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2023年放浪の旅 思い出の情景 その14

2024年05月09日 | 旅日記
2023年放浪の旅 思い出の情景 その14

66 瑠璃光山 医王寺(福島県福島市飯坂町平野字寺前45)訪問日 令和5年10月16日
「おくのほそ道」で芭蕉が感涙をおさえきれなかったという寺である
佐藤継信の妻「若桜」
奥州藤原氏の一門であり信夫(しのぶ:現在の福島)の地をおさめていた佐藤基治公の息子継信、忠信兄弟は源義経に付き従った
継信、忠信兄弟は義経の身代わりとなり壮絶な最後を遂げた



佐藤忠信の妻「楓」
二人の息子を失い悲しみにくれる老母「乙和」の姿を見ていた継信の妻「若桜」と忠信の妻「楓」は、
乙和の悲しみを慰めようと夫の武者姿に扮したという悲しくも美しい物語である
この美しい人形はこの物語をより感動的にさせる



芭蕉句碑
芭蕉が医王寺を訪れたのは、元禄2年(1689年 )5月「おくのほそ道」の途中である
佐藤兄弟を偲び「笈も太刀もさつきに飾れ紙のぼり」と詠んでいる



鯖野薬師堂(さばのやくしどう)
平安時代末に玄心僧都が勧請し、この里にお堂を建てた



乙和の椿



佐藤継信・忠信兄弟を失った母乙和の深い悲しみと母情が宿ったと言われ、蕾のまま落ちてしまう椿
いつしか人々は「乙和の椿(おとわのつばき)」と呼ぶようになった



佐藤基治・乙和墓碑(福島県指定文化財)



継信・忠信墓碑(福島県指定文化財)
墓はすべて板碑で作られており、かつてこのお墓の石を削って飲むと病が治ると信じられており削られた跡が見られる



67 相馬中村神社<別名:妙見中村神社>(福島県相馬市中村字北町140)訪問日 令和5年10月16日
相馬氏の始祖である「平将門」が承平年間(931年 - 937年)に下総国猿島郡に妙見社を建立したことに始まるといわれる

拝殿(重要文化財)
現在の社殿は寛永20年(1643年)に中村藩2代藩主 相馬義胤(相馬氏第18代当主)により建立された



本殿(重要文化財)
本殿横の戸が換気のためだと思うが開いていた
本殿内を観る機会などないので、なかの様子をうかがってみた



仙台市から参拝に来られた男性から声を掛けられた
男性からは、祭神の「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」について説明を受けた



天地開闢の時にあらわれた神で
神名は天の真中を領する神を意味し、「古事記」では神々の中で最初に登場する至高の神だと
帰り際、確認して見ると「天上界第一位の神」との記載があった



相馬野馬追(国の重要無形民俗文化財)
平将門公ゆかりの伝統的な神事「相馬野馬追」では、出陣式の舞台となっている
伝説によれば、相馬野馬追は今から一千年以上もの昔、相馬氏の遠祖とされる平将門が
下総国小金ヶ原(現在の千葉県北西部)に放した野馬を敵兵に見立てて
軍事演習に応用したことにはじまったと伝えられている



68 勝楽山 高蔵寺(宮城県角田市高倉字寺前49)訪問日 令和5年10月16日
嵯峨天皇の弘仁10年(819年)に「徳一(とくいつ)」が開創したと伝わる
参道横の細身の「観音像」



阿弥陀堂(重要文化財)
高蔵寺阿弥陀堂は平泉文化の流れを汲んでおり、奥州藤原氏3代目 藤原秀衡の妻により治承元年(1177年)に創建された



現存する宮城県最古の木造建築である
阿弥陀堂は飛騨工の手よるもので鎖釘を全く使用していないという



平安時代の建造物は全国でも26箇所しか残っておらず、阿弥陀堂としては7箇所だけ
岩手県平泉町の「中尊寺金色堂」、福島県いわき市の「白水阿弥陀堂」と並ぶ東北三大阿弥陀堂の一つとなっている



訪れたこの日には、阿弥陀堂の周りには重機が置かれ作業中であった
何の工事かと尋ねると「阿弥陀堂の屋根の工事」と応えてくれた
ということは、この周囲と一体化しつつある、この魅力ある屋根の姿がもう見ることができないということだ



