昨日、今月のインターネット歌会は終わったのであるが、歌会は、だいたい3セクションに分けてディスカッションがなされる。
30首から40首くらいの歌を1セクション10首ほどずつ分けて、1セクション4日間くらいずつかけて進行していくのだが、ときに発言が途絶えてシーンとしてしまうときもある。
現在、歌会では雑談禁止ということになっているのだが、私は、こういうときは少し雑談を入れたほうが活性化すると思うので、今月の歌会で、各セクションごとのディスカッションを終えたあと、そのことを書いてみたが、誰も反応しなかった。
歌会は歌の批評だけしていればいいという大半の人たちの考えによるものだろうが、
また過去、雑談で歌会が乱れたということはあったが、しかし、ただ出された歌の批評だけで進行するというのは、正直おもしろくない。
歌の内容から発展した雑談とか、最近の文学的な話題の雑談が入ることは、歌会の邪魔になる弊害は少なく、むしろ歌会を活性化すると私は思うのだが、短歌をやっている人たちは真面目な人が多いから、そういう柔軟性は乏しいようだ。
今回は、おおまかなディスカッションが終わったころに、ある人が今年ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロ氏の映画がWOWOWであることを教えてくれたのだったが、それに便乗して私が雑談したことがまずかったようで、その発言をした人は、歌会の後で雑談のお詫びを言った。
ということは、その雑談に便乗した私の発言を咎めたことにもなる。
私は、なぜこんなことをいちいち謝ったりしないといけないかと思う。
短歌が文芸というのなら、文学の雑談をして悪かろうはずがない。
しかも歌会はもう終わったような段階であったのだから。
それをいちいち咎めだてする人が存在するから、その人も謝ったのだろうが、私は雑談は必要悪という考えを持っているから、その人のお詫びに釈然としなかった。
そのことをまた歌会で発言をしようと思ったが、しかしこんなことで揉めるのは私の本意とするところでないので、しなかった。
真面目なのは悪いことではないが、杓子定規というのは、いいことではない、と私は思う。
以前は、歌会を運営している人たちも、積極的に雑談をしていた。
歌の内容から発展した雑談である。
たとえば一人の選者先生は、地学が得意なので、歌に地学的なことが出てきたら、歌の内容から地学に関係した蘊蓄を傾けてくれたりした。
そういう無駄があったから、歌会には活気があった。
雑談のいっさい入らない最近の歌会は、お行儀はよいかもしれないが、以前の活気が消えたことは確かだ。
私は、広義には、歌そのものが人生の余禄のようなものと考えているから、その余禄の中で何をそれほどしゃちこばらなければならないのかと思うのだが、私の考えは間違っているのだろうか?
*
30首から40首くらいの歌を1セクション10首ほどずつ分けて、1セクション4日間くらいずつかけて進行していくのだが、ときに発言が途絶えてシーンとしてしまうときもある。
現在、歌会では雑談禁止ということになっているのだが、私は、こういうときは少し雑談を入れたほうが活性化すると思うので、今月の歌会で、各セクションごとのディスカッションを終えたあと、そのことを書いてみたが、誰も反応しなかった。
歌会は歌の批評だけしていればいいという大半の人たちの考えによるものだろうが、
また過去、雑談で歌会が乱れたということはあったが、しかし、ただ出された歌の批評だけで進行するというのは、正直おもしろくない。
歌の内容から発展した雑談とか、最近の文学的な話題の雑談が入ることは、歌会の邪魔になる弊害は少なく、むしろ歌会を活性化すると私は思うのだが、短歌をやっている人たちは真面目な人が多いから、そういう柔軟性は乏しいようだ。
今回は、おおまかなディスカッションが終わったころに、ある人が今年ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロ氏の映画がWOWOWであることを教えてくれたのだったが、それに便乗して私が雑談したことがまずかったようで、その発言をした人は、歌会の後で雑談のお詫びを言った。
