幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

薩摩三田屋敷襲撃 放火が怖い、からっ風

2008-11-05 19:54:30 | Weblog
 庄内藩らによる薩摩藩三田屋敷の焼き討ちは、戊辰戦争の先駆的な戦いでした。慶応三年十二月二十五日(西暦1868年1月19日)のことです。「三右衛門日記」によりますと、当時三田屋敷では、一度の食事にさんまの干物二百七十枚づつ焼いたと言いいますから、一人一枚づつ食べたとすれば270人ほどの藩士や浪人などが居たと思われます。対する庄内藩をはじめとする幕軍は「丸山日記」によると4000人と書かれています。どちらも信用できないところもありますが、幕府側が圧倒的に有利だったのは間違いがないようです。
幕府側は、薩摩屋敷を取り囲んだまでは良かったですが、多くの浪士や薩摩藩士を取り逃がしてしまいます。逃走は薩摩の軍艦に逃込んだ者や陸路を逃げた者など様々だった様子ですが、取り逃がした原因について、当日は風が強く、浪士たちによる放火を恐れたため捕縛がおろそかになったと言われております。 
 本当かどうか慶応三年十二月十五日の天気を検証して見ましょう。      先ず日本海側を見ますと、青森県森田町で「大雪吹、氷甚だし、往来難渋」山形県川西町で「雪」、新潟県新発田市で「雪降」、福井県鯖江市で「雨」、鳥取県鳥取市で「雨」と軒並み降水があったことが分かります。一方太平洋側は、岩手県盛岡市で「晴」、江戸で「晴」、三重県熊野市で「上々天気」、和歌山県田辺市で「晴天」、高知県土佐市で「半晴」、鹿児島県高山町で「晴天」となっております。日本列島を全体的に見ますと、日本海側は雪または雨、太平洋側は晴れとなっており典型的な西高東低型になっていることが分かります。西暦1月19日ですので一年中で最も寒い時期です。当時、衛星雲画像があれば日本海側に寒気の流入に伴う筋状の雲がはっきり見えたでしょう。また、関東では西高東低型で寒気移流の強い時は、山越気流「からっかぜ」が吹きます。
関東地方の日記から風の記述を抜き出しますと、栃木県日光市では「昼後風」、千葉県銚子市では「天気北風」、武蔵村山市で「夜風」、静岡県下田市では「天気風つよし」となっていて、朝から日中、日中から夜にかけて風は次第に強くなっていったようっです。江戸での風は西よりの風と思われますので、三田に火の手が上がれば江戸の町は危険な状態になります。幕府による、三田薩摩屋敷襲撃隊は、このような気象状況で、寄せ手の一方を「火の用心」に回さざるを得なかったのでありましょう。
三田薩摩藩邸襲撃のさい、浪士の放火を恐れて捕縛がおろそかになったと言う、幕府側の言い訳とも取れるこの説は、恐らく本当だったと思われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする