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神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

亡くなった母の荷物

2018年03月03日 13時51分27秒 | 家族
今年1月に亡くなった母の荷物であるが、
亡くなった翌日に、母の生け花の稽古場のものや仏壇の周囲に置かれていたガラクタは
義姉や甥や甥のお嫁さんがほとんど確かめもせずに捨てたことは書いた。

それは仕方なかった。

すぐに大勢の人が集まってくるから、綺麗にしておかなくてはならなかったから。

母の部屋にあったものは、さすがにそれはできなかったようで、義姉が片付けてくれている。

生け花関係の壺、花器の類は、来られたお弟子さん達に好きなのを持ち帰ってもらったと。

実は、私は、ボードに飾ってあった壺はもらいたいと思っていた。

先日の四十九日の日に兄嫁に聞くと、あれはお弟子さんが一番に持ち帰りましたと。

たぶんいいものだったと思う。

しかし、もう上げてしまっていたら仕方ない。

私にはご縁がなかったということだ。

私には、母の装身具とか毛皮のコートを出してくれたから、
先に帰る夫の車に運んでもらった。

毛皮のコートは、買ったときは高いものだったかもしれないけれど、
最近は毛皮のコートなんて誰も着ないと思ったが、かたみだから。

で、私にすれば、それ以外のものでも、確かめたいものがあった。

それと、きのう夫が、義母の実家の墓参りに帰ることを連絡すると、

兄嫁は、

「bikoさんにいろいろ相談したり見てもらいたいものがある」
と言っている

と聞いたので、

兄嫁に、
「また来週行きますから、事務的な要件がありましたら、その準備もしておいてください」
とメールした。

すると兄嫁からは、
「もうすぐ大工さんが入るのと確定申告がありますので、相続のことはせかさないでください」
と言ってきた。

その返信に私は驚いた。相続の手続きをせかさないでって?

私が帰ることを、そんなふうに受け取られたなんてと。

私は別に相続のことが目的で帰省するつもりではなかった。

何もかも捨てられる前に、娘として確かめておきたいものがあっただけだ。

ただ一度帰省したら、かなりまとまった金額がかかるから、帰省した折には、
まとめて用事を済ませたいという気持ちはあった、かもしれない。

実家に泊めてもらえるのならいいが、
いつもホテル泊まりで、食事も全て外食になるから出費も嵩むのだ。

兄嫁も、現在、大変だと思う。

彼女の言うように、確定申告もあるし、
母の住んでいた部屋を改装するために片付かなければならないし。

私は、そのお手伝いも兼ねて帰省するつもりだったが、
しかし、兄嫁にすれば小姑の私に見張られる?とやりづらいかもしれない。

私の夫には、bikoさんに相談したいことがあるとかと言ったのは
半分は本気だったかもしれないが、実際は邪魔だろう。

それで、私は予約したホテルもキャンセルしたが、しかし、黙ってばかりもと思って
さきほど兄嫁にメールした。

「実は、私は母のもので確かめたいものもあるのです。どんな親であったとしても、
私にとってはかけがえのない親でしたから、他の人が見ればガラクタに見えるものでも
私にはそうでもないものもあるのです」
と。

母が亡くなってから、兄嫁と仲良く協力してやってきたけれども、
昨日の「遺産相続をせかさないでください」の言葉で、私の何かが切れた。

兄亡きあと、兄嫁はよく頑張っていると思うが、しかし、しかし。

*

・相続をせかしたふうに受け取られ何かがわれの中から割れた

・遠慮して実家に泊まらぬ帰省なり迷惑かけるを気にしてわれは

・兄嫁に悪の権化のやうに見えゐしわが母もわれには慈母で

・他人にはがらくたばかりである母のものの中にも宝はありて

・わが母の孫の嫁には汚れたる老婆と見えてゐたかもしれず

・九十歳(こことせ)を超えて美貌は消え失せてゐしが昔は美人なりにし

・脳梗塞するまで才色兼備とぞ人に言はれてゐしひと母は

・老病死だれも避けえぬ運命(さだめ)にて才色兼備の人も老婆に


なにやら夫が優しいぞ

2018年02月28日 15時31分16秒 | 家族
昨日の夜、10時前に自宅に戻ってきたのであるが、
早寝の夫は起きて待っていてくれた。

そして、夫が先に帰ったあとの実家の様子を聞きたがった。

一渡り私の報告を聞いたあと、夫は安心したかのように寝た。

けさ起きてからも、夫は優しい。^^

私の話を気長に聞いてくれるだけでなく、普段のようないらだった様子は見せない。

仕事は相変わらず忙しそうなのに?

