私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

師走の風景

2009-12-30 | 5考える
師走の街を久しぶりにぐるっと歩いてみた。

数箇所の目的地をつなげて描いた、円周状の移動線に重なった某デバートにふらりと寄り道。

去年は大晦日に、見たこともない急ごしらえのセールチラシが新聞折り込みではさまれていて、私のハラハラドキドキを誘った某デパートだ。

今年。流石に、地下の食料品売場は、迎春準備の食品を買い込む人々でごった返していたが、上の階に上がってゆくと直ぐに客はまばらになった。
いなくなっていたはずのエレベータガールの姿を、何年振りかで目にしたが、某デパートだけではなく、どこの百貨店も窮状に変わりはあるまい。

小市民としては、たまっていたポイントを今日使い切ってしまおう!と思いきる。
何の根拠もないのだが、世間の空気がそう誘う。

不況の影は、深く広く差している。
その影が深くなるに従って、世間の尺度も変わってくる。

目を背けていた公園の浮浪者を、思いがけず優しい視線で追っている。
また、趣味が異なるので、やはり視界から外していた、殊更に貴金属で身を飾り、これでもかとブランドで全身を包む御婦人を、恐ろしく冷静に分析しながら眺めている。
一昨年までと、対象を眺める私の胸に、湧いて来るものがまるきり異なっているのだ。

お家グルメさんたち御用達の高級食材店。
今月久々に訪れてみると、そこも様変わりしていた。
酒類コーナーの在庫が数カ月前の1/2になり、その他の食材の棚も棚卸を待っているかのように奥行きが浅くなっている。

旨いもの探索のHPブログは、秋から更新がストップしている。

その風景を補うように、奥に引っ込んでいた笑顔の素敵なマネージャーが、常に売り場に出て作業なさっている。

ここも苦しいやりくりが続いているに違いない。
デパ地下で入手困難な美味しいものが、コンパクトな店内にしっかり居場所を確保され、ファンも多い大好きな店舗だが。

シャーロック・ホームズにはまっている私には、最近、コナン・ドイルの時代の英国の風景が気になって仕方がない。

活力を失い、代々の遺産を守りながら生きている貴族達。
あからさまな階級社会では、生活レベルによって住み分けがなされている。

スラムには浮浪児がウヨウヨいて、到底はい上がれないファミリーもいれば、商売上手な外国人が、彼らだけの社会を築いていたりする。

中間に沢山いるはずの労働階級の存在感は、恐ろしく薄い。

似たり寄ったりの社会が、我がニッポンで現実のものとならないことを…。
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「うちのボスはアホですの」

2009-12-25 | 6悩む
あるいは
「この団体のレベルは余り高くありませんの」
とまぁ、のっけから書いてあるような言葉の誤用がある。

残念なことに、本日、私が所属しているある団体からの文書にそれを見つけた。
その文書は
「会員各位殿」で始まっている。

「各位」は「皆々様へ」の意味であり十分に丁寧な敬語である。
「殿」は親が子へ手紙を送ったりするような際、目上の者から目下の者へ宛てられた文書に用いる。

「会員各位殿」を翻訳してみると

「会員の皆々様へご報告文書をお送りいたします。会員宛てに送ったぞっ!」
とまぁ、丁寧に書き送っているのか命令しているのか、上下関係の良く分からない文言となる。

この「各位殿」の誤用、従来からしばしば目にするのだが、役所からの通達や大手上場会社からの報告書類にはきちんと「各位」「株主各位」「関係各位」といった具合に正しく用いられ、誤用はまず見られない。

役所の下部団体や、上場会社のグループでも末端の子会社が出した文書には散見されるが。
「お客様各位」は、窮余の策?くだんの上やら下やら解りかねる「各位殿」はじめ「居住者各位様」(お住まいの皆々様!様!!とまぁ背中がむず痒い言いよう)といった「各位」に「様」を更に重ねる用法もあるようだ。

どの程度の事務方が事務をとり、常識のある人物がボスとしてきちんとチェックしているかどうかが結果として現れる訳だ。

私も事務を担っていた頃、エンジニア出身の上司が書いた原稿に、この「各位殿」を見つけ、訂正させて頂きたいと申し出たものの「各位では失礼だろう」と上司は譲らず、これを説き伏せることもできず、そのまま「各位殿」で何通かの文書を送った経験がある。

