縁とは不思議なもので義父が亡くなって今日で1年になる。
我が家を訪ねたときに急逝したため、無念の気持ちもあったと思い、1周期を前に大本山である永平寺にお参りして霊を慰めたいと考えていた。
偶然ではあるが永平寺についてブログで掲載する日が命日と重なった。
吉祥山 永平寺の歴史
永平寺は、今から約760年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開かれた座禅修行の道場である。
永平寺を開かれた道元は正治2年(1200)京都に生まれ、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。
道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。
しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。
師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。
道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺を建立する。
これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
現在は曹洞宗の大本山として、僧侶の育成と壇信徒の信仰の源となっている。
通用門
通用門から吉祥閣に入る。ここで参拝者に対し修行僧から永平寺の概略並びに注意事項が説明される。
以前は短時間だが正座して聞くことになっていたが、時代の流れか、今は椅子が用意されている。
永平寺内は修行僧にカメラを向けるのは禁止だが、それ以外は自由に撮影できるので嬉しい。
傘松閣
156畳敷きの大広間で、昭和5年(1930)当時の天井絵をそのまま修復した。
天井絵は当時の著名な画家144名による230枚の華や町を中心とした色彩画。別名「絵天井の大広間」。
僧堂
明治35年(1902)の改築で「雲堂」「座禅堂」とも呼ばれているこの建物は座禅、食事、就寝の修行を行う根本道場である。
堂内には智慧の象徴である文殊菩薩を安置している。
仏殿
明治35年(1902)の改築で、中国宗時代様式の二重屋根と床は石畳となった。
中央の須弥壇の上には本尊の釈迦牟尼仏が祀られ、三体の仏像は左側から過去・現在・未来の三世を現している。
欄間には禅宗の逸話が図案化された12枚の彫刻がはめられている。
承陽門、承陽殿
明治14年(1881)の改築で、道元禅師の御真廟いわばお墓であり、日本曹洞宗の発祥の根源として曹洞宗の聖地と言うべき場所。
中央に道元禅師の御尊像と御霊骨が安置されている。
法堂
天保14年(1843)に改築された。説法の道場で、朝のお勤め、各種法要などを行う。
中央には聖観世音菩薩を祀る。七堂伽藍のなかで最も高いところに位置する。
瑞雲閣
大庫院
昭和5年(1930)の改築で、1階には食事を作る典座寮と呼ばれる台所がある。
玄関には「韋駄尊天」が祀られ、柱には永平寺名物の「大すりこぎ」が掛かっている。
鐘楼堂
昭和38年(1963)改築で、中に吊された「除夜の鐘」で有名な大梵鐘は重さが約5トン。
大梵鐘は1日に朝、昼、夕方、夜の4回、修行僧によって撞かれる。
山門
寛延2年(1749)に再建された中国唐時代様式の楼閣門で、両側には仏教の守護神である四天王が安置されている。
正面の柱には「ここは出家修行の道場である家風はすこぶる厳格である。
求道心の在る者のみ、この門をくぐるがよい」と入門の第一関を提起している聯がある。
報恩塔(納経塔)
平成8年建立、写経を納める塔。毎朝のお勤めで祈願、供養している。
唐門
白山水
白山連峰に連なる湧き水で、道元禅師にお供えする霊水である。
寺の各所から修行僧の大きな声が響いている。おそらく禅の作法に則り一挙手一投足指導を受けている声だ。
何かを学び、習得するということは、時に心身に大きな負担や苦痛を伴うことがある。
巷では何か事故が起こると、すぐに、それを否定するような風潮に残念ながらなっていく。
永平寺を修行の場に選択するということは実は大変なことだと思うが、あえて門を叩き学んでいる若い僧の声を聞いていると精神が落ち着いてくるのは私だけだろうか。
撮影 平成25年6月13日
我が家を訪ねたときに急逝したため、無念の気持ちもあったと思い、1周期を前に大本山である永平寺にお参りして霊を慰めたいと考えていた。
偶然ではあるが永平寺についてブログで掲載する日が命日と重なった。
吉祥山 永平寺の歴史
永平寺は、今から約760年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開かれた座禅修行の道場である。
永平寺を開かれた道元は正治2年(1200)京都に生まれ、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。
道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。
しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。
師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。
道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺を建立する。
これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
現在は曹洞宗の大本山として、僧侶の育成と壇信徒の信仰の源となっている。
通用門
通用門から吉祥閣に入る。ここで参拝者に対し修行僧から永平寺の概略並びに注意事項が説明される。
以前は短時間だが正座して聞くことになっていたが、時代の流れか、今は椅子が用意されている。
永平寺内は修行僧にカメラを向けるのは禁止だが、それ以外は自由に撮影できるので嬉しい。
傘松閣
156畳敷きの大広間で、昭和5年(1930)当時の天井絵をそのまま修復した。
天井絵は当時の著名な画家144名による230枚の華や町を中心とした色彩画。別名「絵天井の大広間」。
僧堂
明治35年(1902)の改築で「雲堂」「座禅堂」とも呼ばれているこの建物は座禅、食事、就寝の修行を行う根本道場である。
堂内には智慧の象徴である文殊菩薩を安置している。
仏殿
明治35年(1902)の改築で、中国宗時代様式の二重屋根と床は石畳となった。
中央の須弥壇の上には本尊の釈迦牟尼仏が祀られ、三体の仏像は左側から過去・現在・未来の三世を現している。
欄間には禅宗の逸話が図案化された12枚の彫刻がはめられている。
承陽門、承陽殿
明治14年(1881)の改築で、道元禅師の御真廟いわばお墓であり、日本曹洞宗の発祥の根源として曹洞宗の聖地と言うべき場所。
中央に道元禅師の御尊像と御霊骨が安置されている。
法堂
天保14年(1843)に改築された。説法の道場で、朝のお勤め、各種法要などを行う。
中央には聖観世音菩薩を祀る。七堂伽藍のなかで最も高いところに位置する。
瑞雲閣
大庫院
昭和5年(1930)の改築で、1階には食事を作る典座寮と呼ばれる台所がある。
玄関には「韋駄尊天」が祀られ、柱には永平寺名物の「大すりこぎ」が掛かっている。
鐘楼堂
昭和38年(1963)改築で、中に吊された「除夜の鐘」で有名な大梵鐘は重さが約5トン。
大梵鐘は1日に朝、昼、夕方、夜の4回、修行僧によって撞かれる。
山門
寛延2年(1749)に再建された中国唐時代様式の楼閣門で、両側には仏教の守護神である四天王が安置されている。
正面の柱には「ここは出家修行の道場である家風はすこぶる厳格である。
求道心の在る者のみ、この門をくぐるがよい」と入門の第一関を提起している聯がある。
報恩塔(納経塔)
平成8年建立、写経を納める塔。毎朝のお勤めで祈願、供養している。
唐門
白山水
白山連峰に連なる湧き水で、道元禅師にお供えする霊水である。
寺の各所から修行僧の大きな声が響いている。おそらく禅の作法に則り一挙手一投足指導を受けている声だ。
何かを学び、習得するということは、時に心身に大きな負担や苦痛を伴うことがある。
巷では何か事故が起こると、すぐに、それを否定するような風潮に残念ながらなっていく。
永平寺を修行の場に選択するということは実は大変なことだと思うが、あえて門を叩き学んでいる若い僧の声を聞いていると精神が落ち着いてくるのは私だけだろうか。
撮影 平成25年6月13日