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神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

92歳まで生きたから十分とは思っている一方

2018年01月28日 05時30分05秒 | 家族
やはり寂しく思う。

亡くなった直後は、ああよかったと思ったくらいなのに・・・。

もうあれ以上生きていても生き恥を晒すようなものだったから、これでよかったと思ったことも事実だったけれども。

有名歌人で馬場あき子さんという方がいられる。

ごく最近、お連れ合いであった岩田正さんを亡くされたそうで、角川「短歌」という短歌総合誌で追悼特集をやっているらしい。

その力泳が素晴らしいと歌友が知らせてきてくれた。

馬場あき子さんは、昭和3年生まれであられる。

私の母とたった3歳しか違っていられないが、いまだにかくしゃくとしていられる。

あのお元気の源はどこからくるのだろう?

8年前に河野裕子さんのお別れ会で一緒に写真を撮ってもらったことがあった。

歌友がこの馬場あき子さんに可愛がられていたから、そのご縁で一緒に写真に納まってくださることになったのだった。

そのとき、私の背に手を回された馬場さんの手力の強さに驚いた。

当時、もう80歳は優に超えられていられたのに・・・。

大病をなさらなかったら、80歳を超えても、あれだけ元気でいられるのだと感慨を覚えたものだった。

作家の佐藤愛子さんもお元気だ。

彼女は私の母より2歳年長なのだが、いまだにしっかりした文章を書かれる。

私の母が脳梗塞を起こしてからは支離滅裂な文章しか書けなくなっていたのとは雲泥の差だ。

瀬戸内寂聴さんもしかり。

作家でなく、料理研究家の鈴木登紀子さんも90歳を超えられているが、いまだにテレビに出演してお料理を作られる。

病気をしなかったら、90歳を超えても、元気でいられる時代なのだ。

まさに人生百歳時代!

