永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(1068)

2012年02月11日 | Weblog
2012. 2/11     1068

五十帖 【東屋(あづまや)の巻】 その(39)

「君は、ただ今はともかくも思ひめぐらされず、ただいみじくはしたなく、見知らぬ目を見つるに添へても、いかにおぼすらむ、と思ふに、わびしければ、うつぶし伏して泣き給ふ」
――浮舟は、今はただもう、何も考えることができず、この上なく恥かしく、今まで味わったことのない目にあった上に、姉君がどうお思いになっていらっしゃるかと、それが切なくて、うつ伏して泣いておいでになります――

 乳母は、浮舟をおいたわしいと思いつつも、慰めかねて、

「何かかくおぼす。母おはせぬ人こそ、たづきなう悲しかるべけれ。よそのおぼえは、父なき人はいとくちをしけれど、さがなき継母に憎まれむよりは、これはいと安し。ともかくもしたてまつり給ひてむ。なおぼし屈ぜぞ」
――なぜそのようにお嘆きになります。母親のない身の上の人こそ、この上なく頼りなくて悲しいことでしょう。世間では父親のない人を侮りますが、なまじ父親がいても、意地の悪い継母に憎まれるよりは、あなたの場合はずっと安心でしょう。どのようにしてでも、母君はあなたをお守りしてくださるでしょう。あまりくよくよなさいますな――

 さらに、つづけて、

「さりとも初瀬の観音おはしませば、あはれと思ひきこえ給ふらむ。ならはぬ御身に、度々しきりて詣で給ふことは、人のかくあなづりざまにのみ思ひきこえたるを、かくもありけり、と思ふばかりの御幸ひおはしませ、とこそ念じ奉れ。あが君は人笑はれにてはやみ給ふなむや」
――いくら何でも、初瀬の観音様がついていてくださるのですから、きっと、あわれと思ってくださるでしょう。旅馴れぬ御身で度々御参詣になりましたのを、ともすれば、人は軽々しく思っているでしょうが、行く末、こうもあったのだと人が思うほどのご幸福に恵まれますようにと、念じてのことでございます。どうしてお嬢様が、物笑いのままでこの世を終えられるようなことがありましょうか――

 と、世の中のことを、安心のゆくようにお話してお聞かせになるのでした。

「宮はいそぎて出で給ふなり。内裏近き方にやあらむ、こなたの御門より出で給へば、物のたまふ御声もきこゆ。いとあてに限りもなくきこえて、心ばへある故言などうち誦し給ひて過ぎ給ふ程、すずろにわづらはしく覚ゆ。うつし馬ども引き出して、宿直にさぶらふ人、十人ばかりして参り給ふ」
――匂宮は急いで御所に参内されます。御所へはこちらからの方が近いのでしょうか、浮舟のお住いに近い西の御門からお出ましのようで、何かおっしゃるお声もきこえます。大そう上品に、この上もなく良いお声で、趣きのある古歌などを口づさみつつお通り過ぎになられるのですが、浮舟には何となく厭わしい気持ちがするのでした。乗り換えの馬など引き出して、御所の宿直に控えている人々を十人ばかり連れてお出かけになります――

◆なおぼし屈ぜぞ=な・思し・屈せ・ぞ=決して・くよくよ・しなさるな

◆すずろにわづらはしく=すずろに(何となく)わづらわし(煩わし=厭わしい、いやらしい)

では2/13に。