私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

不食?

2015-05-10 | 14楽しむ
ゴールデンウィーク、久々に森林浴を楽しんだ。
新緑はまぶしく、わたる風は心地よかった。
滝を見、マイナスイオンをしっかりと浴び、2時間半歩いた。

平生往生というか、不精な生活に慣れている体はわずかな筋肉で動いているので、すぐに疲労する。
翌日から数日間、筋肉痛に悩まされ、まるで旧式ロボットのような動きになっていた。

筋肉痛が収まりかけたころから、激しいむくみが出現する。
腎臓をやられただろうか。
とうとう心臓にきたか。
不摂生を自覚しているので、望ましくない事態をあれこれ連想する。

好物のいかなごの釘煮を控え、水分を排出するツボに鍼をしたり押圧を加えたり。
でも、結局そのむくみが収まるのにまた数日を要した。

ウェイトがオーバーしているのは重々承知している。
ちょっと体の負担を軽くしてやる必要があるだろうか…。

自分が育て続けている筋腫のことや、難しい場所の脳腫瘍を一日一食の菜食生活で押さえ込んでいる人の話を思う。
そうして「人は何も食べないとどうなるのだろう」と考えた。

便利な世の中になったもので、ネット検索をかけると「不食」という言葉が引っかかる。
関連の書物の中に、昔、友人が心酔していた人の名前も著者として上がっている。

人は暇をつぶす為に食べてしまうって。
面白い視点。
久々に本を取り寄せてみることにした。
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湯治

2014-09-28 | 14楽しむ
温泉が好きだ。

資金に恵まれ、好きな土地で好きに生活してよいと許されたなら、きっと温泉のそばに住まいを見つけたいと思っている。

当節、潔癖性が極まって、よそ様と同じ湯船につかるのはNO!という不自由な方もおられるようだが、貴い日本文化のひとつである温泉療養という文化を否定しなくてはならないとしたら、日本人として実に不幸なことだ。

私は折に触れ温泉を楽しむ習慣をもっているが、自分の身体とじっくり対話するための期間をもとうとすると、しばし逗留する必要が出てくる。
そして、これが厄介なことなのである。

普通の旅行にしてもおひとり様は敬遠されるが、湯治場の宿にしてもこの点は変わらない。
二人以上の方が宿としての利益率も高いのだろうが、そもそも湯治はそれぞれの身体の状態にあわせて温泉に身を置くものであるから、ひとりが基本の単位だろうと思うのだが、そうはいかないのが世のままならぬとこだ。

湯治はひとりがベース。
これが何とか常識として認知されないものだろうかと、長らく思っている。


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紅葉狩り

2013-11-27 | 14楽しむ
初冬の気配に覆われた11月も終わりになって、更新をするために引っ張ってきたネタが紅葉である。

なまった体に鞭打って、久々の山歩き。
昔愛用していた、ワンゲル用の靴はいささか窮屈になっており、杖も先の遊びが大きくなりすぎている。

どこかにあったはずのナップサックが行方知れずになっており、アマゾンでバタバタとナップサックを取り寄せる。

月初めに出かけたのは国の名勝に指定されている渓谷。

整備されているが、アップダウンの激しい道を心肺機能の衰えを感じながらひたすら歩く。

山はいい。
朝早くから山を歩く目的で訪れた人々もいい。

午後になって、日の陰りが感じられ始めたころから、まさに観光目的でおとずれる人々のマナーの無さには閉口するが。
彼らの格好は山歩きのそれではなく、ハイヒールだったり、犬連れだったり、乳飲み子を抱えていたり…ベビーカーを押しながらの若い夫婦(だと思う)さえも目撃したが、日没まで2~3時間しかない状況で、渓谷の入り口まで行ってそのまま引き返す訳だ。

で、「お休みは○○峡へ行ってきた」というのだろう。

2時間近く歩いて辿り着いた渓谷の奥では、風が吹くと、落葉が降るように流れてゆく。
そこに光がさして、渓流の流れと枯葉のかさかさという音と、土と緑の匂いに包まれる。
そうして、小さなただ一つの命である自分を感じる。

山はいい。
かなり奥まで分け行ったが、渓谷の最終地点まで行くことは諦めた。
それでも、往復4時間余り歩いて、ふさいでいた気持がすっきりと晴れ渡るような心地よさにつつまれた。
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雨が好き

