『塔(継承と改革・息づく匠の精神) 6(浮島十三重石塔が意味するもの)』
『梅原猛氏の梅原古代学「塔」を夢中になって読んだころの「塔」ファンに
とっては、まさにPhotogenic・写真映えする風景!』
『「十三重石塔」とは石造りで十三重構造の「層塔」もしくは「塔婆」』
浮島十三重石塔
この石塔は、京都市宇治市宇治塔川の塔の島(「浮島」「浮舟ノ島」などと呼ばれてきた人工島の一つである「塔の島」に所在する浮島十三重石塔。
ウエブ情報から引用
アジア各地に同様の塔が数多く存在し、日本国内だけでもかなりの数に上るため、他の同種の石塔と区別して浮島十三重石塔ともいう。 塔高約15.2mの石造・十三重の層塔で、石塔婆(石造供養塔)。 1953年、国の重要文化財に指定された(指定名称:浮島十三重塔)。 2003年には、塔内納置品が京都府指定有形文化財となった。 浮島十三重石塔は、現存する近世以前の石塔としては日本最大。
奈良の勝宝山西大寺再興などで知られる僧・叡尊は、鎌倉時代後期にあたる(1284年)、宇治橋の大掛かりな修造を手がけた。 橋が完成する1286年に合わせて、宇治川の川中島として大橋の南方に舟を模した形の人工島を築き、宇治川で漁労される魚霊の供養と橋の安全の祈念を旨に、同年、島の中央に大塔婆を造立。
大塔の建っていた島は、頻発する宇治川の氾濫にもよく耐え、激流に浚われることがなかったため、いつの頃からか島を指して「浮島」「浮舟ノ島」などと呼ぶようなった。 大塔のほうは、さすがに氾濫の被害をたびたび受けて、倒伏と修復・再興を繰り返してきた。 しかしそれも、江戸時代後期の1756年に起こった未曾有の大氾濫で倒伏した後は、川底の泥砂に深く埋もれてしまい、再興されることはなくなってしまった。
1905年に復興が発願されると、1907年、発掘作業が始められ、間もなくして九重目の笠石と相輪以外は発見され、明くる1908年、九重目の笠石と相輪は新たに制作して再建された。 その後、元々の九重目の笠石と相輪が発見されたが、それらは興聖寺の庭園に移設された。
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
専門の先生方の間では、いろいろご意見もあるようですが、梅原猛氏の『梅原古代学「塔」』を夢中になって読んでいたころを懐かしく思いながら、『塔』への興味はまだまだ続きます。
(記事投稿日:2024/04/22、#743)
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