知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『来た、見た、分かった 4(長崎のグラバー園とグラバー邸』 『武器商人として幕末の日本で活躍、長崎に西洋式ドックを建設』

2023-11-19 22:20:25 | 風景・絶景
『来た、見た、分かった 4(長崎のグラバー園とグラバー邸』
『武器商人として幕末の日本で活躍、長崎に西洋式ドックを建設』

表題に、名言『来た、見た、勝った』(古典ラテン語:Veni, vidi, vici)を引用させて頂きました。 共和制ローマの将軍・政治家のユリウス・カエサルが、ゼラの戦いの勝利を、ローマにいるガイウス・マティウスに知らせた言葉です。

先ずはウエブ情報です。
江戸時代初期から幕末まで、固守された鎖国政策の中に、ヨーロッパ諸国では唯一、オランダとは長崎貿易を通じて外交貿易関係を維持し続けた。 この間、オランダからの風説書の情報によって国際情勢を知り、対外政策を決定した。 また、伝来した学問・技術に関する研究は、オランダおよびオランダ語を通じて摂取されたため蘭学と呼ばれ、幕末から明治維新以降にはじまる急激な知的開国の下地を形成した。

トーマス・ブレーク・グラバーは、スコットランド出身の商人。 1859年に、当時東アジア最大の商社だったジャーディン・マセソン商会に入社。 同年9月18日、開港後まもない長崎に来日。 2年後「グラバー商会」を設立。 貿易業を営み、「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店となった。

武器商人として幕末の日本で活躍した。 日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。

グラバー園
1859年(安政6年)の長崎開港後に長崎に来住したイギリス人商人グラバー、リンガー、オルトの旧邸があった敷地に、長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築し、野外博物館の様にしています。

グラバー邸
1863年グラバー24歳のときに、長崎港や製鉄所、船の出入りが良く見える南山手の高台にグラバー邸を建築。 グラバー邸は、現存する最古の洋風木造建築であると同時に、最初の和洋折衷建築といわれています。 特徴はL字型バンガロー、扇型の屋根に瓦葺、レンガの煙突、コロニアル風大型窓など。 アーチ型のドアは全てが洗練され、窓越しに庭を隔てて港が一望できる、南山手の外国人居留地でもっとも立地の良い場所に位置しています。

グラバー園(海抜52ⅿ、池には錦鯉が)から長崎港を望む
 
2023/11/10撮影

薩摩藩から贈られたソテツと旧グラバー邸

2023/11/10撮影

旧グラバー邸からの長崎港の眺望

2023/11/10撮影

長崎旅行の目玉でもある『丘の先端の港が見える「グラバー園」と「グラバー邸」』を見たときに思い出しました。 

英国のクラウンコロニー香港でも英国人は香港島の丘の上の方に住んでいました。 余談です。 半世紀も前、若い時に香港に駐在が決まったときに、折角だから香港島の中腹のアパートに住み、景色の良い「ビクトリア・ピーク」と「ビクトリア・ハーバー」の両方が見えることを条件に、不動産屋に案内頂き、一生懸命探し、丘の先端ではありませんがハッピーバレーの奥の丘の中腹にありました。 そこに7年間も長居をしてしまいました
(記事投稿日:2023/11/20、#700)
コメント
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