幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

ご無沙汰しております

2018-06-10 17:54:10 | Weblog
ご無沙汰しております。

手元に、未読文書が多数集まり、気象情報を入力中です。



どの文書も気象情報満載で



こんな感じです。

古文書たちが「もたもたするな!」と言っておりますが、入力には大分時間がかかりそうです。

当分古文書と楽しみますので、ブログの書き込みは少しサボらせて頂きます。





2ケ月書き込まないので、広告が出てしまいましたので、書き足して出ないようにしました。
お盆ちかくになり、ようやく六割ぐらいおわりました。
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天保十一年の雪(続三方領地替え)

2018-04-01 17:28:28 | Weblog
三方領地替が言い渡された庄内藩は豪雪地帯であります。
次第に、庄内藩御百姓による三方領地替えへの反対闘争は、庄内藩農民幕府の様相を呈してきます。
幕府のある江戸に行くには、船を利用しなければ、山越えは必須です。
実際、幕府への越訴や有力諸藩の嘆願には、山越えの路を利用しています。
奥羽山脈や鳥海山、月山、吾妻山の積雪が気になるところです。
そこで、今回は天保十一年の積雪を調べてみたいと思います。

手元の史料で、天保十一年の雪の記事があるのは、天保十一年六月十九日(1840年7月17日)の南アルプス市の日記です。
「 上天気、八ツ時より夕立、始メ此辺ハ雨少しふり、川東甲府在ハひうかふり、鏡中条辺ハ大夕立有之候、富士山ハ候(降?)雪か八合目頃迄雪ふり 」
とありまして、富士山には新暦の7月17日八合目まで冠雪があったようです。
初冠雪か終雪かは分かりませんが、かなり早いです。
富士山の冠雪は、この頃では2008年の8月9日が最も早いようです。

次の記録は、九月七日(新暦10月2日)の弘前の記録で「 岩木山に雪見ゆ 」とあります。現在の平年値では10月21日ですので、天保十一年の冠雪は富士山や岩木山で現在の平年値より20日ほど早いことが分かります。

1840年の気温を現在の平年値で比較したのが下のグラフです、時間は正午です。



平均気温が現在の平年値より3度程低くなっています。

十月一日(10月25日)には秋田県から山形県にかけて初雪が降っており、庄内地方も初雪が降った事と思われます。秋田市での初雪の現在の平年値が11月13日ですから、やはり20日程現在の平年値より早いようです。

矢口弥兵衛の早駕篭が鶴岡についたのが、十一月八日ですので、早駕篭の出発した十一月一日から八日までの間は江戸から鶴岡辺で雪の記録はありませんので、早駕篭は雪に悩ませられることは無かったようです。

しかし、翌日の十一月九日には、「 雪降、近所山迄白く相成候 」秋田県南の院内の記録では、雪が里まで下りてきたようです。
天保十一年は、やはり現代より寒冷で雪も早かったようです。

庄内藩農民代表が転封に反対して江戸へ出発する、十一月二十三日までには、まだ間があります。

雪も、幕府対庄内藩御百姓の闘いも未だ序章でございます。
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天保十一年十一月一日(西暦1840年11月24日)、江戸城黒書院の天気

2018-03-14 23:07:33 | Weblog
天保十一年十一月一日、酒井忠発が、江戸城黒書院で、三方領地替を言い渡されました。
忠発と庄内藩にとりましては、まさに「青天の霹靂」でありました。

ところで、当日の江戸の天気はどうだったでしょうか。
江戸九段下の【井関隆子日記】によりますと、「時雨の雲も昨日に尽ぬるにか、日影花やかに晴わたりぬ
となりまして、前日までのぐずついた天気がようやく晴渡ったようです。

全国の天気分布図を見ますと、



となっており、日本海側の一部を除き日本列島は概ね晴になっております。
忠発の言い渡された時間は正午前後と考えられますので、

午正晴、55度、29寸7分【霊憲候簿】 言い渡された時の江戸城黒書院での天気は晴、気温は摂氏12,8度前後で、
暮れも程近い、新暦11月24日としては穏やかな天気でしたが、天気とは裏腹に「神田大黒」の庄内藩江戸屋敷は
暗雲の中にあったと考えられます。

