神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

死刑執行された人たちに思いをいたすとき、やさしさの心は生まれる

2017年10月13日 04時55分43秒 | 運勢
たまたま「午後のアダージョ」というブログを拝読した。

そのブログには、死刑執行された宮崎勤死刑因や宅間守のことが書かれてあった。

それらの記事を読ませてもらう限りでは、彼らも普通の人間であった。

何が彼らをして、凶悪な犯罪に手を染めさせたかという思いでいっぱいになる。

親鸞聖人の

「善人なおもて往生をとぐ。なんぞいわんや悪人をや」

の言葉を思い浮かべる。

彼らこそ天国にいかなければならない。

なぜなら、あのような悲惨な事件を起こしてしまったから。

あのような事件を起こす生まれ合わせであったから。

それは彼らの不幸であった。

だからこそ天国に行く必要があるのだ。

これは一昨日書いた「正義は狭い」と究極のところで一致する思想である。

私たちは、たまたま犯罪を起こさないで生きているが、しかし、人は、いついかなるきっかけで凶悪事件を起こしてしまうかわからない。

そうなったとき、初めて、いかに人間とは危うい生き物であるか悟るだろう。

だから罪を犯した人間を責める資格は誰にもない。

そんなことを親鸞聖人は言いたかったのではないかと私は思う。

宮崎勤も宅間守も、事件を起こすまでは、ごく普通の人だったのである。

いや、見方によっては、普通の人以上に繊細な心をもった人であったと言えるかもしれない。

そんな人を、凶悪人と決めつけて糾弾する資格は誰にもない、と私も思う。

人はみな、がけっぷちで生きているのである。

                    *

  人は今日凶悪犯になる運命(さだめ)隠しもちつつ生きる生き物

  私にもあなたにもゐる凶悪犯宅間守や宮崎勤

  凶悪な事件起こしし人裁く資格ある人ひとりもをらぬ

  人裁く資格あらぬに人裁く人ゐるこの世この秋さむし

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