それからすれば、母は早く亡くなってしまったという思いが湧いてくる。

もっと若い年齢の親御さんを亡くされた方が多いことは、重々知っていながらも・・・。

*

・わたくしの背に回された手の力つよかりしかな馬場あき子さん

・歌作りまだまだ若い人たちに負けぬ八十九歳馬場さん

・書けばまだその本売れる作家なり佐藤愛子九十四歳

・出家してのちも小説書きつづけ瀬戸内寂聴いまだ生きつぐ

・にこにことテレビの料理番組に出て料理する鈴木登紀子氏

・大病をしてゐぬ人は百歳になりても現役なりし時代に

・生涯が現役なれば幸せと思はせ逝きし日野原重明

台風の目だった母

2018年01月25日 04時51分36秒 | 家族
母は何かにつけて個性の強い人だった。

さきほど、昨日の記事「親孝行は自分孝行だった?」にいただいたコメントに

「 ま、周りがヘトヘトになる程、お母様が天に昇る分のエネルギーを吸い取ったのかもです」とあったが、

そうだ!そうだったんだ。

だから、私は、現在、生きる力がなくなりかけているのだ。

このコメント返しにも書いたが、実際、母は台風の目のような人だった。

周囲を振り回して生きているようなところがあった。

もっとも被害を受けていたのが、娘の私であったかもしれない。

もちろん、被害とともに恩恵も受けていたことになるのだろうけれども・・・。

亡くなる10日ほど前も、年末の忙しいさなかに「帰ってきて」と電話があった。

いったんは夫が断ってくれたが、しかし、もう長くないと言われている人のお願いだからと私は帰省した。

12月29日のことだった。

一泊どまりの帰省だったが、私の体には堪えた。

帰宅してすぐにお正月の料理に取り掛かって、娘たちを迎え入れ、送りだしたら、また、これは前から約束してあった帰省が。

この続けての帰省で、私は疲れ果てた。

なにしろ、午後心臓検診に行って、歯科医に行って、そのまま高速バスに乗って帰省だったから。

私はへとへとで到着したのだったが、夕方からひと眠りしていた母は、ホテルの部屋で起きて待っていてくれていて、いくらでもしゃべる。

私が明日があるからと言って寝たのが、夜中の2時ごろだった。

私も、もう若くない。

この無理がたたったのか、このあと、重篤な風邪を引いてしまった。

風邪の体で、お通夜、葬儀とこなさないといけなかった。

しかも、強烈寒波のせいで、亡くなった人が殺到したから、火葬場の順番が遅れた。

結果、お通夜は亡くなって二日後、葬儀は、その翌日が友引だったため、さらに、その二日後だった。

その延べ五日間、ほぼ毎日母の亡骸の傍に詰めたので、私は疲労困憊した。

帰宅して数日間、動けないほどだった。

これは私だけでなく、一族ひとしくだった。

いつも元気いっぱいで風邪などひいたこともなかった夫ですら、30年ぶりという風邪をひいた。

離れ住む子供達3人とも重篤な風邪を引いたようだ。

インフルエンザの流行期と言ってしまえばそれまでだが、私には母の台風が吹き荒れたと思える。

そういう人だったのだ、母は。

おかげで、皆、忘れられないお通夜、お葬式になっただろう。

体調が悪くて臥せっていると、否が応でも、亡くなった人に思いは至る。

母は、それが目的で、皆を風邪にかからせたのかもしれない。

*

・台風の目でありました母が死に一族ひとしく寝込みてしまふ

・死にてまで人ふりまはす人が母しづかに死にてゐるはずなくば

・納骨をさるるときまで一族は母の影響受けてうろうろ

・坊さんの読経も力及ばずに此の世に未だ力及ぼす

・向かうでも祖父母、父、兄恐れ入り困惑してゐるかもしれぬなり

・強烈な個性でありし明子さんわたしの母と会つてゐますか

夜中に目覚めても、亡くなった母のことを考えてしまう私

2018年01月23日 03時46分00秒 | 家族
夜中に目覚めて・・・。

母が亡くなって12日目になるが、いまだに母のことばかり考えている。

四十九日までずっとなのかもしれない。

いや、私の死ぬまでかもしれない。

なにしろ、現在の私の身体髪膚、すべて母からの賜物なのだから。

ということで、ずっと考えているのだが、

繰り返しになるが、

私とホテルに宿泊中に亡くなった母は、もっとも幸せな死に方だったかもしれない。

本来なら、病院のベッドで誰にも看取られずに亡くなったかもしれなかったが、孫(私の甥)の帰省に合わせて外泊許可をもらって、曾孫のピアノの演奏を聴いた翌朝亡くなったのだから。

これ以上幸せな死に方はなかっただろう。

最期の最後まで生きがいであった生け花を教えることを捨てなかった。

その死の10日ほど前まで・・・。

その上での最期だったから、後悔もないだろう。

*

・いくたびも死にかけ死なずに生きのびし人もひとたび死ねば死のまま

・踊り場ゆ墜ちて首の骨折りし一昨年の冬の復活

・死ぬことを忘れし人と思ひしに死にたり神の摂理のままに

・母死にて十二日なりだんだんともの食へずなりゆく遺され人は

・悲しみを分かつはらからすでになく一人悲しみかかへてわれは

・かすみ食ひ生きてゐるにはあらざれど何も食へずになりてただ生く

・作りてもわれは食はざる飲食(おんじき)を食ふ男ゐてわが夫なり

昨年の今日の記事で私は、今月亡くなった母の心配をしている

2018年01月21日 18時44分35秒 | 家族
こうして心配することができたのも、母が生きていたればこそと思える。

「老い果てても生きている」と「死んでしまった」とは、近いけれども、限りなく遠い。

そう、母は、もう遠い存在になったのだ。

離れて暮らしてはいたが、それでも、お互い、生きてあれば、ときどきは、喧嘩をしあったり、心配をしあったりできていた。

が、死んで無になると、働きかけができない。

さんざん困らせられたと思っていたが、しかし、退化しても、母は死ぬまで私のことが心配で、かわいかったのである。

生まれてから小学校に上がるまで病気の切れ目のなかった私の心配をし通しで育て上げただけに、余計、親の思いは強かったのかもしれない。

よく「bikoが小さいころは、bikoが寝がえり一つ打っても飛び起きたものよ」と話していた。

何度も死にかけた子だったから、余計いとしさは強かったのかもしれない。

親って、ほんとうにありがたい。

玉のように大切に育ててもらった私だから、これからは自分で自分を大切にしていかなければと思う。

自分が人にも大切にしてもらうため、人を大切にすることを心がけなければならない。


母は私を心配するけれども私は母が心配

実家の母は、年末から腰椎骨折で入院中である。これは怪我をしてなる骨折ではなく、年取ると骨粗鬆症になり、自然になる骨折であるらしい。それで、病院からしばしば電話をしてくるのだ......


やっぱりやさしい私の娘・・・ホームベーカリーのプレゼント

2018年01月21日 06時31分06秒 | 家族

1月15日の母の葬儀を終えて、翌日やっとの思いで帰宅した我が家の玄関に段ボールが二箱おかれてあった。

が、命からがら帰宅した私は確かめるゆとりもなかった。

自分のキャリーケースも玄関の土間においたまま、食堂のソファになだれ込んだ私は、そのままそこで眠ってしまった。

夜になっても夫が2階から降りてこないことに不審を抱いた私は夫にメールした。

すると夫は、私と同じように風邪を引いて2階で臥せっていると。

広くもない我が家であるが、私は2階に上がる力もなかったので、その日は夫に会うこともなかった。

翌朝降りてきた夫は、人相が変わるほどやつれていた。

30年ぶりに風邪を引いたと言っていた。

夫はパンを食べて、また2階に上がった。

私は何も食べず、終日寝ていた。

玄関にあった段ボールを開けたのは、帰宅して4日目の昨日だった。

東京に住む娘からだった。

一つの箱には、ホームベーカリーが入っていた。


もう一つの箱には強力粉と、たぶんイースト菌、が入っていた。


お正月に帰省した娘は、私が食パンを切らしたときに、自家製パンを作っているという話を覚えていて、このセットを注文してプレゼントしてくれたのだ。

道具を使わないパン作りは結構手間がかかる。

失敗もある。

それを聞いた娘は、私を助けてやろうと思いついたのだろう。

わが家から帰るときは大喧嘩だったが、やはり娘はやさしい!

