私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

それも加齢なのか

2022-11-12 | 3老いる
近頃、お腹が緩くなる事が多くなった。
大抵牛乳を多飲した後だ。
昔は、牛乳を何杯飲もうがへっちゃらであった。

食中毒の話を聞き、久しぶりで外食したタイミングでもあったので、ググってみたところ、年を重ねると牛乳で腹痛が発生する事が多くなるようだ。
それは、子供の頃は十分だったラクターゼという消化酵素が分泌されにくくなり、不足する所為であるという。
牛乳の消化が出来なくなるのも加齢が原因だというお話だ。

ヨーグルトなどの加工食品であれば、消化不良になる事は少ないそうだ。
牛乳は大好きだし、乳製品は毎日必ず摂っているいる訳で、それらを食べない生活は考えられない。

しかし、消化器官も確実に老化して行っている訳だ。
それが否めない。
老いは現実なのだなと思う。
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生きる

2020-12-06 | 3老いる
食べて寝て排泄して、また食べて寝て排泄する。

それを繰り返すマシン…それが私。
命続く限り、それを繰り返し日にちを積み重ねる。

骨格も筋肉も、内臓も血管も…私の魂の大事な相棒。
平均的な耐用年数はいかほどか?
メンテナンスして、小さな不具合を解消しながら、長く付き合って来た。

錆び付かぬように、壊れぬように、大事に共に生きる。
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胃ろう

2010-08-18 | 3老いる
NHK教育のドキュメンタリーで、たまたま「胃ろうの功と罪」なる番組を見た。

何気にチャンネルをコロコロ変えていたのだが、行き当たった時から見入らずにはいられなくなった。

亡くなって半年になる父は、まさにその「胃ろう」の御蔭で晩年の4年余りを生きさせてもらっていた。

脳梗塞の後遺症で嚥下困難になり、頻回の誤嚥性肺炎と栄養不良に苦しんでいた結果の「胃ろう造設」だった。
「胃ろう」対応するか否かの時期には

「呼吸が止まったらどうする?」→気管切開して人工呼吸器を取り付ける?それとも…。
「心臓が止まったらどうする?」→心臓マッサージを施す?それとも…。
「食べられなくなったどうする?」→胃ろう造設して直接栄養を胃に送る?それとも…。

あらゆる状況を想定して、色々な局面で判断を下す時の覚悟をしておくよう、親しく対応して下さった看護師さんから言われていた。

しかし、実際のところそのどの局面についても、想像力を働かすための知識を私はほとんど持っていなかった。

そのドキュメンタリーを見て、老人に「胃ろう」を施すのは日本に特異な対応であって、本来「胃ろう」は主として若年者の栄養摂取の問題に対応するものだったということを初めて知った。

「胃ろう」について私には何の知識もなく、病棟で見かける「胃ろう」造設された御老人達の姿や、人づてに聞く「胃ろう」で晩年を過ごされた御老人のエピソードといったものがわずかに得ていた情報だった。
私は、いよいよ血中栄養濃度の低下甚だしい状況に陥った父について、判断を求める医師に、ただ専門外の契約などについて専門家の判断を仰ぐ時のように「先生のお身内だったらどうなさいますか」というクェスチョンに対する医師の答えを求めてそのまま乗っかるしかなかった。

具体的には何も知らない私だった。

担当医師の応対は善意に溢れていて、感謝に堪えないものだった。
しかし、余りにも私の情報と知識は乏しかった。

「どうした対応をとるのがベストか」といったことを教えてくれる人は実に少ない。
又、人ひとりの生命を左右する判断に助言の出来る人は、なかなかいないのが現実だろう。

こんなに高齢者で溢れた社会だというのに、最晩年の命のあり方について、もっと語られるべきだし、もっと誰もが考えておくべきだと思う。

所在不明高齢者の問題や、医療費支出が史上最高になったなんて話を聞くにつけ、本当に望んだ選択をどれだけの人々が実現出来ているだろうかと考える。

今になっても「胃ろう」の造設を後悔はしていないが、もっと話せる間に父とそうしたことについて話しておくべきだった…という思いはある。
話せなくなる前に、それは言語機能の健全なうちにという意味も、人間関係の健やかなうちにという意味も併せて思うことだ。
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老いるということ

