私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

「業突く張り」あるいは「強突く張り」

2022-11-18 | 7追憶する
私の大好きな時代劇の主人公が、大変強欲で、食い意地が張った、頑固で自己中の母上様の事を「うちのごうつくばばぁが!」と言う。
私はその「ごうつくばばぁ」が大好きで、理想のキャラターでさえある。

一方でその時代劇の主人公もまた、実のところ大変なマザコンで、強烈で厄介な母上様をこの上なく大切に思っている。

私にもそうした存在の婆さまがいて、今は亡きその婆さまについて話す時には「あれはえらいごうつくばばぁでしたよ」と言う。

一体どんな字を当てるのだろうか。
辞書で調べてみると「業突く張り」あるいは「強突く張り」と表記されているのを見つけた。
由来については詳しく解説されていない。

スマホで検索かけると「強欲であるが愛しい」という内容が読み取れる。
想起されるキャラクターは、やはりあの時代劇の母上様であるような気がする。

「恨みながら愛し、愛しながら恨む」「憎みながら慈しみ、慈しみながら憎む」という感情にも近い。
決して上品でなく、公の場で使える表現では無いけれども、好きな言葉だ。
そうしたものが、世の中に数限りなくある。
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2022-11-02 | 7追憶する
薫くんが帰ってきたテレビドラマ「相棒」を久しぶりに見る。
やっぱり薫くんのいるストーリィが良い。
今回事件の中心にいるのは、空っぽの心を抱えた資産家のおじさん。
資産家とは遠く隔たっているが、その心持ちには共感できる点が多々あった。
殺人事件周辺の物語だが、余り毒々しくない短編小説の味わいなのが良い。

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頼りない心を占める単語だ。
最近、それを考えるテーマに直面した。
宗教だ。

家の墓地がある寺で資金を必要とする案件が発生し、広く寄付を募る事となった。
結構な額が必要とされており、入念に準備された手順で寺側はそれを要請する。

このご時世に期待されている額は決して少ないものではなく、税金と異なりそれらは各人の懐具合に応じて拠出されるものであったが、あれよあれよと寄付金は積み上げられ目標額を達成した。
想定外の有難い状況を報告する寺からの書面を眺めながら、宗教とはとつくづく考えた。

中には資産家もおられる訳だが、明らかに余裕がなかろう人も精一杯応じようとする。
クリーンな尊い金だ。
どんな心持でそれぞれ拠出に応じられたのか。
私はある種の義務感をもって応じた。
決して積極的でない訳だが、全体を眺めるとそれらは私のように義務感だけで行われている訳ではない。

先月より我が国を揺るがせている某宗教団体。
同級生に信者がいて、かれこれ30年前になるがしきりに電話がかかってきた。
「絵の展示会があるんだけど…」
「着物の内覧会があるの…」
「宝石に興味はない?」
電話の度にお誘いの内容が異なる。
「一体どういう催しなのか」
「何故一貫性がないのか」
問い詰めて、某宗教団体の催しであると彼女は白状した。

大変真面目な人で、決して悪事に加担する人柄ではなかった。
若干、優柔不断な点がなくはなかったが。
家庭の不和が原因で、頼るようになった宗教であったという。

当時から既に問題のある団体だと承知していたので、はっきりとお断りしたのであるが、引っ越すまで年賀状は毎年欠かさず届いていた。
その彼女から、私の友人もやはりお誘いを受けていたという。
この度の事件の報道で「彼女は信者だったよね」と友人と初めて話し、お互いに誘いの連絡があった事を知る。
友人もめっぽう真面目なタイプである。
私も真面目な人間であるつもりだ。
友人も私も誘いに応じる事なく、深く関わらなかった事を幸いに思う。
信者となっていた彼女は、無事でいるだろうか。
私ももし誘いに応じていれば、全く異なる状況に生きていたかもしれない。

信仰を持たない私には、到底推し量る事の出来ないものであるのだろう。
世の中の理の中で、最も高い位置に置かれているのは宗教。
哲学よりも更に上、宗教が最高位のインテリジェンスであると学んだことだけを思い出している。
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レポート提出が期限に間に合わぬ夢

2022-09-24 | 7追憶する
繰り返し見る夢がある。
その中の一つが「レポート提出が期限に間に合わぬ夢」だ。

もう卒業できていて、それが夢である事は重々承知なのだが、繰り返し夢に見て思い悩む。
どうやら性にあわない学生生活は、自分にとって苦痛を覚える年月であったらしい。
それを何十年も経って未だに思い知らされる。