まだ説明書も読んでいないが、御餅も作れるそうだ。

私に使いこなせるかどうか、それが問題だが、パン好きの夫には何よりの贈り物になった。

娘よ、ありがとう。

母の告別式での私の挨拶文を転記します

2018年01月17日 14時25分51秒 | 家族
本日は寒さの中、〇〇〇〇の葬儀に参集いただき、まことにありがとうございます。

〇〇〇〇は、1月11日午前8時頃、高知市内の△△ホテルに、私、長女bikoとともに宿泊中に急逝いたしました。

死因は昨年末より起こしていた慢性心不全急性憎悪というもので、簡単に言えば心不全でございます。

生け花教師であった故人は最期の最後まで生け花に執念を燃やし亡くなりました。

亡くなる十日ほど前の12月29日もT病院の救急治療室のベッドから無理やり退出して、お正月花のお稽古をするため帰宅したほどでございました。

また故人は、家族を思う気持ちも人一倍強い人でございましたので、亡くなる前日は北海道在住の孫一家と朝食を共にするためと、曾孫のピアノの演奏を聴くために、命の危険を冒して外泊許可を得ておりました。

もともと主治医の先生には今年4月までの命と宣告されておりましたが、それより多少早まったかもしれませんが、会いたかった孫一家と一緒に朝食を共にできたことと、北海道のピアノコンクールで準優勝した曾孫の演奏を聴けたことで思い残すことはなかったと思います。

主治医の先生には「大往生でございました」と言っていただきました。

大正14年6月22日生まれで、享年92歳でございました。

今頃は、4年あまり前に亡くなった長男に再会していることでございましょう。

冥福を祈りたいと思います。

平成30年1月15日 biko

撒いた種

2018年01月08日 09時20分37秒 | 家族
昨日、娘が私に暴言を吐いたのは、私の撒いた種だったかもしれない。

私は子育て中、よく子供を叱った。

というより怒った。

特に被害を受けたのは、長子のこの娘だった。

体力のない私に、年子の子供達の世話は限界を超えていた。

それで、よく高熱を出したりした。

今から思えば、心臓弁膜症の体に過重負担になっていたのだろう。

体力の限界を超えて頑張っているとき、怒らなくてもいいことでも、よくこの娘を叱った。

親の私がいうのも変だが、この娘は、賢くて、頑張り屋で、本当にいい子だった。

それなのに、なぜもっと可愛がってやれないのかと、その子育てのさなかも思いながら子育てをしていた私であった。

が、体力の限界を超えると、自分でも子供を怒ることを抑えられなくなっていた。

疲れが限界に達しても実家の応援を頼めなかった私は、義母を頼るしかなかった。

今のように、男が育児や家事に参加する時代ではなかったから。

で、義母に来てもらうのだが、義母は昔人間だったことと、身びいきの強い人だったから、嫁に対する注文が厳しく、厳しいだけなら私も聞くが、無茶苦茶なことを言うところがあった。

経済的にも限界の生活をしていたのに、義母は、さまざまな要求をしてきた。

本当は、もっとも来てもらいたくない人であったが、背に腹は代えられなかった。

当時は、実家が近くにある人が羨ましくてたまらなかった。

娘も、現在、東京という関西からは遠い地に暮らしている。

が、娘婿が家族思いで、子育てにも家事にも協力的であるから、その点は恵まれていると思う。

そして、娘婿のお母さんは優しい思いやりのある人だから、娘は、私のような嫁姑の辛い思いはしなくていい。

その点だけでも本当によかったと思っている。

経済的にも、私は本当に苦労したが、娘は、婿の収入が安定していることと、娘自身、薬剤師の資格があって、パートでも比較的高給の収入が得られるという強みがある。

その子供達も優秀で、世間的には申し分ない暮らしをしているように見える。

が、昨日は聞きそびれたが、娘には娘なりの悩みもあるようで、それを私が聞いてやらないで、過去の私の苦労ばかりを聞かせたと娘は怒ったのだった。

また、ブログに何でも書きすぎだとも。

娘の父親である、夫のことも書きすぎだと。

そうだったかもしれない。

が、聴覚障害のある私には、ブログに綴るしか術のないところもある。

こうして綴るだけでも気が静められるし、あわよくば、コメント欄に適切なアドバイスがいただけたりすることがあるから、やめられないのである。

娘は、こんな誰が読んでいるかわからないものに、というが、それを言うのなら、近所の人達に、家の内実を話すほうがもっと危険なこともあることを言っておこう。

ネットで発信することには危険も隣り合わせであるが、しかし、世の心ある人たちに適切なアドバイスがいただけるという利点がある。

聴覚障碍者の私は、こうしてネットに繋がれるようになった幸運を心底享受している。

*

・悪意ある人はどこにもゐることのネットの世界のみではあらず

・家族すら誤解曲解ある此の世赤の他人のほうがまだまし

・まして義理親族なれば親しみの前に利害の侵害ありて

昨日、カモミールさんというハンドルネームの方のブログ記事「何もかも上手く行き過ぎる時は運が乱れている時」で、「あとあと考えると上手く行き過ぎた事の倍返しの問題が降って来て、そこでプラスマイナスの調整が出てきたと理解しました。」と書かれてあって、はたと膝を打ちました。

