私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

ヒッチコック

2010-04-30 | 2見る・読む・聴く
NHKハイビジョンで放映中のヒッチコックにはまりかけている。

夜10:00にチャンネルを合わせると、結局最後までテレビの前から離れることが出来ず、見通すものだから、お風呂の時間と就寝時間がずるずると後に引き延ばされ、今宵も丑三つ時のパソコンチェクである。

時代劇にそのままありそうな、私腹をこやす悪代官様と、救いようのない××殿様の悪政?愚政??が繰り広げられるニュース番組などは見るに堪えず、かの人々の御顔が映し出されるや、すぐにチャンネルを変えるかスイッチを切りたくなる。

黄門様も必殺仕置人も現れる気配がまるで無い。

ヒッチコックの心理サスペンスは、約二時間の間にきっちりと収まっているのでよいのだが、世のサスペンス劇場はドタバタの末、正常細胞を蝕む癌のように、深く取り返しのつかない破壊を進めて実際にわれわれの命取りになるのだろう。

本当は、その経過を、根気強く見据えておくべきなのだとは思う。
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どちらが自然?

2010-04-21 | 4動く
東京のAという駅でおり、おばさん二人は目的地へたどりつく為、駅前の案内板の前である建物を探していた。

駅前の道はいくつかにわかれており、その建物がどの道路に面するのか、わかりにくい状況だったのだ。

ほどなく、後ろから年配の男性が低い良く通る声で
「どこへ行きたいの?」と聞いて下さった。

しかし、路上で見ず知らずの方から、親切に助けてあげるよと申し出を受けることなどついぞない。

時代を遡れば、ナンパという行為にでくわすこともあった訳だが、現在は明白なおばさん二人。
そこに年配のおじさんが声をかけるという状況だ。
…ちょっと違うのかもしれないが、そんな親切に出くわしたことが無い私は、いくらかテンションを上げて
「大丈夫です、わかりますっ」と壁をつくる。

同行のもう一人のおばさんは、関東出身の女性だが、こうした経験がままあるらしい。
「年配のおじさんは優しいのよ」と、ごく自然にのたまった。

東京のおじさんたちは、優しいのか。
江戸っ子気質のゆとりがそうさせるのか。

更に先を進み、入る小路がどこなのかはっきりとしない。

私は、商店街の店舗前に立つギャルに、地図を示して
「ここへ行くのはどこで曲がればいい?」
と聞いてみた。

後ろで、同行のもう一人のおばさんがつぶやく
「道を聞くとは…」

私にとっては、道を教えてあげようと声かけられるより、どう行けばよいのか聞くことの方が自然だったのだが、彼女はこちらから尋ねる行為に、より違和感を覚えたらしい。

ほんの数分の出来事だったのだが、ものをとらえる感覚は、人それぞれで随分と異なるものであるらしい。
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都会で暮らすルール

2010-04-19 | 14楽しむ
久々に東京の土を踏んだ。

人間の多いところは苦手なので、目的地を移動するのも雑踏を極力避けてといった感じだ。

沢山の人間が行き来するところで生きるには、ある種の訓練が必要だという気がする。

例えばエスカレーター。

どんなに人が多くても、東京の人々はきちんと左側一列に並び、右を空けて急ぐ人の為に通路をつくる。

地方でのんびり暮らしていると、同行者と話しながらエスカレータに二人並んで乗り、そのまま上まで行くのはごくごく普通のことだ。

右を空けるか左を空けるかといったところで、関東と関西に違いはあるようだが、都会の人々にはそうした点において、きちんとしたルールがあって、それを守ることが自然に身に付いている。

必要だからだとは思うが、そんな風に訓練され、守られているマナーがあることに感心しつつ、まだまだ捨てたものでもないかも日本…とかすかに感じるのだった。
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すねる愛車⑥

2010-04-16 | 13侘ぶ寂ぶ哀しむ
車椅子他をしっかり積みこめて、ゆとりのある車というのが、愛車の一番の売りだった。

凛々しい顔と、媚びない感じも好印象だったのだが、父が逝って、車椅子を積み込む必要も長距離移動も必要がなくなったあたりから、どうも具合が悪くなった。

丁寧に整備をしてもらい、症状はなくなったのだが、やはり渋滞道路と馬力の必要な山道しか走らない。

走るのが好きな車に、酷な環境が依然として続くわけだ。

何だか可哀そうになって、車を乗り換えることにした。

自家用車は、最低でも7年乗り続ける私にとって、イレギュラーな短い付き合い。
愛車の持つ癖も含めて、非常に愛しく感じていた車なので、何かしら切ない程の心残りを覚える。