柴又の寅さんに言わせれば「空は晴れても、心は闇よ」と言ったところでしょうか。

冗談はさておき、暮れには早速国元に向けて、矢口弥兵衛が早駕篭で出立します
早駕篭出発の時は、気温は摂氏11.7度と高めでしたが、江戸も曇りとなりました。

秋田、山形では、一月前の十月一日に初雪が降っており、道中の雪も心配です。

興味は尽きませんが、夜も更けましたので、今日はこの辺で「おやすみなさい」

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三方領地替

2018-03-08 18:35:55 | Weblog
天保十一年の三方領地替の時の天気状況を、リクエスト頂きました。

早速、藤沢周平のドキュメンタリ-ぽい小説「義民が駆ける」を読んでみました。

三方領地替えとは、三か所の大名が領地を替えることで、この時は、
川越の松平大和守→庄内の酒井左衛門尉→長岡の牧野備前守→川越の松平大和守
と国替えを行うと言う幕府の命令でした。

当然、損得があり、この領地替えでは、庄内の酒井左衛門尉が損をします。
そこで、移封反対運動をしたり、添地を願い出たり手を尽くしました。

結局、幕府は三方領地替を撤回しますが、決め手となったのは、百姓による移封反対運動でした。

民衆が台命を撤回させる事は驚くべきことであり、封建制度の終末を示唆する事件であったと思われます。

日付と事件を列記しますと、

天保十一年十一月一日、酒井忠発、江戸城黒書院で三方、三方領地替を言い渡される、矢口弥兵衛早駕篭で出立【義民が駆ける】
十一月七日、暮六つ、矢口弥兵衛早駕篭鶴ケ城着【義民が駆ける】
十一月二十三日、庄内藩西郷組十二人江戸出発【義民が駆ける】
十二月十二日、九ツ半頃、庄内藩西郷組十二人江戸着【義民が駆ける】
十二月十六日、五ツ半庄内藩西郷組十二人庄内藩邸に連行される【義民が駆ける】
天保十二年一月十五日、七ツ頃、庄内藩川北の百姓千住着、江戸着【義民が駆ける】
一月二十日、四ツ頃庄内藩川北百姓、幕府重役に駕篭訴え【義民が駆ける】
二月十日、酒田大浜百姓集会一万人を超える、大たき火【義民が駆ける】
二月十九日、領主発篭引留めのため、庄内百姓大集会、四ツ過六所明神大寄【義民が駆ける】
七月十二日四ツ時、府、三方領地替を撤回【義民が駆ける】

となります。

日時は、藤沢周平の小説からの受け売りで如何なものかとも思いましたが、正しそうですし、史料を集める気力がありませんので、あってはならない手抜きをしてしまいました。


この中から面白そうな日の天気を調べて行きたいと思います。

先ずは、天保十一年十一月一日の江戸城黒書院の場の天気ですが、パソコンが下手で、天気分布図

を書けないのが残念です。

 この頃は年度末で飲み会が多くなっており、桜祭りの準備もあり、

ゆっくりになると思います。
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調所笑左衛門広郷の死因

2018-01-26 18:18:41 | Weblog
調所笑左衛門は嘉永元年十二月十八日(西暦1849年1月12日)の夜に江戸で死亡しました。

先日の大河ドラマでは、雪の舞う月夜の晩に笑左衛門は服毒死を遂げました。
ところで、薩摩藩の家老で実力NO1の調所広郷が切腹ならまだしも、服毒死などするものでしょうか。

前回ブログで紹介しました、薩摩藩重臣の鎌田正純日記の嘉永元年十二月十九日の記事には「調所笑左衛門殿、昨夜病死」とあります。
笑左衛門の健康状態について、興味深い記事がありました。長崎滞在中の水戸藩の洋学者,柴田方庵の日記の弘化四年七月十六日(西暦1847年8月26日)の記事に