真新しい茅葺きの屋根より、年月を経過して周囲の環境と溶け合っていく姿の方が好みなので絶好の機会になった



旧佐藤家住宅(重要文化財)
江戸時代中期(18世紀中頃)の仙台領内中農家の家屋
国の文化財指定を受け昭和47年(1972年)に現在の場所に移築・復元された



69 仙台東照宮(宮城県仙台市青葉区東照宮一丁目6-1)訪問日 令和5年10月17日
石鳥居(重要文化財)
明神鳥居形式の美しい白色の鳥居で、宮城県最古の石鳥居である
主な部材である花崗岩は伊達忠宗夫人 振姫の郷里である岡山県犬島から海路で運んだもの



石段(仙台市登録文化財)
参道の石段にも工夫があるという
説明によると、緩やかな勾配で、階段と踊り場が交互に配置されている
階段も4段・3段・2段の所がリズミカルに配置されているようだ(気付かなかった)



石灯籠(重要文化財)
境内には石灯籠が38基あり、そのうち28基が表参道の石段脇に並んでいる



随身門(重要文化財)
三間一戸の八脚門の楼門形式
欅の素木造、屋根は入母屋造り銅板葺



唐門(重要文化財)
一間一戸、向唐門で、銅瓦葺。花崗岩の素板の上に建つ



透塀(重要文化財)
本殿の周りを囲む透塀は一周約80メートルで、神職以外立ち入ることのできない塀の中を透かして見ることができる
前にある石灯籠も重要文化財



本殿(重要文化財)
祭神:東照大権現(徳川家康)



仙台藩の社寺建築は大工棟梁梅村氏が担当している
大崎八幡宮本殿(国宝)、瑞巌寺本堂(国宝)、仙台東照宮本殿(重要文化財)等その建築は後世高く評価されている



70 鳥越八幡神社(山形県新庄市鳥越1224)訪問日 令和5年10月18日
鳥居
社殿が重要文化財に指定されているということで初めて訪れた
社務所周辺で清掃をしている女性に元気な声で挨拶をされた
朝からとてもいい気持ちになった



拝殿(重要文化財)
新庄藩2代藩主 戸沢正誠による元禄4年(1691年)の建立
桁行3間梁間2間、入母屋造平入、銅板葺で、正面に1間の向拝
背面からは幣殿を突出させて本殿に接続している



幣殿と本殿



本殿(重要文化財)
新庄藩祖戸沢政盛の養子定盛が、寛永15年(1638年)に建立
大型の一間社流造で、屋根は茅葺であったが、近年銅板葺に改められた
現存する新庄市最古の建造物
祭神:応神天皇



大瓶束(だいへいそく)には「鬼面の彫刻」が施され、梁は「カ士像の束」で支えられている



反対側に移動して同じ彫刻があるか、確認してみた
鬼面・力士像とも表情が若干だが違っている



社殿全体の構成や比例など、随所に洗練された技量が認められるとのこと



松田甚次郎
昭和の初め、宮沢賢治に学んで、この地に農村演劇運動をおこした篤農家
松田甚次郎が「土舞台」を築いたのもこの境内においてである
大正15年(1926年)に盛岡高等農林学校農業別科(現岩手大学)に進学
宮沢賢治が花巻農学校を退職し羅須地人協会(岩手県花巻市に設立した私塾)を設立した年でもあった



盛岡高等農林学校卒業間際の昭和2年(1927年)3月に宮沢賢治を初めて訪ねる
その時、甚次郎が賢治から「小作人たれ」、「農民劇をやれ」という二つのことを諭されたという
これを生涯の実践課題として取り組み、最上協働村塾を開き、塾生とともに農耕にはげみ、経営の合理化を図った

「土舞台」
村に帰った甚次郎は、村の青年を集めて鳥越倶楽部を結成し演劇活動を始める
彼らは、鳥越八幡神社に自分たちで土舞台を築き、36回もの上演を行った



昭和18年(1943年)は史上まれにみる干ばつの年だった
村では神仏の力に頼るよりほかなしとして、こぞって新田川の水源、八森山に雨乞いに登った
連日の過労に続く、無理な登山は甚次郎の体力を奪っていき、病に倒れ入院することとなった
その病は癒えることなく、8月、35歳の若さで土に帰っていった



社殿が目的で訪ねた神社であったが、一人の若者の生き様に感銘を受けた

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