自分が何をしたいのか、何をしている時に一番活き活きとしていられるのか…それを知らしめてくれるのが本当の大人。
あらゆる側面で余裕のある、愛と人間性に富んだ大人でないと、それは出来ないだろう。

そんな大人が周りにいる人生は恵まれている。
そして、そうした環境に育まれれば、豊かな大人が育つだろう。
恵まれなかったなと思う。
う~ん、残念。
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2022-05-17 | 7追憶する
まだ梅雨には早いが、菜種梅雨という言葉を思い出す天候だ。
置き傘を忘れぬように、不安がよぎる時にはバッグの中にコンパクトな折り畳み傘を入れて出かける。
玄関を出るや、しっかり雨の降りしきる時には、長尺の傘をつかんで出かける。

服は目立たない凡庸なものばかり選んでいるが、傘は目立つデザインの物が好きで、デパートの1階で調達することが多かった。
しかし、とかくお気に入りの傘から失う。
どこかに置き忘れる。
傘立てに置いた筈なのに、誰かに持ち去られてしまったり…奇抜なデザインで間違われる筈は無いのだが。

結局、1~2年おきに傘を新調する事になっていた。

ところがかれこれ30年間、失われる事無くわが家の傘立てにずっと存在する傘がある。
出先で雨に降られ、今はもうなくなってしまった商店街で、500円で購入した花柄の傘。
500円でなければ絶対に買わないデザインのジャンプ傘だ。
ところが、色褪せする事もなく壊れる事もない。

「お気に入りの傘に限って失くす。全然惜しくない傘に限って何時までも手元にある」と嘆いてみせた。

ちょうど、雑に便利使いされるバイトを辞めることにしたころの事だった。
そばで聞いていた人は無言である。
何かしら深読みされてしまったかもしれない。

さりながら、500円で買った好みではない傘であっても、30年を超えてそこにあり続けるそれは、そこにあるものとして私の暮らしの中で存在感を示している。
人の生活とはそうしたものであるのかもしれない。
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浜田省吾

2022-05-08 | 7追憶する
昨年のクリスマス、スーパーマーケットの有線放送から不意に浜田省吾のメロディーが流れ始めて足が止まった。
気持ちが過去に引きずられ、泣きそうになる。
私の青春時代を彩る曲であったのだ。

みな知っているメロディーだ。
そして、若く傷つき易い頃の自分の心細さを思い出す。

家族といても孤独で、誰とも共感できない私だった。
冷たい家庭であったが、その現実をまるで認識できず、ただ鬱々とする私だった。
そんな頃いつも流れていたのが浜田省吾で、繰り返し聞いていた。

帰宅しあるはずの浜田省吾のCDを探すのだが、何処にもない。
どれだけ繰り返し聞いたかわからないくらい聞いているはずなのに。

そして思い至った。
テープで聞いていたのだ。
FMラジオやレンタルショップのCDをダビングして、カセットテープにラベルを貼って…。
テープが擦り切れるくらい聞いていたのだ。
時代だ。まだ私が恐ろしく若い時分の話だ。

それがわかって、フリーマーケットでCDを手配。
届いた浜田省吾のCDを繰り返し聞きながら、切ない気分に浸った。
青くて、若くて、傷つき易く、自分の事がまるで分っていなくて、ピュアだった。
また新たにCDを手配する。
浜省はいいなぁ。
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よく生きながらえてきたもんだ

2022-04-14 | 7追憶する
気が付けば、とうに半世紀を生きている。
ストレス負荷の高い家庭で育ち、緊張の強いタイプだった私。

しばしば若かった自分を振り返りつつ、まだまだ生き続ける。
おばさんになり、ストレス耐性も身についた。
緊張を強いる存在がいなくなり、あるべき自分の姿を求めなくなった所為かもしれない。
多分そうなのだと思う。

未だに、古臭いストレオタイプの思考回路を持つ人に出くわすと、血圧は上がる。
それらを包み込む大きさを育んではいない。
そうした人に対すると、窮屈で、息苦しさを感じ、なるべく距離を置いて接するようにしている。
ストレスを抱え込みたくはない。
高みを目指す心意気はないが、行儀よく対応する事を良しとする感覚は身についており、ぞんざいな対応をとる人とは一線を画していたい。

自分にとって居心地の良い環境や人は、どういったものなのだろうかと折々に考えているが、まだ結論は出せないでいる。
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国勢調査