薩州奥四郎殿より重役調所広郷殿容体書持参之方書並医案遣し呉候様頼ニ付、両三日後医案蔵屋敷へ遣ス

とあり、要約しますと「薩摩藩長崎聞役 奥四郎殿から家老調所広郷殿の容態を書いた書付を持ってきて、医療方法を聞いてきたので、ニ三日後に薩摩藩蔵屋敷に届けた」
とありまして、調所広郷はこの頃重篤な病にかかっていたようです。
鎌田正純が弘化四年七月八日に調所笑左衛門宅を訪ねましたが、留守で断られています。
死亡の前1年5月ほど前です。

この後、笑左衛門は公務に復帰しまして、嘉永元年八月二十一日に藩主と江戸へ向かいました。
程無く、鎌田正純も江戸へ行き、笑左衛門と何度も会っていますが、
十二月朔日の日記に「 笑左衛門殿病気ニ付右えも見廻、、八ツ後退出より調所左門殿御役替、海老原宗之進殿御役入ニ付、右え祝儀」
十二月二日に記事に「調所笑左衛門殿え病気尋として見廻」
十二月五日にも「調所笑左衛門殿え病気尋として参り」
十二月十四日「調所笑左衛門殿え病気見廻」  
十二月十五日「調所笑左衛門殿、、見廻」     
十二月十六日「調所笑左衛門殿え病気見廻」
十二月十七日「調所笑左衛門殿病気尋として見廻」
と病気見舞いを重ねた後に
十二月十九日「調所笑左衛門殿昨夜病死ニ付為悔参り、、」
と調所笑左衛門の病死が書かれています。
一年半にわたる闘病生活の後の死、最期に毒杯を飲んだかどうかは分かりませんが、調所広郷は病死と考えるのが自然な感じがします。

事実はともあれ、重税、大阪商人への事実上の借金棒引き、密貿易など、薩摩藩の財政を立て直す為に、笑左衛門はあらゆる手を使い汚れ役に徹して生きました。
世間から沢山の怨みを買った身には、自然の死ではなく服毒自殺こそが似合っていたのかも知れません。

世間は恐ろしいものですね~

世間の風は冷たく、今朝は、マイナス8度で、水道が凍ってしまいました。
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調所笑左衛門広郷の死 嘉永元年十二月十八日夜(西暦1849年1月12日)

2018-01-23 21:36:26 | Weblog
この前、大河ドラマ西郷どんを見ました。

薩摩藩の財政を立て直した、調所広郷の死をやっておりました。
竜雷太扮する広郷が、雪の舞う月夜の晩に密貿易の罪を負い服毒自殺する場面でした。

悪い癖で、天気は本当にそうなのだろうかと考えてしまいます。

まず、調所笑左衛門の亡くなった場所と日時を特定しますと、薩摩藩重臣の鎌田正純日記によれば、
弘化五年(嘉永元年)八月二十日の記事に「 調所笑左衛門殿え為餞別肴料五百疋 」とありますから、
翌日の八月二十一日に藩主と江戸へ向かったとおもわれます。     
また、嘉永元年十二月十九日の記事によれば、調所笑左衛門殿、昨夜病死【鎌田日記】【江戸】とありますから、調所笑左衛門は嘉永元年十二月十八日(西暦1849年1月12日)の夜に江戸で死亡したに相違ありません。

大河ドラマでは、月齢18日の月が忠実に表現されていましたが、はたして雪は降っていたのでしょうか。
嘉永元年十二月十八日の天気分布図は下記の通りです。



 北日本や日本海側で雪や雨となっていますが、関東はどこも晴で、十九日もあまり変化はなく、残念ながら降雪の記録はありません。
なお、気温は【霊憲候簿】によりますと、十八日の晩は約摂氏9度で十九日早朝は摂氏約1度程で晴のため放射冷却が厳しかったようです。
笑左衛門が亡くなつた夜は、真冬としては、月のある比較的穏やかな夜だったような気がします。



