私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

自浄能力

2010-01-25 | 13侘ぶ寂ぶ哀しむ
かつての与党、自民党が長い長い政権与党たり得たのは、その党内に「君たち本当に同じ党員なの?」といぶからねばならないほどの、多彩な考え方の集団があって、その集団がたとえ政争と言われても、互いに牽制しあいながらバランスを保つ能力に長けていたからだと思う。

妙な政治家が一人や二人出てきても、党内で必ず反対勢力が勢いづいて、補完的役割を果たし、或る意味での自浄能力を発揮していたと思うのだ。

現在の与党には、その自浄能力が著しく欠如している。

このまま国もろとも沈没することになるのか?
軌道修正も、更生も効かないのか?
心中は嫌なのだけど。
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縁がない

2010-01-23 | 5考える
「この人とは縁がないのだなぁ」とつくづく感じることがある。

幼いころからとても好きな人(ちなみに相手は母と一つ違いの女性)だったのだが、人間関係が深まりそうになると、何かしら事件がおこって無かったことになる。

お互い、要所要所でかなり頼もしい存在だと感じてはいるはずなのだが、じっと寄り添って人生を語ったり、歩んだりする関係にはならないのだ。

そして、恐らく、決定的に人生観が異なっているところがあるので、深く語りあってしまうと、どこかできっと破綻してしまう人間同士なのだ。

もし、私を守護してくれている存在があるとしたら、その守護者が「その御仁と関わるのは止めとけ…あとあと面倒を抱え込むことになるから」といっているような気もする。

そして、生涯に渡ってずっと、その人物との関係が余り深くならないように、流れをつくってくれているような。

そんなことを考えた奇妙な一日だった。
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生死はあざなえる縄のごとし

2010-01-21 | 雑観
父を送ってから、どうも気が落ちている。

実際に「気が落ちる」という状況をまざまざと実感するのは、初めてのことのような気がするのだが、ぼんやりとして冴えがまるで無くなっているのだ。

今日は車を運転中、進行方向の渋滞を避けたくて、右折レーンから直進レーンに進路変更したところ、十分に安全な状況ではあったのだが、対向車線からやってきたパトカーに見とがめられ、進路変更違反ということで1点の減点、6,000円の反則金の支払いを命じられてしまった。

道路交通法違反なんて、十何年振りだろうか。

「あぁ…」とため息しか出ず、更に気が落ちてしまった。

要注意の警告だったのだろうなぁ。

友人の家では、父が亡くなったのと同じ病院で、新たな命の誕生があったという。
人の生と死はあざなえる縄のごとし。

鴨長明の方丈記だったか「かつ消えかつ結びて」と浮かんでくるあたり、私も古い日本人になったもんだ…と思うことである。
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呆気なく安らかに

2010-01-15 | 13侘ぶ寂ぶ哀しむ
父が逝ってしまった。

漸く落ち着いた生活環境を得て、もう1~2年あれこれと逸話を残してくれるに違いないと思っていたのだが。

この十数年間は、毎年のように新たな病を得ては驚異の回復をとげて見せ、その生命力で私を敬服させていた父だった。

最期は急変から10時間余り。
呆気ないものだった。

苦しまないようにとだけお願いした。
その願いを尊重して、精いっぱいの対応をしてくださったドクターに感謝をする。

呼吸が少しずつ浅くなり、血圧が低下して脈が弱くなり、眠るように静かな最期だった。

意識は無いように見えたけれど、多分声は聞こえていて、色々なことがわかっていたのだ。
最期の2時間ほど前には、両目から静かに涙がこぼれた。
「泣くな」と言いながらそっと涙をぬぐってやると、程なく力ない瞳になった。

最近は「お父さん」とではなく「○○くん」とまるで兄弟を呼ぶように話しかけていた私だったが、ICUの一つ向こうのベッドから聞こえてくる「お父さん」と別の患者さんに呼び掛ける声に満足したのかもしれなかった。