私が結婚以来苦労したのは、結婚自体が私に過ぎた結婚だったからかもしれません。

団塊の世代の私達の適齢期は、女性には年上の適齢の男性不足という深刻な事情がありました。

現に、私と同じ団塊の世代の義妹(夫の妹)も行き遅れて、33歳まで独身でした。

その中で、学歴もルックスもよい夫と結婚できた私は、自分の運以上のものを得てしまったのでしょう。

その倍返しが結婚後の苦労だったかもしれません。

カモミールさんが意図された内容ではなかったかもしれませんが、私は自分に当てはめて納得をしたのでした。 

親の心子知らず

2018年01月07日 12時16分49秒 | 家族
娘たちは帰って行った。

が、私は見送りをしなかった。

なぜかというと、

帰る前に娘がすごい剣幕で私をののしり始めた。

私が昔、義母にされたこと、辛かったことを娘に聞かせたことが娘には堪えられなかったと。

ことの発端は昨日次男のお嫁さんの家に行ったとき、私が「上京しても、娘の都合が悪いときは泊めてもらわない」というようなことを言ったことからだった。

私は軽い気持ちで言ったのであったが、娘にすれば、私に悪口を言われたように感じたようだ。

そもそも娘が私に不満に思っていることの一つには、私が義母や義妹を悪く言うことがある。

義母は自分の血を分けた者には甘いところがある人だった上、娘は特に可愛がられていたから、我慢がならなかったようだ。

昔のことになるが、

私の娘と長男は年子であったので、助けてもらわないと育てきれない面があった。

実家の母が職業婦人であったため、私が熱を出して寝込んだときなどは、義母に来てもらうしかなかった。

そのことは、感謝してもしつくせないが、しかし、若い頃の義母の横暴はひどかった。

言いたいように言われ、されたいようにされた。

と、私は思っている。

子供がいなければ絶対離婚していたと思う。

が、父なし子にはしたくなかったから我慢した。

私自身に甲斐性がないことも我慢した理由にあった。

それはそれでよかったかもしれない。

今こうして、私にはできすぎた子供や孫を得ていることを考えてみれば。

過去の私は自尊心をずたずたにされるようなことを言われても黙って耐えてきた。

耐えたおかげで、子供たちは三人とも立派に育ってくれたと思っている。

一昨日の初詣で引いた御神籤が大吉であったこともあって、さきほどまでの私は、神様に感謝の気持ちでいっぱいだった。

が、今日、娘は、帰る段になって、急に私を責めたててきた。

私に似てきついところのある娘の糾弾は容赦なかった。

私も、過去、母を責めてきた。現在も?

その報いかと思いながら聞いていたが、ここまで言わなければならないかと私の目の前は真っ暗になった。

確かに義母の理不尽を、夫にも長子であるこの子にも繰り返し言ってきた。

私も言い過ぎたかもしれない。

が、あの頃は、私も誰かに言わないと気が狂いそうだった。

宗教というのは、こういうときのためにあるんだろうと、いま思う。

義母も、晩年は認知症になって、かつてのプライド高き態度は影を潜めた。

だけでなく、過去のことを謝ってくれたし、何より認知症になってからは私を頼り切りで、幼子のようになって慕ってくれた。

「あれ、この人、実際は、こんなに私のことを好いてくれていたんだ」と新たな発見をしたような気分だった。

だから、現在は、もう恨みはない。

毎日仏前に仏膳をお供えして、あの世、この世の隔たりはあっても、語り合う仲である。

が、過去の私の恨みつらみを聞かされ続けてきた娘は、いまだに私のそうした言葉に苦しみ続けているようだ。

だから、私を許せないのだろう。

最近の娘は、用があっても私に言ってくることはない。

難聴の私が電話できないという事情が大きいのだが、とにかく夫とばかり話しをしている。

そうしているうちに、二人の共通の敵は私ということになったのだろう。

二人とも義母に愛された者同士だから。

*

・わが生みし娘といへどわがものにあらずと思ふつくづく思ふ

・子育てを義母に頼りてこしことがこの後悔の源なりき

・自(し)が里が遠方なれば頼らぬといふ選択はなかりし過去に

・頼るため機嫌をとりしことそれがそのまま嫁と姑となり

・理不尽なこと言はれても耐えてきしそれしか生きる術なかりせば

・守りこし子らと思ふに今その子われを責めたてやまぬ災ひ

・わたくしの母も私を命懸け守りしならむ今死にかけて


祖母馬鹿の私の孫自慢つづき(笑)