これは、たぶんたった二日間だったが、私のいない不自由が身に沁みたからだろう。

たまには主婦が家を留守にするのもいいかもしれない。

いつもいると当たり前になるだけでなく、あら探しまでされる。

それで、私の行き届かないところばかりを指摘される。

が、たまにいなければ、いない不自由を感じて多少は感謝されるのだ。

「夫達者で留守がいい」という言葉があるが、
奥さんもたまにはいないほうが夫婦仲も円満になるかもしれない。

皆さんも、ぜひお試しください。(笑)

*

・奥さんもたまにはゐぬのがいいらしく夫出迎ふいと機嫌よく

・留守中に上げ膳据え膳してくれる人の有難みしみじみ知りて

・主婦業も馬鹿にできぬと気づかせる機会なるべし主婦の留守居は

・食べられる料理いつぱい入れてある冷蔵庫なれどそれさへ面倒

・かと言つて食べに出るのはまたさらに面倒なれば妻は大切?

納骨

2018年02月27日 14時02分25秒 | 家族
上の写真は手元がぶれて狙った写真がとれていないが、
一枚目の写真はブログの設定上、外せないようなのでそのままにする。

本当は、穴に収めた母の骨壺を写したつもりだった。

私達が墓地に行くと、既に、お墓を除けて、数人の人が大きな穴を掘ってくれてあった。

むかし父の納骨のときは、田舎の近所の人たちが穴を掘ってくれたと聞いたが、
近年は、こういうふうに業者の人に頼むようになったようだ。


↓近年は、こういう作業も機械の力を借りるようだ。


↓また元の位置にお墓を戻して。

お坊さんが長いお経を丁寧にあげてくださった。

その後、私と兄嫁と父方従姉も拝んだ。

この従姉は、父方の一番年かさの従姉で、78歳になる。

われわれ一族いとこの筆頭のせいか、昔から責任感が強く、こういうときには馳せ参じてくれる。

そして彼女の覚えている昔の我が家の家系のこととか話してくれる。

現在本家のお墓はまとめられているが、以前は44個もお墓があって、
あまり行き来をしていない県外在住の親戚のお墓も全部墓守をしていたとか。

私のおぼろに覚えている記憶でも、夏になる前に一族で墓参りに行くのが恒例行事で、
その折、膨大な量の墓花を準備していた。

8歳上の従姉の話には知らなかった昔のことがいっぱい出てくる。

今回も25日の四十九日の法要時に納骨すれば皆に拝んでもらえたのにと思っているところに
車を運転してきてくれた。

昔は車の運転をしていなかったのにと思って聞くと、50歳ごろに運転免許を取得して、
まだ運転していると。

○○ちゃん、わざわざ来てくれてありがとう。

三人で拝んだあと、お墓の背中?から撮影。

写真ではわかりにくいと思うが、見晴るかす限り太平洋の大海原の広がった絶景である。

家を建てたらいいと思うくらいよい眺めの墓地だ。

*

・骨壺を納めし墓地は丘の上これからずつとこの丘の上

・父母(ちちはは)の眠る丘から見ゆる海水平線が遠く見えるよ

・ちちははも父方祖父母も伯父伯母も並び眠れる丘の上(へ)の墓地

・今頃は父にも兄にも会ひてゐむ梅の花咲く地上の上で

・梅の花咲くころ母は丘の上(へ)の墓に入りて拝まれてゐる

・母に会ふためにまた来む丘のうへ花を手向けて手を合はすため

*

従姉は喪服で来てくれたのに、兄嫁と私は話し合って普段着のままで行った。

というのが、

納骨が終わったら、そのまま着かえず帰途につかなければならないという事情だったから。

だから喪服は朝ホテルでキャリーケースに入れて宅急便で送ってしまっていた。

gooブログのお陰で昨年のことが昨日のように思い出される

2018年02月23日 20時43分50秒 | 家族
今年の1月11日に亡くなった母だが、
さきほど届いたgooブログの昨年の記事のお知らせで、昨年の今頃まだ生きていた母のことが
昨日のことのように思い出される。

