冬の晴れた日、小田原で捕れた大王烏賊の鳶烏が江戸城に登り、将軍に拝謁しました。「いかに!」
【井関隆子日記】に曰く
「此ごろいと大きなる烏賊のとれつるなど聞えしを、いかならむとおぼつかなかりしが、今日其いかの口なる、世に鳶烏とかいふなる物、世にいみじかればとて大城に奉れるを、上も御覧ぜさせ給ひ、皆人見たりとて、、、さるは、さりし月のつもごりのころ、上総ノ国ノ天羽の舟人海の面に浮びたるを見付けてとりあげたる。
其烏賊のながさ二つゑ五さか、横のわたり六さかにあまり、その足のかこみ二さか斗にていみじう大きなる事、むかしも今もためしなし、、、さて世に珍らしき物なればとて、三つ斗にたち切、舟しておし送り、小田原町なる、、魚の問屋がもとへ来れるなりとなむ、それが口なる鳶烏は、ま事のとびがらすの大さしたるに、見る人あざみあへりとぞ。
是が年経たるはいくら斗かはしらざらめど、八千代いかと名を負せたりと聞て
鶴亀の よはひにならふ 八千代いか
八千代は御世の ためしとをなれ
とあります、
要約しますと「先月末日のころ、上総の天羽の漁師が、長さ二丈五尺(約8m)、幅六尺(約1.8m)、足回り二尺(0.6m)もある大烏賊が海に浮いてるのを見て、珍しいので三つに切て小田原の魚問屋に持ち込んだ、その口の鳶烏は本当の飛び烏の位あり、江戸城に登り将軍の閲覧に供した。
この烏賊の年は分らないが、八千代いかと名前をつけたと聞いて、一句
鶴亀の よはひにならふ 八千代いか
八千代は御世の ためしとをなれ
となります。
世界中でも、大王烏賊の大きさがはっきり書かれている史料として、古い方に入るのではないかと思います。
大王烏賊の語源ははっきりしていませんが、
(Architeuthis は、古典ギリシア語: τευθίς (teuthis) 「イカ」に、「最高位の、最たる」を意味する接頭辞 archi-[3] を添えたもの。『ウィキペディア』)の和訳ではないかと思われます。
としますと、和訳の前に日本では、八千代烏賊と名づけられていたのではないでしょうか。
八千代いか
何とも、みやびでございますな~