2018年01月06日 22時24分32秒 | 家族
今日は次男のお嫁さんの実家に11月に生まれたばかりの孫を見に行っていた。

昨日来た私の娘が、この次男の子を見たいというから一緒に行ったのだ。

まずは、娘が持参したケーキでお茶。

その後、お嫁さんのグランドピアノを借りて、小三の孫が演奏。


この孫は絵や字が上手いだけでなく、ピアノも驚くほど上手い。

ただ引っ込み思案な性格のため、なかなか弾き始めなかったのは残念に思った。

ピアノの椅子には座ったものの、一向に弾き始めないので、待ちくたびれた。

こんなに引っ込み思案で大丈夫だろうかと娘は心配している。

どうすればこの性格は直せるだろう。

妙案があれば教えてほしい。

*

・小三の孫は引つ込み思案にて人に見らるることが苦手で

・緘黙であるだけでなく友達と遊んだりもあまりせざると

・だうすれば友と打ち解けあへるかと子は心配す子の子のことを

・その心配せずともよろしと祖母われは言ひつつ少し心配もす

*

新生児の孫の写真は出しても大丈夫かと、おまけで昨日撮影した写真を一枚アップする。


昨夜は娘たちが帰ってきてくれて

2018年01月06日 07時10分19秒 | 家族
大阪住まいの次男も来てくれて楽しい一夜だった。

夕食のメーンは、作っておいたロールキャベツ、みな、おいしいおいしいと食べてくれて、久しぶりに母親としての幸せを噛み締めた。

夕食後、私以外の4人は、娘の次男が最近卓球にハマっているとかで、4人で伊丹市の卓球場に行った。

私は食事の後片付けとか次男の寝床の準備があるので行かなかった。

それと、今日は、皆で、次男のお嫁さんの実家に11月に生まれた孫を見に行くことにしているから、体力も温存しておかなければならなかったし。

で、9時ごろ娘たちは卓球から帰ってきたのだったが、次男は、今朝は早くお嫁さんの実家に行って準備する必要があるからと大阪のマンションに帰ったと帰宅は3人だけだった。

お嫁さんの家に先に行って私達の来る準備をしておくとは、いったい?と思ったが、お嫁さんの両親も、お母さんは私と同い年、お父さんは私の夫より2歳上だから、やはり若い者に手伝ってもらわなければしんどいのかもしれない。

昨日次男に聞いたところによると、お嫁さんは今月20日に大阪のマンションに戻るらしい。

まあそんな寒さのさなかに戻らなくもと一瞬思ったが、上記の理由でお嫁さんのご両親も疲れが溜まってしまったのかもしれない。

なにしろ、独り子のお嫁さんだから、新生児は、そのお嫁さん以来だったから、ずいぶん大変だったようだから。

しかし、お嫁さんも初めての子育てで不安いっぱいだから、大阪に帰っても大変だろう。

こんなとき、手伝いに行ってやるのがいいか、行かないのがいいか。

私のときは義母が頻繁に来てくれたが、来てくれるたびに食事の支度その他で大変だったから、行くのを躊躇う気持ちがある。

もっとも私は、食事の支度はしてもらうつもりはなく、何か差し入れをすることを考えてはいるけれども。

私どものころは、娘にはしてやっても、嫁にはさせるが当然という空気があった。

しかし現代でも、とかく義理の仲は気を遣うものだから、行かないで、SOSが出たときだけ行くようにしたほうがいいのかもしれない。

そのほうが夫婦二人だけで子育てをするという覚悟も生まれやすいだろうから。

*

・しゆうとめの助けのつもりですることが助けにならぬことは多かり

・気を遣ふことはお互いさまなれどより気を遣ふは嫁と思ふも

・わたくしの娘のやうにその義母に気を遣はずにゐられるのなら

・気を遣ふ嫁でありにしわたくしはみだりに訪問すまじと思ふ

・もつと来てくださいくらいの間隔で行くがよからむ義理の関係

・大家族時代は終はり平等の時代となれり良くも悪くも

・助け合ふことはよろしきことなれど自由を奪ひ合ふは良くなし

・子育てが終はりしころに死ぬやうな寿命であればヒトも幸せ

・役に立つ人は長生きすればよしさもなき人は早く死ぬべし

・死ぬことは神のまにまに生かされることもさなりと思ふ新年

母が入院したというので、明朝また今月2度目の帰省をすることに

2017年12月27日 20時37分09秒 | 家族
今月は、もう6、7、8日と帰省したが、また母が入院したとかで、明日も帰省することに。

年が明けたら、9日から帰省する予定になっているが、今日の電話で母が帰ってきてほしいと。

数日前に、母担当のケアマネさんから、母がデイサービスに行っているとき、体調が悪くなったので、また入院になるかもしれないとの連絡は受けていた。

が、兄嫁は何も言ってこないので入院にはならなかったかと思っていたが、兄嫁に問い合わせると、昨日検査入院をしたとのこと。

その結果、主治医の先生に「来年の4月ごろまででしょう」と宣告されたのだそう。

病名は、慢性心不全ならびに呼吸苦、下腿浮腫なのだそう。

道理で、食事にも時間がかかるし、歩くのも時間がかかる。

夫は兄嫁に「bikoは年が明けたら帰るから年内は帰りません」と返事をしてくれたが、しかし、「帰ってきてほしい」と言われて帰らないのも、何かあった時に後悔することになるので、明日帰省することに。

が、母の「帰ってきて」には、たぶん別の思惑があって、「明後日、所要があって、外泊許可をとった」と言っていたらしいので、たぶん、私を付き添わせてどこかにいくつもりなのだろう。

まったく死にかけているにも関わらず、いつまでも外出したがる呆れた婆さんだ。

主治医の先生も、もう呆れて「好きなように」と言っていられるそう。

そんなことを言っている婆さんのために帰省することもなさそうだが、しかし病名が病名だけに、死ぬのは明日ということもありうる。

今回は1泊だけして、母の顔を見てくるだけだ。

私も、もう若くないからしんどいけれども・・・。

*

・死にかけてゐるのにそれを認めずに出かけたがるはわたくしの母

・ベッドでは死にたくなきかこの母は呼吸困難ながら出かける

・来年の四月死ぬこと予告されながら外出許可をとる母

・行き倒れ老人こんな人ならむ家でゐることむづかしき人

・こうと決めたら誰が止めやうが聞かぬ人なり私の母は

1月帰省の段取り

2017年12月19日 14時10分40秒 | 家族
1月も帰省の予定をしている。

もう県外に出られる状態でない母のための帰省であるとともに、家族に大事にされていない母の味方になるための帰省でもある。

帰省したからと言って、兄嫁に何か言うわけではない。

が、兄が亡くなってから家族に母の味方をする者がいないと思うから月一度の頻度で帰省して、それとなく母を元気づけている。

1月は、お正月でもあるので、高知県で一番の高級ホテルの宿泊予約をしてあった。

が、母が以前は喜んでいたが、最近「ああいう敷居の高いホテルより、大衆的なホテルのほうが気兼ねがなくていい」と言い出したから、連泊予約してあったホテルはキャンセルした。

私も助かるし・・・。

それで以前泊まったホテルを予約しなおしたが、兄嫁に聞くところによると、お正月には北海道在住の甥が家族連れで帰省するという。

甥は7日に帰省して10日に北海道に帰るというので、私は、最初10日に帰省する予定をしていたが、一日早めて、9日の夕方か夜行のバスで帰省することにした。

私は、毎月心臓検診を受けた翌日に帰省するようなローテーションにしているが、1月は9日が心臓検診の日なのである。

午後2時半からの診察なので、受診して、薬局に寄って帰宅すると午後4時頃になる。

それから電車で梅田まで行って、午後5時梅田発の高速バスに乗るのはかなりきつい。

が、乗れないこともないかもしれない。

そう思って、甥が泊まるというホテルの9日の宿泊予約をした。

9日の深夜に高知に着けば、翌10日の朝食は甥の家族とともに摂ることができる。

母も孫である甥とそうしたいだろうと思って、ツインの部屋を予約して、朝食も母と私の二人分予約した。

本当は、甥も私も実家に泊まれたら、こういう段取りをしなくても実家で自然に会えるのだが、それができないから。

なぜできないかというと、いつも書いているように、実家は泊まれるような状態でないから。

このことでは、いつも母と喧嘩になる。

本当は兄嫁にも言いたいのだが、こちらは義理であるだけに、言うと角が立つので言えない。

と言うわけで、甥も私も故郷に帰っても実家に泊まれない哀れな者同士なのである。

・泊まれざる実家であれば故郷に帰れどホテルに泊まるのみなる

・ともに飯食らふが家族の証しにて泊まれぬ実家に証しあらざる

・もの捨てぬ母の住まひに物減るは母の死ののち もはや帰らず

・子が帰り孫が帰れど泊まれざる家がわたしの実家なるべし

・家事をせぬ母に家事せぬ兄嫁が一緒に暮らし家荒れ果てる

老母に対する悩みは尽きない

2017年12月16日 17時54分25秒 | 家族
兄が亡くなって4年。

子供は私だけになったから、せっせと帰省しているが、帰省しても実家に私の居場所がないのが悩みだ。

ホテルを予約して帰省するのが常になっているが、最近は、母と一緒に食事つきで泊まることが多い。

というのが、実家では誰も食事を作る人がいなくて外食になるのだが、その外食に母を連れ出すと、母の食事に異常に時間がかかるので、レストランに迷惑をかけてしまうのだ。

それで、朝夕食付のホテルに泊まるのだ。

ホテルだと、多少食事に時間がかかっても許されるから。

12月の帰省時のように一度並べたらほっといてくれる形式の食事が一番いいのだが、来月1月は、また高級ホテルを予約したから、食事のときに専属の人がついてくれて、時間を見計らって次の料理を運んできてくれるから、普通なら快適なのだが、老母と一緒だと待たせることに気を使わなければならなくなって大変だ。

が、お正月だし、母もいつ亡くなってもおかしくない状態だから、後悔しないようにできるだけのことはしておいてあげたい。

それで、1月も連泊予約を入れてあるのだが、どうしても話題は、実家の母の部屋の片づけとか、物の処分とかになってしまう。

すると母は「せっかく楽しい話をしようと昔の写真をいっぱい持ってきたのに」と文句を言う。

が、私にすれば、母の家というか、母の部屋が泊まれないくらい汚いのは本当に困るのだ。

泊まれないだけでなく、1時間も滞在することができない。

以前は、毎月片付けに帰っていたが、片付けて帰っても、翌月に行くと元の木阿弥というより、それ以上に汚くなっている。

母に片付ける気がいっさいないからだ。

それで私もあきらめて、片付けに帰ることをやめた。

結果、最近は手の付けようがないような状態になっている。

私自身、片付けは得意ではない。

子供たちに我が家は汚いと言われることもあるくらいだ。

が、母のところは、尋常ではない。

もともとは、仕事ばかりしていて、片付けができなかったという理由はあった。

が、御年90歳を超えて、今更仕事でもないが、それでも、まだしようとしている。

結果、片付けには手を付けようとしない。

それでなくても、90歳過ぎれば、自分の身の回りのことも覚束なくなる。

そんな状態なのに、仕事などもってのほかだと思うのだが、長年の生きざまだから、今更変えられないのだろう。

私も、自分が老いを感じる年齢になり、いま頭の中は、老母のことでいっぱいである。

夫は、今日も、歌唱のレッスンに出かけた。

ブログに書くなよと言われているが、書いている。

夫は、両親とも見送っているから、気軽だ。

長生きは昔は長寿と言われ、寿がつけられたが、昨今のように、百歳が当たり前になりつつあると、必ずしも寿がつけられる長生きばかりではない。

・長生きの母に悩みてゐるわれを横目に夫は歌うたひに行く

・兄嫁に相手にされぬ老い母を思へば家にゐても落ち着かず

・退院をしないでほしいと言はれつつ退院をする母のわがまま

・病院で寝たまま死にたくないといふ母には母の希望がありて

・外出を好める母は杖をつき師走の今日も出かけゐるらむ

あなたへ・・・難聴だから確かにご迷惑をおかけしています

2017年11月30日 19時26分26秒 | 家族
が、だからと言って、どんなことも私は我慢しないといけないという決まりはないと思います。

私が難聴でご迷惑をおかけしているのと、あなたが私を裏切って他の女性とデートすることとは別問題です。

あなたは、私が難聴だから、どんな理不尽なことにも甘んじなければならないとお考えですか?

たとえ浮気されても我慢しなければならないと?

それとこれとは別問題でしょう?

そんなこともわからないのですか。

あなたのお母さんが私を虐めたのにも、それが遠因としてあったと思っています。

私の難聴が今ほどではなかったにしても、聞こえの悪いのを見越してもらってやったのだから、どんなことも耐え忍べという姿勢でした。あなたのお母様は。

あなたの妹さんもそうでした。現在もそうです。

私があなたのお母様のお世話をさせていただくために、この家に来たとき、たまたまあなたの妹さんも来られていました。

そして、私を見るなり、何の脈絡もなく、開口一番、

「あんたなんかみたいに耳が悪い人間を雇ってくれるところなんかあるかいな」と言ったのです。

そんな話題のときに言われたのならまだしも、突然にそんなことを言われましたから、私は驚きました。

言われた内容もさることながら、その言葉遣いが汚かったので、私はショックを受けました。

私の育った実家のほうでは、誰もそんな言葉遣いはしません。

友人たちの中にも、そういう言葉遣いする人はいません。いても付き合わないと思います。

言葉遣いはさておき、それを言うのなら、あなたの妹さんこそ一度も正式に採用されて働かれたことはありません。

ご結婚前は国立大学の図書館にお勤めでしたが、正規の職員ではなく、パートでした。

その後、結婚されて子供さんが大きくなられて少し働かれましたが、それはパートというより、アルバイトというようなお仕事でした。

そのアルバイトも、子供のためにお休みを申し出ると、すぐその場でやめてくださいと言われたと聞いています。なぜだったのでしょうね?

その程度のお仕事しかなさっておられない方に、そんな失礼なことを言われる筋合いは、私にはありません。

わざわざ自分の口からは言いたくはないのですが、私は難聴ながら、若い頃は銀行で働きましたし、上の二人の子が小学生のときは障碍者枠で採用されて一流企業で働いたこともございます。