ところで、笑左衛門は本当に服毒したのでしょうか。
それとも、病死なのでしょうか。

次回に考えたいと思います。
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鳥羽伏見の戦い開戦時の天気(慶応四年一月三日申刻頃、西暦1868年1月27日午後4時頃)

2018-01-03 21:50:56 | Weblog
                       

            

 先日、リクエスト頂きました、鳥羽伏見の戦いの時の、天気につきまして、管見を申し述べます。

鳥羽伏見の戦い開戦時は、慶応四年一月三日申刻頃、西暦にしますと、1868年1月27日午後4時頃になります。

両軍ともに、「あり得る」とは思っていたかもしれませんが、大寒の時節の晩からの開戦とは驚きです。

寒かったでしょうね。(命のやり取りで寒さも感じなかったのかもしれませんが)


ともあれ、天気概況を申し上げますと、慶応三年十二月二十九日頃日本列島を、低気圧が通過しました。


つがる市森田の【萬覚帳】によれれば二十八日は「朝暖気也晴曇り東風少々夜曇り風なし」とあり

翌二十九日には「明ケ頃雨少々降り東風大雨降ル、夜半頃雪吹西風替り大風往来止り申候、、雪吹倒れ森田人のよし」

とありまして、前日から東風と共に暖気が入っていましたが、二十九日の朝から東風で雨がふり、夜の12時頃から西風

に変わり大吹雪となり、行倒れの人まで出たことが書かれています。

つがる市では、低気圧から延びる寒冷前線が、夜12時頃通過しまして、大吹雪となったようです。

その夜は、群馬県中之条町でも「夜雪一寸足らず積る」とあります。

強い低気圧の後は、優勢な寒気が流入して来ます。

寒気の流入は日本海に筋状の雲を発達させ、日本海側に雪を降らせます。

鯖江の【間部家御日記】によれば、

         十二月二十八日 雨
            二十九日 雪
            三十日  雪
          一月 一日  雪
             二日  雨
             三日  晴
 となっています。

水戸での気温の変化は(寒暖計ハ朝五ツ時をしるし、冬ハ其日の内の極寒き時分をしるし、夏ハ其日の内極あつき時分をしるす)



となっており、一月一日、二日と強い寒気が入ってきたことがわかります。


さて、慶応四年一月三日の天気分布をみて参りましょう



となっていまして、全国的に晴となっています。日本列島全体が、すっぽりと移動性高気圧に覆われたようです。

日中は、つがる市、銚子、新島などで弱い西風が吹き、あちこちの日記に暖和なことが記録されていて、江戸では摂氏1.7度、丸亀では、

8.9度との記事があります。(観測時間不詳)

翌、四日も日中は関東で弱い雨があったものの、温暖で穏やかな一日だったようです。(函館屋外で、摂氏3.3度)