2010-05-12 | 3老いる
いよいよ逃れ得なくなって、先延ばしにしていた鬼門の整理に手をつけた。

早朝、ラッシュに逆行して郊外へ出向き、埃とアレルゲンにまみれた古屋のなかでひたすら作業する。

1~2時間が限度なので、お昼は外でおうどん定食…なんてお手軽でメタボ志向の食事が続いているのだが、今日はそのおうどん屋さんでちょっとした事件に遭遇した。

商売上手なそのおうどん屋さんの駐車場は、お昼になると常にかなりの混雑となる。

車を誘導してくれる熟練のおじさんがいつも2~3人いて、その指示に従えば間違えはないのだが、私の前に駐車場に入った軽ワゴンの爺様が、頭から駐車場隅の物置スペースにつっこみ「ガシャン、ギギギッ」と強烈な音を立てた。

普通であれば運転席から飛び出して、状況を確認するのだと思うのだが、「ギィギィ」音を響かせつつ後退して、そのまま駐車枠に入れ込もうとしている。

停止位置も怪しく、整理員のおじさんがとんでくる。

物置の扉と柱、それに爺様のワゴン車もしたたか傷ついているが、爺様は耳が遠いのかまるで慌てた風がない。

泰然と下車して、辺りの騒然とした様子に動じることなく漸く事態を確認する。

頭の具合から70代の爺様と思われるが、痩せた長身にジーンズジャケットを羽織り、大きなトートバックを肩にかけていて、昔のモダンボーイ風。

特異だったのは、その顔が無表情であること。
爺様は終始無言で、チラリともその顔に感情が現れることは無い。

「何だか変だよね」と思いつつ、私はその場をやり過ごして先に店舗に入ったのだが、程なく件の爺様が無表情のまま私の斜め前の席につき、平然とうどん定食を注文し、坦々と食べ始めた。

とにかく、無表情なのだ。
動揺も、戸惑いも全くうかがえない。

ちらちらと爺様の様子をうかがったが、とうとうその顔に感情らしきものを読み取ることは出来なかった。

老いるとはこういうことか。
私の父だったらもっとうろたえたろうな…と思いつつ、とてもとても太刀打ちできないタイプを久々に見つけたと感じたのだった。

…それにしても、破損の手当てはどうつけることになったのだろう。
老舗うどん屋の対応が少なからず気になる。

そして何よりも、高齢者ドライバー恐ろし…としみじみ感じたのだった。
大きな事故をあの爺様引き起こさなければよいのだが。
無表情なドライバーの安全意識は、きっと低いはずだから。
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父の「おぉーい」

2009-12-05 | 3老いる
昨日も、友人のお身内に脳梗塞で倒れられた方があって、本日の予定は変更になった。
この頃の季節が、脳梗塞の要注意シーズンである。

父の脳血管が詰まったのは、それとはっきり分かっているだけで3度。
それとはっきり周りに認識されない小さな梗塞は、無数に起こっているのだろう。

脳梗塞の回を重ね、年数を重ねるに連れ、父の自由は効かなくなり、現在の右半身麻痺・失語の状態となってもう4年目に入る。

運がいいような、悪いような父の人生なのだが、父は良く頑張っていると思う。
その生命力に感服する。
決して気の合う父ではなかったが、自分で移動が出来なくなり、話せなくなって、頑固な父から毒が抜け、年相応の御老人になることで、愛というか慈しみの姿勢で対することが出来るようになっているのは、私にとっての大いなる救いである。