2013-05-29 | 14楽しむ
いつのころからか、雨降りの日が嫌いではない。

梅雨入り後、初めての雨らしい雨が降っている。

深夜、密閉空間は気づまりで、補助錠をつけた窓をわずかに開けていると、深夜も比較的人通りのあるメイン道路から、様々な声が聞こえてくる。

酔っ払いの声。
ご機嫌な酔い、哀しい酔い、うらぶれてゆく様子の酔い…いろいろな酔い心地が伝わる。

母国に電話をかけながら自転車に乗っている様子の中国人の声は、恐ろしいボリュームと叩きつけるようなテンポで、夜の闇を裂いてゆく。

丑三つ時のワンルームマンションの前で、くどくどと口説かれている様子の女。
「おやすみなさい…を言って、さっさとロックの向こうに消えておしまいなさいよ」と思うのは余計なお世話で、趣味の悪い男がいれば、趣味の悪い女もいる。
口説き口説かれの様子は、いつまでも続く。

そうして、近隣で唐突に始まるパトカーとの追いかけっこ。

様々な音が、雨の日はとんと聞こえぬ。
今宵、雨音と道路の水をはじいて走る車輪の音が、時折聞こえるぐらい。

雨音に彩られる夜の音が、今の私は好ましい。
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健気

2012-06-11 | 14楽しむ
「健気(けなげ)」なんて、長らく思い出すこともことも無かった言葉だが、最近しみじみ「健気ねぇ~」と思わずにいられない出会いをした。

お相手は人間ではない。

お掃除ロボットルンバくんの仕事っぷりが「健気」そのものなのだ。

3年前のモデルなので、おしゃべりではないし、自分で空腹を覚えてホームに戻ることも無い。
ただただ無心に「お掃除をしてくれるだけの子!」なのだが、ひたむきに何の計算もなく、あちらにぶつかりこちらにぶつかりしながら、ただただ掃除してまわる様が感動的でさえある。

こんな「健気」なタイプの人間とは、忘れるくらい長らく出会っていない。

自分もこんな「健気」な対応を他人様にしたのはいつのことだったか。

とかく胡散臭い人間ばかり目にしていて、ロボットから哲学を感じるようでは、世の中も変わりました。
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ラジオ体操

2011-11-15 | 14楽しむ
最近、いよいよ基礎代謝の低下を覚えて、運動不足の解消のためラジオ体操を始めた。

第1は中学校以来。
第2は高等学校以来の実践で、まだ第2体操の方が馴染みがあるような気がする。

体が覚えているって表現がピッタリなのだけれど、如何せんこちらの身体が変化している。
関節を動かす運動が多い印象だが、いつの間にか関節の周りを余計な脂肪が厚くコーティングしているのを感じる。

この体操、中年以降の大人の為に非常によい体操だと思う。

しかも、日本人としての郷愁を感じさせてくれる。

今日も、お隣の大陸から電話を使って、かの国の人がオレオレ詐欺で摘発されていた。
振込被害は7,000万円にものぼるという。

さぞかし流暢な日本語を操るのだろうと思うけれども、彼らにラジオ体操の味わいはわかるまいと思う。
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吉備津神社

2010-11-14 | 14楽しむ
先週、岡山の吉備津神社に参拝して来た。
すぐ東に位置する吉備津彦神社とは別に社を構え、岡山県では最も由緒のある神社だ。

http://kibitujinja.com/index.html

もう二~三年前のことだが
「回廊が趣深く、静謐な気が流れている感じがする」
といって、ご自身のお気に入りの場所として語っておられた方があり、一度参拝してみたいと思っていたのだ。

桃太郎のモデルとなったと言われている吉備津彦、退治された鬼になぞらえられる温羅(ウラ)の祀られる神社である。

辺境の島国は、あちこちの鬼達から狙われている気配もあり、今こそ参拝の時と意気揚々訪れたのだ。

岡山県は、なだらかな山々と豊かな平野に恵まれた土地柄だ。
神聖な地へは、険しい山を越えてゆくイメージがあるのだが、吉備津神社への道のりは驚くほど緩やかだ。

平地での紅葉はまだまだのようだったが、境内に入ってすぐの大銀杏が、見事に黄色く色づいていて、その鮮やかさに圧倒された。

本殿は、七五三の参拝で訪れた家族連れでにぎわっている。

回廊を進み、吉備津神社について語る時欠かせない御釜殿に向かう。

荒ぶる神を丁重に祀ると、強力な守護神となり給うというが、御釜殿には、温羅の頭が祀られているのだ。

本殿で御祈祷を受け、その結果を御釜殿の神事で占うという。

温羅の頭上に配された釜に玄米を投じ、その音で吉凶を知る。

御釜殿は重要文化財に指定されている。

釜の火は力強く燃え、藁と炭の臭いがする。
火に宿る神を祀る意味もあるのだろう、この御釜殿では未だ経験したことのない、温かくも神聖な気を感じた。
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島にかかる橋を行く②