と言いますと、鳥羽伏見の戦いは、比較的温暖ななかで、進んだと思われますが、実は恐ろしい落とし穴があります。

京都では、戦争開始の三日の夜から二日の朝にかけて、雲はあったものの、ほぼ晴天だったと考えられます。

そうしますと、放射冷却が厳しいはずです。

ちなみに、京都で晴天だった昨年(平成29年)の12月22日の午後4時の気温は摂氏10.2度、翌朝の最低気温は1度でした。

もし、同じくらい気温が低下したとしますと、氷点下だったことは、ほぼ間違いないと思います。

この日の高知県土佐市の日記には、

「晴、七ツ頃ゆる小、夜星動け共風も吹かす大ニ寒し、手水鉢ニ冰張る」とあります。


手も凍り付くような寒さの中で必死に戦った、鳥羽伏見の会津藩士の姿を、西条八十が詩で綴っています。


その夜の侍
             

 宿貸せと縁に刀を投げ出した、 ふぶきの夜のお侍。

 眉間にすごい太刀傷の、血さえかわかぬお侍。

  口数きかず大いびき、暁までねむってゆきました。

 鳥羽のいくさの すんだころ伏見街道の一軒家

  その夜、炉ばたで遊んでた子供はぼくのお祖父さん

 ふぶきする夜は しみじみと想いだしては話します

 うまく逃げたか、斬られたか。

 縁に刀を投げ出した その夜の若いお侍




 その夜は吹雪にはなりませんでしたが、流石に状況が手に取るようです。

大詩人は、上手ですねえ。

























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慶応三年三月十七日(西暦1867年4月21日) 大阪の天気

2017-11-20 22:32:54 | Weblog
慶応三年三月十三日の京都の日記によりますと「八重桜満開、単桜もいまだ在」とあります。
三月十五日 葛飾北斎も愛でたであろう小布施の「桜花満開」となっています。

 昔より、月に村雲、花に風

無粋に申し上げますと中秋の名月には秋雨前線が邪魔をし、桜花の時期には温帯低気圧が去来して
風を吹かせ、花を散らしてしまう場合が多々あります。

お尋ねを頂きました慶応三年三月十七日も桜の季節で、温帯低圧の去来が激しく天気の移り変わりが早かったようです。

低気圧が日本列島の北を通過しますと、一般的な流れは、まず温暖前線が通過し地雨。
次に暖域に入り南風と共に温暖となり曇りや雨など斑な天気。
その後寒冷前線が通過して西風と共に寒気が入り、雨、場合により雷や強雨となります。
寒冷前線が遠ざかると、風は次第に弱くなり天気となります。

次に天気概況をみてみますと、三月十三日は、函館、青森は曇りですが全国的には北よりの風で晴となっています。
ただ、
  曇【長陽】
  夜、、曇る【土佐市】
  晴天上々天気平和也、此節梨花、桜の花盛り也、、夜曇り、夜明方より雨降ル【熊野】
などとありますように、九州四国地方で、次第に近寄ってきた低気圧の影響が出てきています。

 翌、十四日は、関東、東海、中部、近畿、中国、四国地方で雨となっています。一方九州では、天気が回復しており
低気圧の脚の速さが感じられます。

 十五日は、北日本には雨が残ったものの、

 雨間雲不晴、、四ツ時より次第ニ雲晴れ天気ニ成ル、、夜上々月さへ渡ル【熊野】
 今暁より大雨、雨も降、南風也、朝五半時より止快晴【沼津】
 今朝大風雨止日和ニ成【多摩】

とありますように、温帯低気圧に伴う寒冷前線の通過により、風雨のあと次第に天気となったようです。

 十六日は、全国的に天気になりましたが、
  
 大き寒し風矢張し吹同【森田村】
 ○快晴大にひやこし、こたつ火いれる【和歌山】
 風烈しく寒し【中之条】
 快晴天無雲北風寒入夜月霞朦朧【京都】
 北気ニ而晴【横須賀】
 昨日より大ニ寒気【松坂】
 晴天朝霜強し【長陽】
 天気風立寒し、朝の内火辺よろし【白河】

とあり、北寄りの風で寒さが厳しかったようです。

さて、お問い合わせのありました、三月十七日ですが、パソコンで、うまく天気図が書けませんので、
下書きを写真に撮りました。



 正午頃を想定した天気図ですが、全国的に晴マークが多く、寒さも十六日より緩んだところが多かったようです。
しかし、よく見て頂きますと、近畿以西に◎の曇りマークや●の雨マ-クが見られれます。
早くも次の低気圧の影響が出ているようです。

大阪近郊の天気史料を調べてみますと、

薄照【岸和田】
曇【池田】
晴天九ツ前より双天夜雨降【京都】
快晴午刻後東風吹陰催雨気暖【京都】
上々天気、、九ツ時より曇り雨なし、、くれ時より夜通ししっぽり雨降ル【熊野】