父は言語野の脳梗塞後遺症で、自分の想いを文章にすることは出来なくなっているのだが、発声機能自体は健在で、時折?しばしば??「おぉーい」と叫ぶ。

父の「おぉーい」は
「痛い」だったり「痒い」だったり
「入れ歯を外すのを忘れているよ」だったり
「淋しいよ…誰かいないの?」だったりする。

お世話になっている特養のスタッフの方々も、初めはその違いを読み切れず苦労なさっていたが、先週お隣さんがベッドから転落し、冷たいピータイルの上に動けなくなっている様子を伝えるために
「おぉーい」と叫んで職員の方を呼び、お隣さんを守る役割を無事果たしたらしい。

そんな、小さな出来事から、理解し、理解され、ある種の信頼関係が築かれつつある様子だ。

そう、今や父のより信頼できる家族は、特養のスタッフの方達や同室のお隣さん達なのだ。
そうした人たちとの人間関係が、不自由な体をしていながらまだ築ける父を「大したものだ」と思っている。

もちろん、特養のスタッフさん達がプロとして優れていらっしゃるからということは大前提なのだけれど。

私は、時折訪れては、ベッドで浅い眠りについている父を
「おぉーい!」と言って起こし、目を開けて、ちゃんと様子を見に来ているよっていう事実を確認してもらって帰る。

高血圧の方、メタボちゃん、気をつけよう。
人間を制御する脳にダメージを受けることは、やはり人生の上では大きな不幸であるから。
世の中は、命を命として尊ぶことがし難い時代にもなってきていることだし。
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ひとの心は複雑なもの

2009-11-03 | 3老いる
4~5日に一度、父の様子を見に行くことが、自分に課してきた務めだった。

老健から特養にお引っ越しがかない「大体夕刻、週一のペースで娘が様子を見に来る」という点も、引き継ぎ事項の一つとして伝えられ、それは今後も継続しなくてはならない…と肝に銘じているところだった。

施設の場所が郊外から市街地の山懐に移り、訪問自体は格段にしやすくなっている。

しかし、ここのところ二度に渡って、私の訪問は空振りに終わった。


ある平日の夕刻、訪問してみると、ちょうど夕食時で本人の姿は居室にはない。

老健では食事時、一人ぽつんと居室のベッドに横たわって、注入食を胃に流し込まれていた。
淋しげな様子の本人に、誰もいない居室で、私から一方的に話しかけて帰るのが常だったのだ。

特養では、皆さんのいる食堂で、皆さんと共にテーブルにつき、注入食の流れる様子を見てもらえている。

極力職員の手がかからないように、利用者がより大人しく、扱いやすい存在となるよう段取りされていた老健と比べ、特養では、職員の方々が労を惜しむことなく、手間暇かかるのを厭わずに、利用者の生活の質向上を第一義に対応されているのがわかる。

「そうか、これからは夕食時に訪れても、皆さんと一緒に過ごさせてもらえているから様子を見ることはできないのだな」と納得して身の回りの物をベッドサイドに置いて引き揚げた。


それではと祝日の昼下がり、食事時を避けて訪問してみると、やはり居室は空っぽだった。

おやつタイムかと思いきや、食堂も空っぽ。

廊下をうろうろしていると、食堂とは反対のフロアから祭囃子が聞こえてきた。

そっと覗いてみると、集会室のようなところで皆さん集まって、賑やかな笛太鼓を楽しんでいらっしゃる。
ボランティアの慰問公演がなされているところらしい。

車椅子の皆さんが部屋いっぱいに整然と並び、数十名の背中が見えている。

廊下を忙しく行き来するスタッフのお一人が「お呼びしましょうか?」と声かけて下さったが「大丈夫です」とご遠慮する。

またもや、上に羽織るベスト二枚をクローゼットに納めて引き揚げることになった。


手をかけ、心をかけて、手厚い対応をして下さっているのがわかる。
どんどんベッドの上にいる時間が長くなり、夜眠れなくなっていた父の生活も、きっと改善してきているに違いない。

しかし、何だかうっすらと哀しい気分に包まれるのだ。

「大丈夫、お父さんの生活はうちでしっかり見ますからね」と胸張って言ってもらえてホッとしながら、何だか心もとなく、喪失感にとらわれる。
ここ何年も待ち望んできた環境であるはずなのに、気がつけばハラハラと涙が溢れてくる。

ひとの心は複雑で、ままならない。
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これは老いなのか?

