そして、現存する唯一の「世界の七不思議」としても有名です。
 
このピラミッド建設のために「傾斜システム」が用いられたことは多くの考古学者が予想するところでしたが、具体的にどのような方法が使われたのかについては謎に包まれたままでした。今回の発見は、ピラミッドの謎を1つ解明するための大きなヒントとなるかもしれません。

 4500年も前に、滑車が使われていた説には、疑問を持ってきました。 椰子の皮製ロープで使える木製滑車というよりは丸太を滑車替わりにしていた。 特に滑車とそとシャフトが造れたかどうか、調べてみたいと楽しみな課題ができました。 あの大回廊の中で、丸太の滑車なしで、巨石を運搬したした形跡が残っていましたので!             (記事投稿日:2020/06/14 、#180)

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『世界の新石器時代~初期金属器時代の巨石文明一覧』—古代人の石器で巨木の切り倒し、切り倒す部分で火を焚き焦がし、繰り返しー

2020-06-11 09:48:17 | 歴史・世界

『世界の新石器時代~初期金属器時代の巨石文明一覧』

—古代人の石器で巨木の切り倒し、切り倒す部分で火を焚き焦がし、繰り返しー


 鉄器も非鉄金属器もない時代に巨大な石遺跡が造られていました。 『木工技術が先にありき』と言われる所以が巨石の接合部分の、①立石と横石は凹凸を組み合わせて接合されており(ほぞさし式)、②横石同士は溝でつなぎあわされている(さねはぎ式)があります。 

 さらに古代人の驚くべき木工技術の一端ですが、石器による巨木の切り倒しです。 先ず切り倒す部分で火を焚いて焦がし、焦がした部分を石器でたたいて凹まします。 凹ました部分で火を焚いて焦がし、焦がした部分を石器でたたいて、さらに凹まします。 この繰り返しで、巨木の切り倒しと切断ができたようです。

 石器時代は、旧石器(前期・中期・後期)時代―中石器時代―新石器時代と2百万年も続いています(それでも、あの『図体・巨体』で、この狭い地球に、一億六千年も続いた恐竜時代には、とても叶いません)。 そのうちの新石器時代は1万年くらい続いていますので悠久の時間をかけて、木工技術を発展させて、巨石文明へと繋がっています。

 巨石遺跡は、文字の記録がありませんので、何のために造られたか分かりませんが、想像はできます。 農業で定住しますと、祈るための神殿と、敬い・信じ・祈ることと、太陽と星の観測から季節・気候、特に雨期・乾期を予測できれば『王』でも慣れたでしょう。 数千年、数万年の長い間、石で形にして。、さらに『言い伝え続けて』きた可能性があり、本当に驚きです。

 

❶ギョベクリ・テぺ(BC10000~BC8000)トルコ
 
ウエブ(トルコのギョベクリ・テペ遺跡の謎。世界最古の建造物!)から引用

 ギョベクリ・テペの遺丘に残された構造物は非常に古く、紀元前10000年から紀元前8000年の期間に建てられた。 祭祀に用いられたと考えられるこれらの構造物には2段階の発達が見られる。 

 第一段階では巨大な丁字型の石柱がいくつも円を描くように並べられている。 物理探査(リモートセンシング)により石柱の総数は200本以上、それらの描き出す円が20確認されている。各石柱は6メートル以上、重さは20トン。それらが基盤岩に穿たれた穴にはめ込まれている。

 第二段階では石柱は小さくなり、磨かれた石灰の床を持つ長方形の部屋に立てられた。遺丘の隣に位置し発掘調査が待たれている構造物は1万4000年から1万5000年前のものであることがトポグラフィック・スキャンによって明らかにされた。これはともすれば更新世を1000年遡行することになる。 第二段階が終わると遺跡は打ち捨てられた。 比較的新しい構造物にはギリシャ・ローマ時代のものも見られる。

 大ヒット映画『2001年宇宙の旅』モノリスにそっくり、この映画は、この遺跡が発掘される前に造られています。
 
ウキペデイアから引用

 

❷メンヒル(先史時代~BC10000)フランス
 
ウキペデイアから引用

 ヨーロッパ先史時代に立てられた、単一で直立した巨石記念物(モノリスまたはメガリス)。 「メンヒル」という単語は、フランス語経由で19世紀の考古学者に採用されたもので、ブルトン語の「長い石」を意味する単語に基づいている(現代のウェールズ語では「長い石」は「maen hir」)。

 現存するもっとも大きなメンヒルは、ブルターニュのロクマリアケール(en:Locmariaquer)にある「Grand Menhir Brisé」(大きな壊れたメンヒル)で、かつて約20メートルの高さがあった。壊れて4つの部分が横たわっているが、約330トンあったと見られており、機械によらずに人間が動かしたもっとも重い物体と考えられる。 ほかの地域では、巨石はキリスト教徒によって組織的に倒された。

 時代はずっと後、数千年後になるが、ギザのクフ王のピラミッドに、数十トン(25-50トン)の石材が回廊とか王の間に天井石として積まれており、運搬方法は、逆レールに油または水をひくき、橇、椰子の皮のロープと滑車で運んだようです。 このメンヒル、約330トンのメンヒルの運搬方法は、地面に木材を敷き、油または水を引いて橇で、椰子の皮のロープで運んだようです。 とにかく時間はたっぷり、悠久の時間がありました。


