私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

古風な女

2019-02-17 | 13侘ぶ寂ぶ哀しむ
古風な女は疲れる。
今どきの女は論外で、シンパシーを覚えるのも、友人と呼べる人たちも、大抵古風な女なのだけれども。

古風な女と話した後は、必ず疲労し、妙な苛立ちにさいなまれる。
どうしてなのだろう。
何が、こんなに私を苛立たせるのだろう。

男女雇用機会均等法は成立していたが、所詮女は二次的な存在、そんな共通認識の社会で生きてきた。
男は、自分がどれだけ社会的に高い地位にあるか、どれだけ稼げるか、どれだけ蓄財しているか…という観点で評価を求めるが、女はどうか?
女は、亭主として担ぐ男によって築かれた家庭というスモールワールドが、いかに安定して豊かな生活を送ることのできる環境かという事で自己評価する。
評価は、絶対評価ではなく相対評価だ。
相対評価であるから、その状況を他者に披露し、確認する必要があるのだ。

専業主婦が贅沢な存在ではなかった時代の話だ。

男と同じように教育の機会を与えられ、少子化が進んだ社会においては、もう古風な女は過去の遺物となりつつあるかもしれない。
古風な女は、故に自分個人ではなく、家族全員の人生を自分のものとして生きる。
話題は自分自身の人生ではなく、夫や子や、親や兄弟姉妹の生活や志向だったりする。

ご本人の生活については聞くけれども、ご家族の生活や状況、心の葛藤に興味はない。
古風な女の話の内容は、半分以上が家族や遭遇した人々の話であって、そちらの方が話の中心に据えられる。
そうした他人の話に興味はないが、一応ふんふんと聞き流し感想を述べる。
私にはどうでもいい事と思いながら。
そうして会話の後に、不可解な苛立ちにからめとられ、マインドワンダリング状態に陥ってしまうのだ。

私の成り立ちも、半分以上が古風な女のそれけれども、一個人として人生を終える形態を、何とか整えたいものだと思っている。
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マインドフルネス

2019-02-10 | 4動く
マインドフルネスを、一昨年ぐらいから生きる支えとしている。

瞑想と言われてしまうと、いささか怪しい空気をまとうが、過去にとらわれず、未来を案じる事なく、ただ今を意識して生きる方法だ。

過去のあれこれを思い出し、逡巡すると、マインドワンダリング状態に陥ってしまう。
この思考の迷子ちゃん状態が、私の自律神経を乱す事になる。

もう過去のあれこれなど、どうでもいいのだ。
確かに、過去の延長線上に現在の私はあるけれども、過去の人生の分岐点に戻って、異なる選択をすることなんて、今更出来ないのだから。

そうして、私が未来を思い煩うことで、世の中が変わるなんて事もないのだから。

一つのちっぽけな生命体として、淡々と今この瞬間を生きるしかないのだ。
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思考を触発する映画とドラマ(2)

2019-02-02 | 2見る・読む・聴く
「家売る女の逆襲」は「家売る女」の第二シーズンだが、待ちにまった番組だ。
ある種ロボットのような孤独な女が、シャープな頭脳で、家を売ることを通じ、人生で迷子になりそうな人達にポジティブに生きる道案内をする。

第二シーズンのテーマは、経済成長期を終えた日本の超高齢社会で生きる孤独な人達。
私も、自分の人生を三軒家女史に分析してもらい、より良き人生設計をしてみてほしいものだとさえ思う。

「モンローが死んだ日」は、小池真理子原作のドラマ。
予想した通りの展開があり、私にとってはいささか甘過ぎるエンディングが用意されてあったが、原作は果たしてどういう結末だろうか。

鈴木京香が用意した食事をトレーに配膳し、一人静かに食べる姿は身につまされる。
孤独な人生は、個食に象徴される。

生きる事は、淋しく厳しい。
けれども誰の生命も、最後のその時まで丁寧に生きられるべきだ。
中学生の時も高校生の時も、苦しい息で持久走を走りながら、それでも走り続ければ必ずゴールに辿りつけると思って走り通した。
生きる事は、持久走ににていると最近は感じる。

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