別に、そんなことを自慢するわけではありませんが、あなたの妹さんに口汚くののしられるほど値打ちのない人間でもないということを言いたいのです。

あなたにも。

今日のお昼にあなたが私に言った、「こんなにもフォローしてやっているのに」という言葉。

それは、結婚した相手に言う言葉ではないと思います。

私も申し訳なく思っていますし、あなたのフォローをありがたく思ってはおりますが、しかし、私自身、なりたくてなった難聴ではございません。

この難聴のため、どれだけ辛い思いをしているか、傍にいるあなたこそ理解してくれていると思っておりました。

結婚とは一種の契約です。

契約の段階で、そういうことは暗黙の了解済みのはずです。

それを結婚後45年も経ってから言われたくはありません。

私達には子供が三人いるのみならず、孫も四人授かりました。

私達にはもったいないような子供たちであり、その連れ合いであると、私は、神様に感謝の心で暮らしています。

が、あなたに今更、恩着せがましく言われて、その結果、浮気されても我慢しなければならないかのようにふるまわれますと、私も一言いいたくなります。

それが、あなたの言う、最近わたしが従順でないという態度であるとしましたら、私は、あなたこそ間違っていると申し上げたいです。

とにもかくにも、あなたは現在浮気したくてたまらないので、何でもかんでも私に文句をつけてきているのだと思います。

私はあなたに、もうすこし大人になってほしいです。

私も、努力しますから。

夫に裏切られても黙って耐えているのが良妻なのか

2017年11月29日 15時59分37秒 | 家族
夫は昼食後、またデートに出かけた。

明日の午後もデートなのだそう。

だけど、誰とどこに行くかは、もういっさい私に言わないのだそう。

なぜなら、私がブログに書くから、と。

私が書いたから、ガールフレンドの一人であったF川さんは離れていったと。

「じゃ、書かなければ、そういうことはしないの?」と聞くと、男は誰でもすることだと嘯く。

それを問題にする妻は、「いい年をして」と逆に人から笑われると夫は言う。

だから、黙っておけと?

黙って我慢しているのが良妻なのだろうか?

最近の夫は、少し時間が空くとデートとしゃれ込むが、夫が多忙のときに支えている妻には何の気づかいもしなくていいのかと思うが、夫の法ではしなくていいらしい。

それより、私が夫の仕事を手伝わないのが不満なのだそう。

私は、ごはんを作るだけで精一杯である。

だから、夫に言わせれば、私は悪妻なのだそう。

それと、私が夫のすることに反発するから悪妻だと。

他の女性は、みな私の夫に優しくて従順だとも言う。

私には、それらは夫の外で遊ぶための口実のように聞こえる。

他の女性は、夫の親族との煩わしい付き合い、子供の心配など一切かかわりがなく、ただ遊んでくれてご馳走してくれる夫は重宝な存在だろう。

が、妻はそうはいかない。

夫が50歳で会社を早期退職した時、その退職金を知人の投資話に出して返してもらえなかったから上の二人の子の学費にも事欠いた時期もあった。

私は聞こえにくい耳で、必死になって、夫がお金を貸した相手に電話をして、納期の迫っていた上の子二人の大学の後期の授業料だけは確保した。

が、それ以上は、その人にも返してと言えなかった。

その人も事業に失敗して、私が電話をすると、奥さんが出てこられて、「私の嫁入りにもってきたものを質に入れてでも、できるだけのことはさせていただきます」と言ってくれたから、それ以上言うのは酷なので、「もう結構です」と電話を切った。

だいたい、その人がお金を貸してほしいと言ってきたとき、お金を貸したのは夫だけだった。

他の人たちはその人の事業がうまくいっていないのに気づいていたから、誰も出資しなかった。

が、人のよい?夫は貸してしまった。

そして、そのお金を貸した人に催促すらしなかったというか、ようしなかった。

まあ、こういうことが何度かあれば、妻も多少しっかりせざるを得ない。

妻に相談もなしに、そんな大金をよく出資したと今でも思う。

現在でも、夫は、自分の稼いだお金は全て自分のものだと思っているふしがある。

少しお金の回りがよくなれば、連日、こういうふうに、昨日、今日知り合ったばかりの女性達とデートに興じるのは、そのせいだろう。

そういう風に近寄ってくる女性達は、夫にお金の持ち合わせがなくなったとみれば、手のひらを返して逃げて行くと思うが、そんな簡単なことすら夫にはわからないのだろうか?

馬鹿な夫だ。

夫は来月からしばらく知り合いの会社の独身寮に入るのだそう。

妻の目から逃れて、思う存分デートを楽しむ魂胆なのだろう。

夫を信じて、麗しい妻でいたいけれども、こういうふうに裏切られると、たおやかな表情ばかりではいられなくなる。

昔は、おっとりしたbikoちゃんと、親戚からも、母の友人たちからも愛されていた私なのだけれども。

*


  苦労かけし妻はほつたらかしにして遊び呆ける人がわが夫

  妻でなき人は優しくできるらむ辛き結婚生活なくば

  おもしろきことを話してご馳走をしてくれる人を誰でも好む

  責任のなきゆゑ優しくできるとふ理(ことはり)分かぬ男が夫

夫がそこそのこ会社の部長までなっていて辞めたのは会社の幹部と折れ合わなかったからである。

その後、別の会社に高給で迎えられたが、請け負った仕事の納期に遅れたため、退職をせざるを得なくなったという過去もある。

このときは、次男が大学2年だったので、その後、大学3年から大学院を卒業するまで私の母の仕送りで卒業させた。

私は、次男が大学2年のときに心臓の手術を受けて働けなかったから。

だから、現在、私は、母に親孝行をしているのである。