「格好悪いなぁ」「見る人が見れば教養がないと笑われてしまうが」と思いながら、事務方としては強いてそれを訂正する権限はない。


クリスマスイブにも、ニュースは流れている。
七年とか八年とかいった期間は時効によりそれ以上遡れない為だろうから、実際は十年も二十年も、ずっとなされてきたに違いない脱税行為。
富める者にしか犯せない罪だ。

そこで、秘書が犯罪者として起訴されても、その責任がボスにない訳がない。

そんなボスを選んだ衆愚が、最大級のアホと言えばそれが真実か。

日常の卑近なエラーを発見するにつけても、自分が人生を結局は委ねなくてはならないセンセー方の集団が、ぐるぐる迷走する様が情けなくてならない。

余りにヒドイ迷走ぶりに、格好悪いを通り越して気分が悪くなる。
それらの現実を黙殺することは、黙認したことになってしまうのだろうか。
そんな訳はない。
沈黙は、決して許容とイコールではない。
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シャーロック・ホームズ

2009-12-24 | 2見る・読む・聴く
最近、ジェレミー・ブレットのシャーロック・ホームズにはまっている。

彼の演じるシャーロック・ホームズこそホームズ探偵のイメージにぴったりで、違和感が無いように思う。
いかにも英国的で、神経質なまでの知性と、不器用な変人ぶり、そして底辺に脈々と流れる善人気質がたまらない。

昨年大ヒットしたテレビ朝日の「相棒」も、明らかにシャーロック・ホームズとワトスン博士がベースにある。

それを隠すでもなく、杉下右京はシャーロック・ホームズと英国をこよなく愛する警部殿だ。

そういえば年齢を経て、杉下右京を演じる水谷豊の風貌は、東洋人のジェレミー・ブレットといった感じになってきている。

気鬱な英国の空の下で、シャーロック・ホームズの元に持ち込まれるのは、結局、遺産の相続権を端緒に起こる事件であることが多いのだが、ニッポンもちょっとそれと似通った世情になってきているような。

時代の空気や世相は、そのシャーロック・ホームズの活躍する舞台とかなり重なるところが多いように思われるのだ。
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ゆず湯に入る

2009-12-22 | 14楽しむ
冬至の今日、月初めに友人宅の裏山の木から直接とってもらったゆずを、湯船に浮かべて楽しんだ。

しばらくお湯に浮かべたままにしておいて後入浴すると、お湯が丸くなり、温泉の湯のようなぬるっとした感触までも楽しむことができる。

いつもより更に長湯で、お風呂上がりの深夜、ハロゲンヒーターだけでパソコンに向かっていても大丈夫。
普通の入浴剤よりも湯冷めし難いのは間違いない。

やっぱり気をつけないと、ゆず湯に入ったって風邪を引くとは思うけれど、季節を楽しむこうした風習は、ニッポン人に生まれた不思議と楽しさを感じられて嬉しい。

ささやかな、こうした生活習慣を引き継ぐことが、文化を守ることになると思ってもいる。
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芋を焼く(^_^)/

2009-12-20 | 1食べる
この秋、友人が芋掘りに招かれて収穫して来たお芋を、おすそ分けしてもらった。

安寧芋とあともう一種類(何て名前だったか、黄金色でめでたい名前だったような)。
一般的なさつま芋より、かなり糖度が高く、上手に焼くと飴のように蜜がこぼれてくるというお芋さんだった。

しかし、いささか気難しいお芋さん。
圧力なべで蒸してもグリルで焼いてもいま一つの仕上がりなのだ。
「焼き芋器で焼くと美味しいよ」などと言われても、何本かあるお芋さんの為に焼き芋器を買う情熱はない。

しばらく置いて水分を飛ばすと味がグッとしまるとかで、アマゾンの段ボール箱に新聞紙を引き、その中に保存してあったのだが、年の瀬にきれいに食してしまおうという気になった。