❸カルナック列石(BC5000またはBC3000~2000)フランス
 
ウキペデイアから引用

 カルナック列石は、ブルターニュ地方最大の巨石遺構で、巨大なメンヒルが総延長およそ4kmにわたり数列に並んでいる三つの列石群からなる。 紀元前5000年あるいは、紀元前3000年から紀元前2000年頃に造られたとされるが、その目的は精霊や巨人が建てたとする伝説の他、戦士の墓、種族の記念碑、天文学上の目的等、あるいは生命の起源と関連付けたようなオカルト系学説など諸説があり、はっきりしていない。 スコットランドの巨石遺構研究者のアレクサンダー・トムが提唱した古代の天文学装置であるとする説や、ヘルムート・トリブッチの提唱した蜃気楼の観測所であるとする説などが主流である。 
カルナック列石に関連のあるとされる古墳が近辺に多く見られ、聖ミシェル古墳などが知られている。 

 

❹マルタの巨石神殿群・ジュガンディーヤ神殿(BC4500~2000)マルタ共和国

 ウキペデイアから引用

 マルタの巨石神殿群はマルタ島内、ゴゾ島内で20世紀までに約30の巨石神殿が確認され、そのうち6神殿が世界遺産として登録された巨石建築物である。建造は紀元前4500年から前2000年頃とされている。 1980年に世界遺産として登録されたのはゴゾ島にあるジュガンティーヤ神殿であり、現在のマルタの巨石神殿群という名称は1992年にマルタ島の5つの巨石神殿が追加されたことに伴い名称変更がなされたものである。
エジプトの大ピラミッドより、2000~3000年前に造られていますが、石器でここまで造ったことに驚きです。

 

❺リング・オブ・ブロッガー(BC2500~2000)英国

ウキぺデイアより引用

リング・オブ・ブロッガー(the Ring of Brodgar / Brogar)は、スコットランドのメインランド島にある新石器時代のヘンジ(英語版)と環状列石の遺跡群である。 環状列石は、ステネス湖(英語版)とハーレー湖(英語版)という二つのリング・オブ・ブロッガー(the Ring of Brodgar / Brogar)は、スコットランドのメインランド島にある新石器時代のヘンジ(英語版)と環状列石の遺跡群である。 環状列石は、ステネス湖(英語版)とハーレー湖(英語版)という二つの入り江に挟まれた小さな地峡にある。環の中心地はいまだに考古学者たちが発掘しておらず、科学的な年代特定にも至っていない。 建造物群の年代も未確定のままである。しかし、一般的には紀元前2500年から紀元前2000年に建てられたものと考えられており、それゆえネスに建てられた新石器時代の巨大建造物群の名残であったということである。入り江に挟まれた小さな地峡にある。環の中心地はいまだに考古学者たちが発掘しておらず、科学的な年代特定にも至っていない。 建造物群の年代も未確定のままである。しかし、一般的には紀元前2500年から紀元前2000年に建てられたものと考えられており、それゆえネスに建てられた新石器時代の巨大建造物群の名残であったということである。

 ストーンヘンジの原型と言われますが、狩猟民族が何のために造ったか、ストーンヘンジと同じコンセプトで造られたように見えますが、日本のように脊梁山脈もなく、比較的平らな、グレートブリテン島の亜寒帯・寒帯の針葉樹林を、農耕・海洋民族として生きるために住居や船に、又巨石文明を築くために殆ど、伐採していたようです。

 

❻ストーンヘンジ(BC2500-2000)英国 
ウキペデイアから引用
 ここは、以前のブログ『古代は凄い・古代人は凄い 1(ストーンヘンジ  1)』に重複します。 天に架かる石=ストーンヘンジは、イングランド南部、ロンドンから西に約200kmに位置する柱状列石。BC2500-2000年に建てられたと言われる。 その約160km先には、有名な、プリマス港(清教徒が新天地アメリ カ大陸に向かった)がある。

 ストーンヘンジは何のために、『太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族の礼拝堂等の説』がある。 近年の発掘調査では、周囲に住居跡があり王族か貴族の埋葬場所であったと言われている。 
課題① 単に天文台近くに埋葬したのか、または複合施設か。

 

 最近(2008年4月)の発掘調査のスポンサー、BBCの報道によると『治療のため』に作られた可能性が高いとのこと。 ポイントはストーンヘンジを構成する岩や石の中に「ブルーストーン」と呼ばれているものがあるということ。 このブルーストーンを古代の人はわざわざ、217kmもの距離を移動させてきており、 理由としては「治癒力」があると信じられていたため。 
課題② 今後のこの説の動向確認。

 写真の直立している石がサーセン・ストーン(砂岩)、最大50トンは32kmを陸路を運ばれ、手前にある小さな石がブルーストーン(玄武岩)、217km離れたウェ-ルズから水路と陸路を運ばれた。 だが、ブルーストーンの、多くが持ち去られてしまった。