2020-10-14 | 7追憶する
国勢調査が終わった。
ネット回答して日にちを経たが、連絡もないので、問題なく統計データに加えられたに違いない。

5年ごとの調査。
今年は簡易な調査の年であったのだろうか。

もう20年以上前になるが、父が記入した国勢調査の調査票を見て、愕然とした日の事が思い出される。
父の記入はでたらめで、現実を正確に反映するものではなかった。

マークシートの記入を消ゴムで消しながら、父の認知状態がどうしようもなく衰えており、もう病であることを認めざるを得なかった。
頑固で記憶能力に長けた父が、既に正常ではなく、盛大に親子喧嘩する相手にはもうなりえない。
呆然とした記憶が、国勢調査の度に甦る。

父が亡くなって久しい秋である。
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淋しいなぁ

2019-01-26 | 7追憶する
「淋しい」なんて言葉は避けてきたし、そんな言葉を発すること自体が嫌だった。
美しくないし、しみったれていてひどく格好が悪い言葉だと感じていた。
自分の生活には添わないものだと考えていたし、殊更に言上げする事でもないと考えた。

しかし、最近しばしば思う。
素直に淋しいと。
生きてゆくことは淋しい。
一人でいることはもちろん淋しいし、誰かといてもやはり淋しさは忍び込む。

ひとりで居ることは、私にとってとても自然な状態だった。
幼いころからずっとひとり居る環境におかれ、暮らしていた。

だから社会性が育まれなかったし、集団の中に居ることは得意でなかった。
私がもっと賢い人間であったなら、ひとりで無理なく生きられる道を模索したはずだった。

だが、私は余り頭の良い存在ではなかったのだ。

ひとりでいることの多い環境で育まれた人間が、「淋しい」という感覚を認める事は、苦しい日常を意識することに繋がる。
そんなことは意識せず、考えないことが、安穏に生活する術だったろう。
目先の生活だけやり過ごすのであればだが。

そんな自分の成り立ちを漸く認識し、自然に「淋しい」とつぶやく事ができるようになった。
もう沢山の時間を費やし、遅きに失したかもしれないけれど。
もう前向きに人生を発展させる可能性は僅かかもしれないけれど。

しかし、現実をありのまま認めることは、混沌としたカオスの海から這い出す第一段階であると思っている。
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十年

2018-07-22 | 7追憶する
某SNSの煩わしさから退避して始めたこのブログ。
そろそろ10年経とうとしている。

年を取った。
亡くなった人、すっかり疎遠になってしまった人、再び交流を持ち始めた人、変わらず私のような屈折を抱えた者と付き合い続けてくれる人。
その人達の生活にも様々な変化が起きている。

十年一昔という。
暑さ厳しく、空調のない環境ではもう生き続けることも出来ない。
平均寿命は最長となりながら、命はいよいよ脆く儚くなっていっている。
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生きてる

2013-04-27 | 7追憶する
長らくブログをほったらかしにしていた。

生きてはいる。

あと、何年生きるだろうか。
余り長生きはしたくないな。

漠然と、とりとめもなく思う。

日教組世代の私を、すっかり左翼嫌いにした民主党政権が消え去り、経済状況もいくらか好転の兆し。

金価額は倍以上になり、外貨中心の投資信託商品の基準価格はあれよあれよと戻した。
低迷していた株価も、漸く相応な額になってきたところか。
いずれ、それを帳消しにするインフレは、やってくるだろうけれど。

TVでMRIとかいう会社のアメリカの医療分野に投資する金融商品の資金が、まるで運用されないまま使い込まれているというニュースが流れていた。
あの緑色のパンフレットはどこかで見た記憶がある。

もとより資産家でもなく、疑り深い私の元に届いたものではない。

知的レベルの高い方だが、ナーバスで、やりとりに躊躇することの多かった知人のところに届いていたのを、もうかれこれ4~5年前に見せてもらったような。

多分、医療資格者の名簿を手がかりに送りつけられたのだろう。

かの御仁は、その商品に手を出してしまわれたのだろうか。
心配して差し上げても仕方ないし、余計なお世話以外の何物でもないが。

世の中には、信用ならないものがあふれている。
疑り深い分、妖しいものを嗅ぎわける私の嗅覚は発達したような気がするが、日本も自己責任に帰することが多い世の中になった。

良き道を示され、純朴にその道を坦々と歩き続けることをよしとする時代は終わったかもしれぬ。
「騙される方が悪い」と言ってのける中国大陸の人々の嗤い声が聞こえてくる。

とりあえず黄砂が見えなくなった青い空を見上げ、渡る風をまだまだ寒いと思った。
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