嵐のような目まぐるしい日々が訪れて過ぎ去った。
今日は本当の初七日。
父がそばにやって来て、静かに自分の居場所を確保したような気がする。
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新聞のない生活

2010-01-08 | 6悩む
新聞を止めてみた。

不快な事件が起こった訳ではない。

明治時代から我が家でずっと読み続けてきた某紙なのだが、ちょいと気分を変えてみたくなったと言ったら、厳しい環境下にある業界人からは非難されてしまうだろうか。

社説に最近違和感を覚えることが多くなったとか、
事実はインターネットニュースで知ることの方が多いとか、
旅行で新聞を止めてもらった際の事務処理が納得できないとか、
合理化で、地方紙を発行する地元新聞社に印刷を丸投げするようになってから、紙質が悪くなったとか、
高齢者が読みやすいよう活字を大きくされたことで情報量が減ったような気がするとか…結構いろいろ感じてはいたのだけれど。

単身赴任の友人は、月~金だけ購読しているという。

「子育てはこれから正念場です」って主婦の中には、広告の多い木曜日(だったかな?)だけの購読契約をしているなんて人もいるそうで、比較的自由な購読形態が可能となっていることだけは承知していたのだ。

で、いざ家の中に新聞のない生活が始まってみると、これが何とも淋しい。

恐らく歯が抜けてしまったような心もとなさを感じるだろうとは思っていたのだが、何だか世の中から忘れ去られてしまいそうな心もとなさなのだ。

また、情報の早さでは劣るかもしれないが、長々と自分たちのペースで情報を見せてくるテレビのニュースより、新聞の方がずっと選択性と合理性に優っている。

自分の感覚に響く記事だけ読めばよいのだから。

結局、我が家の新聞なし生活は一週間ともたなかった。
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K18の意味

2010-01-07 | 5考える
今年になって知ったのだが、K18(18金)というのは、金の含有量が75%の金製品だという意味であるらしい。

K24(24金)というのが、金の含有量が100%の状態。

K18になると18/24の割合で金が含まれているので、75%の金に25%の他金属が加えられた合金であって、金含有の比率は高いが純金ではないという訳。

ちなみに、加える金属の種類によって色合いはシルバーっぽくもなり、黄色にもローズカラーにもなる。

金製品と一口にいっても、WG(ホワイトゴールド)・YG(イエローゴールド)・RG(ローズゴールド)などと多彩な色合いの製品が出来るのも、この含有金属の性格によるのだそうで…ご存じだったろうか。

常識なのかもしれないが、今までまるで興味のない分野で、私にとってはこの年になって初めて知った事実だった。

ちなみに、K24(24金)という表示方法は日本でとられている表示方法だそうで、国際標準ではないという。

うーん、知らないということは怖いことだ。
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早くも春の気配なのか

2010-01-05 | 10住む・暮らす
まだ寒中だというのに、昨日、今日と、鳩の鳴き声で目を覚まさせられた。

私の住まう地域では、昨年、初夏から秋にかけて、巣作りに励む鳩のペアに随分悩まされていたのだが、雪やみぞれのちらつく季節には流石に彼らも大人しくなっていてくれていたのだ。

ところが早くも鳩たち、つがいで仲良く恋の季節を迎えているらしい。

あの独特の胸を膨らませて響かせる「ホゥホゥ」という鳴き声を、バルコニーに飛来し、二羽並んで聞かせてくれるわけだ。

仲が良いのも結構。
甘い語らいをなさるのも構わないのだが、あの囁きはどうにも受け入れ難く、生理的嫌悪感を覚えるので、私の目のとどかないところで存分にお願いしたい。

霧吹きで水をかけると、鳩のペアはお隣のバルコニーに退散。

すかさずお隣のバルコニーに通じる勝手口が開く音がして、お隣のバルコニーでも彼らは甘いひと時を持つことを許されない。

一時間後、恋の語らいが聞こえなくなったと思ったら、立派なくちばしのカラスが二羽、ある鳩一家の巣となっているビルのアンテナに飛来しているのをみつけた。

カラスも気持ちは良くないが、鳩よりは良い。
鳩はご免こうむる。
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補おうとしている私