 石はただ乗せられているだけではなく、立石と横石は凹凸を組み合わせて接合されており(ほぞさし式)、横石同士は溝でつなぎあわされている(さねはぎ式)。 これらは、石に施された木工技術である。 昔、イングランドは針葉樹林帯であった。

ストーンヘンジの建設には三つの段階。
第一段階は、ヘンジ、すなわち、現在の立石の周囲にある円形の土手や堀を建設する工事であり、約2500年前。

第二段階には、インナー・サークルが紀元前約2000年頃、使われた石 ブルーストーンは、ウェールズ南西部のプレセリー山脈から運ばれた。ひとつ4トンの石が使われたので約80トンの石が運ばれた。 しかし、インナー・サークルの建設は、最終的には完成することなく断念された。  石の運搬は、海と川によって行なわれたと推測。  海上、河川輸送は、積み込み時と積み下ろし時に失敗、放置された石が残っており立証済み。

第三段階が、アウター・サークルの建設で、用いられたサーセン石の巨石は、  約50トンもあるもの。  これは約32km離れたマールボロー・ダウンズから運ばれたと考えられている。 この行程を運ぶことは全体としては比較的容易だったものの、途中にあるレッドホーン・ヒルを越すためには、ひとつの巨石につき600人が必要だった推測される。
課題③ 陸路の約50トンの具体的輸送方法は。

 エジプトのピラミッド内部の重量軽減の間の約25-50トンの石材の輸送と組み込み方法、 日本の石舞台の自然石の天井石約77トンの輸送といい古代人は、巨石ハンドリングのプロ。
世界中の多くの古代遺跡が太陽や月の運行と関係を持っている。それは間違いないが、ストーンヘンジはその初期から長期にわたって、基本的には死者の
埋葬地であった。

 英国の天文学者で数学者のロビン・ヒースは『権力を握る手立てとして日・月食を予知できたら』と、天文台を作ったという説。
『太陽や月の法則性を知って、人々は驚き。どんなものかはわからないが、そこに宇宙の秘密とか、神を見て、それを追究し、記念し、残そうとしたのか。』と言われる。
課題④ これで『暦を作って、毎年の農業用、雨の時期を予知し役立て、且つ権力を握る手立てとした。 墓は二次的か』。

 

❼ハル・サフリエニの地下墳墓(BC2500)マルタ

 とりあえずは、ウキぺデイアの抜粋です。 
今後は『ギョベクリ・テぺ(BC10000~BC8000)トルコ』『マルタの巨石神殿群・ジュガンディーヤ神殿(BC4500~2000)マルタ共和国』等、人類最古の文明を調べてみたいと思っています。

 本来は宗教上の聖域として作られたと考えられているが、先史時代の内に共同地下納骨堂に転用された。 これは世界で唯一の先史時代の地下墳墓である。
ウキぺデイアより引用
第1階層
マルタのXemxijaで発見された墓に似ている。 幾つかの部屋は、自然の洞窟をもとにして人工的に拡張されたものである。 出土品からは、これが最古の階層であると言いうる。当時の建設者たちがこの階層ではもはや充分でないと判断した時に、第2階層が開かれた。 第一階層は地上からわずか10 m 下に位置している。 

第2階層
 「眠れる貴婦人」像

ウキぺデイアより引用

 この階層は石造建築の白眉といえる技術を見せてくれる。 中央の部屋、至聖所、神託の部屋など、いくつかの重要な部屋を見る事ができる。 

中央の部屋
この部屋は岩を刳りぬいて作られたほぼ円形の部屋である。多くの入り口が掘られているが、別の部屋に繋がっているものもあれば、形が彫られているだけで開かないものもある。 壁面の多くには、オーカーで薄い赤色がつけられている。 

「眠れる貴婦人」像が発見されたのもこの部屋からである。副葬品だったと推測されているこれらの小像は、バレッタの考古学博物館に保管されている。 

神託の部屋(the Oracle's Room)
神託の部屋はほぼ直角形で、中央の部屋につながる部屋の中では最小の部類に属する。この部屋には力強い反響を生み出すという風変わりな特色があった。男性の野太い声は反響するが、女性の細い声は反響しないのである。 
この部屋には赤いオーカーで描かれた螺旋模様と斑点からなる精緻な天井画が存在している。 

装飾された部屋(The Decorated Room)
神託の部屋を出て、右側に別の広々とした円形の部屋がある。その部屋の傾斜がついた壁の滑らかな壁面は、螺旋等を描いた幾何学的模様で埋め尽くされている。 

ヘビ穴(The Snake Pit)
第2階層には、2 m の深さの穴がある。ヘビを飼っていたか、施しを集めていたかのいずれかの目的に使われていたと考えられている。 

至聖所(Holy of Holies)
この部屋の中心は、トリリトン(trilithon)の中にある銃眼のような穴(porthole)だが、そのトリリトン自体がより大きなトリリトンの中にあるのである。 

第3階層
最下層からは骨は見つかっておらず、水しか出てこない。そのことは、この階層が穀類か何かの貯蔵庫だったことを強くうかがわせる。 
                              (20181231纏め #178)

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