この記事の中の「大学の先生」というのは、京大名誉教授だった村形明子さんのことだが、
この村形明子さんも亡くなった。

まさかこの一年に二人ともなくしてしまうなど、この記事を書いたときには思いもしなかった。

母は、危ない危ないと言われても、何度も復活した人だから、まだ死なないと思っていた。

が、当たり前のことだが、死ぬときは死ぬということを知った。

こう書いている私も、ひょっとしたら、来年の今頃はいないかもしれない。

人の命は簡単には終わらないと思わされる一方、死ぬときはあっけないということを学習した。

*

・昨年はまだ生きてゐし人ふたり死にてしまへりこの半年に

・その声がわたしの耳にこだましてゐる人達の姿は見えぬ

・昨年の記事とふお知らせ届きたり届きて見たり昨年の記事

・gooブログ知らせてくれる昨年の記事に記憶は蘇るなり

・昨年の今頃ふたりの死ぬことを知らずに書きし記事を読みたり

・亡くなりし人ら生き生き生きてゐるブログ記事なり一年前の

・わたくしが書きたる記事をわたくしが読む一年後二月二十三

・昨年の私に教へてやらむかな一年後には二人はゐぬと

・一年後わたしがゐなくなることも不思議であらぬことを思へり

・一年後生きてゐること保証することはできぬを保証するなり


母に振り回された数日
現在入院中の母から、「25日に退院できるから例の大学の先生に連絡して」と電話がかかってきたのは、1週間ほど前だったろうか。電話を受けた夫が、すぐにその大学の先生にメールと私に言......

73歳の夫は超多忙

2018年02月23日 17時58分56秒 | 家族
最近、夫が怒りっぽいのは、夫婦関係の問題というより
夫が忙しすぎるのが問題のようだ。

なにもないときは、忙しくても問題なく回っていくが、ひとたび逆鱗に触れたら大火傷する。

昨日、今日は、最近のお天気のように穏やかだ。

とにかく夫が忙しいときは、逆らわず、黙ってご飯の支度だけしていればいい。

夫はワーカホリック気味のところがあるから、仕事さえしていれば、基本的にはごきげんだ。

いくら忙しくても、遊ぶことの手も抜かない。

仕事の期限が迫っていても、シニアカレッジ、テニス、ボランティアには出かける。

私なら、期限の迫った仕事があれば行かないと思うが、行くところが夫の夫たるところである。

それができるのは、集中力があるからである。

体が健康であるからである。

健康だから無理がきくのである。

そういう夫をもてたことは感謝しないといけないかもしれない。

だって、夫婦二人とも病気がちだったら、家が回っていかない。

そういう意味で、夫婦というのは、たいがい上手く組み合わされているようだ。

お互いに無いところを求めあうというか、
神様が自然にそういうふうに組み合わせてくださっているように思うときもある。

昨日朝、夫が前日の夕飯に何を食べたか覚えていなかったと書いたが、
あとで昼食のときに、もう一度尋ねると覚えていたから、これも夫が
仕事に集中していたせいだったのだろう。

こうして集中できる力も神様からの賜物だろう。

私の娘は、夫に似ているのか、集中力のすごいところがある。

こういうことも、たぶん遺伝子に組み込まれているのだろう。

息子たちは、細やかなやさしさを持ち合わせているが、これは誰に似たのだろう?

*

・集中力すごき夫と思ふとき集中力もたぶん遺伝子

・集中力あれど回りが見えずなるとき時々はありてわが夫

*

今夜は鉄板焼きにする。

もうすでに、さつまいも、ゴボウ、レンコンなど、火の通りにくいものは焼いておいた。

あと、シイタケとかエリンギなどは、肉と一緒に焼く。

味噌汁も作っておいた。

夫は昨日の夕食を覚えていないって?

2018年02月22日 07時18分12秒 | 家族
昨日の記事の最後のほうにも書いたが、

夫は、昨日の午後、夕食は不要と言って出かけたのに、夕方夕食の時間に帰宅して、
外で食べなかったと。

それで大急ぎでごはんを炊いて、

その炊いている間にカレーを作った。

急いでいたから、カレーにいれるジャガイモは、新ジャガイモでもあったので、
洗っただけで皮をむかずに切って入れたくらいだった。

1時間くらいで両方が同時完成したので食べてもらった。

夫は食べ終わるやいなや、そのまま食堂の椅子に座ったまま眠ってしまった。

よほど疲れていたのだろう。

昨夜は、その後、2階に上がって寝たようだったが、

さっき2階に上がると、夫は既に起きて仕事を始めていた。

夫に、

「昨日作ったカレー、私はさっき食べましたが、おいしかったですね」

と言うと、

「え、カレーなんて食べた?」

というではないか。

「食べましたよ。食べてすぐ寝ましたが」と応えたが、

夫は、食べたことを覚えていないと。

ま、とにかく疲れていたようだったけれども、前の晩の夕食も覚えていないなんて、

認知症?