2010-01-04 | 雑観
数年前、自分より少しだけ年齢が上の女性ドクターの話を、継続して聞くことが出来る機会に恵まれていた。

淡々とした語りの中で、時折ぽろりと、とっても個人的な感覚で語られるとりとめのない事柄。
色白で個性的なドクターの飾らないつぶやきを、私は妙に印象的に感じ、心にとどめていたりしたのだが、そのドクターのあるつぶやきを最近ふいに思い出していた。

それは、たしか唐突に語られたのだが
「いつの間にか年を重ね、自分のエネルギーが落ちているなと感じることがあって、そんな時、思いがけずヒョウ柄のシャツを選んでいる自分に気がついたりする」といった内容の話だった。

要するに、減少していっているパワーを、明るい色、パワフルなデザインなどで補おうとしていらっしゃるということなのだが、大人しく話に聞き入ることなく、エネルギーが有り余っている様子の何名かの若者を見ていて感じられたことだったろうか。

最近、同じような感覚に、自分がとらわれていることに気づく。
私の場合は、ヒョウ柄のシャツではなく指輪あたりなのだが。

昨年の後半頃から、まったりメイクやブランド、ジャラジャラ貴金属が苦手な自分が、ゴールドやプラチナの指輪を物色していた。

何でそんな気分になったのか、自分でも不思議だったのだが、どうやら自身の気力・体力の衰えを誤魔化しようもなく、切実に感じ始めたからなのだ。

その衰えを、ツボが集中し、それぞれに古来から意味があるものとして伝えられてきた指に、貴金属を添わせることで補おうとしていた訳だ。
無意識にだったのだけれども。

そうした私を年明け三日間ではっきりと自覚した、寅年の始まりである。
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今年もしっかり食べてスタート

2010-01-03 | 1食べる
このブログ、食べることをメインにしてあれこれ書き連ねるつもりだったのだが、気がつけば世のあれこれについて、凡庸な私がぶつぶつつぶやいている記事がほとんど。

大いなる志や戦略・野望があるわけでもなく、続けることに意義があるのでまぁいいか~♪と、お気楽なのである。

いつものように、年越し蕎麦を食らい、お雑煮を仕立て、おせちも今年はしっかり食べて始まった。

おせちというものは、年末年始の主婦が家事軽減を図る為の、保存のきくオカズと承知していたのだが、我が家では、とかく大皿に盛られた煮しめや、これまた大量の数の子、そしてハムやかまぼこ、伊達巻などといったお決まりの面々がお重に詰められて完成するおせちで、私など直ぐに飽きてしまっていたものだ。

そうして親族が集まれば、結局、やはり手のかかる茶碗蒸しや牛肉の登場となって、主婦が休める気配はなかった。

今年、初めて「おせち料理」なるものを購入してみた。
某ホテルで大量につくられ、デパートやスーパーを窓口に同一金額で予約を受けるタイプのものだ。

平均的な二段重ねの商品を購入、楽しみにして開けてみたが、全部で47品の料理名がおしながきにぎっしり書き連ねてある。

自宅で作るのと違って、ひとつひとつの煮物、ひとつひとつの焼き物がそれぞれ皆異なる手法で料理され、それぞれに最適と判断されたお味に仕上げてあって、飽きることはない。

一口一口その違いを楽しみながら、おしながきと見比べて納得する流れが、非常に楽しい一時となった。

我が家の主婦がまだ元気な頃に、こうした手抜きでの楽しみ方をさせてやればよかったと、今頃になって思うのだから、遅れ気味な思いつきも極まった感じだ。

何だか、亡き人を楽しませたかったという想いと共に、来年もホテルの厨房でつくられたおせちを買ってもよいかもしれない思うのだった。
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