永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(118)

2008年07月26日 | Weblog
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【澪標(みおつくし】の巻  その(11)

 源氏は、明石の御方のことは夢にもご存じなくて、その夜は、神のお喜びになるであろうことの限りを尽くして、神事を行います。源氏はもちろんのこと、明石の浦までお供をし、辛苦を共にしたものは、特に神の御徳をしみじみ有り難く思うのでした。

 惟光から明石の御方の船が、この賑やかさに気圧されて立ち去ったことをお聞きになった源氏は、
 「知らざりけるよ。神の御しるべを思い出づるも疎かならねば、いささかなる消息をだにして心なぐさめばや、なかなかに思ふらむかし、と思す」
――知らなかったことよ。これも神のお導きだと思われれば、良い加減には出来ない。どうにかして居場所を見つけて慰めねば。なまじこの日に巡り合って悲しく思っていることだろうとお思いになります――

源氏はうたを託し、
「みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」
――身を尽くして恋い慕う甲斐があって、ここまでも来て巡り合った二人の縁は深いことだ――

明石の御方のうた
「数ならではにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」
――数ならぬ身とて、何事にも甲斐無い私ですのに、なぜ、あなたのような身分の高い方を深く思うようになったのでしょう――

神事のお帰りの道中は、遊女などと戯れ遊ぶ供びと達をよそ目に見て、源氏は疎ましく思われます。

 明石の御方は
「かの人は過ぐし聞えて、またの日ぞよろしかりければ、幣帛(みてぐら)奉り、程につけたる願どもなど、かつがつはたしける」
――源氏と入れ替わって、次の日に幣帛を捧げて願ほどきなど、お参りをどうにか果たしたのでした――

 明石の御方は、源氏は頼もしそうに自分を数の中にお入れくださるようですが、さあどうでしょう、このふるさとを離れてもっと心細いことになるのではと、明け暮れ口惜しい身の上を嘆いております。

 明石入道は、そのように姫君を都へ差し出して、母と子が離ればなれになることは、ひどく心配であり、かといって、このまま二人とも田舎に埋もれてしまっては、と、源氏に明石の御方をお逢わせしなかった以前の、あの時以上に気が揉めるのでした。

「まことや」
――そうそう――、
 御代が替わり、かの伊勢の斎宮もお役目を終えられて、六條御息所と京にお帰りになりました。

ではまた。


源氏物語を読んできて(住吉神社)

2008年07月26日 | Weblog
住吉神社

「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」とト部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命の三柱の神です。
 
 神功皇后三韓征伐の際、住吉三柱の御守護により無事達成され、その帰途、摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)にて、住吉三柱を遥拝なさいました。これが大阪佃の住吉の社(現 田蓑神社)の起こりです。
 
 その後、天正年間より大阪田蓑島の人々と徳川家康公とが深い関わりを持つようになり、家康公の漁業の傍ら田も作れとの命により、村名を田蓑から佃へと改め、また田蓑の名を残すため神社名を住吉神社から田蓑神社へと改めることとなりました。

 その後、家康公が関東下降の際、摂津国佃の漁夫33人と住吉の社の神職平岡権大夫好次が分神霊を奉載し江戸へ下り、寛永年間に幕府より鐵砲洲向かいの干潟を賜り築島しました。そして故郷の名をとり佃島とし、この地に社地を定め、正保3年(1646)6月29日 住吉三神、神功皇后、徳川家康の御神霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起源です。

 佃島は江戸湊の入口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。
 その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行なわれ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています
 
◆参考:住吉神社ホームページ

源氏物語を読んできて(幣帛)

2008年07月26日 | Weblog
幣帛(みてぐら・へいはく)

 幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌以外のものの総称である。広義には神饌も含む。「みてぐら」「幣物(へいもつ)」とも言う。

「帛」は布の意味であり、古代においては貴重であった布帛が神への捧げ物の中心となっていたことを示すものである。

 『延喜式』の祝詞の条には、幣帛の品目として布帛、衣服、武具、神酒、神饌などが記されている。幣帛は神への捧げ物であると同時に、神の依り代とも考えられ、これが串の先に紙垂を挟んだ依り代や祓具としての幣束・御幣、大麻となり、これらのことも幣帛と呼ぶ。