焼きが難しいので、厳寒ではあることだし、直火を利用できる小さな石油ストーブを引っ張り出し、その上にアルミホイルをクシャクシャにしたものを置いて焼きはじめた。

パスタ用のトングで、お芋全体に火が通るよう、まめにひっくり返す。

甘い香りと、皮の部分が焦げるこおばしい香りとが相まって、食いしん坊にはたまらない空気。

まずは細身の、ひょろ長いのから焼きはじめ、味見してみる。
友人からいただいた、焼き芋器で焼いたもの程ではないものの、やわらかくてまずまずのお味。

次に、小太りで短いものを焼いてみる。
いい感じで焦げているが、食べてみるとパサパサしていて、いくらか水分が足りないようだ。

やはり、焼き方の難しいお芋さんらしい。

残すは、長さもあり、胴周りもたっぷりの大物数本。
お猿さんのように、しばらく塩水に浸してから焼いてみようか。
それとも、シンプルな焼き芋は諦めて、スイートポテトや大学芋でトライすべきかしらん。

師走のお芋さんは、慌ただしい中で、思いがけず良い味を出してくれている。
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年金定期便

2009-12-19 | 6悩む
12月生まれなので、当月、年金定期便なるものが届いた。

中身の記録は見事なパッチワーク状態。

過去を振り返るのが嫌いでも、否応なく現実と向かい合うことになる。
大規模な欠落も無く、こと私個人に関しては、社会保険庁様はきちんと仕事をして下さっているようではあるが、いかんせん内容が面白くない。

私が年金をいただく年になるまで生きおおせた場合の年金額を算出してみるが、いかにも少ないではないか。

このまま、長生きしてしまうとまずいのではないか…と、しばしば思うにつけても気になっていた年金基金のHPにとび、掛金のチェックをしてみるが、女性は長生きする関係で男性の2割高の掛金設定なのだということに愕然とする。

払い込んで5年据え置き、順当に85歳まで生きたとしてトントンの設定のようだ。

デフレの後にやってくるはずのインフレも、基金の破綻といった事態の想定も脇に置き考えてみるも、判断に困るところである。

長い長いスパンの話である故、ちょっとした投資商品に躊躇するのと比較にならないくらい悩ましい。

結論はなかなか出ませんねぇ。
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久々に共感した記事

2009-12-18 | 2見る・読む・聴く
http://www.nikkeibp.co.jp/article/nba/20091215/200926/?P=1

こんな、引用の仕方をしていいのかなぁ…と思いつつ、常々感じていることだったので、あえてそのまま記事にリンクさせてもらった。

世の中に栄えた組織や団体、企業も国もその一つの形だろうけれど、恵まれて、真っすぐエリートコースを歩んだ人たちの集団が出来上がった時、その集団は何だか元気がなくなり、冴えない感じになってゆくものだ。

免疫力を失った細胞のように、色々なところから綻びが生じ、気がつけば今は昔…の世界に陥っている。

そういう習いなのよねぇ…と思うのだ。
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使い捨てカイロあれこれ

2009-12-16 | 14楽しむ
「病は冷えから」を信奉している訳でもないが「ゾクゾクするなぁ」と感じると必ず体調不良となるお年頃で、この頃は肌寒くなる季節からずっと使い捨てカイロを手放せない。

使い捨てに若干の抵抗があるのだが、瀬戸内の高専で、山や森が痩せることによって海に注ぐミネラルが減少し、それによって赤潮などが発生しやすくなる対策として、使い捨てカイロの内容物で鉄団子を作り、それを海に投じることによって環境改善に一役かっている…というドキュメンタリーを見て以来、その内容物が環境を害する度合いが低いものだと安心している。

背中の上方、第2・3胸椎辺りに貼るのが一番効果的だと思うのだが、ゾクゾクする危険は明らかに少なくなる。

通称ホッカイロ。
一回分17円~20円ぐらいで手に入る。
もちろん大量に買いだめるのだが、スーパーの特売で時々ポッと出てくる安価な商品は、温熱効果が若干やわらかく、その温熱効果持続時間も短めのような気がする。

トップメーカー(だと思う)の桐灰化学さんの製品は、やはり安定感があるが、目下のお気に入りは、白元さんの製品。
温感継続時間の長さもさることながら、その製品ちょっとした特徴がある。