でも、今朝は別に異常はみられない。

昨夜、「ご飯いらないと言っていたのに」と私が言ったことで、また喧嘩になりかけていたが、
それも忘れたように、今朝はケロッとしている。

まあ、あれだけ毎日、仕事、遊びで忙しくしていたら、食べたものを忘れるということも
あるのかな?

私には考えられないけれども。

昨日のボランティアは、
国際交流ボランティアといって、
外国の人と交流する活動であったらしいが、
しかし、ボランティアといっても、
もちろん夫は楽しみで行っている。

それで、そういうときは、そのときの流れで、
食事を一緒に食べてきたり、こなかったりするようだ。

が、それに振り回される私は迷惑だ。

*

・食べたこと覚えてゐないと言ふ夫を訝しみをりその妻なれば

・すぐ怒る夫あるひは認知症?昨日のカレー今朝は忘れて

・それならば気をつけなければならぬとぞ思ふ如月雨水の季節

うれしい孫からの誕生祝い(^^)

2018年02月20日 16時34分14秒 | 家族
孫からといっても、お嫁さんからですが、こんな写真が届きました。

この子は、次男の子で、この15日に生後三か月になりました。

70歳って、あまり嬉しくないかもしれないけれど、写真を贈ってくれて
ありがとう。

君も、ミルクいっぱい飲んで大きくなってね。

bikoおばあちゃんより

*

・うれしかり生まれて三月(みつき)の嬰児(みどりご)に七十歳になるを祝はれ

・この孫の成人式のころわれは九十歳(こことせ)となり超高齢者

・九十の歳まで生きる自信などなけれど君に会へて七十

・君の世話あまりできざる祖母われであるかもしれぬが幸せになれ

夫よ、手伝ってと言っただけで、なぜそんなに怒る?

2018年02月18日 18時56分00秒 | 家族
一昨日、仕事で滋賀県に行った夫が、
お土産に近江牛300グラムを二包み買ってきてくれた。

こんな高級なお肉はたまにしか食べないので、
昨日は、ありがたく一包みを焼肉にした。

今日は、もう一包みをすき焼きにしていただこうと
台所のガス台の上で、お肉も野菜も煮ておいた。

出来上がったのに夫が長い散歩から帰ってこないからメールを入れた
ところに夫が帰ってきた。

帰宅した夫が「今日は何や?」と聞くから、

「買ってきてくれたお肉で、今日はすき焼きです」と応えた。

ついでに、
「食べたかったらガス台の上にあるのをテーブルの上のコンロまで運んでいただけますか?」
と頼んでみた。

私は一休みして椅子に座っていたのと、夫は帰宅して食堂に入ってきたばかりで立っていた
という便宜上。

食器その他は、既にテーブルの上に並べてあったし。

すると夫は、突然怒って、出て行ってしまった。

私には何が何やらわからない。

仕方なく私は一人で食べ始めたが、夫が気になるのでメールすると、駅前のレストランまで来て一人で夕食を食べていると。

まあ!

夫の怒った理由は私の態度が悪かったということだったらしい。

家で仕事をしている夫は、何か家事を頼むと異常に怒ることがある。

夫の気持ちとしては、
稼ぎのない私は夫に対して上げ膳据え膳で、かしずかなければならないと
いうことなのだろうが、私だって、たまには頼み事もしたい。

休みの日くらい奥さんの頼みを聞いてくれてもいいのでは、と奥さんの私は思うのだが。

奥さんの私も七十近くになると、手伝ってほしいと思うときもある。

毎日の仏膳も、たまに夫に手向けてもらうことを頼むと、
してくれるときもあるが、猛烈に怒るときがある。

私は、夫の両親はじめご先祖様にお供えしているのだから、
たまには子孫の夫が手向けてくれてもと思うのだが、
私の考えは間違っているだろうか?

