幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

仙台カラスに 棚倉ササハ ナケリャ官軍 ネテクラス

2019-11-09 10:41:53 | Weblog
 怠惰にしていましたところ、また広告が出てしまいました。

今は、東大資料編纂所で公開しています「石母田 頼至日記」からデ-タを取っております。
慶応四年の仙台藩重臣も日記ですので、色々面白いことが書いてあります。

その一つに、題の俗謡が書かれていました。
通常には「細谷からすと 十六ささげ なけりゃ官軍高枕」と流布しています。

細谷からすとは、言うまでもなく細谷十太夫の「からす組」で、ならず者の集団でゲリラを行い
官軍を苦しめたとされています。
十六ささげは、棚倉藩の十六人の勇士だとか、遊女が袖につけた鳴り物だとか言うのを聞いたことがあります。

この俗謡で「十六ささげ」の意味ははっきり分かっていないようです。
では「石母田 頼至日記」のなかの「棚倉ササハ」とは何でしょうか。
おそらく同じものを意味するのかも知れません。
棚倉藩の笹葉隊や笹の旗印などと検索して見ましたが、分かりません。
どなやか棚倉ササハの意味が分かる方ご教示ください。



追伸、「石母田 頼至日記」には、細谷十太夫のことが色々書かれています。十太夫は農兵隊長と書かれています。
また、河原で細谷隊の調練が行われ、重臣が視察したこと、また仙台藩の正規部隊四番隊の前方に位置して戦ったこと
などが書かれています。
そうして見ますと、「カラス組」はならず者のゲリラ部隊ではなく、調練された農兵部隊だったような気もします。

これは全くの想像ですが、カラス組の創設に関わったと思われます、佐藤百助と言う人がおり、この人が高杉晋作を知っていたかも
知れません。してみますと、長州の奇兵隊のイメ-ジがカラス組には合うのかもしれません。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安政三年八月二十五日の台風,江戸では高潮がありました。

2019-09-08 14:25:59 | Weblog
 安政三年8月25~26日(西暦9月23~24日)に江戸付近を直撃した台風の江戸での被害記録を見ますと、以下のようになります。

朝より少々雨、、夜ニ入いよいよ雨強き処、戌刻過ヨリ大嵐と相成、地震後、、薄き土蔵建屋潰レ、築地御堂つふれあり処ともしれず誠ニ高汐凡九尺余、、近在之奉、前代相起り不申、【高木藤右衛門日記)【江戸】
雨、、暮束風、雲早シ夜四ツ時前より東南風甚敷、雨も添候て四ツ時過ニは固屋震候て居難き様ニ有之、下之曽木屋根不残吹、へき瓦も吹散、前之雪隠大抵滅れ、其外御住居長屋通用門より不残濡れ、御式台大破シ大ニかたふき、其外少々之痛処不知数、世上殊之外甚しく海辺ハ津波打候て葛飾御屋敷不残白浜と成、鶴歩も御蔵米二俵三俵位湿候由
麻布は都合御上屋敷同様之由、築地辺波甚敷御堂前え船上り候由、御堂丸ニ崩れ候由、其外所々破損夥シク、、同夜八ツ時頃か芝片門外明神前等焼失、、無間風西ノ方え替り候付海手迄焼貫候て六ツ時前相止、其外青山下谷辺ニも日照相見候、、右火事ニ付七ツ頃三丁板打候付、火事仕度ニて出勤六半時下る【久保松太郎日記】【江戸】

小雨終日、夜ニ入而より少シ風出、雷鳴ル、風追々強ク相成リ四ツ時前より大嵐二相成、風ノ強事近年二無之、大風所々ニ而家潰ル、、ケガ人即死モ所々有之、、右大嵐夜八ツ時頃より追々静ル【梅若実日記】【江戸】

小雨、、夜五時過より風雨、下刻大風雨、雷鳴あり、暫時止、雨風尚烈敷、仮や、本建の家々倒潰、未曾有の事也、怪我人あり、其上芝片門前其外共五ヶ所出火有之、、此方南壁崩る、屋根破損、所々兼ては、、此方宅ハ損之分也、西門跡御堂潰、其外所々大破【齊藤月岑日記】【江戸】

雨不止、、夜野分吹夜半頃止、川水大に増る所々橋落不通行のなる、江戸大風【景作日記】【中之条】夜大風にて大江戸大名、旗本屋敷数カ所破倒れ人死する事、去年地震よりも多きという、その外海嘯あがりたるよし風説あり、、新大橋並両国橋落、築地門つぶれ、、

などです。

東京近くに台風が来ますと、強風と短時間強雨を盛んに注意しておりますが、高潮につきましてはそれ程注意喚起がありません。
史料の赤線部分をごらんいただきますと分かりますように、高潮による被害も甚大です。
安政三年八月二十五日の台風では、およそ2m70cm位の高波があったようです。

安政三年の台風は月齢25日位であります。

満潮の時刻に、降水による河川の増水、南風の海水吹寄せ効果、台風の気圧低下による吸い上げ効果などが一致しますと大変です。

ただ、3m程度の高潮では、今の防潮堤はびくともしないのかもしれません。

たわごとでございます。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔の救急車は馬

2019-08-31 13:15:21 | Weblog
暑さも一服しましたので、ここ二三日、新潟県胎内市地本の
医師 井上薫廸の安政三年の日記を読んでいます。
井上ドクタ-もそうですが、江戸時代の医師はほとんど訪問医療です。
いつから今のように、患者さんが病院に行くようなったのでしょうか。
医療機械の発達とも関係がありそうです。
調べれば面白そうな課題ですが、今はわかりません。
近頃は近所にも訪問医療の病院(事務所?)が出来ました。
患者さんに負担がからないので、江戸時代方式も良いところあり見直されて来たのでしょうか。

ところで、幕末ころは馬子なしで、馬に乗って往来を歩く人は少なかったと思われますが、
救急患者に呼ばれたときは、医師は馬で駆け付けたようです。


この「井上医師日記」にも、名割様から呼ばれて馬で往診したことが書いてあります。

また、私の町内に若見先生と言う名医がいました。大正の頃のことだそうです。
2キロ位離れた所の農家の主人が切腹して内臓が出ていると呼ばれたことがあったそうです。
若見先生は道具を取るなり馬で疾走して縫ったそうです。先生は、これはダメだなと思ったそうですが、うまく生き返り、
其の後名医との評判が夙に高まったそうです。(昔本人が言ってました。)

としますと、馬は帰りのない片道だけの救急車の役目もしたようです。

救急医療をしていた友人が、救急車はよく事故る、と言っていました。
救急車が来たら、くれぐれも端により、土下座いたしましょう。


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古文書ライブラリ―への道具

2019-07-13 12:21:58 | Weblog
先日、隣村のパソコン相談所の後藤氏と飲みました。
も魚も結構でしたが、話の中でスキャン機械と言うものを教えていただきました。
二日酔いの翌日、機械と画像情報を整理するソフトを買ってやってみました。

まず、


スキャン機械で古文書を撮影してみました。一枚三秒というスピ-ドです。

整理するソフトでフアイルを作成して、画像を入れてゆきます。



小さい日記を撮影しても、解像度が抜群によいので、拡大してもぼやけません。
老眼の私には、原文書より格段に読みやすくなりました。



紙数にして30枚程の小さな日記でしたが、10分かからず、パソコンに収納できました。

ずいぶんと、日記がありますので、夢だった「古文書ライブラリ-」が出来そうなきがしてきました。

整理ソフトも使いやすく、場所分けや年代分けも簡単にできそうです。

この頃は朝飯前に2冊くらいづつ撮影、収納しています。

時代の変化は恐ろしいものですネ~
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ようやく 「角田桜岳日記」 入力が終わりましたが、、