埋み火がその火の消え落ちる前に、驚くほど赤々と輝くのと同じように、10時間を超えようとする頃合いで、熱感が急に強くなるのだ。
化学変化の終わりを告げるように、一層熱く反応してみせる感じが、何だか切ない。

命のメリハリが感じられるようで、好きなのだ。

使い捨てカイロにも癖がある。
その癖が気に入っていたりするのだから、全くおかしなものだと思う。
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敵意の源

2009-12-13 | 雑観
敵意の源は、対象となる人間の、あるいは人間集団について理解できないという感覚にあると思う。

たとえ、互いを敵と認識して戦いを挑むことになっても、相手を知る努力を怠った側は、敗北する道理なのではないだろうか。

昔々、米国が敵国だったころ、我が国は片仮名の言葉を禁じ、そのあらゆる文化をシャットアウトしていた。
しかし、同じころ、米国では或る人類学者が、図書館の書籍だけを頼りに、訪れたこともない極東の島国について、一読に値する文化論を書き上げていた。

ベネディクト女史の「菊と刀」という著書を読んだ時、ニッポンが負けなくてはならなかった理由に辿り着いたような気がしたものだ。

しかし、ニッポン人の私、或る人物や事象を嫌いで仕様がなくなった折には、やはりその対象に関係の深いエリアに立ち入ることを避け、関連のものを排除して、一切をシャットアウトしようとする。

それでは相手に打ち勝てないよなぁ…とは思うのである。

世情もしかり。

不愉快なことであっても、じっと事実を見据えて置くこと。
ひとつひとつの些細な事象もしっかり記憶にとどめ、整理しておき、より正しい判断ができる自分でいたい。

ひどい現実を見据えながら、いつかきっと小さな判断を集結する機会に恵まれるはずなのだから。
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父の「おぉーい」

2009-12-05 | 3老いる
昨日も、友人のお身内に脳梗塞で倒れられた方があって、本日の予定は変更になった。
この頃の季節が、脳梗塞の要注意シーズンである。

父の脳血管が詰まったのは、それとはっきり分かっているだけで3度。
それとはっきり周りに認識されない小さな梗塞は、無数に起こっているのだろう。

脳梗塞の回を重ね、年数を重ねるに連れ、父の自由は効かなくなり、現在の右半身麻痺・失語の状態となってもう4年目に入る。

運がいいような、悪いような父の人生なのだが、父は良く頑張っていると思う。
その生命力に感服する。
決して気の合う父ではなかったが、自分で移動が出来なくなり、話せなくなって、頑固な父から毒が抜け、年相応の御老人になることで、愛というか慈しみの姿勢で対することが出来るようになっているのは、私にとっての大いなる救いである。

父は言語野の脳梗塞後遺症で、自分の想いを文章にすることは出来なくなっているのだが、発声機能自体は健在で、時折?しばしば??「おぉーい」と叫ぶ。

父の「おぉーい」は
「痛い」だったり「痒い」だったり
「入れ歯を外すのを忘れているよ」だったり
「淋しいよ…誰かいないの?」だったりする。

お世話になっている特養のスタッフの方々も、初めはその違いを読み切れず苦労なさっていたが、先週お隣さんがベッドから転落し、冷たいピータイルの上に動けなくなっている様子を伝えるために
「おぉーい」と叫んで職員の方を呼び、お隣さんを守る役割を無事果たしたらしい。

そんな、小さな出来事から、理解し、理解され、ある種の信頼関係が築かれつつある様子だ。

そう、今や父のより信頼できる家族は、特養のスタッフの方達や同室のお隣さん達なのだ。
そうした人たちとの人間関係が、不自由な体をしていながらまだ築ける父を「大したものだ」と思っている。

もちろん、特養のスタッフさん達がプロとして優れていらっしゃるからということは大前提なのだけれど。

私は、時折訪れては、ベッドで浅い眠りについている父を
「おぉーい!」と言って起こし、目を開けて、ちゃんと様子を見に来ているよっていう事実を確認してもらって帰る。

高血圧の方、メタボちゃん、気をつけよう。
人間を制御する脳にダメージを受けることは、やはり人生の上では大きな不幸であるから。
世の中は、命を命として尊ぶことがし難い時代にもなってきていることだし。
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