外ではいい人で通っている夫だが、
なぜ私にはこんなに高圧的になるのだろう。

こうなれば、どんなことがあっても夫より先に死んで、
その後、夫に苦労させてやらなければと思う。

*

・頼み事たまにはしたしさもなくば虐げられた気持ちするから

・稼ぎなき者はもの言ふ資格さへないといふのかすぐに怒るは

・稼げるは陰の助けがあるためと言ひたき気持ち抑へてわれは

・お金にはならぬ仕事のおさんどんばかりしてゐるわれは何者?

・殿様と崇めあげねば怒鳴るのか?あなたはどこの殿様ですか?

・殿様のために自由は失はれ下女のごとくにこの家にゐる

・下女にするために育てしわが親であらぬと思ふ思ひ出だせば

・結婚をしてからわれは下女となり四十五年の歳月を過ぐ

・お手伝ひ頼んだだけで殿様は怒り飛び出し外(と)で食事をす

・わたしには高圧的な君なれど他所(よそ)の人にはよき人らしき

・昨年は食事ととのへゐし我が家そつと抜け出しデートせし君

・映画見て食事を共にせし人はシニアカレッジで知りあひし人

・浮気ではあらぬと嘯く君なれど精神的な浮気も浮気

・奥さんを欺き未亡人である人と一緒に歩くも浮気

・よきところのみを見せ合ひ仲良くすそれも立派な浮気でありぬ

・むつかしき親に仕へてこしわれの苦労を知らぬ人らとデート

・いやな過去知らぬ人らにいい顔を見せて醜き面は見せざる

・夕方によくせる散歩も長ければまた浮気かとわれは疑ふ

・わが母の我が家にしくれし援助など気遣ふこともなきやあなたは

・難聴のすすみしわれが家にゐることを忘れしやうにデートを?

・五人目の長男なりし義父の子であれば女はすべてかしづく?

・かしづくをわれに課したる義母のゐて傅かされてこし歳月よ

夫は私がいないと不自由なようだ

2018年02月16日 06時28分54秒 | 家族
昨日は夫が昼食がいらないと言ってお昼前に出かけたので、私はこれ幸いと宝塚方面に出かけたのであったが、帰宅寸前に自宅の近くで夫の車と出会った。

聞けば、「これからテニスに行ってくる」と。

夫のお昼前の外出は短時間だったようだ。

車の夫に「行ってらっしゃい」と言ってから自宅に戻ると、お菓子とかいっぱい食べた形跡があった。

昼食はいらないと言って出かけたのに、おなかが空いていたのかな?

ところで、昨夜は奮発して鰤しゃぶにした。

新鮮な鰤だったので、夫は「しゃぶしゃぶにしなくても生で食べられる」とお鍋が待ちきれないようにつまんでいた。

お鍋を始める前に夫は、「宝塚を探索するのに、ずいぶん時間がかかったなあ」と言う。

私は夫の食事のいらないときでないと外出しづらいので、昨日はこれ幸いと外出したのであったが、夫は、私がいないと、やはり調子が狂うようである。

自分は、仕事以外の時間は、ほとんどテニス、歌唱のレッスン、シニアカレッジと出歩いているのに・・・。

夫は、私がいつも家にいる人だから、出やすいというのはあるんだろうと思う。

私がいつも家にいるのは家にいるのが好きということが大きいのだが、しかし、たまには昨日のようにお出かけしたほうが、夫には私の有難みがわかるだろうかとも思った。

一昨日、昨日と、こ子さんというハンドルネームの方とコメントのやりとりをさせていただいているけれども、私たち夫婦は、バレンタインのチョコレートのやり取りはしないけれど、してもしなくても変わりないくらい互いが空気になっている夫婦かとも思う。

空気であるということは、いても有難みを感じないが、いないと困るという関係だ。

昨日は、夫が不自由を感じたようだったが、これは逆の場合も言える。

なんだかんだ言っても、私も、夫がいないと困るのだ。

*

・ゐることが当たり前なる相棒はゐないときだけ不自由感ず

・奥さんの私を大事と思ふならあまり怒らぬ夫であれよ

・バレンタインチョコレートなど上げないがいつも上げてる愛情知つて

が、夫は、昨日、私が外出するときにカバンを入れ替えたため、カバンの中身をテーブルの上に出したまま出かけていたのを綺麗に片付けてくれてあった。

いつもありがとう!