2010-05-08 | 14楽しむ
そもそも島というところは、豊かな環境に置かれているのかもしれぬ。
特に瀬戸内の島々は、豊かな恵みをもたらす穏やかな海と、降り注ぐ太陽の光によって大いなる自然の恵みを得ることが容易だ。

闘ったり競ったりする必要も少なく、のんびり過ごすことが出来る環境下で、人々の表情は穏やか。自由な行動も島のルールを守っていれば容認される。

何代にも渡って素生のわかった人たちの、しっかりとした繋がりがあって、円滑に物事が運んでいる間は非常に住みやすい環境であるだろう。

そこに巨費が投入され、道路が整備され、橋がかかる。
橋を架ける場合、その下を航行する船のことを考えて、始点も終点も山腹である必要があるのだそうだ。
かくして、橋を架けるには山を削り、立派な山道やトンネルを整備する必要が生じる。

素生のしれない人々が流れ込み、そこここを車で走り抜け、多くのゴミを残してゆく。
多少の金銭も残してはゆくだろうが、プラスマイナスしてみて得るものはどれ程だろうか。

懐の豊かな時代でなければ、費用対効果の考え方からプラスの想定し難い架橋計画は成り立ち得なかったろう。

個人的には、ものをつくる仕事に憧れがあり、青い海にかかる橋を造るというプロジェクトは大好きなのだけれども、懐に冷たい風が吹き込むようになっては、想定することさえできない事業である。
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島にかかる橋を行く①

2010-05-07 | 14楽しむ
GW、この春乗り換えたT社のコンパクトカーで、走り初めとなる長距離ドライブを何度か楽しんだ。

いわゆる1,000円高速の恩恵は全く受けず、選んだコースもマイナーなものばかりだったようで、渋滞にかかることも無く、その幸運を喜びながら、多数派になれない自分を再認識した。

安芸灘の四つの島と本州を結ぶ四つの橋。
青い海と、瑞々しい新緑を背景に、海にかかる橋は、どれもみな美しかった。

島を、其々みな海岸線に沿って一周してみる。
漁港に停泊する船や釣り糸と垂れる人たち。きらきらと眩しい海に面した段々畑。
のんびりとした島の生活がうかがえる。

穏やかな午後、漁港には20名余りのお年寄りが海岸に面したベンチに腰掛け、やわらかな面持ちで各々海を眺めておられた。
沢山の御老人が会する情景は、老人施設などの催事で目にするが、そこには何の行事も無く、ただ自由に御自分達の意思で集まっておられる様子の御老人達だった。
背景がコンクリートの施設などではなく、海であり山であり、おそらく御老人方が生まれ育たれた故郷の自然だ。

まだ架橋計画は未完成。
連絡橋を得た島の人々の生活は豊かになったのだろうか。
プラスとマイナスのどちらが多いと感じておられるだろうか。

橋が一つ増える度、観光客は増えているだろうが、計画上未完成の現在、終点は四つ目の島であって、まだ通過点となる状態にはない。
其々の島を巡ってみると、設営されたどの集客施設も、観光客をもう一つ上手くさばけていない様子がみえた。

観光客の数が一定しない為もあるだろうが、そもそも島で働く人が少ない。
一年の内何日かある観光ピーク日の終盤、施設で業務にあたる人々の顔には疲労の色が濃くうかがえた。

人手が十分ではなく、競争もない訳で、サービスの質も自ずと低くなる。
浴場の溝を素手で掃除していた女性が、10分後には同じシャツでソフトクリームをつくっていたりする。
愕然とするが、とにかく人がいないのは明らかなので文句のつけようもない。
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都会で暮らすルール

2010-04-19 | 14楽しむ
久々に東京の土を踏んだ。

人間の多いところは苦手なので、目的地を移動するのも雑踏を極力避けてといった感じだ。

沢山の人間が行き来するところで生きるには、ある種の訓練が必要だという気がする。

例えばエスカレーター。

どんなに人が多くても、東京の人々はきちんと左側一列に並び、右を空けて急ぐ人の為に通路をつくる。

地方でのんびり暮らしていると、同行者と話しながらエスカレータに二人並んで乗り、そのまま上まで行くのはごくごく普通のことだ。

右を空けるか左を空けるかといったところで、関東と関西に違いはあるようだが、都会の人々にはそうした点において、きちんとしたルールがあって、それを守ることが自然に身に付いている。

必要だからだとは思うが、そんな風に訓練され、守られているマナーがあることに感心しつつ、まだまだ捨てたものでもないかも日本…とかすかに感じるのだった。
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