2009-10-23 | 3老いる
十何年来、私にとって爆弾のような存在だった父が、特養という終の棲家に落ち着いたところで、私の意識の中に変化が起こりつつある。

次々に不測の事態が発生する父を、特養は一次対応してくれる、経験ある組織として受けとめてくれた。
最終的責任はもちろん身元引受人として負わねばならないのだが、生命活動を終えるその時までを見すえて、対応を考えてくださっている特養という組織は、まるで頼りにならない親族などとは比較にならないくらい頼もしい。

しかし、長い時を過ごし過ぎたのかもしれない。

いつ爆発するかわからない父の存在を考慮せず人生設計するためのエネルギーが、今や私には足りなくなってしまっているようだ。

恐ろしく保守的で、面倒を避けたい意識ばかりが先に立つ。

新たな人間関係については、殊更に警戒心を抱かずにはいられない。

不意に、昔々の光景が頭に思い浮かび
「あの時のあの状況は、Aさんが作り出した暴挙のように思えていたが、Bさんが不十分な情報をAさんにもたらした結果だったのではないか」
などと昔々の騒動を分析していたり。

今現在のリアルな悩みが薄まった分、過去の余り思い出したくもない記憶が、鮮明にせまってきたりするのだ。
…これは、既に老人的思考回路ではないか。

ほぼ確信をもって自己分析する、ちょっと危険な状況である。
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親の介護が必要になったら

2009-10-17 | 3老いる
NHKのスペシャルで
「もしも明日…親の介護が必要になったら」という番組を見た。

テレビに正対してきちんと見たわけではないのだが、部屋を移動しながらも見ないではいられないタイトルだった。

介護の学校で教鞭をとる方の実体験がベースになっていたが、例によってきれいにまとめられ過ぎていた気がする。

もっとドロドロとした葛藤が、どの親子の間にも生まれるはずなのだ。

そのドロドロを殊更に描く意味はないのかもしれないが。

ひとつ「そうだなぁ…」と共感したのは、親の介護の必要によって、自分の人生をひっかきまわされながら、最後に拠り所になるのは、それぞれの親が、子である自分にどんなふうに関わってくれていたかという記憶だということ。

自分が守ってもらわなくては生きていけなかった時期、どんなふうに親が自分を守り、責任を全うしてくれていたか。
親が人生を犠牲にして子供を守ってくれた記憶があれば、その子供は自分の人生を棒にふったって、親の介護を優先せざるを得ないはずなのだ。

その辺の認識がどの程度あるかは、また個人差のあるところだろうが。


ある年配の方と、介護を優先する為に生じるさまざまな不具合についてやりとりしていた時のこと。

その方が
「自分も子供を保育園に預けていた時、子供が熱を出して引き取りを要求する保育園に、仕事で都合がつかないから、門のところに立たせておいてくださいと言ったものだ」
なんてことを何の疑問もなくおっしゃった。
いわゆる、明らかなモンスターペアレントさんだ。

介護の必要な御老人の場合は、結局その人の生き方が、周囲の人間の対応に影響してくるのだろうが、子供の場合は、親は全面的に守ってやらねばならない立場であって、仕事の都合がつかないしわ寄せを非力な子供に負わせるなんて…。

分別ある大人の方だと思っていたのが、すっかり興ざめしてしまい、以来その方の人間性に信頼をおけず、距離をとらせていただいた。

その方の老後は、いかなる事態になることやら。

近頃惨聞する、虐待癖のある親の場合は、これ如何に。
想像するだに恐ろしい。

更に、近年増加の子のないおひとりさまの老後は、より恐ろしいものになるだろうか。
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特別養護老人ホームというところ(3)

2009-10-09 | 3老いる
特養入所の翌日
「皮膚科を受診してもらおうと思いますがよろしいでしょうか」
と、連絡が入る。

有難い。
是非とも、とお願いする。

老健では、医師が常駐し、その管理下で施設運営されているという形態から、病院を受診することが容易ではなかった。

定期的に病院受診の必要だった父の場合、受診の都度退所手続きをとり、一泊入院する形でチェックと処置を受けていた。

もちろん移動も病院への付き添いも、老健の持ち場ではなく、すべて家族が負うこととなる。
「○○日に病院に行って欲しい」と、老健から連絡があると、その日と翌日は父の為に時間を空けなくてはならなかった。
仕事も何もあったものではない。
自分以外に対応してくれる人物はいないのだから。

老健の現場を束ねる看護師さんにとっては、急な受診を必要とするその都度、家族に対応してもらうよう依頼する事がひと仕事だったろうと思う。
体調の変化し易い御老人にあっては、夕方様子がおかしいので、翌日病院へ行ってもらいたい…なんてことは頻繁に起こる訳だから。

「こちらの都合も考えてほしい」といったことをはっきりと言う家族も少なくないだろう。
急に、待ったなしでスケジュールを押さえられてしまう家族の辛さは容易に想像できるから。

必要な薬ひとつとっても、老健では入所費用の中からコミコミで都合することが要求されていて、医療費を別建てで請求することが許されていない。
医師の判断があっても、高い薬は使えないとか、多くの薬を処方し得ないとか、老健の施設対応の難しさは察して余りあった。

かくして、時に優れた介護職のスタッフによって父の痒みの訴えが伝わっても、ベッドサイドにオイラックス(痒みどめ軟膏)が一定期間置いてあるだけだった。

特養では、医療費は別建て請求が可能だ。
そこは中間施設の老健と違って、堂々たる生活の場であるから。

病院への受診も、家族の出番を待たず、特養のスタッフが付き添って下さる。
余程重篤な状況に陥らない限り、夕方の電話一本で、翌日から二日間連続の休暇を取らなくてはならなくなるといった状況も減るのだ。

その事実が、私を想像以上に安堵させてくれた。

父のベッドサイドには、皮膚科医から処方された4種類の薬と処方一覧がそっとおいてあった。
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特別養護老人ホームというところ(2)

2009-10-08 | 3老いる
父が特養にお引っ越しをして、まず第一に感じたのは、経験を積んだスタッフが多いということ。

それまでお世話になっていた老健(老人介護保健施設)では、老人看護に経験の厚い看護師の下に、専門学校を出て間もない若い介護福祉士が組織され、若さで現場を動かしていた。

どれくらいだろう、約2割ぐらいの介護センスの素晴らしくある若者と、さほどでもない職業として介護職を選んだ若者たちで現場は回っていた。
離職率が高いことは容易に見て取れる。
メンバーの顔触れは、1/4近くが一年間で入れ替わる感じではなかったろうか。

国から補助金がたっぷり出ていた頃に立ち上げられた老健で、いくつか見学した老健の中では、スタッフが元気に動きまわり、最も手厚い介護をして下さっている様子の老健ではあったのだが。

それに比して、特養では、長年介護職に従事してきたという感じのスタッフが数多く在職されている。
その特養が、地域でも飛びぬけて長い歴史を誇っている施設であるせいかもしれない。

入所すると、一定期間をウェルカムルームといった様子の部屋で過ごす。
安静を保ち、スタッフの目の届きやすいところで、要介護者の癖、体の状態を細かに観察される。
感染症の有無などもその間にチェックされるらしい。

機嫌よく入所した父だったが、1時間後にはここ1~2カ月続いていた不安定な様子に戻り、顔をゆがめて叫び始めた。
父の全身を観察した介護職のリーダーが
「これは、お父さん痒いのだわ」と即座におっしゃる。
成る程、衣類に隠れているが、首、下腿、お尻…、不自由な体でそこここをかきむしった跡がはっきりと見て取れる。

痒かったのか…。

本人は、発語が不自由となっているので、叫ぶしかないのだ。

痛みより痒みのほうが断然苦手な私は、父の苦悩を想像して絶句するしかなかった。
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