とありまして、大阪の詳しい記録はありませんが、近くの京都や熊野の天気を勘案いたしますと、
大阪では、午前中は天気良く、お昼頃から曇り、夜に入ると雨になったと思われます。

この日木更津では、牡丹が盛りで、翌十八日は全国的に雨となりました。










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面接は腕立て伏せで

2017-11-04 11:03:08 | Weblog
 ブログのテ-マとは関係ありませんが、あまり書き込まずにおりましたので、
広告が出て参りました。

 そこで、先日近くの土建屋さんから聞いた無駄話を一つ
この頃は、田舎のほうでも、高齢化のせいか人手不足になり東南アジアの方を雇う会社が多いそうです。
そこで、代表の社長が、東南アジアに面接に行くそうです。

面接では、腕立て伏せをして貰い、回数の多い方から採用するそうです。

最初、聞いたときは土建屋さんらしい無謀さだと思ったのですが、良く考えて見ると
言葉も分からない、文化も違う中での採用には、最も合理的な方法かも知れないと
思うようになりました。
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嘉永二年二月一日(西暦1849年2月23日)日蝕時の天気

2017-09-05 21:57:08 | Weblog
 古天気学様より、リクエスト頂きました、嘉永二年二月一日(西暦1849年2月23日)日蝕時の天気
について書かせて頂きます。
 
 まず、江戸での日蝕はどのようなものだったのでしょう。

日蝕九分半、五時三分掛初メ、四時甚、一点之明星當于東放光輝、其侘之衆星不見、日色片時如黄昏【慶雲斎日記】【江戸】

(日蝕は九分半で、午前8時35分頃欠始め、9時55分頃に最大となった。明星が一つ東に光輝いていた、
他の星はみえず。日蝕の一時間ばかりは黄昏時のようだった)

とあります。また他の日記から四ツ八分に直ったとありますので、午前11時30分頃に終ったことがわかります。

それでは、天気は如何だったでしょうか。

嘉永二年一月二十九日は日本中概ね晴でしたが、低気圧が東進したと思われ、

雨、晴天【守屋日帳】【高山】

天キ朝曇夕雨【伊居太神社日記】【池田】

昏薄曇東南風、深夜雨、53度、【霊憲候簿】

天気夜雨【富田高慶日記】【江戸】

牢晴、満空孤雲なく壁翠也、暖和、、昼頃より班雲淡々たり、、夕方より曇天也【応響雑記】【氷見】

となって、次第に雨域が北東に移動しているのが分かります。

(天気図が出せなくて見難い事をお許しください。)

翌一月三十日は九州南部を除けば、ほとんどの地点で雨となっております。


日蝕当日の、嘉永二年二月一日(西暦1849年2月23日)の午前中は、近畿以西の地域では、晴または快晴
で、九州、四国では曇りとなっています。

江戸と水戸付近の日記には、

極上々天気、日そく九分五ツ三分よりかけ初四ツ甚し四ツ八分なおる【二宮尊徳日記】【江戸】
晴夜ニ入雨終夜【馬琴日記】【江戸】
朝晴夕曇夜四時より雨【林鶴梁日記】【江戸】

天気北東風温52度【玄蕃日記】【銚子】
晴【真菅日記】【八千代町】

となっていまして、日蝕があった、午前中は江戸、水戸は良い天気だったようです。

ただ、江戸の日記にありますように二月一日夜から雨のところが多くなり、二月二日は全国的に雨、北東北では雪となりました。

おそらく、関東地方では一月二十九日夜ころから温暖前線が通過し、二月一日の夜に寒冷前線が通過したように思われます。

日蝕の時だけの晴天で、天からのプレゼントと言えるのではないでしょうか。
黄昏のような空に見えた明星は何の星だったのでしょうか。天文学に暗い私にはわかりません。


ただ、嘉永五年十一月一日は晴、所により曇りとなっていますが、

日蝕の見えたところでは、

日仄九分半余、昼九ツ半時甚敷、月夜之形チニ而星見え申候【栃木市】

となっていまして、星が複数みえたようです。












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