2019-06-09 16:10:49 | Weblog
 先日、与左衛門様から、御教え頂きました「角田桜岳日記」の天気情報量が多く

デ-タ入力がようやく終わりましたが、そのうちに集めている未入力日記も増えて、
只今、入力中です。
商工会や色々と総会も多く、いつもですと5月中に終るのですが、10連休の影響で、
今もって総会が続いています。
ブログ書き込みが出来ません。
青い空を見ながら「あ~あ~、暇だ」と、ぼそっと呟きたい此の頃です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長谷川貞信「浪花百景之内 松が鼻」の雪景が描かれた日

2019-02-22 21:10:18 | Weblog

 八軒家絵巻様よりリクエスト頂きました。

ご依頼内容は、
「長谷川貞信が描いた「浪花百景之内 松が鼻」の雪渓をとりあげております。作画時期は明治2年または3年(前後1年ぐらいの誤差はあるかも)とされておりますが、大阪管区気象台には明治15年以後の記録しか残っておらず、日付を特定しかねております。」とありました。

 大坂で降った雪を調べてみました。残念ながら私のデ-タベ-スに大坂の記録が少なく、天候記録もすくないため、京都の雪も含めて探しました。
明治元年9月1日から明治4年12月30日までで、京大坂で雪の記録があったのは、67日でした。
けっこう雪の回数は多いのですが、大坂での積雪は少ないようです。

例えば明治元年12月16日の京都の日記では積雪三寸との記事もありますが、池田では曇晴、大坂では晴で、雪すらも降っていないようです。大坂で積雪があったと思われる日を見てみますと、

 明治二年一月十八日  
   朝三寸斗雪晴天【池田】
   雪三寸許降【京都】
   朝六寸大雪積る【兵庫県三田町】
 明治二年十二月五日
   晴天、朝雪一寸つもる【池田】
   風、夕より夜へ雪【岸和田】
   朝雪壱寸程【三田町】
 明治三年一月十二日
   雪ふり、六七寸計リ積リ候【京都】
   暁起、風雪満天平地無形影ガイガイ一白【大坂】
   雪【岸和田】
   朝雪弐寸つもり辰刻小雨【池田】
 明治三年十二月四日
   暁天風雪、、一面之銀世界【京都】
   朝雪一寸ふり後晴天【池田】
 明治四年一月一日
   雪天雪積事三寸四ツ時より交天大厳寒也終日通ノ雪軒ノツらら不解夜晴【京都】
   風雪大至【大坂】
   晴天時々雪降寒気強【池田】
 明治四年一月一日
   朝晴天辰上刻より雪一寸後みそれ一寸【池田】
 明治四年十二月二十九日
   朝掛ケより雪ふる、四五寸積る、、壱日雲る、夕飯後小雨ふる【京都】
   雪【岸和田】
   雪【池田】

の七日となっています。土地勘がないので、良く分かりませんが京都で積雪があっても、大坂での積雪は少ないようです。
明治初年に、長谷川貞信が描いた「浪花百景之内 松が鼻」の雪景ような雪の降った日は、いつ時だったのでしょうか、
はっきりとは分かりませんでしたが、絵うを見た感じでは積雪がニ三寸と言う感じでしたので、明治二年一月十八日か
明治三年一月十二日あたりが有力な感じがします。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士宮市の袖日記

2019-01-27 22:35:53 | Weblog
富士宮市に「袖日記」と言う日記があります。
面白い記事が沢山載っています。少しご紹介します。
皆さんも読んで見てください。



蒸気船の海城王、下に申付、しきりに日本のコメを借りたき由を申付る時ニ、
水主壱人帆柱の上ニあがり、遠目鏡を以て遥ニ安房、相模、上総の方を見渡し、
王の前ニ出て申けるハ、日本ニハ米ハ御座りませぬと申。
王申ニ米が有か無か、遠目鏡くらひで見究らるべきや、何故ニ左様申スと咎めける時、
水主の申ニハどうあっても日本ニ米ハ無ニ違なく候、
其訳ハ総房之台場其外諸大名の陣中も残らずみなアワを喰ふておりまする