ということは、その雑談に便乗した私の発言を咎めたことにもなる。
私は、なぜこんなことをいちいち謝ったりしないといけないかと思う。
短歌が文芸というのなら、文学の雑談をして悪かろうはずがない。
しかも歌会はもう終わったような段階であったのだから。
それをいちいち咎めだてする人が存在するから、その人も謝ったのだろうが、私は雑談は必要悪という考えを持っているから、その人のお詫びに釈然としなかった。
そのことをまた歌会で発言をしようと思ったが、しかしこんなことで揉めるのは私の本意とするところでないので、しなかった。
真面目なのは悪いことではないが、杓子定規というのは、いいことではない、と私は思う。
以前は、歌会を運営している人たちも、積極的に雑談をしていた。
歌の内容から発展した雑談である。
たとえば一人の選者先生は、地学が得意なので、歌に地学的なことが出てきたら、歌の内容から地学に関係した蘊蓄を傾けてくれたりした。
そういう無駄があったから、歌会には活気があった。
雑談のいっさい入らない最近の歌会は、お行儀はよいかもしれないが、以前の活気が消えたことは確かだ。
私は、広義には、歌そのものが人生の余禄のようなものと考えているから、その余禄の中で何をそれほどしゃちこばらなければならないのかと思うのだが、私の考えは間違っているのだろうか?
*
短歌とはもともと人の生業の余禄であれば余談するべし
生真面目な人ばかりでもあらざるに生真面目さうにせねばならぬも
余談する喜びのなき歌会に喜びあらず発言も消ゆ
雑談をただ悪として批判する人の批評はおもしろくなし
雑談を交えて批評する人の批評は楽し人よろこばせ
雑談が固き批評を和らげる緩衝剤と知らぬ人馬鹿
うましかの詠へる歌のつまらなさ雑談いとふ人と重なる
醸成のあらぬ酒など飲みたくはなし雑談は酒の醸成
醗酵を助ける麹はいらざる歌会である雑談なきは
*
思い出せば、今年亡くなった大学名誉教授の友人も雑談が大好きで、彼女がこのインターネット歌会に参加していたころは、彼女と私の雑談に怒っている人がたくさんいた。
迷惑にもなったかもしれないが、しかし、陰では喜んでいる人がいたことも事実だった。
歯に衣着せぬ彼女の雑談はシビアで面白かった。
彼女と私が親友になれたのは、このインターネット歌会であったし、その雑談が二人を強く結びつけた。
だから、彼女がこのインターネット歌会を去ってからも、私達は親友であり続けたのだった。
亡くなった彼女のことを
「あの媚びへつらいのない人が京都大学文学部の教授になれたということは、彼女にいかに力があったかということを証明している」
と言った人がいた。
私も、そう思う。
30人や40人も参加していれば歌会も結社によって色々でしょうね。
インターネット歌会であれば尚更。
毎月銀河の歌会の度に様々な結社誌を持ち帰ります。
結社にいつか入れるくらい短歌が上達するといいのですが。
地方結社の好日は彦根の小西久二郎先生が現在代表。
画家の野口謙蔵の絵が好きなハイジ家です。
好日創刊は謙蔵の心の恩師米田雄郎。
銀河の先生も小西先生の教え子です。
小西先生は90歳前。
銀河の先生は70代後半の男性。
結社に入るのは銀河全員が一定レベル以上に達してからでしょうね。
いつのことやらお楽しみ。
欲のない銀河の面々です。
歌会に求める物は歌会のメンバーにより違うのでは。
銀河は茶話会中心で短歌のレベルアップ目的のゆるゆる集団かも。
彦根は秋晴れです。
ハロウィンのイベントがベルロードであります。
夕方から出掛けようかな。
そうですね。常時、30人以上の人の参加する歌会だから、考え方も千差万別ですよね。
私のように家庭婦人で、楽しみで短歌をしている人もいるし、何を勘違いしてか、くそ真面目に取り組んでいる人もいるし。
でも、結局短歌に大事なのは「心のゆとり」だと思うのですね。
その意味では、ハイジさんたちのグループが理想的かも。