私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

きんぴらピーマン

2009-04-30 | 1食べる
ゴールデンウィークに突入した。

遠出することの出来ない私は、家飯改善プロジェクトを立ち上げる。

購入したものの、野菜室で長らくおやすみ中のピーマンを美味しく食べられるレシピを探していたところ、クックパッドで「きんぴらピーマン」なるレシピにたどり着いた。

レシピはウェプのクックパッドを検索していただくこととして、この調理法だと、驚くほどたくさんのピーマンをペロリと平らげることができる。

ピーマンの苦みはかすかにその存在を匂わすばかりで、品よく甘い緑のきんぴらがあると、ご飯が驚くほどすすむのだ。

久々のヒット惣菜である。

去年の夏のゴーヤの佃煮以来かしらん。

自分が基本ご飯党だということを思い知るのだが、これは癖になるお惣菜である。

それにしても、ネットは便利だ。
食材の名前を入力して検索をかけるだけで、山とある簡単レシピにすぐたどり着く。

料理の本が売れなくなっているだろうなぁ…と、一抹の寂しさを覚えつつ、この便利さはもう手放せない。

女たちの口伝だったその家の味が、本になり、テレビで公表され、今やPCから好きな時に引き出せる。

この手軽さから距離をおくことはもう出来ないだろう。
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おかしいよ(+_+)

2009-04-27 | 2見る・読む・聴く
民放のとある局のニュース番組で
「湘○ホームレスの光と影」
なんて特集をやっていた。

ホームレスに「光」があるだろうか?

解せない…と思ってみたが、内容を見てもやっぱり「光」は見えてこなかった。

「ホーム」を失った時点で「光」は差さないのが常識だろう。

夢や希望があってこその「光」であって、その日を安寧に送るだけの望みを「光」とは言うまい。

薄暗い日陰で、雨風しのぐ空間を守っているのだ。

その場が、光あふれる湘○であっても、彼らの生活に燦々と日の光が降り注ぐわけではない。

語呂だけのタイトルに腹立たしさを覚える。

取材者は、決してホームレスの悲哀を感じ取ってはいまい。

家こそ保っているが、夢も希望もないなぁ…と常々考えている私にとって、苛立ちを覚えるタイトルの特集であった。

報道やドキュメンタリー番組が薄っぺらになり、魂がこもらなくなっている。
取材者側の感受性が貧しくなっているのだ。

人生をかけてつくられる番組を期待することが、今の世の中無理なのかもしれないが。
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西島千博「バレエ・ストレッチ」

2009-04-27 | 2見る・読む・聴く
西島千博氏の「バレエ・ストレッチ」というDVDを見ている。

ラジオ体操第1と第2をバレエ・ストレッチ風にするとどうなるか…という主題でつくられたDVDなのだが、西島氏の上腕と下腿の筋肉が素晴らしく美しい。

イケメンとして有名な西島氏だが、ダンサーの筋肉は、マッチョマンのそれに比べて(マッチョマンを否定するわけではありません)繊細で、無駄がない。

一つ一つの筋肉の動きを追いながら、その名前をつぶやいてみたくなる誘惑にかられる。

不思議なリズムと時間が広がっていて、最初ちょっと面食らうのだが、人間の体は本来とても美しいものなのだ…という思いが溢れて、自分の不摂生が恥ずかしくなる。

短いが、正当なバレエ画像もきっちり収録されていて、ファンにはたまらない一枚だと思う。

運動量の結構膨大なラジオ体操…明日からみっちりやってみようかな。
あれ?「豚のダンス」って声が聞こえています。
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大切な人たち

2009-04-26 | 5考える
利害関係を削いでいくと、本当に大切な人たちが残っているはずだった。

ずっと大切な人だと思っていた人が
「○○してもらおうと思って良くしてくれていたのだと思うのだけどね…」などとしきりに繰り返し、損得勘定で人間関係を捉える人だった事実に興ざめしたり。

久しぶりで話した人が、ある事柄に関して明かしてはいなかったけれど、同じスタンスに立って生きていた人だとわかり(宗教ではない!)、更に共感して同士だと感じることが出来たり。

人との関わりは、移ろいやすく、面白い。
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潮目

2009-04-24 | 雑観
後になってみると「あの時、潮目だった」と思うことがある。

団体の一員で、その団体のムードが急激に悪くなって行く端緒をとらえたとき。

会社に属していて、決算が黒字に転換するきっかけとなった取引。

夫婦や親子がいて、互いの気持ちが急速に冷めていく端緒となった出来事。

潮目が記憶に残るのは、物事が好転する時より、悪化する時に多い。
その潮目を捉えて、よりよく立ち回ることが出来たとき、人生は滑らかに回転する。
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悔しかった記憶

2009-04-22 | 12怒る
昼下がり話していて、もう10年近く前の、とても悔しかったエピソードを思い出した。

ワードプロセッサーを打ちやり、初めて購入したPCは、IBM製の重厚なPCであったが、それを二度ばかり引っ越しにつきあわせ、ドメインも変更すること3回目…というインターネット設定の時のこと。

もともと機械にはあまり強くないのだが、一日徹夜すれば、自分でネット接続の設定はできていた。ところが、その時にはどうしても設定が完了しなかった。

ケーブル会社系のネットに接続していたので、サポート体制がいま一つで、設定ができないときには、いくつかある情報系の会社から個別に選んで依頼して下さいという不親切な対応。

リストの中から、最も規模の大きいR社に依頼をかけ、設定に来ていただくことになった。

仕事を休むことも出来なかったので、夕方からの来訪を依頼し、18時過ぎに背広姿のエンジニアが現れた。

ところが、1時間経っても、2時間経っても接続が完了しない。
日はとっぷりと暮れ、21時を過ぎようとするころ、流石に我慢できなくなり
「もう結構です。お帰り下さい。」と退散を促した。

それでもエンジニアはしばらく格闘していたが、結局接続はできないまま、確か料金の10,000円と消費税を受領して引き上げていった。

今の私であれば「設定ができていないのに料金は払いたくない」と言えただろうか。
エンジニアは(本当にエンジニアだったのだろうか?)請求をしないと、領収を切ることもしなかった。

その時以来、R社の製品は決して購入しないのであるが、更に悔しかったのは、設定の試行錯誤の過程で、勝手に電話回線を使われていて、翌月のNTTの請求書にデータ通信の費用が3,000円余り加算されていたこと。

ケーブル会社の回線を契約していて、電話のデータ通信料なんてかかりようがないのに…。

上場企業やそのグループ子会社のお粗末なデータ改ざんや不正が明らかになる度、その時の「大手であれば大丈夫だろう」と信じて依頼をかけた自分の不明を思い出す。
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平将門

2009-04-21 | 雑観
平将門は平安前期に乱を起こして敗れた坂東武者である。
敗れて後は怨霊として恐れられ、後に神田明神などに祭られて江戸を護る守護神とされている。

ケーブルテレビの時代劇チャンネルで「風と雲と虹と」という昔のNHK大河ドラマが再放送されていて、加藤剛氏が麗しい将門を演じておられる。

時間帯がなかなか合わず、継続して見れていないのだが、滅びの美学や、生きることに不器用な一本気な武者を是として描く演出が興味深い。

「判官びいき」なんて言葉もあるが、昔の日本では弱い立場の者、不器用な人間に対して温かかったような気がする。

「結果はさておき、その心情に誠があればそれはそれで尊い」とする価値観を、今の日本は失いつつあるような。
淋しいことである。
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胃痛

2009-04-20 | 8病む
ここ数日、多彩な胃痛に悩まされている。

痛みがあちこちに移動するので、どうも病院に行きにくい。

痛みも「キリキリ」だったり、「ズキズキ」だったり、漠然とした「膨満感」だったり…一定しないのだ。

去年11月に胃カメラを飲ませていただいているので、悪性新生物かなんかだったらあっという間かなぁ…などと、遺言のようなものを書きはじめたり。

何をやっているんだか。

基本「死んだ後のことまでしらないよぉ~」ってタイプなのだが、ことと次第によっちゃあ、怨霊になってしまいそうな気もしないでもない。

いや、実際きちんと供養していただかないと、私は荒らぶる悪霊になってしまいそうなタイプだ。
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芸人魂

2009-04-17 | 2見る・読む・聴く
イロモネアスペシャルをぼんやり見ていた。

笑いのハードルが低い人を運よく選べるかどうかで、成功の確率は30%ぐらい決しているような(統計でなく私のカンピューター)気がする。

目下気になるのは春日・若林コンビなのだが、友近さんの芸を見ていて彼女には古典的芸人魂が息づいているなぁ…と感心した。

笑いを計算できているか、観客を分析できているか…その度合いが高い人ほどプロっぽさが色濃くなる。

昔、落語家の円楽さんの噺をナマで聞くチャンスがあった。
落語会は好きでよく行ったものだが、何年も経って、その時の情景がリアルに残っていることは少ない。

記憶に鮮やかな円楽さんの噺は、その聞かせどころで女の涙ながらの語りがあって、本物の涙が円楽さんのつぶらな瞳からはらはらと玉のようにこぼれ落ち「女優さん顔負けだなぁ…」と感動した記憶がある。

その時の円楽師匠の噺は、噺に入る前噺の時間がとても長かった。
私は中央少し右で師匠を見ていたのだが、その時の同行者が余りリラックスできる相手でなく、目は笑っていたのだが、口を一文字に結び、口を開いて笑うことはなかった。
長い長い前噺がとっても長いなぁ…と気になり始めたころ、不意に私の笑いのつぼにはまったフレーズがあって、私は噴き出して笑った。

その次の瞬間、師匠は羽織を脱ぎ、漸く本題の噺に入られた。

イロモネアを見ていて思った。
あの時の私は、師匠が本題に入るきっかけとして定められ、芸人魂で挑まれていたのだと。
「センターの客席にいるあの子が笑ったら本題に入ろう…」って。

熟練の芸を、その都度、緊張感をもって披露する為のプロの勝負。
いまだに、円楽師匠の噺は私にとってとびきり上等な噺として記憶されている。
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異なっている感覚

2009-04-15 | 雑観
ブログは日記であるからして、しばらく自分の備忘録としての書き込みが多くなっているような気がする。

ここ数日で、明らかになったことがいくつかあり、幾分スッキリした想いの私なのだが、意思疎通の図れない時、そこにはゼネレーションギャップと言ってよい観念の違いが存在していた。

例えば戦前の教育を受けた人々の
「親の為に子があれこれするのは当たり前」という観念と、
戦後すぐの教育を受けた人の
「親が子のためにするのは当たり前」という180度異なる観念。

この二つの相反する立場が、いつも私に釈然としない感じを抱かせていたのだ。

すべての人がそうだというものではなく、これは私の周りの老年に差し掛かった限られた人々がサンプルなのだが、観念が全く異なる人同士がいるとき、その人間関係は決してしっくりゆかない。

基本的人生の観念は変え難く、相反する観念をもって生きる人々が、ぴったりと寄り添うような共感を得るチャンスは、恐ろしく少ないだろう。

そうした条件下で、現実が積み重ねられてきたことをじっと静かに眺める、どちらともつかない立場の私である。
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