しかし、決断をしたのだった。
愛車にとっても自分にとっても無理のない状態をつくる為に。

今日、新しい車の納車を受けるべく、愛車を車庫から出してみると、バックドアが開かない。
自慢の収納力。
少量ではない私物が、ラゲッジスペースにはたんとある。

3月にバックドアが開かなかった時には、ラックの端が引っ掛かっていたのだが、リアシートを倒して、必要な物品を引き出してもドアが開く気配はない。

この期に及んで、愛車はすねているとしか思えない。
自慢のラゲッジスペースを頑なに守っている。
そこにほれ込んで付き合いを始めたのだが。

そして、結局バックドアが開かないまま、新たなディーラーさんに引き渡したのだった。
その症状、厄介なものだったら、もう一度引き取って、治療してから送り出してあげるよ。

そんなことを考えながら担当営業マンと話していると、そつない営業マンの口から
「環境が変わって、すねたのでしょうね」
などという言葉が飛び出した。

そう、やっぱりすねたんだよね。
そして、現状をどうしようもなく、別れを迎えることになっちゃったんだ。
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雨女なのかもしれない

2010-04-13 | 4動く
何年振りかで関所を越え、関東へ向かう予定。

ところが、打ち合わせの度、何故かいつも雨に降られる。

そもそも、水が合わないと文字通りいうのだろうか、私はこてこての関西圏の人間のようで、関東に出かけると普通にお風呂に入るだけで皮膚に炎症が起きてしまう。

人の多いところが苦手なので、心理的なものも影響しているのかもしれないが、加えて同行者に「どうも雨に降られるねぇ」と言われてはたと気がついたのだ。

長期間滞在した時には感じなかったが、そういえば、箱根に行った時も伊豆に出かけた時も雨に降られ、景色を十分には満喫できなかった。

私、雨女なのかもしれない。
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遅ればせながら「無縁社会」

2010-04-04 | 2見る・読む・聴く
かねて噂に聞いていたNHKドキュメント「無縁社会」を、今日、再放送とその反響についての追跡版と併せて観た。

ネーミングは私好みではない。
しかし、社会の明らかな実態だと思う。

日本社会を形作ってきた家の制度が崩壊した結果、半世紀かけて顕わになった現実だ。

長男に家を継がせることで脈々と引き継いできた家制度が壊されて、自由に息づくことが出来るようになった一方で、頼りない脆い個々人が数限りなく社会に息づくことになったという訳だ。

そのうち、世代の大半が当てはまってくるよ。

おひとりさまは言うまでもなく、結婚を維持し、子も孫もいたって「世話をかけたくない」「夫と同じ墓に入りたくない」といった正直な声を抑えようもなくあちこちで耳にするのだから。

家長制度の縛りの厳しい時代に戻してしまおうって人は少数派のはずだし、終身雇用に裏付けられた安定経済の基盤が復活する芽もない。

江戸時代は、封建制度のピラミッドの底辺で、その日暮らしの豊かな町人文化もあった。
食いつめて、悪事に走らざるを得ない人も多かったようだけれど。

長子でなかった次男坊、三男坊は、冷飯ぐらいで、生きる術を求めるのに苦労したわけだし、その自由な身の上に可能性が開けたりもした訳で。

ただ、社会の基盤として、現代社会の実態は、あまりにも危ういというのも確かな現実だよね。
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微妙に侘しい

2010-04-01 | 雑観
長年背負っていた、軽んずることの出来ない存在を見送った。

少しずつ、色々なことを片づけ、身辺がスッキリしてくるに従って、何だか風通しが良くなって、「侘しい」とでもいった感覚にさいなまれるようになっている。

孤独とか、淋しいとかいう言葉ではピッタリ来ないこの感覚。
何と表現すればよいのだろうか。

本格的おひとりさま人生を肯定的に生きてゆく覚悟が、もうひとつ固まっていないのかもしれない。
実績を積み重ねてゆくしかないのだが、土台を固めるのもなかなか大仕事である。
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