異船より書翰候処、
其内ニ 不二山と鷹と茄子と書てあり、
江戸中ニ評定届ず京都へ向ひ伺ひ候処、
是ハ倹約と唱へて民を苦しむる事を異国よりさみしたるなりと禁庭仰候て 
御歌被下   

  それニ鷹 あまり倹約茄子故ニ 三国一のふじのさいなん 


おあとが、宜しいようで
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オ-ルコック 老中公式訪問日の江戸の天気 安政六年六月七日(1859年7月6日)

2019-01-01 13:09:00 | Weblog


 オ-ルコック 老中公式訪問日は、安政六年六月七日(西暦 1859年7月6日)とのことで、天気は如何だったのでしょう。
現在の平年値では、東京の梅雨入りは6月8日ごろで、梅雨明けは7月21日ごろです。
おそらく、安政六年六月七日の江戸の天気は梅雨前線が関与していたと考えられます。

天気分布図がうまく行かず、申し訳ありませんが、安政六年六月五日には九州四国近畿北陸を中心に雨域が分布していて、
翌六月六日には、東海、関東、東北、北海道に雨域が広がり、九州、四国、近畿は晴又は曇りとなっております。
雨域は低気圧と連動していると思われますので、五日から六日にかけて(梅雨前線上を)低気圧が東進したと考えられます。
通常の季節ですと、低気圧一過の後は晴れ上がりそうなものですが、居座った梅雨前線の影響で全国的に天気は不安定だった
模様です。
梅雨前線の位置が確定しにくいので、六月七日の江戸の天気記事を集めてみますと、

朝雨、後晴【村垣公務日記】【江戸】
晴、夕より雨【梅若実日記】【江戸】
曇、七ツ時より雨ふる【尾崎日記】【八王子】
朝雨四前止、晴る、、夜雨【齋藤月岑日記】【江戸】
 となり総合しますと、
朝は雨降りで9時ころ雨があがり、晴れたが午後5時ころから、また降り出し夜も雨だったと思われます。

気温については江戸の史料がありませんが、水戸の大高氏記録に、朝五ツ時の記録があります。
 6月3日70度、 4日73度、 5日68度、 6日73度、 7日記録なし、 8日70度、9日73度、となっていてほぼ安定しております。
平均しますと 約71度で、温度は華氏ですので摂氏22 度位になっています。
特に天気や気温の急変はなかったようですので、江戸の気温もほぼ似たような傾向だと思われます。
現在の7月の平年値では水戸より東京の方が1.5度ほど気温が高いので、推測しますと、
江戸での7日の午前9時ころの気温は摂氏21~25度位だったのではないかと思います。

 風につきましては、手持ちの江戸の史料がないので、近隣の史料を集めてみますと 
北気ニ而陰、後ニは南ニ替り時 夜ニ入陰、雨降【浜浅葉日記】【横須賀】
小雨昼比より半晴南風【吉野家日記】【流山】
南風【玄蕃日記】【銚子】
坤風雨天【新島島役所日記】
となっていて、江戸でも昼過ぎには南風になっていた可能性が強いと思われます。

はっきりした史料がなく、傍証での天気予想になってしまいましたが、

安政六年六月七日(西暦 1859年7月6日)の江戸の天気は
【朝は雨降りで9時ころ雨があがり、気温は摂氏21度~25度で、後に晴れてきました。
風は昼頃から南風となり、午後5時ころから、また雨が降り出し、夜も雨だったと思われます。】

この日あたりは、全国的に御天気が変わりやすい傾向にありました。
(上の天気分布図は、安政六年六月七日のものです)










コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛久駅の宿屋の番頭と高杉晋作

2018-11-09 12:20:58 | Weblog

高杉晋作の日記「試撃行」 によりますと、晋作が修行の旅で、茨木県の牛久駅の宿に泊ったのは、万延元年八月二十九日、西暦では1860年10月13日のことであります。
試撃行にその夜の事が書かれています。

此夜雨頻降、同宿旅人皆狼狽認雨具
家奴云 秋時雨至夜 必催明朝放晴
九月朔日、果如家奴言 天晴日出
同宿旅人驚訴喜 予亦応其喜

訳してみますと、

二十九日の夜、雨が頻りに降ったので、同宿の旅人たちは、あわてて雨具を用意した、
その時宿屋の番頭が、秋の夜に時雨が降れば、明日の朝は必ず晴れ渡ると言った。


果たして翌九月一日の朝は番頭の言うように空は晴れ日が出た。
同宿の旅人は番頭さんの言った通りになったので、驚いて言った。
番頭さんの言う通りに晴れた、良かった、良かった
私もまた、良かった良かったと言いました。

と言う感じでしょうか。さて、家奴の 秋時雨至夜 必催明朝放晴 と言うところですが、

この日の雨は、雨頻りに至る、時雨と言う記録から積乱雲による強い雨考えられます。
また夜は日射がありませんから、積乱雲が発達するのは上空に強い寒気が入ってきたと考えられます。
この時雨は、天気図から見ますと、前線の雨の後に、寒気の核が通過する時に降った時雨と思われます。
寒気が過ぎると、移動性高気圧が張り出してきますから、晴天になる確率は高く家奴の言葉は現在でも通用しそうです。

実際に天気分布図をみてみなすと、


(うまく分布図が出来ません、後日UPいたします。)



とあって前の推定は正しそうです。

さぞや宿屋の番頭は得意顔であったでしょうが、良かった良かったと言ったのが誰あろう泣く子もだまる、奇兵隊の総帥 高杉晋作とは知るよしもなかったでありましょう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月窓庵海松の【俳諧日記】

2018-09-25 20:44:06 | Weblog
ご無沙汰しております。
古文書からの気象情報の収集が一息つきました。



今回はとくに、写真の月窓庵海松の【俳諧日記】に時間がかかりました。

少し紹介いたしましょう。

日記の作者海松は本名 佐々木龍海と言い、三重県川越町豊田の長息坊から80歳近くになって京都元誓寺通りの興徳寺の住職になった僧侶です。
日記には、簡単な自分の履歴が書かれています。



于時文政□年發月十五日勢州朝明郡豊田村長息坊道場也、住居是ハ同国三重郡山之一色村道場住、安藤茂規仲人ニ而此地ニ住居、五拾二歳之朋也、尓ル所明治九年子八月御法主殿より西京元誓寺通り寺今町興徳寺無住ニ付轉住被 仰付、御受申上候、九月八日豊田邑長息坊退寺、、十三日午後二時興徳寺え着

とあります。

一冊めは、嘉永六年、安政元年、二年、  二冊めは安政三年、四年
三冊は安政五年、六年          四冊 欠
五冊は文久二年、            六冊は、文久三年、四年
七冊 欠                八冊は慶応三年、四年
九冊は明治二年             十冊は明治三年
十一冊上 欠              十一冊下 明治六年
十四冊 明治十年、十一年        十五冊 明治十二年
十六冊 明治十三年           十七冊 欠
十八冊 欠               十九冊 欠
二十冊 明治十七年(84歳)       続きは有るかどうか不明

内容は、俳句だけでなく、天気、地震の揺れ、日常生活、世間の話など多岐にわたり、興味深い日記です。ただ虫食いが激しく難読な部分もありました。
写真のようです。



直し方のわかる方、ご教示ください。

先日、電気を点けると、巨大な紙魚がいました。
この日記と一緒に渡来したのかも知れません。大きさは3~5cmもあったでしょうか。
あまりの大きさにゲジゲジと見紛うほどでした。

紙魚もこの位大きくなると、食い物は、古文書など時化たものでなく、残飯を漁っているように見えました。
潰そうと思って追いかけましたが、影に逃げ込み逃げられてしまいました。
翌日はバルサンを買ってきて部屋中を燻蒸しましたが、紙魚がどうなったかは分かりません。

ところで、龍海住職がいた興徳寺は調べますと京都に現存していました。
この日記がどのように流転してきたのか、欠けている日記は現存しているのでしょうか。
あれこれ想像しますが、知る由もありません。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする