私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

春のテレビドラマ(其の壱)

2009-05-30 | 2見る・読む・聴く
現実社会は目まぐるしく、暗雲たれこめてよろしくないニュースばかり。
テレビはまるで狂想曲のように、事件や事故を日替わりで無責任に垂れ流している。

低調と言われているテレビのドラマ企画だが、仮想のなかに見える現実の方が安定した思考を呼び覚ましてくれるような気がする。

お気に入りは2本。

1本目は、テレビ朝日系列の「夜光の階段」。
松本清張生誕100年記念のドラマだ。

何といっても、悪い男を演じる藤木直人が端正で甘く、危険な美を見せている。
現代に置き換えても違和感のない、野心に満ちた人間の危うく溢れるエネルギー。
変わっていく人の心と、そこに忍び込む悪意は説得力に満ちている。

また、津嘉山正種(江守徹か小林稔侍の声と思っていた)のナレーションが、唯一昭和の空気を残して重厚である。

どちらかと言えば、性悪説に起因しているような気がするが、松本清張氏は、ドラマを生む悪をピックアップするのが上手くていらっしゃる。

今日、毎日のように流される殺人事件のニュースを、松本清張氏が存命であればどう評して下さるだろう。
善も、悪も、今の日本では語るに足らない乱れうちの現実となっているような気がする。
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魂のレベル

2009-05-24 | 雑観
占いや霊的なものを信じる人間ではないのだが「魂のレベル」ってあると思う。

ある程度の社会的スティタスを持ちながら、地を這うような商売をしている人たちが好きで、そういう人たちとばかり関わる人がいる。

「君はもっとつきあう人を選ばないといけないよ」と、地位の高い年長者から言われた…と以前も言っておられた。

それでも、おそらくその年長者などに言わせれば、価値が低いと判断されるような人たちと関わることを好み、変わらずそういう交際が多い様子だ。

他者の人生なので、それに関与するものではないが、見ていて「惜しいな」と思わざるを得ない。

人間は「こうすればより良い成果にたどり着く」とわかっていても、それとは異なる方向で、生きやすく、より良い成果につながらない選択をすることがままある。

私などもそういうチョイスをしばしばするが、その先には残念な結果、残念な現実が待っている。

これ、理論とか観念ではなく、魂のレベルの問題のような気がする。
魂の引力にはあがらえず、不条理にそちらに流され、引きずられてしまう哀しさがある。
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介護の世界も金次第(最終)

2009-05-15 | 3老いる
ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としている。この点、明記しておきたい。

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かくして、フツーの利用者の選択は、貝のように押し黙って耐えるか、「老健わたり」となるかだ。

そういえば、あの人のもとにも沈痛な面持ちのご家族がいらしていた。
そういえば、あの人も、ある病院で姿を見かけた後、別の施設に移っていかれた。
そういえば…。

日本の介護事情は貧しい。

医療法人がバタバタと倒れる事態が発生しているが、近い将来、ある種の規模と体裁をそなえた福祉法人も倒れゆく時代がくるのかもしれない。

法人が優先するのは、サービスよりも事業体の存続。
一般企業も、医療の世界も、介護の世界も、その点において違いはない。

であるならば、高齢化をこえて、高齢社会となったこの社会は、多分根底からゆらぐことになるだろう。

かつて経済的厳しさを乗り越える仕組みとなってきた家族は崩壊し、マンパワーの補いとして都合されてきた潤沢な資金も、回らない世になってきているのだから。

私の目に映る未来には、暗雲が垂れこめている。
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介護の世界も金次第(5)

2009-05-14 | 3老いる
ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としている。この点、明記しておきたい。

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さて、どうしよう。

明確に、施設からの退所を切りだされたのだ。

申込をしている特養の順番がまわってくるのは、どんなに早くても半年以上先のこと。

それまで、貝のように押し黙って耐えるしかないのだろうか。

現場の介護スタッフは、それを促すことをおっしゃらないが、経営者は「賞味期限切れの利用者」と、明らかに冷やかな視線を浴びせかけている訳だから。

普通の商取引であれば「不愉快だ」とはっきり申し上げて、即座に立ち去るのだが、命がかかっている。一人の人間の人生の終焉を委ねている。

巻き戻しはできない。

自由になるお金がふんだんにあるのならば、サービスの上質な有料老人ホームを探すだろう。
有料老人ホームはピンからキリまで多彩であって、その選択には慎重な判断が必要になるが、介護保険制度の浸透とともに、費用の点においては入居一時金の額も月々の利用料も値崩れをおこしてきているようである。

バブルの頃には、入居一時金が5~6千万円以上から1億、2億円といった超豪華な有料老人ホームの存在が際立っていた。

当地にはもともと余りバブリーな施設は存在しなかったが、バブル期の入居一時金を半額以下にしていたり、数十万円の入居一時金で対応するとか、中には一時金0でという施設も出てきている。
多いのは、1千万円の一時金を450万円に…といった具合だが。

