知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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日本の城郭 017(三好長慶の飯盛山城は、織田信長の天下布武の象徴・日本初の高層吹き抜け天主閣を備えた安土城のモデルに!』

2024-05-16 09:44:21 | 寺院・仏閣・神社・お社
日本の城郭 017(三好長慶の飯盛山城は、織田信 長の天下布武の象徴・日本初の高層吹き抜け『天閣』を備えた安土城のモデルに!

日本の山城は、3種類です。

古代山城
飛鳥時代から奈良時代の畿内から九州北部にかけて築かれた。

中世山城
中世、鎌倉時代から戦国末期まで全国的に築かれた(戦国末期のものを戦国山城ということもある)。

近世山城
安土桃山時代後期から江戸末期までに築かれた。

余談ですが、『戦いには城郭を、あてにしなかった織田信長も、自ら本格的に築城したのはすべてが山城、小牧山城(標高86ⅿ)・岐阜城(標高329ⅿ)・安土城(標高199ⅿ)』です。

標題に戻ります。 飯盛山城は、河内国讃良郡飯盛山(大阪府)にあった山城(標高316ⅿ)。 別名「飯盛城」。
 
 ウエブ情報から引用
日本の中世史、中世城郭史を研究する上で、飯盛山城は重要な位置を占める。 河内と大和との間に生駒山脈が南北に走り、これが国境となっている。 飯盛山城は、その生駒山脈の北西支脈に位置している飯盛山に築かれている。
中世の山城としては、かなり大きな部類に属し、強固な要塞であった。 全盛期には、南北に1200m、東西に500mに達し、70以上の曲輪が確認されており、その石垣を多用した城郭構造は、戦国時代の首都としても重要でした。

この城の沿革が凄い(多分信長も知っていた)。

戦国時代
畠山氏が城郭を構え、恒久的な居城に改修されたと思われる。

飯盛城の戦い
三好元長と木沢長政の対立が、新たな戦乱を引き起こしていた。

三好長慶の居城
長慶は飯盛山城を居城と定め大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になったと思われる。 

『NHKの「日本最強の城スペシャル」で見た、三好長慶の飯盛山城は、織田信長の天下布武の象徴・日本初の高層吹き抜け「天閣」を備えた安土城のモデルに!』とありました。 飯盛山城は、河内国の飯盛山(大阪府大東市および四條畷市)にあった日本の城で、別名「飯盛城」とも呼ばれています。 この城は中世の山城としてかなり大きく、強固な要塞でした。 全盛期には南北に約1,200メートル、東西に約500メートルに及び、70以上の曲輪が確認されていました。 三好長慶が居城とし、現在は国の史跡に指定されています。

この飯盛山城が最強かどうかは、この天然の要害、本丸後方の崖と総構えのほぼ半分を囲んだ堀替わりの巴川と、本丸、西曲輪前方の山を、一日がかりで、自分の足と目で散策して、自分なりの判断をしたいと思いました。
(記事投稿日:2024/05/16 #748)
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