美容院の鏡にはいつも母が映る

2018年02月14日 20時51分55秒 | 家族
昨日は午後の通院の前に美容院でパーマをかけた。

美容院の椅子に座って、眼鏡をはずすと、いつもその鏡の向こうには母がいる。

これは母の生前もそうだった。

どういうわけか、美容院の鏡では、私が母にそっくりなのだ。

自分を見ているというより、母を見ているような気になる。

私は、子供の時より父親似と言われてきた。

赤ちゃんのころは、生まれた私を見に来た親戚の人たちが「〇さんにそっくり」と言っていたと聞いている。

〇さんとは父の名である。

そうそう床屋さんに散髪に行ったときは、「あなた、〇さんとこのお嬢ちゃんでしょ?よく似てるからすぐわかる」と言われたこともあった。

昔は女の子も、小さいころは美容院とか行かないで床屋さんに行くのが常だった。

そんなに父に似ていた私であったのに、どういうわけか歳取ってから母に似てきたようである。

母は美人だったから、私は、ずっと人から母に似ていないと言われていた。

「かわいそうに」という余計な言葉を付け加える人もいた。

が、最近は、美容院に行くたびに鏡の向こうに母を見る。

自分を見ているというより、母に対面しているような気分になることが多い。

昨日は母を亡くしてから初めての美容院行きであったが、そのせいか、自分の、眼鏡をはずしてぼんやり見える顔をしみじみと眺めた。

*

・わが母は亡くなりしかど美容院かがみに見たりそつくりの顔

・母に似た兄と父親似のわれとゐれば器量のよきは兄貴と

・母に似る兄が妹の私より可愛い顔と言はれてゐたり

・母に似た兄は亡くなり父に似た妹われが母に似てくる

・歳とれば娘は母に似てくると言ふ人多くわれもさうらし

私の夫が誰に似ているかという、こ子さんからのご質問に応えて

2018年02月14日 10時44分22秒 | 家族
手近にあった昔の写真をケイタイで撮影してアップします。

言葉で説明するより一目瞭然と思いますから。

上の写真は、ちょっと感じが違いますが、下の写真2枚は昔の夫の雰囲気が出ていると思います。


(六甲牧場にて)

ただし現在は髪の毛がなくなっていますから、全然違いますよ。(笑)

だからアップしても大丈夫かなと思ってアップしている次第です。

(クリスマスイブの日、大阪のマンションの自宅にて)

以下、こ子さんからいただいたコメント

*

ちょっと質問させて頂きます (こ子)
2018-02-14 09:35:24
「ハンサムな主人は‥‥」と言うのを、何度か出て来ますが、
芸能界では、何方様に似ておられますか?

70代前半で「ハンサムな人」は誰かと考えましたら、
今の所、北大路欣也さんが浮かんで来ました。

ウチの主人は、私から見ると部分的に、
五木ひろしさんには、目と口元、
西田敏行さんには、笑顔が似てる気がします。

先日、瀬戸内寂聴さんが 2・3 のテレビ番組に出ておられました。
凄いお元気になられていて、微笑ましい感じでした。

bikoさん! 自費出版したらどうですか?
100歳迄、生きたくなると思います。



*
こ子さん、ありがとうございます。

が、私は、ブログで読んでいただけるだけで満足です。

お金を出して本を買っていただくのは恐縮ですから。

今日は外食する約束だったけれども

2018年02月11日 18時21分51秒 | 家族
夫の仕事がとても大変そうなので、黙って夕食の支度をしている。

夫が定年退職してから自宅で仕事をするようになって、私は毎日の食事作りに縛られる。

それで、週に一度くらい外食にしてほしいと思う。

今日の昼食時、夫に頼んでみた。

夫は了解してくれた。

それでさっきまで夕食の支度をしていなかったのだが、夫の仕事部屋を覗くと夫が必死になって仕事している姿が見えた。

それで急いで降りてきて、ごはんは早炊きで、おかずは少なくてもいいように具沢山の豚汁を作った。

いま冷凍庫にあったホッケを焼いている。

大根があったので、大根おろしも作っている。

簡単なメニューだが、もう6時を過ぎたから。

定年退職しても仕事のあることはありがたいことだが、しかし、仕事が立て込んでくると、夫は無意識かもしれないけれど、空気が殺気立ってきて、私は気が休まらない。

とにかく怒らせないように、せめておいしいごはんを作って息抜きできるよう努めるしかない。

忙しいことが必ず収入につながるというわけでもなく、仕事にクレームがついて、やり直しするため忙しくなるということも結構あるようだ。

仕事が順調にいっているときは、もともとワーカホリック気味の人だから満足そうではあるが。

私は、やはりブログを書くことで息抜きしないと神経が参ってしまう。

*

・七十を三つも過ぎて尚もする仕事しんどきとき八つ当たり

・息抜きをしたきときあるおさんどん多忙の人の傍では難し

・七十の近づく妻もいつまでも元気でゐると限らぬ 夫よ

親の有難みは親が死なないと気づけない?

2018年02月08日 06時23分26秒 | 家族
亡くなった母のことばかり書いているが、四十九日まではそうさせていただく。

子は、その親は死なないと、その有難みに気づけないように思う。

かく言う私も、母が生きている間(ほんの1か月前)までは、個性の強かった母の性格のせいもあって、親の有難みがイマイチ身に沁みてなかったと思う。

が、亡くなられると、急に懐かしくなって、過去にしてもらったことが怒涛のように押し寄せてくる。

亡くなった前々日の夜中も、夕方の高速バスに乗ってホテルに夜中の11時過ぎに到着した私を待ちかねていた様子だった母。

いくつになっても、母には娘の私が可愛くてたまらなかったのだ。

こんなに思ってくれる人は親以外にはない。

そのことが強く思われるのは、やはり母は死んでしまったからである。

まだ生きていれば、「あら、まだ起きていたの?」ぐらいの感慨しか湧かないが、これが死んでしまうと、あんなにまでして私を待ちかねていたと、しみじみ思い出されるのが親というものであるらしい。

これは年齢には関係ない親子の情というものなのだろう。

河野裕子さんが、そのお母様の死に目に際して、「あなたは私、私はあなた」というふうな歌を詠まれていたが、まことにそうなのである。

あのわがままだった母、兄嫁にとっては鬼だったかもしれない母であったが、しかし、どんなにわがままであっても、年取ってどんなに見苦しくなっても、子供の私にとっては慈母だったのである。

母が私を大事に思う、そのことが母の慈母たる所以である。

観音様なのである。

私は、そのことに母の生前は気づかなかった。

今も母が生きていたら、私は、そのことに気づかず生きているだろう。

さすがに私も七十も近い年齢になっていたから、真似事の親孝行くらいはさせてもらった。

が、そんなもの、親にしてもらったことから比べると、本当に吹けば飛ぶようなささやかなものであった。

これは、父に対しても同様だ。

男親だった父には女親ほどの世話どりはしてもらっていなかったにも関わらず、父の私への強い愛が思い出されて、私は泣きに泣いた。

河野裕子さんは、お父様が亡くなられたときも、お母様が亡くなられたときと同じように、
「あなたは私、私はあなた」という歌を詠まれたと記憶している。

それは、私も同じであった。

父の感じ方、考え方は、今でも私の体の中にあるし、母も同様である。

祖父母に対しても、そういう気持ちになるときがある。

何かしていて、たとえば祖母を思い出したリする。

ああ、祖母はこんな思いで私達孫に、いろいろしてくれていたんだと気づかされるときがある。

両親や祖父母に対してのこういう気持ちは先祖を敬う気持ちに通じるものだ。

すなわち「ご先祖様は私、私はご先祖様」なのである。

あらためて今朝は、脈々と流れてきたこの血筋に思いをいたしたいと思う。

合掌

*

・亡くなりてどつと押し寄すこの気持ち子は親死にてのちに気づけり

・わたくしはあなたあなたはわたくしと子が気づくころ親はあらざる

・曾祖母は祖母を愛してその祖母は母を愛して母は私を

・わたくしがむすめ愛してゐることも娘は私の死後知るならむ

・永遠につながる愛の連鎖など気づく清らな冬のあかとき


兄嫁から片付けが遅々として進まないと

2018年02月07日 05時53分41秒 | 家族
昨日兄嫁からメールが入り、片付けが遅々としてすすまないと。

なにしろ母は物を捨てない人だったから、亡くなる前は物でいっぱいになっていた。

時代もあったかもしれないが、父のときは、お通夜もお葬式も、その後の法事も、すべて自宅で執り行った。

が、4年あまり前に亡くなった兄のときは、お通夜もお葬式も葬儀会館を借りて、であった。

わが家も、平成2年に亡くなった義父のときは、お通夜もお葬式も自宅でしたが、平成12年に亡くなった義母のときは葬儀会館でした。

やはり時代の流れだろうか。

しかし、一連の儀式を葬儀会館でするとしても、やはり親族の集まる場所は必要だ。

それで、母の亡くなった翌日、仏壇をおいてある部屋は、親戚の人たちにも協力してもらって、何度も車でごみ焼却場にゴミを運んだらしい。

らしいというのは、私はこのとき既に体調を崩してホテルで寝ていたから。

このとき捨てに行った物はゴミとは言えない物も多かったらしかったのだが、とにかく捨てないことには皆の集まる場所も確保できないので、もう見ないで捨てるという状況であったらしい。

とにかく一日ですっきり片付けた。

告別式が終わって、私は川西に帰ってきたのであるが、体調が戻れば、一度片付けに行かないといけないと思っていた。

が、その時に引き込んだ風邪がなかなかすっきりしない。

いつまでも咳が出るのだ。

こんな状態のときに、無理して行くと、またぶり返すだけでなく、私の風邪を他の人達に移してしまうかもしれないから、行かないほうがベターだろう

そのことを兄嫁にメールで伝えると、折り返し兄嫁からも、実家の家族も、皆風邪を引き込んでしつこい咳に悩まされていると。

ああ、同じ種類の風邪を引き込んでいるのだと思った。

兄嫁は母の住んでいた部屋の片づけを早くしたいらしく、工事の約束もしたらしいのに、肝心の部屋の片づけがはかどらないと言ってきたのだ。

お葬式のときのように、若い甥や甥の奥さんのように、見ないで捨ててしまうという片付け方をすれば早いかもしれないが、母の寝ていた部屋などは、どんなお宝が潜んでいるからわからないから、それができないらしい。

こんなとき、近くであればはせ参じるのであるが、何しろ片道5時間かかる距離なので、そうは簡単に事が運ばない。

私自身、母の遺品は、勝手に捨てられる前に貰いたいものもあるが、それが許されない。

季節も追い打ちをかける。

何しろ暖房をしなかった母の部屋は寒い。

しばらくいるだけで、風邪を引き込んでしまう。

今年の冬は寒さが厳しいから余計だ。

人が一人亡くなるということは、精神的にも、物理的にも、本当に大変なことだと思わされる。

*

・母死にて四十九日は近づきぬ遅々として片付かぬ部屋を後目に

・片付けにいかねばならぬ子のわれは風邪とふ枷に捉われてゐる

・死ぬるまで人は生きゐる生き物で死なねば物も捨てられぬなり

・見ず捨てることは簡単分別といふ悩ましき分類なければ

・津波きて物ながさるるは悲しきがされど浚つてほしき物も数ある

・人はなぜ物を貯め込む貯め込みし物に遺族は苦しまさるる

・人ひとり死ぬはかういふことと知る山のやうなる物が残され

・生きてゐるときは単なる物なるがひとたび死ねば遺品と呼ばれ

暖房をしなかった母

2018年02月05日 05時46分41秒 | 家族
また亡くなった母のことを書く。

母はどんなに寒い冬でも、基本的に暖房をしなかった。

それだけ自分は切り詰めた生活を送っていたということだ。

そして、その分を子供とか孫に回した。

私はずいぶん母に助けられた。

以前、ある人に「お金は命。お金をあげることは命をあげることです」とお聞きした。

その意味で言えば、母は私達に命をくれていたことになる。

生んで命をくれただけでなく、その後もずっと命をくれ続けていた母。

兄嫁や私の夫は、母のその倹約ぶりを軽蔑していたが、母はとにかく自分のことより、まず子、孫であった。

私の親友が、私の母のことを「あれほど子供思いの人はいない」と言ってくれた。

その私の親友に、母はいつも「bikoと仲良くしてやってね」と頼んでいたそう。

別に頼まれなくても、その親友とは中学以来の親友で、親友でなくなることなど考えられない仲なのに、それでも母は、少しでも私のためにと思って、そう言い続けてくれていたようだ。

親友の家は昨年12月に母と泊まったホテルの近くだったが、母は私が親友に会いに行くことを見越して、親友夫婦にワインのお土産を準備してくれてあった。

自分ではよう運ばないので、甥に車でホテルに届けさせて。

そこまで子供の私のことを思ってくれる母はもういない。

この厳しい寒波は、母の、この世に残した私のことを心配する思いのような気がしてならない。

私は私で、もし母がこの寒さの中、入院していなくて実家にいたとしたら、また暖房しない家で暮らすだろうと思うと、寒波襲来前に亡くなってよかったと思えるのである。

*

・この寒さ母の心の寒さかも此の世に残ししわれへの母の

・子のわれは母が死にたる幸せを思ふ寒波の過激であれば