たとえ一時金を用意できても、有料老人ホームの利用料はやはり割高である。
介護保険利用部分を含めると、月々の支払は25万円ぐらいを想定しておくべきだ。
その支払いを、何年継続することが出来るだろうか。
期間は1年になるか、10年になるかわからないのだ。

しかも、一旦有料老人ホームに入所してしまえば、特養の入所は緊急性がなくなった…と判断されて後回しにされる可能性が高い。
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介護の世界も金次第(4)

2009-05-13 | 3老いる
ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としている。この点、明記しておきたい。

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そもそも、老人介護保健施設は切ない存在である。

施設のサービスが功を奏し、結果利用者の介護度が軽くなると、それは介護報酬の減額という形で還ってくる。

生死の境をさまよって後「決してよい状態ではないが安定している」という理由で、病院から老健へ居場所を移した場合、老健の立場はますます複雑だ。

移動後すぐに亡くなったり、病院へ逆戻りする程の悪化をみた場合には、施設の対応が問われ、施設内の利用者や介護スタッフのムードは悪化し、評判の良し悪しに影響する。

質のよい対応によって顕著な改善がみられ、よりよい状態で安定をみた場合、もちろん利用者側は感謝を示し、その評判は高くなるが、要介護度のグレードが最も高い層において、それが自発的居宅での生活へつながることはほとんどない。

結果、長期入所による介護報酬減額を見込まなくてはならなくなるからだ。

そんな現実を見ていると、ことさらに「命の重みには差がある…」と考えずにはいられない。

要介護度の高い父の命を考えるとき、生産性もなく、費用計上があるばかりで、国家や社会における彼の価値は、誤解を恐れずに言うならばマイナスでしかないだろう。

彼が存在することによって消費される金銭を、利益として享受する組織がある場合には別だが、それとても相対的により利益率が低いと評価されれば、彼の存在は賞味期限切れということになる。

それでも思うのだ。
数字や目に見える形での価値はなくとも、あの生命力のたくましく尊いこと…と。

水と油のように、わかりあうことのない親子で、相容れないことばかりだった父だが、あの生命力に敬意をはらわずにはいられない。
あらゆる不自由を抱えながら、それでも生きようとする意志。
そのゆるぎない力は私にはないものであり、とてもとても尊いものだと感じるのだ。
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介護の世界も金次第(3)

2009-05-12 | 3老いる
ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としている。この点、明記しておきたい。

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もとより、介護老人保健施設が中間施設であることは承知している。

状態の安定した御老人が、老健入所生活中のリハビリや生活管理を通して、居宅生活の可能性を高めることを意図する施設(法的に正しい定義ではなく、私個人の理解)である。

以前行われていた介護報酬の逓減制が廃止されてから、老健入所者の施設入所期間は長期化し、実質、老健が特養予備施設と化している傾向が問題視されているらしい。

http://homepage2.nifty.com/kamikawaji-cpa/tax/iryou/kaigo.htm#a2-13

しかし、このこと…構造的に致し方ない流れの中にある。

診療報酬の逓減制で縛られている病院は、もう回復の可能性が低い御老人であっても、症状が安定していれば、在宅での生活を促す。

入院を継続させることは、ダイレクトに病院経営の赤字化につながる訳だから。

そうかと言って、自立不能な御老人を直接自宅へ戻せず、老健を介在させることになる訳だ。

だが、考えてみよう。
要介護1や2と言った比較的軽度の機能不全を抱える御老人に、帰宅の可能性はあるだろうが、食も排泄も、移動も、すべてにおいて優しい介助の手なくして生命を維持できない御老人の帰宅には、介護者となりうるしっかりとした身内の存在が欠かせない。

介護ヘルパーを時々利用しながら、24時間見守り、支えることのできる身内をもつ御老人が、世の中にはどれくらいの割合でおられるだろうか。

業として携わる介護のプロには、割り切って関われるちょっとしたことでも、親族であれば色々な感情をはらんで大きな苦痛である場合もある。

欽ちゃんファミリーの清水○貴子さんが自ら命を絶たれたのは、御自身が介護に専心し始めて3年目のことだったようだが、多分私の場合は3週間もたないような気がする。
ひょっとすると3日間も危うい。
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介護の世界も金次第(2)

2009-05-11 | 3老いる
ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としている。その点、明記しておきたい。

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何度目かのカンファレンス。

いつものように、施設の職員の方々とテーブルを囲み報告が始まった。

父の細かな生活のトピックスが語られ、専門職の方々に見守られながら、より良い日々を一日一日過ごさせてもらっているのがわかる。

私はただただ感謝するしかなく、自分では出来かねる父の生活への気配りや配慮にいちいち感謝を伝える。

いつものように、無事カンファレンスが終わりにかかり、最終発言者が口を開く。

医師ではないが、経営者のご親族で、実質的に施設でナンバーワンの発言力をもっておられる人物。

その方が開口一番、不機嫌な様子で話しはじめられたのは
「ここのサービスが良いと言ってもらうのは良いのだけれど、長期入所の方達が経営を圧迫しているのよね」というもの。

グループの特養に申込がされていないことを捉えて、特養の申込に話が及ぶ。

しかし、残念なことに申込申請しているのはグループ外特養。

「○○特養さんに、順番がどこまで来ているか聞いてみられたらいい」

「ここの老健だけでなく、他の老健も試してみられたら?」
「対応が変わることで、新しい発見があるかもしれないでしょう」

と、言い方には気を使っておられるが、入退所加算が見込めず、リハビリ加算も途絶えがちになる、いわば賞味期限切れの利用者を手放してしまおうと、「老健わたり」や「老健ジプシー」と呼ばれる施設を転々とする行為を勧めておられる訳だ。

現在は、病院の長期入院者に対する診療報酬の逓減制などと同じ縛りは、介護保健施設に適応されていないようだが、それでも、回転率が上がることで、その都度加算される単位数が見込めないことは、施設収入減につながっているのだろう。
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介護の世界も金次第(1)

2009-05-10 | 3老いる
「やっぱり…」と哀しいかな思った。

介護事業は事業であって福祉ではないのだ。
そんなことは解ってはいたのだけれど、あざとくその現実をつきつけられると面くらい、動揺を隠せない。

ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としているので、それを明記しておきたい。

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その日は突然やってきた。

脳梗塞に端を発し、要介護5の認定を受けて久しい父は、老健と呼ばれる介護老人保健施設にかれこれ1年半お世話になっている。

入所時には見事にやせ細り、顔面には死相が現れていたと思う。
要介護5の認定は2年間の期限。
快復の目処はなく、多分次回更新時期より前に寿命を全うするであろう…という見解が込められていたと思う。

しかし、父の生命力はことのほか強かった。
その老健の行き届いた介護とリハビリの結果、鶏ガラのようだった体に少し肉がついた。

当然、認知症状があり、いつも不機嫌で能面のようだった顔に、時折笑顔が現れるようになった。
会話は出来ないが、時に単語を発することもある。

ただひたすら、老健の上質な対応に感謝していたのだ。
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食でこけるなんて(>_<)

2009-05-07 | 1食べる
お昼頃来客あり。

「お昼ごはん親子丼でも作るわぁ~♪一緒に食べよう」と、軽く予告。

さて、お昼になって、小さめの丼鉢に親子丼を盛りつけ、その他小鉢とともに並べて「いただきます!」とやってみたものの、何だか妙に間の抜けた、若干生臭い感じの味。

何だか変だなぁ…失敗したかなぁ?
親子丼で失敗するなんて余程のことだけどなぁ…と首を傾げていると、客人が
「親子ではなく、子丼になった?」とおっしゃる。

どおりで…鶏肉を入れるの忘れていました。

卵と鶏肉を消費したいが為に選んだメニューだったのに。

…私が、食い物でミスるなんて。
しかも、指摘されるまで気づかないでいるなんて(ーー゛)

朝から頭痛と妙な倦怠感をまとっていたし。
貧血か?脳萎縮か梗塞か?鬱か?はたまたアルツか?
…何の兆しやら、ホント自分で自分が心配になってきました。
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大量生産大量消費よさようなら

2009-05-06 | 1食べる
個人的に、倹約志向の私は、安くて良い品を大量に買い込み、お得感を感じながら消費するのが好きである。

食生活についても、出来るならば、野菜などは旬のものをドン!とボックス買いして、上手に保存しながら、旬の食材で食卓を彩りたいと考えている。

しかしながら、核家族化と少子化の高齢社会が極まった現在の私の生活スタイルでは、この行動は「百害あって一利なし」という状況に陥ってしまう。

大量に作っても消費しきらず、無駄に直結。

何とかしたくても、個食主体となってきているので、出来る対応は毎食同じメニューに耐えるか、大食漢の石塚某氏のごとく、胃を最大限に拡張し、独り大量消費を実現するかだ。

胸と腹の間に胃という新山が現れる大量消費は、更なるメタボへのバイパスだ。

我が国のみならず、我が身というミクロ単位の経済活動で、大量生産と大量消費にバイバイしなくてはならないという訳で、目下、倹約しつつ食の豊かさを失わず、健康に生き続けるための新たなスタイルを模索中。

全くもって、構造改革は痛みを伴う。
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